きみは努力の王子様
私たちの通う中高女子一貫校はそれなりの進学校で、12月末には多くの高校2年生が所属の部活を引退してしまう。それはもちろん私の所属する部も例外ではなく、くわえて中学生は高校生より早い時間に部活を終えて帰らねばならない。
だから18時を過ぎた今。この小体育館の一角にある剣道部部室は高校一年生である私、矢崎礼実と朝倉紀美の二人しかいない、二人だけの城だった。
今の中学三年が高校一年に上がってくる1月から3月末までのつかの間の城だけど。
「今年もたくさんもらったじゃん。アサ」
「なー。ホントたくさんもらった。レミ、いる?」
「うっわ3000円くらいしそうなやつ! アサのファンに刺されたくないから絶対食べたくない!」
差し出されたのは、2月14日、つまりバレンタインと言えばのチョコレートの箱。
ここは二人だけの城なので、アサは先ほどから受け取ったチョコレートを机一杯に広げて紙袋に詰め直している。その山の中でもより高そうな金色の箱に入ったブランドチョコをなげやりに渡されかけて、私は慌てて顔を横に振った。高校1年生に渡すには値段も本気度も高そうなチョコ、横流しで受け取ったら祟られそう。制服の紺のカーディガンを肩からずり落ちさせながら、私は慌てて手を横に振った。
「じゃあこっち」
「ヤダヤダヤダ手作りチョコなんて余計にもらえない! 念こもってそうだし何か入れられてたら嫌じゃん。髪の毛とか」
「……それ、これから食べなきゃいけない僕に言う?」
アサは右手の高そうなチョコと左手の手作りチョコのどちらをも引っ込め、かなり実感のこもった語調でつぶやく。
「もうしばらくチョコ見たくないな……」
「アッハハ!」
「いや笑い事じゃないんだって」
「アッハハハハハごめんごめん。でもわかる。もうクラスでも部活でも散々チョコ食べてるもんね。私でそうなんだからアサなんかもっとお腹いっぱいでしょ」
「そーなんよ」
「……でもさぁ、アレおいしくなかった? 3組の紗耶ちゃんの作ったクッキー。さっすが調理部って感じで。タッパーから3枚くらいもらっちゃったよ」
「それでいうなら6組のよっしーのブラウニーもウマかったよ」
「……そんだけ貰ってるんだから個包装じゃないやつは断ればよかったじゃん」
「いやー断れないじゃん。後輩はともかく友達のは」
「モテるねー」
「モテとは違うよ。あー、やっと片付け終わった! 紙袋にギリ入れられたー」
「おつかれー。今年はいくつもらった?」
「面倒だから数えてない。でも体感3クラス分? その場で食べたのも含めて」
「やっば! 絶対教師より多くもらってるじゃん! 去年の数越えた?」
「越えた越えた。ありがたいけどさぁ……」
「女子校の王子だからねぇ、アサは」
「やめろってその王子様って言うの」
そんなこと言われたって、アサはどう考えたって王子様なのだ。
まず見た目がボーイッシュ。173cmという恵まれた高身長につるんとしたショートカット。色素は薄く、凛々しく整った顔つき。すらっと伸びた手足に胴着を纏って凛とした声放ちながら竹刀を振るう姿は2.5次元も顔負けの美麗剣士っぷり。試合成績もよく、来年度はアサが主将で部長だし私が副将で副部長だ。
加えて頭も育ちもいい。付属幼稚舎お受験組でそのまま付属小へと進み、高成績者しか内進できないというこの中高一貫校に入学したというクレバーさ。部活の表彰と同時に学業面でも表彰を受けたり模試の成績上位者に名を連ねていることもしばしばで、極めつけに性格も良いので嫉妬のしようもないほどに王子様なのだ。
だから一人称が僕なところもアルトの声による少しぶっきらぼうな話し方も、今年度の夏休み終わりに急に「制服面倒じゃね?」とか言い始めて校内指定のダサいエメラルドグリーンのトレーニングウェアをずっと着ている(ちなみに今も着ている)ところも、遅れてきた中二病なのかなーと逆にほほえましくって、余計に王子様としておモテになるのだった。
記憶にある限り、アサは中学一年、入学式後の初めてのHRの時間からすでにモテ街道を邁進していた。
どきどきそわそわ。緊張と希望と期待と不安で浮ついたクラスに向かって担任が放った「はい、では自己紹介をしましょう。自分の名前と名前の由来を教えてください。まずは出席番号一番、朝倉さんから」と言われた時、出席番号は後ろから数えた方が早い『矢崎』である私でさえ心臓がぎゅっとしたというのに指名されたアサは
「ほとんどの人が初めまして。朝倉です。アサとかアサクラって呼んで下さい。下の名前は祖父がつけました。糸に己と書く紀に美なので立派におさめよ、という由来だと思います。一年間よろしくお願いします」
と、清水の流れるようにすらすらとした声と調子で答えたのだった。
たった三十秒の挨拶だったが、全員分の紹介を聞いてもアサが一番良くて、それでいて纏う空気が嫌みのない澄み透ったものだったから「この子と友達になりたい!」と切望したクラスメイトは多かった。私もそうで、だから元々入りたかった剣道部にアサと一緒に入部できたことは幸運だった。
まさか二人だけの同期になってしまうとは、まして後輩たちからこっそり『アサレミ』なんてCP名で呼ばれるだとは、思っていなかったけれど。
「ごめんごめん。チョコ全部しまってからで悪いけど、私からもアサにバレンタイン。はいどうぞ」
「ぃよっしゃ! レミありがとー! 今年は何?」
「今年は干し梅」
「レミ最高。しごでき。今食べていい?」
「いいけど胸やけしてるんじゃないの?」
「しょっぱくってすっぱいのは別だよ」
そう言ってアサに渡したのはハート型でもないしパッケージすらバレンタイン仕様ではない、コンビニで買った干し梅。中一の時点ですでに両手にかかえきれないほどチョコをもらっていたアサに、翌年からしょっぱいものを贈るようにしたという、私とアサの、アサレミのバレンタイン。
ビニールの袋をぴりぴり破り、アサは大口で干し梅を放りこむ。一瞬にして顔のパーツが中央に寄ったがすぐに満面の笑顔になった。
「あー、うっま」
「もっとおいしそうなチョコあるのに。干し梅で喜んでたらチョコあげた人泣いちゃうよ?」
「って言ったってさぁ。ありがたいよ? ありがたいけどこんなに同じタイミングで大量のチョコ食べられんって」
「まぁ、わかるけど」
「って言いながらレミは自分のチョコ食べるわけね。よー食べれんね」
「だってお腹すいてるもん」
「あぁぁぁ、干し梅うっま……。去年レミがくれたスルメもその前の茎わかめも最高だったし、レミいつもGood choiceだよね」
「よく覚えてんね。アサにそう言ってもらえてよかった」
アサが口の中で転がしている干し梅の香りが広がって、友達からの手作りチョコがけパウンドケーキを食べた口直しにアサにあげた干し梅を失敬した。「レミそれ僕の!」「私があげたんだからいーじゃん」のやりとりに鼻の穴が少し膨らむ。キラキラのパッケージの高いチョコより執着されたうえに記憶にまで残してもらえる、コンビニの150円のお菓子。
「なーレミ。ホワイトデーのお返し何にしたらいーと思う?」
「去年のと同じでいいじゃん。のし鱈の駄菓子。去年かば焼きだったから……焼肉味とか?」
「楽だし安いけどいーのかねー。それで」
「こんなにたくさんもらってみんなにお返しするってなるとお金大変じゃん。持ってくるのも大変だし」
「それなー! 金もそうだけどかさばるとマジで電車乗れんのよ」
「アサの方向の電車、ヤバイ混んでるもんね。いーじゃんのし鱈で」
「飴とどっちがいい?」
「鱈。したらサイズ的にサインとか書けるじゃん」
「サインて」
「安いんだからサインくらい書いてあげなよ。その方が喜ぶって」
「サインは書かねーけど。んじゃのし鱈にしよ」
「そのお菓子、結構シリーズあるみたいだよ? かば焼きとー、焼肉とー、あー酢だこね。うん、あと梅とかわさびとか。たこ焼き味なんかもあるって! ほら見て。今スマホで調べた」
「おー本当だ。なんか見たら食いたくなってきた。コンビニで売ってたっけ」
「駄菓子置いてあるところにはあるんじゃない? うちの近くのコンビニでは見かけた気がする。あ、私へのお返しは駄菓子じゃなくてもう少し良い物ちょうだいね」
「え゛ぇーっ」
「いーじゃんお返しの相談ものってあげたし。バレンタインにアサは何もくれないんだから少し利子のっけてホワイトデーに返してよ」
「利子ってなんだよ」
ひゃははと笑ってからアサは立ちあがり、空になった干し梅の袋をゴミ袋めがけてダンクした。ここで見事入れば格好いいのだが、薄いビニールは空気の抵抗を受けてぺなぺなぺな~とゴミ箱より随分と手前で落ちて、それでまたアサはひゃははと笑う。
全然キマらない姿のはずなのにアサだから格好いい。少しヌケているところもアサが人気の理由。
「あー、マジでこの量持って帰らなきゃいけないのかー。三袋はさすがにしんどいなー」
「少し部室に置いて帰れば?」
「後輩からもらったの、どの袋に入れたかわからんくって。さすがに自分のあげたチョコ、部室に置いていかれたの見たら良い気しないっしょ」
「そーだけどねー。なんだかんだ言う割にアサはきちんとうちの学校の『王子様』してるよね」
「またそれ言う。でもそうでもしなきゃこの学校いられないからね」
当たり前のようなアサの言葉はそれまでと同じ涼やかな顔とトーンで、でも何かひっかかるものがあった。靴下の中に髪の毛が入って、我慢できるけど少し気持ち悪い。みたいな。
「アサが王子様しなくなっても、まー人気は今より落ちるだろうけどさ。だからって陰湿にイジメてくるようなヤツいなくない?」
「……レミはさぁ。こーゆー時きちんと拾ってくるね」
「何それ」
「レミ、まだ帰るまで時間ある?」
明らかに真剣みを帯びた顔でアサがこちらを見た。
「……なんで?」
「レミには、話さなきゃなと思って。ずっとそう考えてたんだけどさ」
「何を?」
部室にセットされた時計の秒針の音が大きい。扉の外から帰路につく生徒の声がする。外の道路を走る車のクラクション、脇の線路を走る電車の走行音。
アサは問いに答えない。
口を閉じて、ずっとこちらを見つめたままだ。長い睫毛の奥から、少しだけ茶がかった目で。
いつもと同じようでいて、いつもと違うアサ。
今から帰って家に着くのは19時半。今日は仕事が遅くなるって両親とも言ってたから、帰ってもまだ夕飯はない。
でもなんか、今のアサに何言われるんだろ──……。
「……あと30分くらいなら」
「ん。じゃー30分話そう。最終下校時間だしね。あんま長くするような話でもないし」
「帰りながら話すんじゃダメ?」
「部室がいいよ部室が」
「ふぅん」
なんでもないようなフリしてひどく心臓がバクバクしている。さっき食べたパウンドケーキが胃の中で焼け付くようだ。
「部活辞めるって話じゃないよね? 部活やめて学業に集中するとか、そういう話?!」
「……そのつもりは、ないよ」
「あーよかったぁ。ヤダよ唯一の同期がいなくなるの」
アサの話が怖くて、聞くのを先延ばしするようにわざわざおどけた口調で言ってしまう。──実際に部活を辞められると困るわけだが、そうするとますますアサが何の話をしようとしているのかわからない。
「12月末の引退まで辞めるつもりない。でも、レミが辞めろって言うんだったら辞める」
「言わないよそんなこと!」
「……ありがと」
その時のアサの顔は発見された迷子みたいな顔だった。お父さんお母さんではなく、警察官とか知らない大人に発見されたような顔。
けれどすぐに決意に固まったように凛然となる。すぅと吸った息の流れさえも見えるようだった。
「俺さぁ」
「俺?!」
「細かいとこ拾うじゃん」
「細かいかなぁ?! だってアサが俺なんて言うの、初めて聞いたし」
「家だとこうだよ」
「ふーん」
「この話するんだったら、僕じゃなくて俺だなと思って」
「うん」
「レミ、これはまだ誰にもバラして欲しくないんだけどさ」
心臓が掴まれているのかと思うくらいどきどきばくばくしていた。「まさか告白? 本当にアサレミ?!」なんて逃避がてらに思ってみる。早く、言うことがあるなら言って欲しい。
「性同一性障害ってわかる? 俺、ソレなんだよね」
アサの顔は怒っているかのように真面目で、触ったら指を切りそうに薄いガラスでできた細工みたいな脆さもあって、思わず息を呑んで見つめてしまった。
「レミ?」
「あ、うん。知ってる。聞くよね。たまに」
「俺、ソレなんだ」
カチ、カチ、カチ、カチ。
こういう時、ドラマなんかでは静かな空間にエフェクトのかかった秒針だけが大きく鳴っているけれど、現実世界ではそんな事起こらなかった。秒針は正しく時を刻み続けて、帰路につく生徒の声も車のクラクションも電車の走行音も聞こえていて、世界から音がなくなったりなんてしない。いつも通りの変わらない世界。
「うん、性同一性障害。わかる。つまりアサがそれってことは」
「性別違和があって、俺は今女の体だけど、男なんだよね」
ガラス細工のような脆さのまま、アサは静かに言った。うん、性同一性障害。聞いたことがある。じわじわじわじわ脳が単語を理解しようとしていく。
「へえー」
「……意外とアッサリしてるね。レミ」
「アッサリしてるっていうか、なんだろう……。ごめん、まだ、ちょっと飲み込みきれてないっていうか」
「うん」
「でも別にヒいてるとかじゃなくって、なんか自分でもよくわかってなくって」
「うん」
もう一度アサを見つめる。もともと美少年のようだなぁと思っていたのがホンモノの美少年になるんだなぁ、と思う。なんか、アサ自体の見た目はさっきと全く変わらないので、そうなんだーというふわふわした感想だった。
「あ、だから自分のこと『僕』って言うってこと?」
「そうそう。本当は『俺』って言いたいけど、そこはまだ親と折り合いついてなくって。この学校通うんだったら、せめて僕って言いなさい。だと」
「なるほどね。あーでもなんか、性同一性障害って聞いて、なんかアサのこと少しわかった気がする」
「どういうこと?」
「いや、バレンタインはチョコもらうだけでお返しは絶対ホワイトデーにする、とか。そういう細かいところだけど、なんか納得したかも。でも、そもそもなんで女子校通ってるか、聞いてもいい……?」
「いーよ。レミは知ってるよな。俺が付属小からの持ち上がりだって」
「うん」
「小学生の頃から制服がズボンじゃないのはおかしいなーと思ってたんだけど、イベントの時以外は体操着で過ごしてよかったから、そもそもそんなに着てなかったんだよね」
「うん」
「私服もズボンばっかり買ってもらってたし、うち、母がシンプル好きだから色も形も地味なモノトーンばっかり着てて。それでもたまに服にリボンとかハートとかついてて激ギレしてたんだけど」
「うんうん」
「で、持ち上がりでこの学校に入学するじゃん? 女子制服を着続けんのすげぇ嫌でさあ! つっても慣れてないからっていうことにして無理やり自分を納得させてたんだけど。もーダメ無理じゃね?! ってなった瞬間があって。で、俺男じゃんって自覚したらすげぇ楽になって」
「あー……」
「学校辞めるか考えて、でも親にこのことカムアウトできたのがホント半年前くらいなんよ。中三で他校受験するならまだしも、高一で途中編入するのって大変じゃん。うちの学校くらいのハイレベ校だったらなおさら。できればストレートで大学進学したいから、学校と相談してこのまま卒業まで通うことにしたんだ。履歴に女子校卒って残るのはイヤだけど、しゃーないやね」
「あー、学校は知ってるんだ」
「言った言った。言いたくなかったけど言わねーと男の俺が通うのはフェアじゃないから相談した。だから俺、学校指定のクソダサジャージで過ごすこと許されてるわけ」
「あ、今着てるクソダサジャージ、クソダサいとは思ってたんだね?」
「クソダサすぎんだろこんなの。エメラルドブルーの謎カラーに白の二本線じゃん。制服着るよりは3000倍くらいマシだけど」
「……そういうの、遅れてきた中二病かと思ってたよ」
「うーん、なんかみんなそんな感じで案外スルーしてくれるんだよな。ただ『アイツ厨二すぎてイタいな……』って思われてたらどうしよ。笑う」
アサの顔はまだ脆さが残っていたが、話し始めると立て板に水、というように饒舌だった。もしかしたら溜め込んでいたものが溢れて来ているのかもしれない。笑うと言ったわりにはそんなに面白くなさそうな顔だが。
「ただ助かったわ、学校が寛容で」
「寛容?! 通っててあんまそんな感じしないけど」
「寛容じゃなきゃ俺、即退学だっただろうね。退学させられないようにガリ勉して成績優秀でいたのもあるだろうけど。制限があっても通えるだけありがたいよ」
「えー、何。何制限されてるの?」
「これ言ったらヒかんかなー?」
「言っちゃいけないなら聞かないでおくけど」
「レミ今年クラス違うかったから知らないかもだけど、俺、今年度一回も水泳の授業出てないよ」
「それって……?」
「俺、恋愛対象は女の子だから。みんなのことエロい目で見ないようにってことで。体育の授業の着替えもかなりアウトなんだけどさ。俺元々ジャージ着てるから、みんなが着替える前にダッシュでクラス出ていって、体育終わったらダッシュで職員室前のトイレ行って新しいジャージに着替えてるんだ。あそこのトイレ使ってる人少ないから。ああ、そうそう。トイレは常に職員室前の女子トイレ使えって。漏れそうな時そこまでダッシュで行かなきゃなんないから大変なんだよなー。来年の修学旅行どうすんだろね。やっぱ休むしかないんかなー」
「……」
「ヒいた?」
「ヒいたって言うか」
そうか。そういうことがあるんだ。と思った。教職員や学校関係者にしか異性がいない、女子校に放り込まれた同年代の男の子の生活を考えたことなんてなかった。
人が同じ空間にいたって誰彼構わず好きになるわけじゃないけど、そうか、アサが女の子が好きってことは。
「……でも部活は。剣道着着るじゃん。トイレなんて狭いところで着替えるの大変だし、レミには悪いけど部室で着替えさせてもらってた」
「あっ」
「レミはマジ、ダチだから!! 誓ってエロい目で見てないから! ほんとマジ!! 着替える時も見ないようにしてるから!! 友達!!!!」
まさか本当に、後輩たちが騒ぐように「アサレミ?!」と浮かれかけた心が瞬時に突き放されて、自分の最悪さを自覚した。
アサとは最高に仲がいいけれど、たとえアサが私に恋していたとしても「そういう目で見たことない」とか言ってフっていただろうに。勝手に自身とのLoveからのお断りを妄想しておいて、Dudeだと先手を打たれてがっかりするなんてマジで最悪だ。
「ただやっぱりさぁ、レミに悪いから辞め……」
「やだよ辞めないでよ! アサいなくなったら寂しくなるじゃん」
「……辞めないでいい?」
「当たり前じゃん! 友達だよ!!」
その最悪さを塗りつぶすように「友達」と大声で言って、するとアサは「よかったぁ……ありがとうレミ」と嬉しそうにしみじみ呟いた。余計に罪悪感。
「じゃあ続けさせてもらう。剣道好きだから、本当は続けたかったんだ。着替えは、今度どうすればいいか一緒に考えさせてもらっていい?」
「うん、いいよそうしよ。なんかずっと一緒に着替えてきたし今さらな感じもするけど」
「言わなくて悪かったって。でも俺も、今さらレミと着替えてドキドキとかしないから安心してくれていいから。いっそ家族みたいな感じ?」
「アハハそうだね。そう、そんな感じ」
笑いつつもアサの「恋愛対象じゃないアピール」は、ちょっとズキっときた。
あーもう本当イヤだ。私自身も恋愛対象じゃないくせに先回りで断られてズキズキするの。本当に自分勝手すぎる。
「一応『生物学上は女』ってヤツだから許して」
「別に怒ってないよ。怒って、っていうか超驚いてる」
「俺もレミが思ってたよりフラットな対応してくれて驚いてる」
「……情報量が多すぎて処理するのに時間かかってるのかも」
「悪いね」
「いーってことよ。──あー。でもアサ、本当に『女子校の王子様』だったんだねぇ」
頭が熱を帯びて喉もカラカラで、紙パックに入ったフレーバーティーをストローで啜りながら言う。フレーバーティーといってもリンゴ85%に紅茶15%のほぼジュースみたいな味の飲み物だが、その甘さと透き通った香りが今は染み渡った。
「……したくねーけど『王子様』やってれば、みんなも『そんなキャラかな』って思ってくれてるから。面倒くせぇけどやらないよりは過ごしやすくてさ。あ、レミ。その飲み物ちょうだい」
「間接キスじゃん」
「今までも散々やってきたじゃん?」
「それはそう。はいどうぞ」
紙パックを手渡してズズーッっとアサもフレーバーティーを啜る。ごくごくと飲む様が、なんだかなまめかしかった。
「王子様やったってモテるわけでもないし、損な役回りだよ」
「そんなにチョコもらっといてモテないって何?!」
「これはモテとは違うから」
アサの顔が少し真剣になった。でも私のことを見ないで、目線は紙パックのパッケージを追っている。
「絶対に手ェ出してこないとわかってる、キャーキャー言える偶像だよ。アイドルよりも身近な……ぬいぐるみみたいな。実際に手ェ出したらドン引くくせにね」
「……アサ相手だったら本気の子もいそうだし、喜びそうな気もするけど」
「そんなことねーって。ま、手なんて絶対出さねーけど。そんなんしたら即退学だから。あー早く卒業して進学してぇなー。アレなんだ。親が大学進学したらホル治療していいって言ってさぁ! クソだけど、だからストレートで進学したいのもあるんだー。ヒゲ生えるといいんだけど俺にその素質あんのかなー」
「アサにヒゲ?!」
この美少年のアサにヒゲ?!!
無理無理無理無理イメージできない!と声を裏返しながら思わず言ってしまう。
「ヒゲだよ。あれ生えない体質の人もいるらしくって、運らしい。背もなーもう少し欲しかったけどなー。あとは名前も、どうせだったら紀美の漢字は『美しい』じゃなくて礼実の『実』がよかったなー。そっちの方が男らしいから」
「『美』がついてる男の人もいるよ」
「いるけどおじさんおじーちゃんくらいでしか見なくない? 『美』だと女子っぽいし。レミの『実』で紀実がよかった」
「武士みたい」
ずずいとフレーバーティーの紙パックを脇に寄せて、アサは机に突っ伏した。
こんなに王子様なのに、でも王子様の姿、イヤなんだな……。
聞けば聞くほど難儀な話で、高校一年の私には何もどう言ったらいいかわからなかった。
頭上でチャイムが鳴った。オーソドックスなウエストミンスターの鐘。18:30の最終下校時刻。
ああ、ここまでくるのに長かった。少しほっとした。もう受け止め切れそうにない。
「帰ろか。はー、すっきりした。ありがとね、話聞いてくれて」
本当にそういう顔をして、アサは伸びをしながら立ち上がった。無情だ。こっちは逆に、心に大荷物を抱えてしまったのに。天井まで帯のように伸びるエメラルドグリーン色を見ながらぼんやり思う。
「やっべぇ着替えてなかった! レミあっち向いてて! 俺も向こう見て着替えるから」
そう言ってアサは部室の隅まで駆ける。そうか、登下校時はジャージじゃなくて制服着てたな。と今思い出す。そうだ。私みたいに剣道着から制服に直接着替えれば楽なのにジャージを一回挟むこと、ずっと疑問だったしそう質問したこともある。アサはギリギリまで制服を、スカート着たくなくてそうしていたのか。
意識して見ていなかった事象が意識下に入って、もう、脳が、パンクしそうだった。
机の上のフレーバーティーを手に取って、啜る。沁みる沁みる。まだ飲める。と思うが昼休みに購買で買った紙パックには中身がそれほど残っておらず、ずずずずずーっと大きな音をたてて飲み干してしまった。
「アサ」
「ん?」
「私このお茶、外に捨ててくるからゆっくり着替えなよ。私いると落ち着かないでしょ」
「……わかった。先帰っててもいいから。今日はありがとね」
制服のコートに袖を通しながら言うとアサは締めの言葉を発した。ちょっとムッとする。
「……待ってるよ。友達だから! 駅までだけど、一緒に帰ろ!」
「……ん、わかった。ありがと待ってて」
アサが隅を見ながら着替えていた体を反転させ、嬉しそうにこちらを向いた。ブラウスのボタンを留めているところだったらしく、下着がちらりと見える。今さら下着なんて何回も見ているけれど、アサのすらりとした体には似つかわしくないやや大きなサイズの胸を包む、簡素なスポーツブラだった。
あ~~~~~~~~~~~アサはコレも嫌だって思ってるんだろうな~~~~~~~~~~~~~~!!!!
最後の最後に頭を爆発させるような情報が目に飛び込んできて、私はあわててアサに手を振って、「部室の扉の前で待ってるから」と言い残して、逃げるようにドアノブを掴んだ。