鏡合わせの正義
その死神は、今日も犯罪者の命を刈り取る
その天使は、今日も地獄に送るはずの魂に慈悲をかける
アーテルとクラルス、くすんだ黒と澄んでいる、その名前の意味も、性格も、見た目さえまるで正反対の二人は、誰しもが知らず、互いさえ気づかぬうちに、少しずつ、密かに惹かれ合う。
「アーテル!今までいくつものまだ寿命を迎えていない人々の魂を奪い、あの世へ送ったというのは本当か!?」
苛立った様子で言うベテラン死神
(チッ、バレたか)俺は、気怠さを隠しきれずに「寿命が残っていたといっても、現世で犯罪を犯した者の魂ですよ?奪った方が平和のためです。」
どうやらベテラン死神の怒りを逆撫でてしまったようで、また一つお小言をくらう。「いいか!死神の仕事とは、寿命を迎えて、現世をさまよう魂達を導く事だ!たとえ向こうが犯罪者だろうが、自殺志願者だろうが、その命を奪ってはならないんだからな‼︎罰せられても知らないぞ‼︎」まったく…と息をつきながら、ベテラン死神は去っていった。
(やれやれ、面倒くさい。たとえ万引きなどの小さく見える犯罪でも犯罪は犯罪だ、ましてやもっと上の悪人なんて、生かす必要があるのだろうか。死にたいやつは勝手に死ねばいい。それが俺の流儀であり、俺の正義だ。おそらくそれは変わる事はないだろう…)
「クラルス、また地獄に送るはずの魂を逃してあげたの?本当に物好きね〜」
少々呆れたように大天使様は言う
「はい、本当に悪い人間なんていないはずですから」
(半ばそれは私の願いだが、いくら助けた人がまた罪を繰り返そうとも、信じ続けたいと思ってしまう。)
「いつか神様から罰せられても知らないわよ」
冗談めかして言うその姿には愛情がこもっている。
「覚悟の上です。」
そう、自分に言い聞かせた。
(自分が正しいかわからない、けれども私は、人々の良心を信じていたい。たとえそれが報われずとも…)
それぞれが同種から異端の目で見られつつも、信念を曲げない二人。
二人は、なんとなくだがいつものように会っていた。
「なぁ、クラルス。なんでお前は人間を助けたい?」
好奇心旺盛にアーテルが尋ねる。
「なぜでしょうか…?私は、この世に生を受けた時から、そのように教えられ、それが私の役目なのだと、これまでなんの疑いも持たずに生きて参りましたから。」
アーテルの問いに、クラルスの心はざわめいた。
「私も、なぜ貴方が小さな罪でも許さぬのか、聞いても構いませんか?」
薄幸の美女という言葉がよく似合いそうなほど、彼女の笑みは弱々しかった。
「そういえば、俺も考えた事なかったな…たぶん、悲しいからかもしれないな。一度罪を許した人が、また同じあやまちや、それ以上の罪を犯すのがさ。」
アーテルの表情には、幾度も信じては裏切られてきたのであろう事が想像できる悲痛が滲んでいた。
その痛みが、今クラルスが苦しんでいる痛みと重なり、不意にクラルスの中にその痛みを分かち合いたいという感情が生まれた。そしてそれは、彼女の中に、彼女さえまだ気づかないほど小さな、恋という甘い乾きをもたらした。後にそれは膨れ上がり、彼女にとって初めて天使の掟に抗うものであっても、構わないと思えるほどのものになる事となる。
人間を愚かだと思い捻くれているアーテルにとっても、どこまでも心の清らかなクラルスと過ごす時間は癒しとなっていた。
「クラルス、お前も人間を信じ続けるのはやめたらどうだ?」
クラルスがなぜそんなにも人間を信じ続けられるのか、それはアーテルにとってあまりにも理解不能だった。
「どんな人々にもあるはずの小さな幸せを作り、それを守り続けたい。小さな幸せに気づいて欲しい、それだけです。」
クラルスの笑みはどこまでも穏やかで、瞳は地上を見透かすように細められていた。彼女が本心からそう言っているのがわかる。
正反対の正義の理論、鏡合わせの正義持ちながらも、お互いの言葉を理解し尊重しようとするクラルスとアーテル。
そうして二人にはそれぞれ人間の新たな一面を知り、二人の間の臨機応変な考え方へと近づいていった。
アーテルも、なんだかクラルスの事が気になって仕方ないのを自覚し始め、気がつけば何故か人間と死神の恋愛について書かれた実話小説を読んだりしていた。
そんな日々の中、クラルスは自分の天使としての力が弱まってきているのではないかと疑問に思い始める…
「クラルス!?どうしたの、その羽…」
大天使様に指摘され、自分の羽が小さくなってきている事が杞憂では無いと確信する。
「おそらく、私は天使の禁忌を冒してしまったのでございましょう。」そっと胸を抑えるクラルスに大天使も何かを察した。
―清らかなる天使は恋をしてはならない。恋をした天使は、羽を失い、存在が消えてしまう―
助かる方法は…「クラルス、お主の中から相手の記憶を消せば、存在し続ける事ができる。ねぇ、クラルス…」可愛がってきたクラルスを失う事が怖い大天使は、クラルスにすがる。
クラルスは、いきなり選択を迫られ、たまらず走り出した。
そしていくあてもなく飛んでいると、意中の死神の愛おしき背中が見えた。
濡羽色のふわふわとハネた美しい髪が風にそよいでいる。
声をかけることもできずに立ちすくむクラルス、しばらくしてアーテルが気がつくと、クラルスの心中など知る由もなくツンとすましながらも、ルビーのような美しい瞳が私の姿を捉え、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「よう!クラルスじゃねーか!いつもながら頼りなさそうな顔してんな!」
いつもなら、こんな軽口にも落ち着いた口調で丁寧に返事をするクラルスだが、もうそんな気力も残っていなかった。
黙り込んだまま座り込み、振り返るクラルスに、アーテルもただ事ではないと察し、心配そうに覗き込んだ。
「どーした?クラルス…」
いつもと違って、静かでワントーン低いアーテルの声にクラルスの思いはまたドキリとして膨らんでゆく。
アーテルの方も、ただでさえ儚げな印象のクラルスの消え入りそうな不安を感じさせる表情、初めて見せた弱さにドキドキと胸が高なっていた。
「私が貴方を忘れてしまったら、どう思ってくれますか?」
思わず尋ねると、アーテルは少し目を見開いて私の方を見て、俯きながら「…寂しい…かもな。」小さいけれど確かにそう言ったアーテルの耳は少し赤い。
(もしかしたら彼も同じ気持ちでいてくれているのかも知れない。)自惚れかも知れないが、そう考えると、すぐに覚悟は決まった。
「ありがとう」(さようなら)
不意に涙が両頬を伝い、止まらなくなっていた。
アーテルの顔をろくに観る事もできず飛び立ち、急いで大天使様の元を目指した。
もう迷う事はない、私はアーテルとともにありたい。
「本当に行ってしまうの…?クラルス。」憂に満ちた表情で大天使様は私に尋ねる。
「はい、今までありがとうございました。」己の恋心を受け入れ、人知れず去ろうとするクラルスの羽は、もうずいぶん小さくなっていた。
「彼を忘れ、永遠の時を生きながらえるくらいならば、いっそこのまま美しき空に溶け込みたいのです。」
天界の端から下界へと目を伏せる。
クラルスは、そのままゆっくりと歩みを進め、身を乗り出し、重量に身を委ねた。
ふわりと空気の中に沈む度、はらりと羽が抜け落ち、まるで雪のように舞い散る。
みるみるうちに空と同化するクラルスは、はっきりと笑顔を浮かべていた。
透き通るような、毛先にかけて水色になる白髪が風に乗って広がった。
あいつの様子がどこかおかしかった。
「私が貴方を忘れてしまったら、どう思ってくれますか?」
苦しそうに、でも照れたような、曖昧な表情で俺を見つめる。
なんだよ急にとも思ったが、真っ直ぐなその澄んだ空色の瞳から目を逸らすことは出来なかった。
「…寂しい…かもな。」ボソリと溢れた俺の言葉に、切なげな笑顔を浮かべ、絞り出すような声で「ありがとう」と言った。その瞳には涙が溢れていた。
初めて見たクラルスの涙が脳裏に焼き付いて、離れる事はなかった。
その衝撃で、金縛りに遭ったかのようにしばらく動く事ができなくなった。
すっかり見えなくなった背中に胸が締め付けられ、意を決してクラルスを探しに急ぐ。
何かがおかしい、胸騒ぎがする。
天界へ辿り着くと、神妙な面持ちの大天使様と、下界の方へ落ちてゆく青白く発光する何かが見えた。
大天使様は、俺を見つけると少し驚いた顔をして、語り出した。不思議と俺への恨みは感じなかった。
「天使は、神により生み落とされ、下界の人々に幸せを運び、守る事を生業としている。それ以外は余計な感情など必要ない。故に、お主に恋をしてしまったクラルスの羽は抜け落ち、本人もお主を忘れるくらいならと、消え入る運命を受け入れてしまった。」
遠くを見つめてから、俺の耳にそっと囁く。
「助けられるとしたら、今のうちです。」
考えるより先に、体が動いていた。
(嘘だろ、クラルス!?俺との記憶ために命を投げ出すなんて。)でも、そう考えると合点が一致する。
(それならば俺を忘れて幸せに生きて欲しかった。しかし、それほどまでに思ってもらって嬉しい)荒々しく攻め似合う感情が矛盾する。(だからこそ俺だって、お前がいない永遠なんてのぞみたくない!あぁ、いつからこんなに大切な存在になっていたんだろう…)
「クラルス‼︎」手を伸ばした先、かすかに指先が触れる。
「アーテル…!」信じられないと言ったような声が、空に澄み渡る。だが、クラルスの姿はどんどん薄くなっている。
その体を固く抱きしめて、願う。
「神よ、俺の全てを犠牲にしても構わない、だからクラルスを救ってくれ‼︎」アーテルの悲痛な叫びがこだまする。
アーテルの背を抱きしめ返し、クラルスは呟く「来てくれて嬉しかった、貴方は幸せに生きて。アーテル…」
アーテル、己の名を呼ぶクラルスの声にいつからそんなに愛おしさが宿っていただろうか。
叶わぬ恋なのならば、二人でこのまま消えてしまいたい。
孤独な永遠より、温かな一瞬が欲しい。
僅かな時間がこんなに愛おしく思えたのは初めてだ。
見つめ合い、何も言わずに抱きしめあって心を通わす。
すると突然、強い光が二人を包み込んだ。
「長年天使達を生み出し、見守ってきたが、こんなにも深く愛し合う者達は初めてじゃ。」
眩い光を放ち優しい笑みを浮かべる老人
「「神様!?」」アーテルとクラルスは、素っ頓狂な声を上げてその人物を見上げる。
「掟破りを容認する事にもなるし、かなり力を消費するのでの、あまりこの方法は使わぬのじゃが、お前達に二人で乗り越える覚悟はあるか?」
「「はい!」」力強い声が重なる。
「天使と死神の恋は、お互いに同種からかなり疎まれる。しかしそれも二人とも人間になってしまえば、構わぬ事。
よって、天使や死神としてのすべての力を失うかわりに、人となる術を施す。契約の代償は、同じ立場から人々を救う事。お前達は死ぬまでそれを続け、寄り添い生きる事じゃ。同時に、それをお前達がしてきた事への罰とする。良いな…?」
探りを入れるように響く神様の声は、低く迫力がある。
自分達にとって都合の良い話で、拍子抜けする気もするが、二人は目配せをして、同時にこくりとうなずいた。
「よろしい、見てるこっちがお腹いっぱいじゃ」
さっきまでの迫力が嘘のように、目を細めてくしゃりとシワがよった笑みを浮かべる神様。
すうっと力が抜けていく感覚がして、浮遊感がだんだんなくなってきた。
そのまま静かに下界に足をつけると、己の体の重さに、二人とも足がもつれて、転んでしまった。
二人は笑い合い、弾んだ声を上げて、少し痛む足にさえ生きている心地よさを覚えていた。
「これからどうする?クラルス。」
「困っている人々を、たくさん助けなければなりませんね。」
「確かにな、でも大雑把すぎ!」
人知れず生み落とされた二つの命。
今日も地上には、多くの命が生まれ、多くの命が旅立ち、時は巡って行くのだろう。
「「どうか、全ての命が幸せであれますように。」」
天を見上げて祈る二人は、地を歩き、今を確かに生きてゆく。
掴んだ縁をもう放しはしないと心に誓って。