表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

短編集

ガトーショコラ

 オーブンの前に貼りつき、中の様子をじいっと見つめているマヨへ、私はため息まじりに声をかける。

「見てたって変わらないよ、それよりも洗い物しちゃいなさいな」

「だってー、心配なんだもん」

 いつも通り鼻にかかった甘え声で返事をするが、目はかなりヤバい。ここまでのマジな顔、高校からの付き合いだが見たのは初めてだ。

「そりゃあ葉月は慣れてるかもしれないけどぉ、あたしは初めてなんだもん、お菓子なんて女子力高めなシロモノ作るの」

 だから最初はマドレーヌとかクッキーとか、分量守って丁寧に混ぜ、設定通りの温度で焼いたら出来るお菓子から始めなって言ったのに。イキナリ『ガトーショコラ』だもんなー。アレはソコソコ技術がいる中級レベルのお菓子だっての。見てられなくて、結果的にキモになる作業のほとんどは私がした。

 でへへ、とだらしなく笑い、マヨは惚気る。

「だってー、ガラケーがガトーショコラ食べたいって言うんだもん。ホント、甘党なんだー、ちょっと見はそう見えないんだけどねー」

 あっそ。あんたのカレシは馬鹿だねえ、自分のカノジョにナニが出来てナニが出来ないかわかんないんだ。

「うーん、馬鹿は馬鹿かも。でも馬鹿な子ほどカワイイってゆーかぁ」

 脳内お花畑状態(ナチュラルな状態でもそんな気のある子だが、今は一層花が咲き乱れてる)らしく嫌味も皮肉も通じない。仮にも自分の彼氏を馬鹿呼ばわりされ、にやにやして喜んでいるなんて『どうかしてる』以上だ。

 大体なんだ、その『ガラケー』って呼び名は。

 いかにも使えない、おつむの弱いチャラ男って感じだ。マヨがここまで男の趣味が悪いとは。

(せめてスマホにしろ!)

 自分でも意味のわからないツッコミを心で入れ、シンクに投げ出されたまま洗われることのないであろう道具類を静かに洗い始める。マヨに全部任せていたら日が暮れて夜が明ける。彼女はそれでいいのかもしれないが、私はイヤだ。

 マヨがこの前、カレシが出来た、甘党の彼へお菓子を作ってあげたいから教えてくれと連絡してきた時は素直に嬉しかった。

 彼女は、根はいい子だけどやや天然というか不思議ちゃんというか、あるいはもしかするとよっぽど甘やかされて育ったのか、基本、他人に何かしてあげようという発想のない子だった。そのくせ、他人から何かしてもらうのは当たり前のように思っている節がある。なんと言うか、赤ちゃんがそうみたいな感じだ。

 赤ちゃんだから発想がないだけで、別に悪意があるのでも上から目線で生きてるのでもない。それはちょっと付き合えばわかる。

 まあ、わかってもそれを彼女の個性として受け入れられる人間は少ないだろうなとも思うけど。誤解されたまま嫌われる場合も少なくない。一応はその個性を含めて彼女が気に入ってる私だって、正直、時々イラっとするくらいだもの。

 そんなマヨが恋をして、普通の女の子みたいに彼氏の為に何かしようと思ったことそのものが、私は嬉しかった。何だか彼女の保護者みたいだけど。

 天才は凡人と発想が違うらしいから、ひょっとすると彼女が天才だからそうなのかもしれない。

 とろーん、としたしゃべり方からは想像もつかないが、サインコサインで見切りをつけて逃げ出した私には異次元語にしか思えない複雑怪奇な数式を、彼女は涼しい顔ですらすら読み解くし自分でも書く。ソッチ方面では期待の星らしく、来年アメリカの大学だか大学院だかへ留学する話もあるらしい。論文が注目されたとかなんとか、ぽやーんとしながら言っていた。

 いいよ手伝う、何を作るの?

 その返事がガトーショコラだったので、玉子の泡立てがいらない初心者用のレシピをネットで調べ、準備して待っていた。なのにこの脳内お花畑娘は、そんなお手軽はイヤだとのたまう。

「だって、ちゃんとしたガトーショコラを作りたいんだもーん」

 ガラケー、ガトーショコラに関してはうるさいんだもん。お手軽なんか作ってもがっかりされるもん。図書館で借りてきたらしい立派なレシピ本を振り回してマヨは言う。

 大馬鹿者。今の今まで玉子の泡立てはおろか、粉の計量ひとつやったことない超初心者のくせに何を言うか!

 すったもんだしたが、そこまで言うならその本格レシピで作ればいい、でも私は知らないと突き放したら、ごめんごめん悪かった、協力してよ~と謝って泣きついてきた。

 とりあえず『練習』ということで折り合い、超本格とまではいかないものの、ベーキングパウダーじゃなくて泡立てた卵白の力でケーキを膨らませる、ソコソコ本格的なレシピで作りはじめ……今に至る、と。

「馬鹿は馬鹿かもしれないけどぉ、ガラケーは別にチャラくないよう」

 据わった目でオーブンの中を見つめつつ、マヨは言う。

「ガラケーはゲーメーなんだよ~」

 ゲーメーが芸名、だと理解するのにしばらくかかり、芸名というのは芸人等が芸能活動時に使う名前だという一般常識を思い出すのにも、それからしばらくかかった。

「はあ?」

 思わず洗い物の手を止め、鋭くマヨの方を振り返る。私の素っ頓狂な声に、さすがにマヨもこっちへ向く。

「な、なに?変な声出して」

「ちょっとマヨ!あんたの彼って芸人さん?」

「げーにんさん?」

 マヨはポカンとした顔で、ひらがなの羅列みたいな調子で私の言葉を繰り返した。

「だって芸名なんでしょ?」

「うん」

「芸名ってことは芸人さんじゃないの?」

 言いながら私は、ガラケーなんてお手軽そうな名前の芸人がいただろうかと脳内の芸能人ファイルを素早く繰る。

 ガラケーなんて名前の芸人、私は知らない。最もお笑いに詳しい訳でもないから、絶対いないとまで言い切る自信はないけど、少なくとも誰もが知ってる売れっ子さんじゃないだろう。

「芸名だけど芸人さんじゃないよ。大学生なのー」

 嫌な予感に私はぞっとする。

「もしかして芸人志望のぐーたら学生なの?」

 でっかい夢を追ってるつもりの、ふわふわしてて生活力のない、つまりはだめんず?

「違うよー。専門馬鹿だけどぐーたらじゃないよ。後輩でー、相方なのー」

 ……訳わからん。


 メモを取りながら(笑うかもしれないけど、ちょっと込み入ったマヨの話を理解しようとしたらメモは必須なのだ。なんでこんなしちメンドくさい子と友達やってんでしょうねえ、私も)辛抱強く話を聞き、取りあえずわかったこと。

 『ガラケー』君はマヨの所属するゼミの後輩。

 後輩だけど、浪人してるから同い年。

 マヨのゼミでは三か月に一度くらい、ゼミのみんなで演芸会をする伝統が昔からあり(……はあ?)、その時にマヨは『ガラケー』君と組んで漫才をして大ウケにウケた。

 以来ふたりはゼミになくてはならない漫才コンビと認定され(再び、はあ?)、そこから仲良くなっていったふたりは、やがてお付き合いをすることになった……と。

「ふ……ふーん」

 私は曖昧な返事をした。どうリアクションしていいか困る。

 とびきり頭のいい人たちというのは、お菓子の専門学校で生地ばっかりこねている私のような人間とは頭の回路がまったく違うらしい。理解不能だ。

「でね。ガラケーはホントは筧太一っていうんだ。だから最初は『カケイ&マヨ』ってコンビ名だったの。でも、それじゃあ堅いしおもしろくないからからって先輩が、カケイタイチをいじってケータイ、ケータイからガラケーにシフトチェンジしていってえ……」

 ダイニングテーブルでメモを取っていた私の手が思わず止まる。チラシの裏に、カケイタ、まで書いてそれ以上書けなくなった。

 カケイタイチ。筧……太一?忘れたつもりの面影が脳裏にかすめる。

 マヨはたらたらと『カケイタイチ』なるカレシの特徴を話し続ける。要するに惚気たいのだろう。

 髪はぼさぼさで色白。

 よく見るとイケメンだけどいつもぼうっと考え事しながら歩いているせいで、イケメンオーラはまったくない。

 言葉遣いは基本ですます調で丁寧過ぎるほど、マヨのことも未だに先輩と呼んでいる。マヨでいいと言っても、そんな訳には参りませんと彼は言う、のだそう。

「そんなんだから、カケイはケータイはケータイでも、古風なガラケーだってことになってぇ。結局ガラケーで定着したのー、カワイイでしょ?ガラケーっていいよね、スマホは電話の本分忘れちゃったって感じでなんか軽薄だけどさ、ガラケーはいかにも電話って感じが残っててぇ、なんかあったかいよねえ。あたしはガラケー、今でも好きだなあ」 

 カレシの惚気話からいつの間にか、通信機器のガジェットは何が好きかという話にそれこそシフトチェンジしていってるが、私はもうマヨの話をろくに聞いていなかった。


 焼き上がったガトーショコラは、初めてにしてはいい出来だった。

 端をちょこっと味見して、うわーオイシイとマヨは感動し、十分本格でしょという私の言葉にうなずく。

「お店で売ってるガトーショコラみたい。すごーい、こんなのホントに作れるんだー」

 ……って、あんた本格ガトーショコラを作りたかったんでしょ。

 ツッコミたくなるけどマヨの気持ちはわからなくない。ちゃんとしたケーキが初めて焼けた時って、やっぱり感動するもんね。

 マヨはニコニコしている。裏表のない彼女は、嬉しい時は本当にいい顔で笑う。

「ありがとう、みんな葉月のお陰だよ。葉月に手伝ってもらわなきゃ絶対無理だった。ホントありがと、プロってやっぱりすごーい」

 いえいえ、まだしがない専門学生ですけど。そんなに褒められるとさすがに照れくさいじゃない。

「これならガラケーも納得して喜んでくれるよー。あの子、お菓子の中で一番好きなのはガトーショコラだって言ってたしー。生クリームとか乗ってない、焼いただけの素朴なガトーショコラが好きなんだってー」

 そんなことを言いながらマヨはお茶を飲む。私はケーキの型を洗っていたけど、一瞬ふと手が止まった。

 荒熱が取れたケーキを慎重に切り分け、市販のラッピングケースに丁寧につめると、スキップでもしそうな雰囲気でマヨは帰っていった。

 ダッフルコートにマフラー、足元はもこもこのブーツ。

 昔から寒がりだったけど、十二月になったばかりにしては着込み過ぎでしょな格好でマヨは、うきうきと帰る。

 辺りに花をまき散らしてるみたいな、傍若無人なまでの幸せオーラだ。

(すっ転んで怪我しても知らないぞ)

 意地の悪いことを心の中でひとりごちる。


 部屋へ戻る。

 なんだかがっくり疲れた。食卓兼作業台兼机であるダイニングテーブルの前に座る。

 テーブルに投げ出されている、『カケイタ』とまで書かれて止まったメモを取り上げ、ぼうっと見る。

「……ガトーショコラ、作ろっかな」

 つぶやき、立ち上がる。

 マヨが作ったものと同じレシピで、最初から最後まで私が作ったらどうだろう?

 少なくともマヨが作った『初めて作ったにしては上出来』なガトーショコラよりは垢抜けた、よりガトーショコラらしいガトーショコラが出来上がる……はず。

 だって私、これでも一応は専門家だ。

 マヨが大学で数式を弄んでいる時間、泡だて器と格闘してきたのだ。初心者とは訳が違う。

 材料はある。

 マヨが失敗した場合に備えて、材料は余分めに買ってあるし、自分の買い置きもある。

(あ、材料代もらうの忘れた)

 ガトーショコラを作りたいという連絡があった時、レシピとか材料とか、よくわからないからお願い、材料代は後で払うからと彼女は言っていたが、こちらから請求しないとあの子は忘れちゃうのだ。

 おまけに、図書館で超本格的なレシピ本をたまたま見つけるとヒトに頼んでいたことをころっと忘れ、このレシピで作りたいとか勝手なことを言い出すし。

(私……マヨの友達だよね?あの子は私を、友達だって思ってるよね?)

 なんだか不安になってきて、そもそも友達とは何?的なテツガクもどきの考察まで浮かび始ているのに気付き、私はあわててそれを押し込めた。

 こういうことを突き詰めるとロクなことはない、チョコを刻もう。


 チョコを計量して刻み、ボウルへ入れる。

 他の材料もきちんと計量する。

 測ったバターをチョコのボウルへ入れる。

 玉子はまだ出したままだったから、室温に戻っている。卵黄と卵白にわけておき、卵白の方は冷蔵庫へ。

 オーブンを予熱し始める。

 26㎝の深型フライパンへ半分弱ほど水を入れ、火にかける。

 さっき洗った型を丁寧に拭き、型の内側に分量外のバターを塗る。ペーパーを敷くやり方もあるけど、私はあまり好きじゃない。

 フライパンの水が50℃を過ぎたあたりで火を止め、チョコの入ったボウルを入れる。

 細めのゴムベラでゆっくり混ぜて溶かしてゆく。

 ボウルの底でじわじわと力を失くし、一体化し始めるチョコとバターをゆっくり混ぜていると、筧太一のことが思い出されてくる。


 筧太一は中学二年生の時の同級生だ。

 頭はいいけど、どこかぼうっとした雰囲気の男の子で、なんとなくみんなから敬遠されていた。

 いや、厳密に言うとそれは正しくないかも。

 筧の方がみんなと仲良くする気がそもそもないというか、学校は森、クラスメートは木、みたいに感じているような、ある種超然としたたたずまいの少年だった。

 彼は毎日、結構早い時間にきちんと学校に来た。クラス一早く来る訳ではなかったが、クラスで五番目以内には来ていた。

 どうして知っているかと言うと、私は大抵、クラスで一番早く学校に来ていたからだ。

 何故そんな早くから学校に来ていたかというのには、ソコソコややこしい『家庭の事情』もあったけど、要するにひと気の少ない早朝の学校の雰囲気が好きだった。

 誰もいない朝の教室で、自分の席に座ってぼんやりするのが、一日で一番ほっとする時間だった。

 彼は机にカバンを置くと、決まってふらっと教室を出て行く。そして予鈴前に又ふらっと戻ってくる。

 どこへ何しに行くのか知らないけど、目的はありそうな感じだった。

 二学期の半ば過ぎのある日、私は筧の後をつけた。

 純粋に好奇心だった。

 この、クラスメートだけじゃなく世界の何事にも興味が薄そうな男の子が、毎朝毎朝、どこへ行ってるのだろう?って。

 学校に来るのはわかる。

 義務だし、行かないと周りが騒いで鬱陶しい。ぐじゃぐじゃ言われるくらいなら、さっさと学校へ行った方がマシだ。行ってさえすれば雑音は減る。筧は馬鹿じゃないからそう判断したんだろう。

 筧はすたすた階段を降りる。結構早い。

 いつもぼうっとしているあの子とも思えない。

 校舎を出て中庭へ向かう。

 ウチの学校の中庭は、それっぽい小さい滝まで設えられた池があるちゃっちい和風庭園って雰囲気で、貧乏公立中学には不似合いだ。多分バブルの頃にでも勢いで作ったんだろう。

 誰の趣味でこの中庭を作られたのか知らないけど、はっきり言ってダッサい。生徒のウケは当然良くないから、中庭にはあんまり誰も来ない。

 池の周りにはサツキの生垣風の植え込み、杉みたいな真っ直ぐな木、桜の木が漠然と植わっている。

 筧はそこへ、すたすたと歩いてゆく。そしてサツキの生垣風のところどころにある、獣道みたいな隙間を慣れた足取りで通る。

 私は、ちょっと離れたところから木の枝越しに透かし見る。

 そこには、やたら高い足の付いた(足だけで1mくらいありそうだった)、四角いボロッちい木の箱がある。

 あることは知っていたけど、それが何かまで考えたことなかったし、興味もないから私はその箱の存在そのものを意識から抹殺していた。あんなのに何の用があるんだろう。首を傾げ、私はそろそろと近付く。

 箱の前に立つ筧の後姿。ブレザーのポケットから何か出す。メモ帳らしい。箱の扉らしいものをごそごそして開け、覗き込み、さかさかとメモ帳に何か書き込んでいる。

 書き終わると満足そうにメモ帳をポケットにしまい、反対側のポケットから何か取り出すと包み紙らしいものをむき、食べ始めた。

「ちょ、筧くん!」

 思わず声をかけてしまった。

 筧はびっくりしたらしく、身体を揺らすようにしてこちらを振り向いた。

 まん丸に目を見張り、だけど口はもごもごと動いていた。

 手にあるのは食べかけのチョコレートバー。風向きのせいか、甘いチョコのにおいがただよってきた。

「何やってんの?学校へお菓子なんか持ってきたらまずいじゃん。こんなところでこそこそ食べたりして、見つかったら……」

「えーと。日下部さん?」

 筧は私の顔をまじまじ見た後、言った。

「どうしてここにいるんですか?」

 やけに丁寧に尋ねられ、怯んで思わず詰まる。そうだ、こいつはいつもこんな口調だったと改めて思った。

 なんとなく、みんなと距離を置きたいからクソ丁寧にしゃべっているんじゃなくて、これ以外のしゃべり方をマスターしないで中学生になったって感じがするんだよね、この子。

「ど、どうしてって、たまたまだよっ」

 ビビりながらも私は言い切る。後をついて来たって言うのはさすがにまずいでしょ、ストーカーと間違われそうだし。

「ふーん?」

 筧はちょっと首を傾げたけど、まあそんなこともあるかと納得したようだ。

「お菓子かもしれないけど、これは朝ごはんなんです。百葉箱で観測した後、ここで持ち込んだ朝ごはんを食べていいって許可は先生からもらっていますけど」

 筧は言う。やけに真っ直ぐこちらの目を見て。やましいことなど何もない、と信じている者の目は強い。

「そ、そうかもしれないけどォ」

 何故か私がやましいような気になり、目をそらす。

「あ……でも。朝ごはんにお菓子は身体に良くないよ。そ、それにィ、朝ごはんは家で食べるべきじゃないの?」

 私の言葉に、筧は困ったように眉を寄せる。

「僕のうちは家で朝ごはんを食べる習慣がないんですよ。それぞれが外で、適当に摂るっていう感じで。普通じゃないのはわかっていますけど、それがうちのやり方なんです。みんなに見えないところでなら食べていいって、先生の許可ももらいましたよ」

「あ……そう……なんだ。ごめん」

 余計なこと言っちゃって。もぞもぞ謝る。

 そこで突然、ふっ……と筧は笑った。すごく綺麗な笑顔で、私ははっと胸を衝かれた。この少年がすごく整った綺麗な顔立ちをしているのを、私はその瞬間、初めて知った。

「訊かないんですね、どうしてそんな変わった家庭なのかとか、親は何を考えてるんだとか。先生だって訊きましたよ?」

「私、先生じゃないし」

 なんとなく不貞腐れた気分で私は言った。

「それにさ。家庭の事情ってヤツ?そんなの他人には結局わかんないし。だったら訊いてもしょうがないし、訊くことそのものが失礼じゃん」

 筧はもう一度笑った。さっきよりも角が取れたというか、自然な感じの可愛らしい顔で、私はちょっとドキッとした。

「日下部さんはいい人ですね」


 卵黄を入れたボウルへ、計ったグラニュー糖の半量を入れて泡だて器で混ぜる。ある程度混ざったら、白っぽくもったりした感じになるまで泡立てる。

 そこへ、さっき湯煎して溶かしたチョコとバターを入れてよく混ぜる。

 冷蔵庫から出した卵白を大きめのボウルへ入れ、ハンドミキサーで泡立てる。グラニュー糖の残りを二回に分けて加え、メレンゲを作る。

 俗に言う『ツノが立つまで』だ。ここで気を抜くとケーキはうまく膨らまない。

 卵黄・チョコ・バターの種へメレンゲの半分弱を入れ、ゴムべらで軽く混ぜる。

 薄力粉をふるい入れ、さっと混ぜる。

 そこへ残りのメレンゲを加え、底からすくうようにしてゴムべらで混ぜる。空気を含ませるようなつもりで、ボウルをゴムべらを動かすのと反対方向へ回すように動かすといい感じに混ざる。

 生地がビロードみたいな質感になる。

 間髪入れずに生地を型へ入れ、余熱の済んでいるオーブンへ入れる。

 後はオーブンに任せるしかない。

 任せるしかないんだけど……ついつい、覗き込んでしまう。

 マヨを笑えない。

(あの時もそうだったっけ)

 ほろ苦い思いをかみしめる。


 筧太一とはその後、一~二日おきくらいの割合で、百葉箱(あのボロッちい箱のことをそう言うらしい。気象観測用の設備らしいけど、現役で使えるとは思わなかった)のそばで話すようになった。

 本当は毎日でもおしゃべりしたかったけど、さすがにそれは周りにばれそうだし、毎日は行けなかった。

 筧は、学校のある日は毎日、百葉箱の温湿度計で温度と湿度を測っているらしい。

「半分趣味、半分勉強ですね。僕は気象予報士の資格を取りたいんです」

 だそう。いかにも筧らしい、中学生男子にしては斜め上な夢だ。

「百葉箱で観測するのは、もう方法としては古いんですけど。でも実際に観測して結果の分析の真似事するの、楽しいですから」

 筧はチョコレートバーをかじりつつ言う。私はそばで、家から持ってきたラップで包んだおにぎりをかじる。

 私のウチと筧のウチの違いは、取りあえず子供に、手抜きでも朝ごはんを用意するかしないかの差だろう。

 大した差じゃないと言えば言えるし、大した差だとも言える。

 筧は当時、用もないのに百葉箱のそばまで来て、自分と一緒にわざわざ持ってきたおにぎりを食べる女の子のことをどう思っていたのだろう?

 心底嫌でもなかったろうが、持て余す気分の方が強かったんじゃないかと、今になって私は思う。

 当時私は、自分と似たような境遇だろう少年へ、一方的に親しみとほのかな恋心を抱いていた。そして勝手に、彼の方もそうだと思い込んでいた。

 時折見せる彼の綺麗な笑顔には、そう錯覚させる力があった。

「筧くんはホントにチョコが好きなんだねえ」

 二学期も押し詰まってきた頃。

 私は、震えながらちょこちょこ足踏みをしておにぎりを食べ、あきれるような感心するような感じでそう言った。

 さすがに冷えるようになってきて、ろくに日も当たらない中庭で冷たいおにぎりをかじるのも辛くなってきた。おなかが冷える。

「うーん。朝ごはんはいつもチョコバーなんですよね、ずっと前から。好きとかどうとかじゃなくて、習慣でしょうか?」

 もちろん嫌いじゃないですけど。そう言って彼は苦笑いをした。あまり寒そうにも見えない。暑さも寒さも大して苦にならない、毎朝毎朝飽きもしないで同じチョコレートバーを食べ続ける彼は、なんだか人間というより優秀なアンドロイドみたいな気がした。

 だけど苦笑いの後、不意に彼はちょっと寂しそうな遠い目をした。

「でも本当に好きなのは、チョコバーじゃなくてガトーショコラなんですよね……」

 私ははっと息を呑んだ。

 堅く閉ざされていた扉がふと開き、中の音がかすかにもれ出たような、小さな小さなつぶやきだった。


 オーブンは低くうなっている。

 庫内で生地は膨らみ始めた。いい感じだ。


 その日、家へ帰ると私は、ごそごそと押入れを探って古いお菓子のレシピ本を引っ張り出した。お母さんが愛用していた本で、ところどころ折れ曲がったり油のしみがあったりする。

 汚いし、捨てようかと思ったけど捨てられず、こうして隠すみたいにしまっていた。

 お母さんが急に消えてから二年近く。

 私が中学生になるのを待っていたみたいに、お母さんはいなくなった。

 お父さんは何も言わないし、六歳上のお姉ちゃんは訊くと怒る。

 だから私は、お母さんが消えた理由をちゃんと知らない。

 お父さんもお姉ちゃんも仕事の都合で、朝早く家を出る。

 私はここ二年、お姉ちゃんが用意してくれている冷たくなったおにぎりを、テレビを見ながらもそもそかじって学校へ行っている。

 私が小さかった頃、お母さんはこのレシピ本を見ながらよくお菓子を作ってくれた。

 マドレーヌ、パウンドケーキ、バナナケーキ、ガトーショコラ。

 家中が甘い匂いになるから、お菓子作りが始まると私はわくわくした。

 お母さんは、子供に手作りのおやつを作ってくれるような優しい人だった。そんな人がどうして子供を置いて消えたのか、未だにわからない。

(いや、それよりも……)

 私は首を振る。今はガトーショコラだ。

 お姉ちゃんはお母さんを思い出させるようなことやものを毛嫌いする。お菓子なんか作ってたらすごく嫌な顔をされそうだ。

 お姉ちゃんが仕事へ行っている間に作って、片付けて、痕跡さえ残さないようにしなければ。レシピを読みながら作戦を練る。

 次の日の放課後。

 スーパーに寄ってお小遣いから製菓用チョコレート、グラニュー糖、ココア、無塩バターを買った。結構イタイ出費だけど仕方ない。

 バター以外は袋にまとめ、机の引き出しに隠す。

 玉子と小麦粉は家にあるのを使えばいい。

 無塩バターはしっかり袋をかぶせ、紙箱に入れて、ベランダの隅、一番日当たりの悪い陰に隠しておく。冬で良かった。

 製菓用の道具類は幸い処分されていない。洗って手入れしておく。

 翌朝、学校に風邪をひいたと電話を入れ、ガトーショコラを作り始める。

 レシピは繰り返し読んだし、お母さんの手伝いだってちょっとはしたことがある。だからなんとかなるはずと、私は自信満々で作り始めた。

 結論。

 初心者が、いきなり独りでガトーショコラを作るのは無謀である。

 焼き始めからしばらくはオーブンの中ですごーく膨らんでいた生地が、焼き上がるちょっと前に何故かへたっと、一番膨らんでた時の三分の二くらいの高さになってしまった。

 荒熱を取って切り分け、食べてみたら、砂糖がちゃんと混ざっていなかったのか底の方がちょっとじゃりっとした。

 まずいというほどでもないけど美味しいとも言えない、すごく微妙な味のケーキだった。

(うう、これじゃあ買った方が良かったかも)

 涙目になって思う。

 それでも、捨てなくちゃならないほどの失敗でもない(多分)。

 ちょっと考え、私は、底のじゃりっの部分をそぎ、真ん中あたりの良さそうなところを選んで慎重に切り分け、買っておいたラッピングで包む。

 ちょうど、筧がいつも食べているチョコレートバーくらいの大きさになった。

 一回試しに焼いてみたんだ、まだ練習中だけど良かったら味見して。

 今回はそう言って食べてもらおう。

(もっと練習して上手くなって。バレンタインには美味しいの、食べてもらおう)

 そう思うと頬が熱くなった。


 翌日。私は制服のポケットにガトーショコラを忍ばせ、中庭へ向かった。

 ドキドキしながら筧を待ったけど……この日に限って、彼は来なかった。

 以来筧とは会っていない。

 お家の都合で急に転校することになったのだと、その朝のHRで担任が言った。

 私は席に座ったまま唇をかみ、ポケットの中のガトーショコラを握りつぶした。


 ガトーショコラは焼き上がった。

 SNSにupしたら『いいね!』が付きそうな出来栄え。

 大成功の証である『焼き上がった時、表面に割れ目がある』もバッチリ。中学生の頃とは大違いだ、当然だけど。

 型から外したガトーショコラを網の上で冷ましながら、私は道具類を綺麗に洗う。乾いた布巾で丁寧に拭き、戸棚にしまう。

 ひとつ大きく息つき、椅子に座って……虚しくなった。

 何やってんだろう、私。

 この、とびきり上手く出来たガトーショコラ、どうするつもりだ?

 マヨのカレシのガラケーくんが、私の知ってる筧である可能性は高いけど……だから、何?マヨから略奪するの?

 それとも大学に乱入して、中二の時に渡しそびれたバレンタインチョコを渡したいだけなんです受け取って下さい、とか言って、ガラケーくんへ無理矢理渡す、とか?

 あはは、マジ、キモいんですけど?

(……変わらないなあ、私)

 勝手に思って勝手に盛り上がって。精神年齢、中二の頃のまんまじゃん。

 のろのろと立ち上がり、ガトーショコラの前に立つ。ガッと右手を伸ばし、せっかく綺麗に焼けたガトーショコラをわしづかみにする。あっさりぼろぼろになったケーキを、私はそのまま口へ入れた。

「ちくしょう、無駄に美味しいじゃん」

 何故か泣けてくる。

 泣きながら手づかみで焼き上がったばかりのケーキを食べる、夜更けの二十二歳・女・カレシなし。

 あまりのイカレっぷりに今度は笑えてくる。

 泣き笑いしながら私は、自分が焼いたとびきりのガトーショコラを手づかみでもくもくと食べ続けた。


 ほんのりとあたたかみの残るガトーショコラは、甘くて、ちょっと苦くて、のどが詰まった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 片思いだった人が親友の彼氏として現れる。いやあ、どういう想いなんでしょうねえ。 まあ「やり切らないで終わった」というのがくすぶり続ける原因なんでしょうね。 それにしても…… 「泣きながら手…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ