下
クリストフェルは大変機嫌が悪かった。
それこそ魔界一の城を半壊させるくらいには。
朝から城は混乱と恐怖に陥り、誰一人として笑みを見せる者はいなかった。むしろ笑みを見せよう者なら、クリストフェル自ら即刻首を刎ねている。
シェスティンが消えた。
どうしようもない焦燥と苛立ちが身に燻る。
探知魔法で探そうとすればそれが「何か」によって阻まれていると分かり、自然と舌打ちがでた。
あの、唇を交わした時か。
クリストフェルの魔力量は底を知れず、加えて魔界史上一の強さを誇るが、細かい技術は不得手だった。
その一方でシェスティンは魔力操作の技術はクリストフェルより秀で、繊細で複雑な魔法を得意とした。
あの口づけはクリストフェルの体液を使うために利用されたのだと気付き、グシャリと髪をかき潰す。
探知魔法をシェスティン自身の手によって阻まれた。
その事実は殊の外クリストフェルに大きな衝撃を与えた。
「……してくれたな」
追うな、という意志表示だろうが、生憎クリストフェルは諦める気は微塵もなかった。
神妙な面持ちでこちら伺う家臣たちをを後ろに、眼前に広がる赤黒く染まった空を睨んだ。
*
シェスティンは、魔界に伝承として伝わる泉へと足を運んでいた。
美しく澄んだこの泉は、「涙の泉」といわれる。
「涙の泉」をただの作り話だと捉えている魔界の者たちが、知ることも近寄ることもないため、木々は生い茂り、無法地帯となっていた。
泉の存在自体真偽が問われていたので、シェスティンにとって一か八かの賭けではあったが、唯一泉について記されていた旅行記の記憶を頼りに探し出した。
実際にたどり着いてみれば、水晶のような水に心奪われる。
一歩二歩、ゆっくりと近づいて泉の淵に手をかけた。
汚れ一つない清さであるこの泉の水に触れれば呪いが浄化されるのではないかと考えたのだ。
「っう!!」
腕を泉に浸けてみたが期待も虚しく、激しい痛みが返ってきただけに終わった。
シェスティン自身が魔人であるため、呪いを解くより先に身を浄化されかねないと、今になって思い至る。
この泉に来るまで書物に記載されていた城外で出来るあらゆる解呪方法を一から試してきたが、全て徒労に終わっていた。そしてこの泉が最後の望みでもあった。
泉こそシェスティンの支えであったがために、諦めが身を突き抜け、急速に身体から力が抜けていく。
足元がふらつき踏ん張りも虚しく、しまったと思う前に傾いたシェスティンの身体は勢いよく泉へ落ちた。
全身に強烈な痛みが走る。全身が無数の刃物で刺されているようだった。
痛いという言葉は全て泡になって消えていった。
どれぐらい沈んだのだろうか。次第に痛みが薄れていく。不思議と死は感じなかった。
むしろ酷く安心するような時で、身体と意識をそんな心地よさに預けた。
最近よく意識を失うな、と重たい瞼を開けた。
途端、視界いっぱいに満面の笑みの美少年が移る。
バッチリと目は合っているが、少年は何も喋らない。
魂を持っていかれそうなほど美しい琥珀色の瞳に見つめられ、背中がゾクリと粟立つ。
緊張が限度に達したシェスティンは吹かれたように起き上がった。挙動不審げにキョロキョロと目を忙しなく動かす。服は濡れていない。側には泉がある。
今一つだけ言えるのは、ここは魔界ではないということ。
透き通るような青みを帯びた空。
一面浮彫のように咲いている白い花。
そしてただ者では無い少年の容姿がひときわ目についた。
色素なんて一つもないように、肌も髪も唇も、薄い。触れれば、はらはらと散ってしまうに違いない。それでいて何を考えているのかわからない、捉えどころのない空気をもっていた。唯一色を持つ瞳だけが、どこか浮いていた。
そんな少年を中心にふわふわと光の玉のようなものが無数に浮いている。
あまりにも幻想的な光景に、言葉を失う。
緊張を腹の底に溜めながらも、震える唇を開く。
「あなたは……?」
『リンデ!ぼくの名前だよ!』
「光……いい、名前ね」
自分の名前が褒められてとても嬉しかったのか、リンデは羽をバタつかせ上下左右に飛び回っている。思ったより友好的なようで、少し、警戒を解いた。
飛び回る様子がなんとも微笑ましく、ふふ、と城を出てから初めて笑みを浮かべた。
そう言えば、と「涙の泉」は精霊界への入り口と聞いたことがある。
きっとこの少年は精霊だ。しかも実体を持てる上位精霊。
魔界と精霊界に交流はない。ゆえにシェスティンは精霊を見るのも会うのも初めてであった。さらに言えば精霊の存在ですら、魔界では認知されていなかったため、信じてはいなかった。
けれど、意外と二つの世界に境界線なんて無かったのかもしれない。
リンデはひとしきり飛び回って満足したのか、ふわりとシェスティンの前に舞い戻る。
にこにこと害のない笑顔は毒気が抜かれ、眉尻を下げた。
その言葉は唐突だった。
『おねーさんはやっかいなものもってるね』
一瞬にして背筋が凍る。その言葉は確実に呪いについて言及していて、結局自分は他人を巻き込んでしまうのかと、絶望の淵に立たされたように指先の力が抜けていった。
リンデはそんなシェスティンの手を取ると、ぎゅっと指を絡めて握りしめた。
体温は一つも感じなかった。けれどふわりふわりと揺れる羽が、暖かい風を運んできた。
『記憶をすこしのぞかせてもらったんだあ。あ、大丈夫だよ~。その呪いは魔界の大気にある、魔素が存在しないと発動しないみたいだからねえ』
「ま、そ……」
『そそ!精霊界にはそんなものないからねえ。つまり!おねーさんはこの世界にいる限りは生きてられるってことさ!』
それはすなわち、二度と魔界に帰れないということで、
──二度とクリストフェルに会えない、ということだ。
圧迫感にじわりじわり押し付けられて息苦しい。
自分で選択したことなのに、頭はその事実を拒否していた。
「いや、だ…」
『ん~なんで?魔界に帰っちゃったらおねーさん確実に死ぬよ?誕生日に呪いが発動するんでしょ?気づいていないかもしれないけど、精霊界と魔界じゃ時間の流れが違ってね、今帰れば、ちょうどおねーさんの誕生日になっちゃってるんだあ』
空恐ろしい気持ちが稲妻のように走る。
心臓は休む暇がなかった。
項垂れたシェスティンはしばらく何も口を開けなかった。それを是とするように風がそよそよと頬を撫でていく。
しばらくしてリンデは口を開いた。
『……ぼくは水精だからねえ、水がある限り死なないよ~。と、言いたいところなんだけど、見ての通りぼくは色が薄いでしょ?これはもうすぐぼくが消えるってことなんだ』
「そんな…」
『でもぜんぜん悲しむ必要ないんだよ!次の行き先はもう分かってるからねえ』
「行き先……?」
『あ、これは言っちゃだめなんだった。あとはひみつだ~』
茶目っ気たっぷりにそう言い放つリンデから、死への恐怖を微塵も感じない。
何故、死を目の当たりにして、そんなに強くいられるのだろう。シェスティンは自分の弱さを嘆いた。
自分はただ逃げただけだ。
死からも。クリストフェルからも。自分からも。
『別にいいんじゃないの?』
「え?」
『みんな逃げるものだよ。魔人も、人間も、生きてるものみんな、ね』
逃げて初めて気づくことがある。逃げもまた歩みだと、リンデは無邪気に言う。
『いいんだよ、いっぱい悩んで、泣いて、悔やんで。這いつくばるほどの痛みを負ってもなお、貪欲に生に執着する。それこそ生きる醍醐味だと、ぼくは思うんだよねえ』
繋がれていた手を、強く、握り返した。
何かを言おうと口を開いたその時、大変だ、と突然リンデは声を上げた。
『おねーさんに呪いをかけた女の人が』
『エッジュが何!?』
『……おねーさんの大事な人を狙ってるみたいだ』
頭の中が真っ白になる。
何をしようとしているのかは分からないとリンデは言う。
「柱爵は何をしているの……!」
憤りを隠せず、つい声を荒げてしまうが、はたと気づく。
魔王家に忠誠を誓う、十三柱爵。
魔王直属の部下であり、魔族の中でも飛び抜けて力を持つ者達である。魔王の存在こそ至上とし、魔王の名のもと秩序なるものの維持に努め、権勢を誇る。
エッジュはその十三柱爵の一つ、フールフール伯爵の愛娘であるため侍女の中でも位が高く、日頃から傲慢なところが見受けられた。かつ彼女は気性が激しく、何かある度に宥めるのに必死だったことを思い出す。
そしてそんな性格ではあるが、柱爵の直系であるのに違いはなかったので、それ相応の魔力を保持していた。
エッジュが画策して起こしたものなら、柱爵たちに気付かれず、クリストフェルに近づけることも納得できる。恐らく娘を王妃にさせたいフールフール伯爵の手引きのもとだろう。
いやしかし、あの柱爵達が、こんな大事を見逃すはずがない。言うなればこれは魔王に対する反逆なのだ。
城では何が起こっているのか、知りたくてたまらなかった。
なにより、クリストフェルの安否が気になって仕方がない。
じっとしていられないほどの焦燥と、苛立ちが腹の中で渦巻く。
「リンデ!私は城へ、クリストフェルの元へ帰る」
『おねーさんはそれでいいの?』
「──うん私は、前へ進む」
新しい勇気が泉のように湧き動く。
そんなシェスティンを見るリンデの優しい眼差しは慈しみに溢れていた。
『またね、──』
泉に沈む寸前、リンデは琥珀色の瞳を細め、ふにゃりと笑った。
どこか懐かしい、そんな笑顔だった。
泉の水はもう、痛くない。
シェスティンは魔界へ帰ると直ぐに、クリストフェルの気配を捉え、転移魔法を展開した。
呪いに魔力を吸い取られている今、全身に激痛が走るがそんなことは気にしてられなかった。
転移した先は、シェスティンの部屋だった。
そこには黒髪の男、クリストフェルに顔を寄せるエッジュがいて、呪いのことを告げる気だと瞬時に悟った。
「教えて差し上げましょうか、陛下。シェスティンはね、」
「やめてえええええ!!!!」
シェスティンの絶叫に、エッジュは驚きとともに振り返った。
クリストフェルは紙のように青ざめ、呆然としている。
「あはははははははははははははははは」
狂ったように笑いだすエッジュをシェスティンは不気味なものを見たように顔を強張らせた。
「あはっ、ふ、ふふっ、信じたの?あんな出まかせ信じちゃったのね?」
「え」
「人に知られたらその人も死ぬなんて嘘よ。そんな呪いあるわけないじゃない、あったらわたくしだって死んでるわ。本当にいいザマね。でももう遅いわ。クリストフェル様のお傍から逃げたくせに、今更のこのこ帰ってきて命を乞おうなんて。ほら、証拠に──貴女の顔、真っ黒よ?」
「っ」
もうそこまで進行しているのか。
顔に手を当てても分からない。しかし、両手の指先は真っ黒で、危険な状態であることは一目瞭然だった。
「呪い、だと?」
どういうことだと、シェスティンを見る眼に困惑が存在しているのが見て取れた。
口元がきつく締まる。懺悔するように、面を伏せた。
そんなシェスティンの様子を見て、クリストフェルは息をついた。
「──なら、殺せばいいだけだ」
声音は恐ろしいほどに冷たい。瞳がいつもの黒い瞳と打って変わって、赤く染まっている。
凍った仮面のように感情は消え、体温さえ失われてしまったみたいに見える。
人形のように綺麗な顔が一層恐怖を際立たせた。
殺気が自分に向けられたものだと理解したエッジュは、気圧されたように息を吸い込んだ。
蒼褪めた女を救う者は誰も、いない。
切羽詰まった焦燥感が爆発的な殺意に変わるのは一瞬だった。
額に青筋を走らせ、目じりを吊り上げ、唇をひん曲げる。
「お前が!お前などが存在しているから!!」
憎悪に満ちた声音と共に、自身に這う痛みが増した。
赤髪を振り乱し、歯茎をむき出しにした凄まじい形相で、
「死ねえええええええええええ!!!!」
叫ぶと同時にエッジュはシェスティンに向けて攻撃魔法を放った。
しかし、そんな攻撃はクリストフェルの手によって呆気なく消え去った。
襟首を掴まれた子どもより他愛もなかった。
がッと顔面を掴まれたエッジュは目を見開き、だらしなく舌を伸ばし、ヒューヒューと必死に呼吸をしようとしている。
赤く、青く、黒く、エッジュの顔は色を変えていく。
あ、あ、あ、と声なき声を上げ、苦し気にクリストフェルの腕を掴んだ。
エッジュは最後と言わんばかりに指の隙間からはシェスティンにギョロリと目を向け、糸のように目を細めて──ニタリと笑った。
パアン──と呆気なく鮮血が舞った。
投げつけられた肉体は柱にぶつかり、ごろりと床に転がった。
頭を持たない身体は、柔らかい作りかけの粘土のように生々しかった。
人形のように手を伸ばした彼女の首からほとばしる血潮は、石垣の隙間を漏れる泉のように滾々として流れ始める。
クリストフェルは唇についた赤を舐めた。
そんな狂気的に美しい絵のような男を視界の端に捉えながら、傍に合った壁に背を付ける。
シェスティンはもう立っていられなかった。
「エティ!!」
たらりと、両方の鼻孔から滴り落ちる。
ごぽりと、口の中に溢れる。
口を押える行動も虚しく、水が飛び散るように血が噴き出した。
クリストフェルがシェスティンの体を抱き寄せ、治癒魔法を送るがもう無駄であることは分かっていた。
生命の炎が恐ろしいほどの速さで燃え尽きていくのが分かる。
愛してると、一言伝えさせてほしい。
そんな願いもすぐに頭の中が黒く塗りつぶされたと同時に消えていった。
眩い光が身を包むのを最後に、シェスティンは目を閉じた。
クリストフェルの絶叫が、聞こえた気がした。
どうしたことか。なんてことだ。
あの魔王が、あのクリストフェルが、泣いているのだ。漆黒の瞳からぽろぽろと涙を落としている。
泣き顔まで美しいのはどういうことだろう。愛しさと切なさが心臓をぐるぐると回る。
「馬鹿野郎、お前は侍女である前に──俺の婚約者だろう……っ」
珍しく声を上げるクリストフェルの頰に手を伸ばす。
こんな顔をさせたのは自分なのだ。自身の罪をひしひしと感じ、ごめんなさいと謝ることしかできない。
「……どうやって私は助かったの?」
「──光が、お前を助けた」
意識を失う寸前に見た眩い光を思い出す。
ああ、あの、温かくて、美しい光は──。
一つの結論に至った瞬間、今まで溜まっていた気持ちが溢れ涙はとめどなく流れた。
胸がいっぱいいっぱいになり、クリストフェルに抱き着いた。
クリストフェルも難なく抱き留めると、二人の間に隙間など生まれないように抱き締めた。
クリストフェルの胸から、直接声の響きを聞いた。
「なんで、逃げた」
ようやく落ち着いた頃に、情けない目つきでクリストフェルは問う。
シェスティンは城を出た、あの夜に思いを馳せる。
眉尻を下げ、唇に微笑みを作る。
「……『愛してる』なんて言われて、頼らない女なんていないでしょ?」
*
空気をはりさくような産声が、城中、ひいては魔界中を歓喜に沸かせた。
そんな日の、次の朝、クリストフェルは自然と目を覚ました。大声で起こしにくる、あの侍女はいない。
その代わり腕の中にいる温もりに、涙ぐむような愛おしさが胸を突き上げた。
シェスティンが震わせるように目を開いた。
早く、その目に自分を映してほしいと、ジッと見つめる。
目が合った瞬間シェスティンは照れたようにへらりと笑った。
穏やかな時間は何よりも代え難いもので、クリストフェルはもう二度と逃がすものかと心に誓った。
ふと、前から考えていた、赤ん坊の名前を告げようと顔を近づける。
「……デ」
「え?」
「名前。──ディートリンデはどうだ?」
クリストフェルがそう言った瞬間、シェスティンはハッとしたように目を見開き、次いで大粒の涙を落とした。
ギョッとして、シェスティンの肩を掴めば、何でもないの、とふるふる首を振られた。
何でもないことはないだろうと、言い返したくなったが、彼女から溢れ出る美しい笑みに、もう何も言えなかった。
「リンデ、導く光…いい、名前ね」
シェスティンは小さな額に口づけを落とす。
ディートリンデはくすぐったそうに、目を閉じたままふにゃりと笑った。
二人の間のの小さな存在は、
きっとまだ、夢を見たまま。
琥珀色の瞳が開くのは、もうすぐ。
それまでは、独占していてもいいだろうか。
そう心の中で呟くと、愛しい存在を抱き寄せた。
『またね、ははうえ』