小さな妃⑪
綺麗な男の人がこちらを見ている。
どこか見覚えがあるものの、記憶が何かに遮られ誰かは分からない。それでも一生懸命に記憶を探ろうとしてもどうしても思い出せないので、シェスティンは思ったことをそのまま口にした。
途端、突然男の人の顔が険しくなった。
その表情を見た瞬間、どこか麻痺した心が恐怖を訴える。本能に従えば、涙はとめどなく流れた。その時の自分に理性などありはしなかった。
それに畳みかけるように、一歩歩けばそこらじゅうを闊歩する異形の者がいて、シェスティンは恐怖に打ち震えた。
訳も分からない中で恐ろしい思いをすると同時に、シェスティンは行動を制限され大いに不満が溜まっていった。それでもストラスという男が自分と一緒ならどこにでも連れてってくれると言うので我慢した。
「シェスティン、あのお兄ちゃんは王様なんだよ」
「おうさま?」
「そう、魔界で一番偉い人だ」
「ふうん」
ストラスは度々あの美しい男の話をし、シェスティンを会わせたがった。
最初こそ興味がなかったし、嫌がったが、シェスティンはあることに気づくとその態度を次第に改めていった。
もちろん一度味わった恐怖は暫く引きずることになったせいで歩み寄るのはゆっくりであったが、このクリストフェルという男がシェスティンを優しい目で見ていることに気づくのはそう遅くなかった。
クリストフェルがシェスティンを見る目は他人を見る目と違っていた。一見怖そうに見えるそれはとても暖かくて胸をギュッとさせるような甘いものなのだと、シェスティンは幼心に理解したのだ。
「フィー」
クリストフェルは自分をそう呼べと言った。
シェスティンを抱っこするその腕は暖かく、シェスティンはクリストフェルに抱っこされるのが大好きになった。
そして気付けばシェスティンはクリストフェルの存在自体が大好きになっていた。
クリストフェルはシェスティンを決して蔑ろにしたりしなかった。
あれほど怖いと思っていた怒っている姿も、シェスティンに危害が及びそうになる時だけにその対象に向けられているのだと分かった時はとても嬉しくなった。
仕方のなさそうに眉尻を下げる表情も、焦った時に見せる慌て方も、仕事のせいで疲れを隠しきれていない背中も、愛おしそうに目を細めてシェスティンをみる姿も、──全部全部、大好きになった。
これからもずっとクリストフェルのそばにいたい。
そしていつかはクリストフェルのお嫁さんになりたい。
そんな小さな体が抱えた大きな願いを、クリストフェル自身に聞いてもらおう。
そう、密かに計画していた矢先であった。
耐えきれないほどの痛みがシェスティンのお腹を襲った。
ベッドの住人となってからはシェスティンの意識は混濁し、一日のほとんどを眠りの世界に身を置かざるを得なかった。
果てしない闇に溺れ、もがけばもがくほど息は苦しく、体から力が抜けていった。
時折耳の奥から聞こえる誰かの声が耳鳴りのように何度も繰り返され、シェスティンの頭を支配した。
それでも絶えず身を包む暖かいそれが、シェスティンを繋ぎ留め続けた。
何時間経ったのか、何日寝ていたのか、体が少し楽になった気がしたシェスティンは、ふと意識が浮上するのを頭のどこかで感じた。
未だ夢と現実の狭間にいるシェスティンの髪に触れる存在がいるのに気がつく。
誰だろうと頑張って目を開けようとしたその時だった。
「エティ……愛してる、俺を置いていくな」
その言葉を聞いた直後一気に流れてきた膨大な魔力がシェスティンを包み──頭の中で、何かがパンッと弾けた。
その衝撃に合わせてハッと目を開けた先には、美しい男の人が心配そうに覗き込んでいた。
なんだか見覚えのある瞳だと男に人に視線を定めるものの、頭の中に次々に溢れ出す情報量にくらりと眩暈がし、目を彷徨わす。
──私は誰?ここはどこ?彼は誰?今、私はどうなっているの?
頭の中が混乱を極め呆然と部屋の天井を見ていると、誰かが部屋に入って来て目の前の美しい男の人に話しかけた。
「お、シェスティン目が覚めたか。ならクリストフェル、そろそろお前は休め。俺が代わる」
「いや、大丈夫だ」
「分身を使っているとはいえ、魔力の供給源は結局一緒なんだ。お前が倒れちゃ元も子もないだろ」
「しかし、」
「ほら、そんなに心配なら三十分したら帰って来ればいい。せっかくシェスティンが目を開けたんだしな」
有無を言わさなず休息を勧める白髪の男に、美しい男はしばらく逡巡した後ため息をついて立ち上がった。言葉に出さなくともやはり疲労は感じていたのだろう。
「……頼む」
「勿論」
美しい男の顔が近づいて来たかと思うとシェスティンの額に口付けを落とし、出ていってしまった。
残った白髪の男の人はさっきの男とは違い雰囲気が柔らかい。
確か名前は──。
シェスティンは徐々にクリアになる世界に、目を瞬いた。
「シェスティン、調子はどうだ?」
──シェスティン。そうだ、それが魔族として生まれ落ちた私の名前だ。
「腹、まだ痛むか?」
──魔力の使い過ぎで小さくなって、今は命の危機に追い込まれているんだっけ。
「お前の男も随分過保護になったよな。理解できるけども」
──私の男。私の夫。私の愛する人。それは誰。
それを考えて、思い浮かんだのは唯一人、先程までそばにいた美しい男。
ボロボロと記憶を覆っていた壁が崩れ落ちていく。
そこにはもう、何も遮るものはなかった。
「しゅとらしゅ……」
「ん、どうした?」
あの男はこんな風に優しく語尾を上げたりしないし、
「おなかすいた」
「そうか」
こんな風に嬉しそうに全力で笑ったりしない。
「ねえ」
「まだ何か欲しいか?」
配慮だってこの男と比べたら極端に少ない男だ。
あのクリストフェルという男は。
シェスティンはふるふると横に首を振る。その代わりにゆっくりと体を起こすシェスティンを見て、まだ寝ていろと焦っているストラスの姿に内心クスリとした。
「ストラス」
「……ん?」
急に流暢に自分の名前を呼んだシェスティンをストラスは瞬時に理解できなかったようで、気の抜けた声を漏らす。
それを気にすることなく、シェスティンはふわりと笑った。
「しぇしゅてぃんねえ、おおきくなったら──フィーのおよめさんになりたいなあ」
空は魔界にしては珍しく快晴で、気持ちの良い風がシェスティンの髪の毛を揺らす。
痛みが止まったお腹をさすって、優しく包み込むように抱き締めた。
「……きっと、シェスティンならなれるよ」
僅かに震えた声の主の顔を見ることはしなかったが、シェスティンは自分の手を握っている骨ばったその甲をゆっくりとさすった。
しばらくお互いは何も喋らずそうしていると、ストラスはうつらうつらと微睡み始めてしまって、それがまたシェスティンの笑いを誘う。
そしてすっかり眠り込んでしまった時、部屋の扉が静かに開き、黒い人が入ってきた。
「……起きてて大丈夫なのか」
「うん」
器用にも魔力は送り続けているのだからストラスは凄いものだ。
しかしそれを良しとしないクリストフェルは顔をしかめて近づいたかと思うと、拳をその白髪にめり込ませた。
「ってえ!?」
「職務怠慢だ」
「え、俺寝てた?悪い」
欠伸をしながら謝るストラスはどこかスッキリしていて、その姿にシェスティンは微笑んだ。そのまま目尻に溜まった涙を拭ってやると、クリストフェルの機嫌は急降下した。
「代わる」
「まだ代わって少ししか経ってないけど?」
「俺が代わると言っている」
なんとも尊大な発言にストラスは仕方のなさそうに二つ返事でその場を離れた。
代わって握り込まれた手から馴染んだ魔力が流れ込んできて、シェスティンはほうっと頰をわずかに紅潮させる。
「じゃあ俺は出てくから、ごゆっくり」
全ての状況を理解したストラスは、とても嬉しそうに顔を緩まして意味ありげにシェスティンを見つめた後、その場を後にした。
シェスティンとストラスだけが通じ合っているのが気に入らないらしく、クリストフェルがギュッと握る力を強くする。
「体調はどうだ」
ぶっきらぼうな声が何故だか懐かしく、シェスティンはその手を強く握り返す。
「フィー」
シェスティンはただ名前を呼んだだけだった。
それだけなのに、クリストフェルは瞠目しシェスティンの目を覗き込むように凝視した。
そこには驚愕と、疑心と、祈りがあった。
にこりと微笑むと、クリストフェルは震える手でシェスティンの頰に触れた。
「……エ、ティ?」
「なあに、フィー」
クシャリと顔を歪めたのも束の間、クリストフェルは抱き寄せたシェスティンに荒々しく唇を重ねた。
何度も何度も降ってくる久しぶりのそれに、シェスティンは応えようとクリストフェルの胸元を掴む。
「エティ、エティ……っ」
「っふ……ん、ふぃ、いっ」
溜めに溜めていたのであろう、クリストフェルの激情を必死に受け止めながら、全身に甘い魔力が走るのが分かった。
シェスティンに対する一途な想いを反映する、蕩けるほど甘い魔力だ。
それがシェスティンの睡魔をイタズラに刺激する。
応える力が弱まったのが分かったのだろう、クリストフェルはそっと離れてシェスティンを優しく寝かせた。
「魔力の方はどうだ」
「一回手を離してみてくれる?」
物凄く不安そうに口をぎゅっと引き締めてしまう。
「大丈夫だから、ね?」
宥めるようにポンポンと背中を叩くと、おずおずと手を離した。
体の芯が熱を発している。クリストフェルの魔力も合わさって、今自分の体の中は暖かいもので満たされている。
「うん、大丈夫そう。きっと記憶を奪われた時に自分自身を忘れてしまったせいで、体も魔力の作り方を忘れてしまったから魔力が枯渇寸前までいったみたい。記憶も取り戻せたし、フィーのおかげで魔力は安定ししてるよ」
「本当に大丈夫なんだな」
「うん、心配かけてごめんね。それと……私を繋ぎとめてくれてありがとう」
当たり前だ、とクリストフェルはどこか安堵したように、どこか物寂しそうにシェスティンの頰に触れた。
「お前が元に戻ればもう憂いはない。──全てのカタをつけてくる」
クリストフェルの目が先程と打って変わってギラつく。脳裏にはあの少女の存在が浮かんでいるのだろう。
あの、残酷なほどまでに無知であった少女を。
「……うん、気を付けてね」
シェスティンは閉じそうになる目を必死に耐えながら、クリストフェルに手を伸ばす。シェスティンの意図を組むようにクリストフェルは顔を近づけた。
腕を引き、唇を合わせるだけのキスをする。
「帰ってきたら話したいことがあるの」
「……ああ」
話が何なのか気にはなったみたいだが、クリストフェルは静かに頷いて──小さく表情を崩した。
「いってらっしゃい」
「いってくる」
長いこと見ていなかった口角を上げるクリストフェルの姿を見て安心したシェスティンは、ゆっくりと目を閉じた。
──全ての答え合わせをするために、忌々しいものを全て消し去るために、今宵、夜会が開かれる。