小さな妃⑩
ひょこりと背後にある木の陰から小さな頭が覗く。
それに対してクリストフェルは何も言うことなく泉に手を浸した。状態を確認して立ち上がり、後方を振り返るとその小さな肩はビクッと揺れた。
クリストフェルが無言で数秒シェスティンを見つめた後、踵を返そうとした時だった。
「うわあああああん」
突然火が付いたようにシェスティンが泣き出し、条件反射でシェスティンを抱きしめ周囲を見渡す。
すると反対方向の木々の間には見知った顔が申し訳なさそうに佇んでいた。
「……エリゴール」
「も、申し訳ございませんっ。団長より陛下に伝言がございまして」
「後にしろ」
「はっ、し、失礼致しました!」
エリゴールは一礼するとすぐに姿を消してしまった。
クリストフェルはエリゴールの存在に怯え、震えて自分に抱き着いているシェスティンを一瞥し、逸る気持ちを抑え腕を放そうとした。
「はなしちゃやあ」
甘い声がその動きを制止させる。
しかしクリストフェルはそもそもシェスティンが自分に怯えていることは理解していた。だからこそこうして離れようとしているのに、その本人が拒絶の意を示してくれなければクリストフェルは自分の本能に従ってしまいそうになる。
「もう奴はいない」
そう言ってもシェスティンはふるふると首を横に振るだけで離れようとしなかった。
クリストフェルの動揺はシェスティンに伝わってはいないようで、少し安堵する。
しばらくして落ち着いたのか、シェスティンは恐る恐るクリストフェルを見上げた。
前のように意図的ではないにしろ、潤んだ瞳での上目遣いはクリストフェルの忍耐力を試される。むしろ意図的でないこちらの方がタチが悪い。
「ほんとにもういない?」
「ああ」
その言葉を信じたシェスティンはそっと離れるものの、手だけはクリストフェルの服を掴んだままだ。
「……おにいちゃん、ありがと」
ふわりと、シェスティンが笑った。
固かった蕾がようやく綻んだ、そんな笑顔にクリストフェルは一瞬息を止め、顔を手で覆った。
そのまま微動だにしなくなったクリストフェルをシェスティンは不思議そうに首を傾げる。
「おにいちゃん……ないてるの?」
純粋に自分を心配する声音は、やはり以前のシェスティンではない。心が通わないやり取りを繰り返すことがどれほど辛いことか、今のお前は気づかないだろうとクリストフェルは自然とシェスティンを抱きしめていた。
しまったと思ったが、それを嫌がる様子も逃げ出す様子も無い。
「よしよし」
「っ」
真っ直ぐ伸びてきた小さな手が黒い髪をかき回す。驚いて体を固くするも、その迷いのない優しい手つきが次第にクリストフェルを解していった。
「おにいちゃ、」
「フィー」
「?」
「フィーと呼べ」
そう言ったのは無意識だった。
「ふぃー?」
「そうだ、フィーだ」
「ふぃー、フィー……フィー!」
ニコニコと顔を晴れやかにするシェスティンに、クリストフェルに対する警戒心は、もう、感じられなかった。
「……エティ」
それは誰だとやはり首を傾げるシェスティンの姿を見ないように、ぷくりと子供特有の可愛らしい頰にそっと口付けた。
それ以来、シェスティンはクリストフェルを怖がるそぶりを見せることはなくなり、それどころか自ら近寄り抱っこをせがむようになった。戸惑いながらも抱き上げればストラスから揶揄の言葉が飛んでくる。しかしそれすら気にならないほどクリストフェルの意識はただ一人に向けられていた。
「取り敢えずシェスティンに触れられるようになって良かったな。そろそろお前の視線に射殺されそうだったし助かった助かった」
昼寝をしているシェスティンの手を握っていると、傍らからそんなストラスの言葉が飛んでくる。
「シェスティンにお前がどれだけ凄くて格好良い奴かを言い続けた俺のおかげだと思うんだよな。段々クリストフェルが気になってシェスティンが俺に色々質問し始めた時は俺は俺を褒め讃えたね。あ、これがいわゆる印象操作ってやつ?」
洗脳とも言うか、とからから笑うストラスの目の下には大きな隈ができていた。
無理をさせている自覚がある以上、何も言い返すことはしなかった。
その代わりにクリストフェルは口を開く。
「ストラス」
「んー?」
「感謝している」
その言葉にストラスは一瞬だけ固まって、次にその端正な顔を破顔させた。
「その言葉を受け取るのは全てが終わってからにしておくわ」
ストラスが拳を突き出すと、クリストフェルは口角を上げて空いた方の手で同じように拳を突き出し、合わせた。
その時だった。
「うぅ……っ」
ベッドから呻き声が聞こえ、二人は一斉にそこへ視線を向ける。
「どうした」
そこには顔を歪め苦しそうに呼吸をするシェスティンの姿があった。
クリストフェルが焦ったように全身に視線を走らせる。特に変わったところは無かったが、そこで握った手から伝わる温度が低いことに気付いた。
魔法のせいか、呪いのせいか、それともただの体調不良なのか。判別のつかない状況を打破するためにクリストフェルもストラスも役に立たないことは分かりきっていた。
「ストラス、」
「ああ、ブエルを呼んでくる」
そう言って一瞬にして消えたストラスを頼りに、クリストフェルはシェスティンの手を更に握りしめる。耐え難い焦燥が波のように何度も襲い、クリストフェルの正常な思考を奪う。
「……たい、いたいっ」
シェスティンが体をまるめ、声を張り上げ始めた。
「どこが痛い」
「ぉなか、おなかが……!!」
確かにシェスティンはお腹を押さえ、真っ青な顔で痛みに耐えている。
妻一人楽にしてやることができない自分に落胆し、嫌悪する。
せめてもの思いでシェスティンの腹に自分の手を添え祈るように魔力を注ぐ。勿論それは治癒魔法ではないただの魔力であるが、何故かシェスティンは突然暴れることをやめた。
思わず魔力を送ることをやめると、シェスティンは再び泣き叫び始めた。
慌てて再開するとまたシェスティンはおとなしい状態に戻る。訳も分からずそのまま魔力を注ぎ続けていると、いつの間にか入室していたブエルがううむと唸り、シェスティンに軽く触れた。
「……どうやら御方様自身の魔力が枯渇寸前の様です」
「枯渇、だと」
シェスティンは体が子どもになってしまっても、クリストフェルが探知できるほどには魔力は残っていた。当然、精神まで子どもになってしまった時でさえ。
魔界において魔力の枯渇は死と同義であった。
事実を突きつけられたクリストフェルは元より白い肌をより白くさせた。震えが─家臣がいるというのに─
止まらない。
悪夢のような恐怖が再び膨れ上がる。嫌だ、と口をついて出そうになった言葉をなんとか飲み込んだ。
「何かから魔力を搾り取られているようですな」
「何か、とはやはりあの人間の女か」
絶望の中に怒りが生まれる。
それはストラスも同様で、ギリッと歯軋りをし少女への嫌悪感を隠さない。
「安易にそうだとは言えませぬが、御方様の体が小さくなっていっているのもこれが原因だと思われます。とにかく、これから御方様には魔力の供給が必要です。絶やすことは御方様の死を意味することを覚えていてください」
「……ああ」
魔力を注ぎ続けることでシェスティンが生きることができるというのならば、一生注ぎ続けることになってもよい、そうクリストフェルは静かに言葉をこぼした。
「魔力量を考慮して陛下に注いでいただくのが一番よろしいですが、仕事の面も考慮するとなにぶん現実的ではないかと」
「その点に関しては余の分身を傍に置いておく」
「それならば大丈夫そうですな。陛下にご負担をかけてしまいますが、どうぞ御方様を宜しくお願い致します」
その言葉にクリストフェルは頷き、ブエルとストラスに指示を出し退出させた。
静かになった部屋で小さな手を通して一段と大きな魔力を注ぎ込むと、シェスティンはそのまま穏やかな眠りについた。
落ち着いた呼吸を確かめて頭を優しく撫でると、シェスティンはふにゃりと笑った。
自らが愛する人の命運を握っていることに、クリストフェルは深い、深い、息を吐いた。