小さな妃⑧
クリストフェルはシェスティンがなかなか自分の元に帰って来ないことを不安を感じ始め、探知魔法を発動させた。シェスティン自身に魔力が殆ど無いので、気配を探すのに少し時間がかかってしまった。
ようやく見つけたと急いで転移すれば、廊下に一人佇む子どもの姿を視界に捉えて安堵したのも束の間であった。
「お兄ちゃん、だあれ?」
振り向いた小さなシェスティンが放った言葉に、何の冗談だと、クリストフェルはいつのものように抱き上げようとした。
「やだ!」
ドンッと思い切り胸を押され、クリストフェルは呆然としてシェスティンを見る。
シェスティンがクリストフェルを拒絶することなど滅多にない。あるとすれば余程のことがある時だ。
「……何かあった、」
クリストフェルは狼狽の色を隠せないままシェスティンの目を覗き込んだ瞬間、体を硬直させた。
もちろん、その子どもは間違えようもない、愛しい妻。
しかし今、シェスティンの目はクリストフェルを見ているというのに、愛情が一切含まれていない。むしろそこには凍りついたものがあって、それはまさに他人を見る目であった。
その事実はクリストフェルに大きな衝撃と痛みを与えた。
シェスティンは確かに呪いの影響のために子ども姿にはなっていたが、中身は変わらず大人のシェスティンのままで、だからこそクリストフェルはそこまで焦ることはなかった。少し待てば、いつもと変わらない日常を送れると思っていた。
しかし今、目の前でシェスティンが声をしゃくり上げて泣いている。慰めようとしても拒絶される。
これではまるで──クリストフェルを忘れてしまった本当の子どものようではないか。
クリストフェルは絶望で体が冷たくなっていくのを感じた。
その時クスクスと喉を鳴らす音を耳に捉え、クリストフェルは振り向く。予想通り、そこには面白そうに顔を歪めた女が立っていた。
「何をした」
「見ての通りですよ〜」
「すぐ元に戻せ」
殺気を飛ばし、クリストフェルは泣いてるシェスティンを守るように背を向ける。
しかし悪いことにその殺気を察知してしまったのか、シェスティンはさらに怯え、果てには大声で泣きだしてしまった。
廊下に子どもの泣き声が響き渡り、何事かと使用人たちが集まる。そして彼らの視線は異様な空気を醸し出す二人と大泣きしている妃の姿を息を呑んで凝視した。
いいですよ、と女の艶然とした笑みが一際深くなった時、クリストフェルはゾクリと肌が粟だった。
「その代わり今度の夜会であたしとの婚約を発表してください」
女の言葉の内容を理解するのに、クリストフェルは一瞬時間を要した。
「は?」
クリストフェルは怪物でも見るような目で女を見るも、鋭い視線は全く効果をなしていない。
女の浮かべる笑顔はニコニコと傍から見れば全く邪気のなさそうな─クリストフェルからすればそこらの鬼よりも悪鬼然とした─笑顔だった。
クリストフェルはすぐにこの女を消してしまおうと、手先に魔力を込めようとした。しかしその考えを見抜いていた女が先手を打つように口を開く。
「あれ、いいんですかあ?あたしを殺しちゃえばお妃様元に戻れなくなっちゃいますよ?」
その言葉にクリストフェルはピタリと動きを止めた。
「困りますよね、例え大人の姿に戻ったとしても中身が子どものお妃様なんて。なにより王様のこともほかの家来の人のことまでも忘れちゃってるお妃様ですよ!?あたしだったら嫌だなあ」
「──それ以上を口を開くな」
クリストフェルは五本揃った指先を女の喉元に突きつける。
「うふっ、ちゃんとシェスちゃんとは離縁することも公表してくださいね?」
明確な怯え一つ見せることなく、女は笑って身を翻し消えていった。
クリストフェルは何もすることができず、ただ背後で泣き続けるシェスティンを前にマルバスを呼びつけることしか考えが思い浮かばなかった。
とりあえずと執務室へ移動し、状況を伝えればマルバスは悔しそうに顔をしかめた。
「……精神干渉の類でしょうか」
クリストフェルは執務室の端で侍女に抱かれころころと笑うシェスティンを眺めた。
クリストフェルがそばに居ても恐怖心を一層煽ってしまうようで、離れてシェスティンを侍女に託している。
「ああ、シェスティンとしての記憶が全て奪われている」
どうやらシェスティンはクリストフェルだけでなく、城の者のことはおろか自分が魔族であることすら忘れてしまっているようだった。
精神干渉の魔法は魔族でさえ簡単に使えるものではない。それを代償もなく使いこなせると言うことは──。
「あの人間、やはり陛下の読み通り……」
マルバスが低く唸るように声を出すと、クリストフェルはシェスティンから視線を外し目を細めた。
「──柱爵に伝えろ、速やかに始末しろと。……女はまだ泳がせておけ」
「御意に」
マルバスはクリストフェルの命を伝えるために部屋を出て行くと、クリストフェルはシェスティンと侍女も出て行かせた。
二人が出て行く際にシェスティンと目があったが怯えを見せ侍女の胸元に顔を隠してしまったことはクリストフェルにとってどんな攻撃魔法よりもこたえた。
それでもクリストフェルは自分を落ち着かせるように一息吐き、表情を常より凍てつかせると城中城外を奔走した。
どんなものより大切なシェスティンを取り戻すために。
夜も大分ふけた頃、クリストフェルは扉の前で神妙な顔をして立っていた。
「シェスティンは」
「今ようやくお眠りになりました」
「……そうか」
クリストフェルは侍女の言葉を聞いて、二人の寝室である部屋に静かに入室する。広い部屋には大きなベッドがあり、そこには小さなものが横たわっていた。
それは間違いなくシェスティンで、クリストフェルは足音を消したまま側までやって来た。
膝をつきシェスティンの頬に触れるか触れないかの距離で腕を伸ばすのを止めた。
それでも、それだけでも鼓動が、体温が、伝わってくる。
──生きている。
もうあんな思いをするのは一度で十分だと、クリストフェルは血に染まるシェスティンの姿を頭から直ぐに打ち消し、僅かに震える手を抑えながらあどけない表情で眠る愛しい存在を見つめ続けた。