想い人との夕食
田中くんの家には夏休みの間、夏休みを過ぎても何度も訪れた。
だけど未だに慣れない。だって好きな人の家に行くなんて毎回どきどきするに決まっている。
それに田中くんの家は私みたいな一般人と比較しても大きい。邸宅と表現すれば妥当だと思う。そのくらい大きな洋風の家だった。
流石、両親がお医者さんなだけはあるなあと感心していた。
「さあ、中に入って。ろくなものはないけどね」
そう言って田中くんは私を招き入れた。
「だけどさ、吉野さんは無用心だよね」
買い物袋をフローリングの床に置いて、靴を脱ぐ田中くんはぼそりと言った。
「無用心? 私が?」
「だって、仮にも男と二人きりの空間で居るんだよ? しかも自分の空間じゃなくて、他人の空間。危ないと思わないの?」
そう言われて顔が急に赤くなった。
「……えっち」
「いや、僕は何もしないけど」
「……変態」
「だから何もしないってば」
本音を言えば何か起こればいいと思ってしまう。もしかして私のほうがえっちで変態かもしれない。
「安心してよ。僕が吉野さんに手を出すことはないから」
「……それはそれで女子的にショックなんだけど」
「どういうことなの? まあいいや」
田中くんは買い物袋を持って台所へ向かう。
私はその後をついていく。さっき言われたことを気にしないようにして。
台所のテーブルに買い物袋を置いてくれたのでさっそく中身を取り出した。
にんじん、玉ねぎ、鶏肉、じゃがいも、カレー粉。
誰が見てもカレーライスの材料だった。
「久しぶりだなあ。カレーを食べるのは」
「家で食べたりしないの?」
「うん、義母さんはカレーが嫌いなんだよ。辛いのが苦手だし、甘口も美味しくないって言ってた」
日本人でカレーが苦手だなんて初めてかもしれない。
夕食がカレーに決まったのは田中くんのリクエストだった。
どうせだったらもっと難しい料理でも良かったのだけれど、リクエストを無視するのはどうかと思ったので。
「外で食べたりしないのかな?」
「うーん、外のカレーじゃなくて、家庭で作ったカレーを食べたいんだよ」
気持ちは分かる気がする。洋食屋さんのカレーと家庭のカレーって別物だよね。
田中くんの家のキッチンはIHで、ちょっと戸惑った。火が出ていないのに料理できるってなんだか新鮮な気分だった。
カレーは三十分もしないうちにできた。私と田中くんの二人分。
「吉野さんもご飯まだでしょ? 一緒に食べようよ」
そう言ってくれたので言葉に甘えることにした。
お皿によそって、向かい合って私たちはカレーを食べ始めた。
「うん。美味しいね。吉野さん料理上手だ」
美味しそうに頬張る田中くん。優しそうでおとなしそうな見た目とは裏腹にもぐもぐ食べているのを見て、男の子なんだなあと当たり前のことを改めて思った。
「カレーなんて誰が作っても同じだよ」
照れてそんなことを言うけど、田中くんは「そんなことないよ」と優しく言ってくれた。
「なんていうか、美味しい」
意外と語彙が乏しい田中くんだった。
「そういえば、吉野さんって一番仲が良い人って誰になるの?」
スプーンを動かしながら食べてる合間に訊ねてくるので私はどうしてそんなこと訊くんだろうと思いつつ「明美かなあ」と答えた。
「明美? ああ、辻本さんかな」
意外にもクラスメイトの名前を覚えていて驚いた。人に興味がないと思っていたから。
あまり関わっていないのに覚えているってことは記憶力が優れている証拠でもあるし。
「それがどうかしたのかな?」
逆に訊ね返すと田中くんは「友達ってなんなのかなって思って」と不思議なことを言い出した。
「友達は友達でしょ? それがどうかしたの?」
「うん。普段は一人で考えてることがあったりするんだ」
田中くんはスプーンの動きを止めた。もう食べ終えてしまったみたいだ。
「友達ってみんな平等じゃないだろう?」
田中くんは言葉を選んでいるというか、言いたいことを上手く言葉にしようと努力しているようだった。
「たとえば一人の友達が居て、前々から遊ぶ約束をしていたとしよう。ところが別の友達が同じ日の同じ時間に遊ぼうと言ってきた。その場合、吉野さんはどうする?」
何が言いたいのか分からないけど、私は常識に則って答えた。
「それは、前々から約束していた友達を選ぶよ。だって、約束してたしね」
「じゃあ、約束していた友達よりも別の友達のほうが好きだったら? その友達と遊ぶほうが楽しかったら、どうする?」
正直そのような状況になったことはあったりするので、そのときの対応を話すことにした。
「それでも私は約束を守るよ。それが正しいと思うから」
すると田中くんは悲しい顔をした。
「うん。正しい。それは物凄く正しいと思うよ。だけどその瞬間、友達に優先順位を付けてしまうことになっちゃうんだよ」
どういうことだろう? よく分からないので田中くんの言葉を待った。
田中くんはちょっと黙ってから話し始めた。
「約束した友達のほうを優先する。それは人を格付けしてしまうことになる。それはとても残酷だよ。全ての人間を平等に愛せない証拠になってしまう。人は人を差別的に愛してしまうことに他ならないんだ」
聞いているとかなり良くないことに思えてくるけれど――
「うーん、言いたいことは分かるけど、言い過ぎというか極端な感じがするよ」
私はなるべく田中くんのことを否定したくなかったけど、敢えて言うことにした。
「優先順位をつけることが罪深いとは思わないよ。だって自分は一人しかいないんだから、どうしても順番が必要なんだよ」
「それこそが罪深いんだよ」
田中くんは軽く笑った。それは今まで見たことがない寂寥感あふれる笑みだった。
「もしも、さっき言っていた約束を優先してさ、その間に後回ししていた友達が死んだらどうするんだい?」
あまりに極端な例えに私は戸惑った。
「田中くん……?」
「それはありえないと思うかい? だけど現実にはありえるんだよ。だって、人は、簡単に死ぬんだから」
その言葉に私は口を挟むことができなかった。私たちはカレーを食べていたはずなのに口の中が酸っぱくなっていくのを感じていた。
「そして人は後悔するんだ。『あのとき優先順位を変えていれば良かった』ってね。だから僕はこう思うんだ。友達って平等じゃないんだってね」
私は慎重に言葉を選んで、それから言った。
「だから、田中くんは人と関わらないの?」
「…………」
田中くんは黙って頷いた。
「でもそれは淋しいことだよ? 人と関わらないってことは人の思い出に残らないってことになるんだと思う」
「だから、僕にもっと人と関われって、吉野さんはそう言っているのかい?」
田中くんは拗ねたように顔を背けた。
「うん。人の思い出に残らないってことは、居ても居なくても同じだと思うから」
結構キツいことを言ってしまったと自分でも思うけど、そう言わないと田中くんの今後に悪影響があると思ったから、敢えて言った。
「でも関わることで悲しいことも起こる」
田中くんは顔をこちらに向けた。今にも泣きそうな顔をしていた。
その表情に私は黙ってしまった。田中くんも黙り込んでしまった。
しばらく黙ったまま、私は耐えきれなくなって、言ってしまった。
「……それは、静ちゃんのことを言っているのかな?」
言いたくなかったけど言うしかなかった。このままだと田中くんは前に進めないから。
この前のお墓参りのときもそうだった。田中くんはいつまでも、これからも後悔し続けるだろうと分かった。
まるで荒野に一人きりで居る感じ。荒涼とした何もない空間。空虚と言えば伝わるだろうか。それが田中くんを苛んでいる。
「……それでも関わりたくなかったなんて思わないんだ」
田中くんの本音に触れるのは、これが初めてじゃなかった。静ちゃんが亡くなって、学校に来なかった日、あのときも剥き出しの心に触れ合った気がした。
「河野ちゃんと一緒に居て、一緒に喋って、一緒にご飯を食べて、一緒に遊んだことに僕は後悔していない。むしろ大切に想っているんだよ。心の奥底に仕舞っておきたい、大切な思い出なんだ。だけど――」
田中くんはいつもの無表情ではなく、感情丸出しで話している。
それは――淋しさだった。
「だけど、悲しい気持ちが積み重なっていくのが、ツラい。どうしようもない淋しさが胸を貫いていて疼いて仕方がないんだ」
私は目を閉じた。今の田中くんは痛々しくて見てられなかったから。
私も静ちゃんとの思い出を振り返ることがある。だけどここまで心を壊す想いをしていただろうか。
静ちゃんが死んで以来、私は普通に生活をしていた。時には笑って、時には楽しんで。
でもそんな日常を送っている間、田中くんは苦しんでいた。大切な守るべき人を守れなかったことに苦しんでいたんだ。
それに気づかなかった自分を私は恥じた。軽蔑した。何が田中くんに恋しているんだ。
何も見ていなかったじゃないか。
「僕は河野ちゃんを忘れたくない。忘れたほうが楽かもしれないけど、それでも忘れたくない。守れなかったことの罪でも罰でもないけど、それでも僕は河野ちゃんと一緒に居たことは幸せだったと思いたい」
これは私をまったく意識していない、ただただ自分の想いだけを吐露しているだけの独白に過ぎなかった。
深い悲しみが込められているのをなんとなくだけど伝わってきた。
「ねえ。吉野さん。死後の世界って信じてるかな?」
ふと田中くんは話を変えてきた。私は目を開けて田中くんの瞳を覗いた。
ひたひたと濡れている黒目。まるで泣いているようだった。
「私は信じたいと思うよ。そのほうが生きていて、怖くないから」
正直に言うと田中くんは頷いて「僕もあると思うんだ」と答えた。
「もしも死後の世界があって、河野ちゃんがそこに辿り着いたら、きっと天国に行けたんじゃないかな」
根拠のない想像に過ぎなかったけど、田中くんの言葉に私は「そうだね、行けたと思うよ」と賛成した。
「あんな良い子が天国に行けないわけがないよね。優しくて可愛くて、ちょっぴり変わっていた女の子だったけど、どこにも行けないってわけがないよ」
「うん。そうだよね。今も僕たちを見守ってくれているかもしれないね」
そこで田中くんはようやく笑顔になってくれた。自分でも単純だけど素直に嬉しく思えた。
ねえ。静ちゃん。もしも見守っているのなら、どうか田中くんが幸せになれるように祈ってください。
私の想いは届かなくていいから。
それから私たちは晩ご飯の片付けをして、ちょっとだけ他愛のない会話(学校の話や最近読んだ本の話)をしたりした。
女友達との会話と違って、ほんの少しどきどきしながらのお喋りはなんだか居心地が良かった。
「あ、もうそろそろ帰らないと」
時刻は八時前だった。
「駅まで送るよ。こんな遅い時間まで付き合ってくれてありがとう」
そう言って田中くんも外を出る準備をする。断る理由がないので、言葉に甘えることにした。
「田中くんのお母さんは、これからずっと家に居ないの?」
玄関先で訊ねると田中くんは「そうかも。今忙しい時期だから」と靴を履きながら言った。
「じゃあ、たまにご飯を作りに来ようかな」
冗談っぽく言うと田中くんは「たまにだったら頼んでもいいかな?」と真剣に応じてくれた。
本気にしてくれたんだ。そう思うと胸がときめいた。
「じゃあ、学校で話してくれたら一緒に帰って晩ご飯つくってあげるよ」
「ありがとう。吉野さんは優しいね」
優しい、かあ。本当は私の恋心に気づいてほしいけど、上手くいかないなあ。
私はがっかりしながらも田中くんと親しくなれた喜びで一杯のまま、家に帰った。
浮かれていたのかもしれない。舞い上がっていたのかもしれない。
だから気づかなかったんだ。
私と田中くんが一緒に帰るところを見られていたなんて。
それの影響が出るのは、一週間後。
とんでもない形で暴露されてしまうのだった。