私の心の動揺
私が正選手から外れた次の日だった。
補欠になったのだけれど、それを理由に練習をサボる口実にはならない。だからこの日の放課後も私は普通に練習をしていた。
「吉野センパイ、タイム速くなりましたね」
嬉しそうに小早川ちゃんは軽く息を切らしている私に告げた。手元にはストップウォッチがあって、私に見せてくる。
「うん? ああ、やっぱり練習すると結果がついてくるね。なまっていた身体の調子が良くなってきたし」
背筋を伸ばす運動をしながら言うと、小早川ちゃんは残念そうな表情を見せる。
「どうして、センパイがレギュラーから外れたのか理解できません」
ついさっき今度の大会の正選手が発表されたときから、小早川ちゃんは何度も不平を漏らしていた。
「まあ仕方ないよ。夏休み練習に参加できなかったし、タイムが伸び悩んでたのは、間違いないしね。それに今度の文化祭で風紀委員の仕事もあるし、忙しくなるからね」
私は努めて小早川ちゃんにバレないように筋道の通った理由を話した。
「でも、速い人が出たほうが記録が残りますし、陸上部のためになりますよ」
その意見に全面的に賛成だった。だから私は小早川ちゃんを強く推薦したんだ。
今後の陸上部を引っ張っていく中心人物に小早川ちゃんを据えるためでもあった。仕方ないとはいえ、私以外に小早川ちゃんと仲良くしてくれる人が居ない以上、そうするしかなかったんだ。
「代わりに正選手になったんだから、気合入れてよー」
「……部長に頼んで、私の代わりに――」
「駄目だよ。小早川ちゃん」
私は今にも松永さんに直談判しそうになる小早川ちゃんを言葉で制した。
「そんなもったいないことしないで。私より小早川ちゃんのほうがタイム良いんだから、それこそ戦力半減しちゃうよ」
私の言葉に小早川ちゃんは納得のいかない顔をした。私は小早川ちゃんに近づいた。
「ね。良い子だから聞いてくれるよね?」
少し身長の高い小早川ちゃんになでなでしてあげることができなかったから、その代わりとして頬を撫でた。
優しく、気遣いを表すように。
「あ、センパイ……」
小早川ちゃんは顔を真っ赤にした。こういうときは中性的な見た目で良かったと思える。
「うん? ポニーテール、短くしたんだ」
「へっ? いや、ちょっと短く……」
「似合っているよ。とっても可愛い」
私は小早川ちゃんから離れた。
「あっ……」
名残惜しそうにする小早川ちゃんに私は素直に可愛いなあと思ってしまった。
何本か走った後、私は練習を切り上げた。私の代わりに出る正選手の人たちにコースを譲るためだ。
小早川ちゃんは私と同じ時間に練習を終えた。小早川ちゃんは私と一緒に練習するときはいつも同じ時間にやめてしまう。
他に友達を作ってあげないといけないなあと思うけど、こればかりは本人の意思次第だから強く言えない。
一緒に着替えて、汗を流して、それから部活棟を出た。私も小早川ちゃんも電車通学だけど、家は反対方向だった。
「センパイは今、目標ってあります?」
不意に小早川ちゃんが私に訊ねてきた。
「目標? うーん……」
目標と言われて少し悩んでしまう。今どきの若者のようにまったくないから悩んでいるわけではなく、ありすぎて困ってしまったからだ。
「そうだねえ。風紀委員の仕事を一生懸命したいし、陸上のタイムを速くしたいし、今度のテストで良い点とりたいし」
言葉に出さないけど、小早川ちゃんを周囲の人と仲良くさせることも目標の一つだ。
「センパイは凄いですね。パッと思い浮かんでそんなに出るなんて」
尊敬の眼差しで見つめられると少し照れてしまう。そんな大した人間じゃないんだよ?
「小早川ちゃんはどんな目標があるの?」
話の流れで訊ねると小早川ちゃんは私以上に照れてしまう。
「す、好きな人に、振り向いてもらうこと、ですかね……」
思ってもみなかった発言に私は内心動揺したけど「へえ。そうなんだ」と余裕ぶってしまう。
「どんな男の子? 同じクラス?」
「な、内緒です! 言えません!」
わたわたしてしまう小早川ちゃんを愛おしいなあと思ったけど、私も同じ体験を現在進行形でしているんだなあと気づくと馬鹿にできない。
こんな中性的な見た目な私でも、恋をしている。男女みたいな私に好かれて、はたして田中くんは嬉しいだろうか。
「センパイ? どうかしましたか?」
不思議そうに見つめる小早川ちゃんに私は「なんでもないよ」と笑って返した。
「もし、告白するときは相談してくれる? 上手くいく方法を一緒に考えてあげる」
私がそう言うと、気のせいかもしれないけど、ほんの少しだけ傷ついた表情を見せた。
うん? と思ったけど、それは一瞬で、すぐさま笑顔で「分かりました。絶対に一番に告白しますよ」と明るく言った。
この場合、告白じゃなくて報告だと思ったけど、突っ込むのも野暮なので、気にしないことにした。
高校の最寄り駅に着いた私たちはそれぞれの電車に乗り込んだ。
スマホでゲームでもしようと何気なく開いたら、母さんからLINEが来ていた。
内容は父さんの仕事場に着替えとご飯を持っていくから、晩ご飯はテキトーに食べるようにのことだった。
もう少し早く気づけば、小早川ちゃんと一緒に食べたのになあと自分に舌打ちをしたい気分になった。
仕方ない。地元の駅にはあまり美味しい料理屋さんがないから、次の駅で降りよう。
そう思って何気なく、電車内の電光掲示板を見た。
表示されていたのは久しぶりに降りる駅だった。静ちゃんと初めて会った、夏祭りの神社がある場所だった。
私は電車を降りて、近くにある十姉妹デパートに向かった。惣菜を買うためだった。
一人で外食できるほど勇気がないし、一から作るのも手間だった。ましてや一人分しか作らないのに、わざわざ作るのはどうかと思う。
食品売り場は混む時間帯だからか、人がたくさん居た。大半は主婦が多いけど、私みたいな若者もちらほら居た。
買い物籠を持って、惣菜コーナーに向かった。地元のスーパーと違って、十姉妹デパートの惣菜はとても美味しかった。特に揚げ物は絶品だった。カロリーが心配だけど、運動したし、吊り合いは取れているだろうと自分で勝手に納得した。
私はクリームコロッケとエビコーンのどちらにしようか悩んでいる途中だった。
「うん? 吉野さんだ。どうしたの?」
その声に振り向くと、そこには田中くんが私と同じように買い物籠を持っていた。学生服のままだった。
「た、田中くん!? どうしてここに?」
「そんな驚かなくてもいいじゃない。僕だって買い物ぐらいするしね」
田中くんは軽く笑って私の元へ近寄ってきた。
「吉野さんも晩ご飯のお買い物?」
「うん。田中くんもそうなの?」
動揺した気持ちを何とか整えて、私は田中くんに訊ねた。
「そうだよ。義母さんが仕事に夢中で晩ご飯作ってくれないから、仕方なくここで買って食べるんだよ」
共働きなのかな? そういえば、両親ともお医者さんだったっけ。
「吉野さんも同じ理由だったりするの?」
田中くんは前髪をくるくると弄りながら、訊ねてきた。
「そうなんだ。母さんが父さんの仕事場に用事、まあご飯と着替えを持っていったんだ」
「へえ。泊まり仕事が多いのかな。もしかして公安系の仕事してない?」
ずばり当てられてしまった。
「えっ!? なんで分かるの!?」
「なんとなく分かっちゃったんだ。まあそれは良いよ」
田中くんは私と同じ、揚げ物を取ろうとしているみたいだ。私は道を開けた。
「田中くんはたまにここに来ているの?」
「ううん。ここ最近は毎日来ているかな」
田中くんは何気なく言う。
「自分で作れるけど、バリエーションが少なくってさ。だから惣菜でいろいろ食べているけど、飽きちゃうんだよね」
「……お母さんは忙しいの?」
「うん。最近忙しいみたいだね。まあ患者優先のほうが医者冥利に尽きるんじゃない?」
よく分からないようなことを言っているけど、私はあることに気づいた。
「毎日ってどれくらい?」
「うーんと、二週間ぐらいかな」
「料理作らなくなってどれくらい?」
「それは僕のことを言ってるの?」
「そうだね。田中くんが自分で作らなくなってどれくらいなの?」
「ああ、十日くらいかな」
十日の間、晩ご飯がデパートの惣菜! それはちょっと栄養の偏りになるんじゃないかな?
このとき、私は何も意識をしていなかった。下心があったわけでもないし、決心したわけでもない。
だけど恋心はあったわけで
むしろ関心があっただけだ。
だからこんなことを言ってしまったんだ。
「ねえ。良かったら私が家に行って作ってあげようか?」
田中くんが私のほうを振り返った。
目が点になっている。かなりレアな表情。
言った私も自分が何を言ってしまったのか理解が追いつかなかった。
しばらく私たちの時間は止まってしまった。
「えっと、吉野さん? それは――」
「ああ、その! ごめんね変なこと言っちゃって!」
そこから私の言い訳が始まった!
「べ、別に良ければの話っていうか、惣菜だけだとバランスが悪いっていうか、野菜も取らないといけないと思ったりとか、親切で言ったというか、何気なく言っちゃったんだよ。考えがあったわけでもないし、むしろ考えがないって言えばいいのかな? とにかく私は田中くんの栄養バランスを心配だっていうか、偏るのは良くないし――」
先程から同じ文言を繰り返しているだけだった。
「それに、私は風紀委員だから、生徒の体調を気遣った結果、あんなこと言ってしまったというか……」
「えっと、吉野さん?」
田中くんはおずおずと言う。
「ちょっと周りの人の邪魔になるから、向こうで話そうか?」
気がつくと年配の女性が私を不審な目で見ていた。
急に顔が真っ赤になってしまう。
私たちは買い物籠の中身を戻して、デパートの出口付近にある椅子に座った。
その間、顔が真っ赤なままだし、周りの冷たい目線がツラかったので、顔を両手で押さえてしまった。
「吉野さん、大丈夫? 落ち着いた?」
私の隣に田中くんは座って、缶ジュースを差し出した。オレンジジュースだった。
「あ、ありがとう……」
消え入りそうな声で受け取る。
好きな男の子に訳の分からない提案をして、意味不明な言葉を叫んで。
大騒ぎしてしまった私は今にも穴があったら入りたい気分だった。
「さっきのことなんだけど――」
「ごめんさっきのは忘れて!」
そう言って顔を背けてしまう。
「うん。それじゃあ忘れるよ」
田中くんは私を笑ったりせずに、改まって言った。
「こちらから頼むよ。僕の晩ご飯を作ってくれない?」
私は田中くんの顔を見た。
田中くんは真剣な表情で私を見つめる。
「久々に温かいご飯食べたいし、このところ寒くもなったからね。ああ、日曜日一緒にお昼ご飯食べたっけ。でも外食じゃなくて家庭料理食べたい気もするんだよね」
私を気遣ってくれている。あの田中くんが。いつも人と関わらない田中くんが。
そう思うと胸が熱くなってしまう。
「ありがとう……」
「お礼を言うのはこちらだよ。ていうか返事を聞いてないし」
田中くんの促されて、私は真っ赤な顔のまま、田中くんに言った。
「家に行って、料理作っていいですか?」
「うん。お願いします」
すると田中くんは珍しく笑顔で答えてくれた。
それもかなり珍しい表情だった。
私は田中くんの後を着いて歩いた。
何回も行ったことがあるから着いていかなくても分かるけど、なんとなく着いていきたい気分だった。
歩いていてはたと気づいた。
好きな男の子の家に行って、料理を作る。
それはまるで少女漫画みたいで。
これから好きな男の子と二人きりになってしまうってこと。
別に二人きりになることは今まであったけど――
まるで恋人みたいに料理を作る状況は初めてで。
それが私の心を動揺させるのは十分な事柄だった。