フィンブルという男
詠唱は完成された。
しかし、魔方陣はどこにも見当たらない
失敗したのかと不安に騒ぐ兵士達がいたが、テオはいち早く空に目を向けた。
夕暮れに沈む空高い場所。
そこには青い魔方陣が薄らと浮かびあがり、ここら一帯を内包している。
大気からは急速に温度が失われていき、身の毛もよだつほどの冷気が立ちこめた時だ。
「――アブソリュート・ネーヴェ」
フィンブルの魔方陣から、光線のごとく青い光が降り注いだ。
勢いよく振り落とされた青い光線は、まるで鉄槌だ。
くわえて人は避け、スライムだけを狙おうとしている。
「寒いですっ……」
「……っ」
立ち上がった光の柱から、凍えるような風が無差別に吹き荒れる。
テオはもちろんのこと、外套に守られたリンネとアミティエ、それに兵達も寒さに身を抱いていた。
しかし、光の柱に包まれたスライムよりは遙かにマシだ。
彼らは文字通り、光の柱の中で氷漬けになっているのだから。
冷風に煽られて数十秒。
その地に、スライムという存在が立つことを許されなかった。
数百の敵を倒す魔法は、もはや戦術兵器だ。
次第に魔方陣が輝きを失って消えると、歓声が草原を支配した。
「うおおおおおおおおおおおおおおお! さすがはフィンブル様!」
「フィンブル様ぁぁああああ!」
「さすがは六英傑だ!」
「こちらは犠牲一つないぞッ!」
氷柱の中で眠るスライム以外、人的被害は奇跡的にゼロである。
その氷柱もゆっくりとだが粒子状に崩れ落ちていき、光を反射しながら、草原の風に運ばれていく。
称えられているフィンブルは、薄笑いを浮かべながら周囲を見渡した。
「――あァ、思ったよりマナを使わなかったねェ。さっきまでのところは、もーっと多かったんだが……誰かが討伐してくれたのかねェ」
じろり、とフィンブルは一点を睨んだ。
睨まれた対象であるテオだったが、それを気にもとめずに2人の下に振り返っていた。
「寒かったけど大丈夫?」
「び、びっくりしましたぁ……テオさんこそ外套を私達にあげてましたけど……」
「これでも寒さには強いから大丈夫だよ」
先ほどの冷風を受けて、テオはへっちゃらだと笑う。
しかし、外套を羽織ってもなおアミティエは寒かったらしく、ぶるぶると子鹿のように震えていた。
どうやら寒さには弱いようだ。
それならば、とテオはしゃがみ込むと両手を広げた。
「アミティエ、おいで。温めてあげる」
決して卑しい意味はない。
しかし、ジトーっと睨む目がテオを見つめているだけでアミティエは動こうとしなかった。
その代わりだろうか、おずおずとリンネがその手の中に収まろうと歩み寄っている。
「では私が……」
少女が抱きつこうとした時だ。
ハッとしたようにテオは立ち上がると、弾かれたように体を翻した。
「仲睦まじいところ申し訳ないねェ」
そこにはいつの間に現れたのか、フィンブルと、テオが助けた兵士の姿がある。
「この者です、先ほどスライムの多くを討伐してくださったのは」
兵士は大きな声を上げると、その場で大きく礼をして下がっていった。
多く討伐したとはいえ、ほんの二十匹程度だ。一介の魔導士よりも多く討伐した程度である。
それを聞いたフィンブルは微笑を絶やさず、意外にも恭しい一礼をしてみせた。
「助かったよ。よければ名前を聞いてもいいかなァ」
助かったよとは、一人で、しかも一瞬で数百のスライムを葬った男の言葉とは思えない。
それでも礼をいう彼の姿には、テオが見る限りでは偽りの部分はなかった。
「いえ、ギルドの者として当然です。自分はテオフラトゥスと言います」
「テオフラトゥスくんねェ。そちらのお嫁さんは?」
は虫類のような目がギロリと的を変え、リンネとアミティエを見据える。
びくっと震えたアミティエとは対照的に、リンネは黄色い声をあげていた。
「そんなお嫁さんだなんてー! そうです。私はテオさんのお嫁さんのリンネ・ソロと申します!」
「……いえ、妹みたいなものです、はい」
テオの言葉に、リンネは「なんでですかー」と背中を叩いていた。
しかし、問題は次だ。
「すると娘と思わしきそちらのお嬢ちゃんは、なんていうのかねェ」
「……」
アミティエ。
彼こそが、人材派遣国家スキューヴォから少女を雇おうとした人物である。
それをアミティエも知らないし、恐らくフィンブルも詳細は知らないのだろう。
見た目で判断するのは悪いが、この怪しい男には任せておけないとテオは割って入っていた。
――だが、無職であるテオの方が社会的には任せておけないのも事実である。
「彼女は、僕らの荷物持ちでティナと申します。少し照れやでして」
せめて、フィンブルという男を見極めねばいけない。
「なるほどなるほど。それはすまなかったねェ」
にやり、と笑ってフィンブルは肩をすくめてみせる。
その表情は絶えず微少に張り付けられ、内心を読み取ることはできない。
「してギルドの者というと、テオフラトゥス君は大魔術師といったところかねェ?」
「いえ」
「それなら魔法も使える神将騎士といったところかねェ」
「いえ、無職です」
「……? ギルドにいるんじゃないっけェ?」
テオは乾いた笑いに、初めてフィンブルは目を白黒とさせていた。
微笑以外の初めての表情だ。
しかし、フィンブルは思いの外空気が読めるらしく、テオの双肩を叩きながら陽気に笑いはじめた。
「なぁになぁに、事情は聞かないともー。職なんてどうだっていい。身元も不問だァ。僕はね、君に頼みたいことがあるんだ」
その言葉に、テオはぴくりと反応する。
依頼という言葉が、すぐに頭を過ぎる。
「僕からの依頼が――」
「すいません、自分は別の依頼を受けているので」
先回りして、フィンブルの口を封じた。
正直に言ってしまえば、彼とアミティエを関わらせたくない一心だ。
それは一種のワガママであり、彼女を話したくないという嫉妬が混じっている。
一瞬呆けたフィンブルだったが、すぐにまた表情を戻した。
「悲しいなァ。だけど、まぁ……わかったァよ。その依頼がなくなればいいってことなら、ステラ嬢に頼んでおくとするかね」
――知ってて言ったのか。それにステラの知り合いなのか。
そう考えたテオだが、彼が王国の騎士であるならば繋がりがあるのも頷ける。
さらに裏付けるとすれば、街に来たときに騎士から『フィンブル隊長』と呼ばれていたことも思い出される。
むしろ、彼女が止まる要因となったのはこの男のせいなのだろうか。
「……ではお話だけなら」
「ごめんねェ、探るような真似して。じゃあ事後処理があるから、夜にラントバリの酒場で待ってるねェ」
仕方ない、とテオは頷いた。
自分の名義で依頼を受ければ、リンネ達に直接の被害はいかないだろう。
踵を返した男を見守りながら、テオは小さくため息をこぼした。
「テオさんテオさん、なんだか嫌そうでしたけど大丈夫ですか? ティエちゃんの名前を間違えてましたし」
横からひょっこりとリンネが顔を出す。
「うん、もしかしたらこの原因もわかるかもしれないしね。名前は気にしないで」
今回の生物が発生した原因を、彼なら知っているかもしれない。
未だに騒然とするラントバリ平原を見つめながら、テオは顎を撫でた。
「とりあえず、話を聞かないと始まらないかな……」




