謎の男ショウ
アキラさんは、次の朝早く帰っていった。
私はアキラさんのぬくもりの残るベッドで、ぼんやりとしながら、いつも以上に学校へ行くのを億劫に感じていた。
のろのろと制服に着替え、そのうちマニキュアをした自分の指に気がつき、慌ててそれを落とした。
いつもの通学路は、なぜか違って見え、憂鬱ながらも、どこか小さな自信のようなものを感じていた。アキラさんも同じ朝を向かえ、一日を始めようとしている。
いつもと違うのは、高校の門の前も同じだった。ちょっとした人だかりが出来ている。しかも女子生徒ばかりだ。なにかあったのだろうとは思ったが、そのまま門の中へ入っていった。その時、目の前から二人の女子生徒が小走りでやってきた。
「ルイが来てるんやって!!あー!見えた!」
私は女生徒たちが走っていく門の方を振り返った。
こちらに歩いてくるのは、数日前に会ったハーフの男性だった。遠目に見るとかなりの長身であることが分かる。長い手足と小さな顔、彫りの深い顔立ち。彼は軽く手を上げながら私のもとに歩いてきた。
私はぼんやりと彼の外見を観察しながら立ち尽くしていた。
「ごめんな。驚かせて。おれのこと、覚えてる‥よな?」
私は彼の後ろにいる女子の集団が私たちを凝視していることに気が付いた。
「はい。その節は、どうもありがとうございました。今日は、どうしたんですか?」
「君に会いに来た。」
私は、ポケットに手を入れながら下を向いて言った彼の顔を見た。
「‥私に?」
「名前聞いてへんかったけど、おれの出身校の子やってことは知ってたから、いちかばちかで待ち伏せしてん。嫌がられることは100も承知で。」
「‥‥」
「怖がらんといて、お願いやから。別に怪しいもんじゃないねん。ちゃんと名刺持ってきたんや。ここに、俺の番号書いといた。」
男性はポケットから名刺を取り出して私に渡した。そこには RUI と書いてあった。黒いカードに三日月のマークが入っていて、その下に会社名が入っている。
「今日、5時に菜の花公園で待ってる。知ってるやろ?そこの角曲がったとこの‥」
「知ってますけど」
私は道を説明しようとする彼の言葉を遮って言った。
「どうしてですか?私、行かないですよ。」
男性は私ににっこりと微笑んで言った。
「ナンパしようってんじゃないねん。君にとって悪くない情報やし、来ないと後悔するかもしれへんよ。」
私は、いっそうけげんな顔をした。
「だからって行かなきゃいけないことはないと思いますけど。」
「もちろん、決めるのはナオミちゃん。君やけどね。ほら、もう行かんと授業遅れるで。ほな、あとでね。」
後ずさりしながら彼は校舎を指差して言った。
「ちょっと!なんで私の名前」
「さっきそこで男子つかまえて聞いてん。この学校で一番綺麗な子の名前。もちろん君やって、確かめんでも知ってたで。」
「‥‥」
「ほな、あとで。呼び止めてごめんな。」
そう言うと男性は小走りで校門の外に消えた。
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教室に着くなり、今まで話したこともない、クラスの女子に囲まれた。
「ミュラーさん、ルイと知り合いなんやね!どこで知り合ったん?まさか付き合ってるん?」
「まさか。それに知り合いってわけじゃ」
3人のクラスメートの、顔はもちろん知っているが、名前がさだかではない。この人とこの人の名前がごちゃまぜになっている。
「ルイを生で見れるなんてラッキーやー。やっぱめっちゃかっこいいよなー」
「あの‥なんであの人のこと知ってるの?」
結局、彼女の名前を呼ぶことを諦めて聞いた。
「なんでって‥有名やんか!晴秀高校出身でモデルのルイ!!雑誌とかに時々出てるで。」
「ああ‥それで‥」
「ミュラーさん、知らんかったん?」
「うん。全然。」
彼女たちは、しばらくルイの話で盛り上がりながら、私の机の周りにいた。先生が入ってきて、授業が始まる前に散っていったが、「なにかルイのことで新情報あったら教えて」と小声で頼まれた。
私はルイに対して、若干の恐れを感じた。初対面だったというのに学校の前で待っているとは。その一方で彼が言った「悪くない情報」とはなんなのだろう、と考えていた。
ふと、アキラさんに相談することを思いつき、休み時間になるとすぐに中庭に走っていき、電話をかけた。しばらくすると、眠そうなアキラさんの声が聞こえた。
「あ、アキラさん、ごめんなさい。寝てましたか?」
「うん、ちょっと昼寝‥ってまだ午前中か。でも大丈夫やで。どうしたん?ナオミ」
電話で話すアキラさんの声は少しだけいつもより低いような気がした。
「実は、今朝ちょっと変なことがあって‥」
私は今朝の出来事を手短かに説明した。
「ふん。変な男。たぶん、ナンパやない言うてもナンパやで。でも気になんな。情報ってなんやろ?」
「はい、私もそれが気になって。」
「その公園ってひと気あるん?誰かの目があるんやったら、行くだけ行ってみてもええんちゃう?」
「そうですかね‥」
「あ、ちょい待ち。それって何時なん?」
「5時です。」
「ふん。5時くらいなら私も一緒に行けるかもしれへんわ。仕事あるけど6時くらいまでやったら。」
「本当ですか?」
「うん。その方がナオミも安心やろ?」
「はい!アキラさん、場所分かりますか?」
「ナオミの高校、晴秀やったな。場所分かるで。5時くらいに、迎えに行く。」
「わあ、ありがとうございます。嬉しいです。」
「ナオミの顔も見たいしね」
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。今朝まで一緒だったというのに、もうすでに私はアキラさんを恋しかったのだと気が付いた。
電話を切ると、私の心配は完全に消え去り、おだやかな気持ちになった。
5時前に校門の前で待っていると、アキラさんが現れた。仕事の時はいつもそうなのだろう。ブルーの髪をオールバックにし、黒いシャツに黒いパンツ、それに今日はえんじ色のレザーブーツを履いていた。
私は、妙な違和感を感じた。今朝家を出る時もキスしたのに、外だと少し緊張してしまっている。
「わ、ナオミの制服姿、めっちゃかわいい!」
アキラさんは満面の笑顔でそう言った。今すぐ抱きつきたいけれど、それは出来ないだろう。
「ナオミ、私今日な、和歌子と一緒に狼の話の続き考えたんやで。今夜一緒にそれ読もうな。」
「本当ですか?!うわー、楽しみです!」
私はアキラさんと和歌子さんが一緒に物語を考える様子を想像した。きっと楽しかったのだろう。そして、今夜もアキラさんは、来てくれる。
「ナオミ、私考えたんやけど」
夕日がやけに眩しいいつもの通学路を、私たちは並んで公園に向かって歩いていた。手をつなげたらいいのに、と思った。
「和歌子やバー二には、私たちのこと秘密にしておいたほうがいいよな。和歌子たちは一緒に住んでるんやし、バー二はナオミの先生やし。和歌子はマークのこと、私が待ってると思ってんねん。」
「はい‥」
「ましてやみんなに理解してもらえるような関係やない。私たちは他の誰とも違う関係やし、違う形の絆を作っていければいいと思うねん。」
「はい。私もそう思います。」
なぜか分からないが、少し胸がチクリと痛んだ。
「私はナオミのことが好き。一緒にいたいと思ってる。今、それ以上に大事なことなんかないよな。私たちは、きっと新しい道を二人で作っていける。」
「新しい星も、見つけられますかね。」
アキラさんは立ち止まって私の顔を見上げた。
「もちろん!見つけよう。少しずつ、それらを大切に育てて、見守っていこ。」
「はい。」
アキラさんの髪は夕日を受けてさらにブルーが増していた。アキラさんの白い肌は、光を受けるとまるで透明なような気がした。
私たちが公園に着くと、ルイはすでにそこにいた。
「ほんまに来てくれるとは、ありがとね。」
ルイは、今朝見た時とは、あきらかに違う服装をしていた。スーツのようだけど、ジャケットとパンツは違う素材と色で、シャツは薄いピンク色だった。浅黒い肌と濃い顔に、合わないようで絶妙に合っている。
「はじめまして。私、アキラです。」
アキラさんがルイに挨拶をした。
「はじめまして。ルイっていいます。えっと、ここではなんやから、どっかでお茶でもせえへん?」
ルイは私とアキラさんの顔を交互に見ながらそう言った。
「そんなに長くならんのやったら、ここでもええと思うけど。平和な感じのいい公園やん。」
アキラさんはルイに微笑みながら言った。
「あ、じゃあ‥そうしよか。じゃあそこのベンチに‥」
ルイは少し緊張したような面持ちで促し、私たちはベンチとテーブルのある場所に移動した。
「それで、話っていうのは‥」
私はルイに尋ねた。
「うん。単刀直入に言うわ。俺とおなじモデル事務所に入らない?モデルになる気があるなら。」
私とアキラさんは顔を見合わせた。アキラさんは驚きながら「すごい!」というような表情をした。
「もちろん社長に会ってもらうのが先やけど、ナオミちゃんなら絶対になれる。小さな事務所やけど、社長はやり手で、俺も半年前に引き抜かれて事務所を移ったんやけど、これからうちの事務所はどんどん大きくなるって確信してる。モデルの仕事はきついけど、楽しいし、色んな世界の人と出会うには最高やと思う。もちろん最初はバイト感覚で始めたらいいし、おれも高校生の頃から読者モデルやってて今があるんやけど」
「できません。」
私は、その説明を遮って言った。
「私は昔から、人前に出るのが苦手なんです。両親が撮る写真ですらいつも嫌がって拒んでいました。知らない人に囲まれて写真を撮られるなんて、想像しただけで鳥肌が立ちます。」
ルイは濃い眉毛を上げ、大きな目を見開いて驚いた表情になった。
「そう‥なん?いや、でも、やってみたら面白いかもやで。そんな、若いうちから決め付けんでも」
「ナオミ、今すぐ決めんでもええんちゃうん?一度ゆっくり考えてみて、それからでも」
アキラさんが私の肩に手を置きながら言った。
「いえ、私が私のことを一番よく分かっています。目立つことをやろうとすると、よくないことが起こるんです。」
「良くないこと?例えば?」
ルイが探るような目つきで見つめてきた。
「とにかく無理なんです。」
私は下を向いてそう言った。
気まずい空気になった私たちは、腰を上げた。ルイは、気が変わった時のためにと、事務所のパンフレットを渡した。モデル養成講座開設、という見出しが目に入った。
「残念やな。おれはいつもモデルの子達と仕事してるけど、ナオミちゃんは、外見はもちろんやけど、なにか光るものを感じるのに。」
「‥‥」
すみません、と言おうとして、別に悪いことは何ひとつしていないということに気がついてやめた。
ルイと別れたあと、アキラさんとふたたび歩き始めた。
「ナオミ、モデルのこと、本当にいいん?」
「いいんです。できないことをやろうとしても、苦しいだけだから。」
アキラさんはしばらく黙っていたのちに言った。
「私も、そうやったなあ。高校生くらいの頃。めっちゃ学校で浮いてたし、周りが勧める道なんて、まっぴらごめんやったわ。その後の人生の色んな経験で、少しずつ柔軟にはなったと思うけど、それでもやっぱりまだ、自分のことは自分にしか分からんて思ってるし。」
「アキラさんも?」
「うん。自分のことは自分で決めるもんや。後悔するんも成功して嬉しいんも、全部自分で選んだ道やからや。悲しいことがあっても、とことん自分で落ち込んだら、必ずまたいいことがある。‥って、そう信じたいかな。」
「そうですね。」
私はアキラさんの言葉を聞きながら、自分の未来を想像した。そこには必ず、アキラさんがいてくれるような気がした。
和歌子とショウ
ロレーナからメールを受け取り、彼氏のショウが大阪に来るということで、私たちはパブで落ち合うことになった。
ショウに関してはかなり興味がある。ロレーナの彼氏ということもあるが、スペイン留学に至った経緯なども聞いてみたいと思った。
ロレーナとショウはすでにパブのテーブル席に座っていた。私を見つけるとロレーナが立ち上がって抱きついてきた。
「和歌子!元気だった?ありがとね。突然だったのに来てくれて。」
ロレーナはグレーのゆったりしたニットに黒いジーンズというラフな格好で、長い足によく似合っている。
「これがショウだよ、和歌子!」
ロレーナの後ろにいたショウがにっこりと笑いながら挨拶をした。
「はじめまして。ショウです。いつも和歌子さんの話、彼女から聞いてて、会いたかったんでんですよ。」
すらりとした体型で、男性にしては長めに伸ばした髪を後ろでまとめていた。髭が似合いそうな醤油顔だが、髭はない。切れ長の目だが優しそうな笑顔が、なんとも素敵で、ロレーナの彼氏と聞いて納得するような、なんともいい感じの彼ではないか。
「はじめまして、ショウくん。私も話聞いてたから、会ってみたかったんだ。えっと、大分の人なんやんな?今日は、大分から直接?」
「はい、お昼くらいの飛行機でこっち着いて、ホテルに荷物置いてからさっきここに着いたとこです。」
「そうなんや。え、じゃあ二人でゆっくりしたいんちゃうん?邪魔やったら私帰るけど?」
二人は噴出して笑いながら、そんなわけないとかなんとか言っていた。
「和歌子に二人で会うの、楽しみにしてたもんね。」
ロレーナはショウの顔を見て微笑みながら、スペイン語でそう言った。
「えっと‥ ロレーナ、今日は私たち、何語で話すの?」
「もちろん、スペイン語でしょ!」
彼女はガッツポーズをしながらショウと笑い合った。
背の高い彼女と同じ位の背丈のショウは、彼女に何やら冗談を言ったが、私は理解できなかった。
私は心の中で「しまった!」と思っていた。最近スペイン語の勉強をしていなかったから、切り替えることができるのか不安になってきた。しかも英語もいつもバーニとだらしない会話ばかりだ。
時々感じる「何語もきちんと喋れない」感覚に陥っているような気がした。英語で喋っているときもそうだが、言語というのはとても興味深い特徴を持っている。
日本語で喋っているとき、私はそこまで自分の意見を押し通したりしないが、英語のときはもっとはっきりものを言う。
そして、スペイン語の私は‥若干大人しくなるという特徴がある。その理由は明らかに、スペイン語に対する自信のなさだといえる。
「でも、私、スペイン語下手だよ。大丈夫かな」
「そんなことないって!和歌子のスペイン語、すごく上手だよ!」
スペイン語で言った私になぜか日本語で切り替えしてくるロレーナを奇妙に感じながら、私はへらへら笑いながらスペイン語での会話集を頭の奥から引っ張り出した。なんてことだ。埃をかぶっている。
「和歌子さんが英語の方が良ければ、僕は英語でもいいですよ。」
なんと。このショウという男、英語も喋るのか。何歳なのだろう。見たところ若そうだが、25歳のような気もするし、30歳と聞いてもなんとなく納得するような落ち着いた雰囲気も持っている。
「和歌子、ショウはイギリスにも3ヶ月いたんだよ。英語の勉強のために。」
「へえ‥」
ショウは照れ笑いのようなものを浮かべながら首をかしげた。
「和歌子さんも分かると思うけど、日本人って文法とかは得意だけど、いざ喋るのって大変じゃないですか?僕はけっこう引っ込み思案なんで、最初は完全に大人しい奴でした。」
「たしかに。でも‥え?スペインとイギリスは、どっちが先やったん?」
「スペインです。自分のビザが切れるタイミングでイギリスに行って、それでまたスペインに戻って‥そんな感じです。」
結局、私たちは英語で会話しながら揃ってギネスをゲットし、やっとテーブルについた。
「スペインに行ったのは、もともと建築とかデザインに興味があったからなんです。あっちの色の組み合わせとか、斬新なデザインって、僕ら日本人には絶対思いつかないようなものもあって面白いし、僕自身もそれまでデザイン会社で働いていたから。」
ショウは落ち着いた低い声でたんたんと語った。
「ところで、イギリスはどこにいたの?」
「ブライトンに3ヶ月弱です。」
ブライトン。なんという偶然だろう。アキラがいた場所ではないか。
「ほんまに?私の友達もブライトンにいたんやで。いつのこと?」
「えーっと、半年前‥いや、もっとか。8ヶ月くらい前ですかね。」
アキラがブライトンにいたのは1年前までだ。ぎりぎりかぶってはいないのか。
「そっか。なんか最近ブライトン磁石でも持ってるのかな。その子は画家志望でね、今私のアパートの隣に住んでるんだ。」
「ショウ、イギリスで仲良くなった日本人の女の子がいたよね?」
ロレーナがショウに尋ねた。
「ああ、カナのこと。同じ語学学校に一人日本人の女の子がいて、よく一緒に遊んでたんです。なんていうか‥ちょっと頭のねじが緩んだような子で。でも、サバサバしてて、男とつるんでるみたいで楽しい子でしたよ。」
「あはは。ねじ緩んでたんや。友達のアキラもだいぶ変わった子やで。なんかブライトンって、変人の集まってくる場所なんかもしれんな。」
ショウはイギリスで楽しい時間を過ごしたようで、今でもスペインと同じくらい戻りたい場所であるとも言った。タイミングが合うか分からないが、アキラにぜひ会わせたい。きっとブライトンの話で盛り上がるだろう。
「ところで、ショウはいつ大分に戻るん?」
「あれ?ロレーナから聞いてるかと思ってました。実は大阪に引っ越してきたんですよ。こっちでとりあえずバイトして、お金が貯まったらまたスペインに行くんです。」
「え!?そうなん?!」
ロレーナはにこにこしながら言った。
「私たち、結婚も考えて一緒に暮らすことにしたの。」
「僕も彼女も、現時点では結婚という形にこだわってるわけじゃないんですけど、いろいろビザのこととか考えても、結婚を視野に入れて、それに向けて生活していくのがいいと思ったんです。」
私は驚きとともに二人のかもし出すハッピーオーラの正体に気がついた。
「わあ、おめでとう!」
ロレーナがトイレに行ったので、私たちは自然と日本語で喋りはじめた。
「ところで和歌子さんは彼氏とかいないんですか?」
私は苦笑した。なぜかその質問をしばらく受けていなかった。
「おらんよ。それに今は、自分のことで精一杯やし、友達とこうして時々ビール飲んで、語れたらそれで十分幸せやしね。」
私は正直な自分の気持ちを言った。
「和歌子さん、ロンドンにいたんですよね。その時はどんな生活してたんですか?」
「どんな生活って?」
「僕はブライトンに3ヶ月だけだったけど、ロンドンってやっぱり特別っていうか、やっぱり観光客であふれてるし、色々見るとこも多いから、違った生活だったのかなって。」
ショウはビールを飲みながら、低いよく通る声で言った。
「そうやな。けっこう日本人の友達も多かったし、自分が英語できるようになってからは、イギリス人の友達もできたけど、遊んでばっかりやったよ。」
「彼氏とかはいなかったんですか?」
「うーん、不思議とそんな気持ちになれんかったんよな。なんか、今もそうなんやけど、自分から積極的に誘ったりとかできへんし、色んな人に会うのは楽しいんやけど、いまいち恋愛モードになりにくいんやな。」
私はロンドンでの学校生活、そしてバイト生活を思い出しながら話した。働いていたインド料理屋は親切な人ばかりだったし、おかげでインド料理に使うスパイスにもくわしくなった。スペイン人の友達と出かけるときはいつも約束の時間より30分ほど遅れていくのが正解であることや、イタリア人はとにかく食べ物を褒めるとご機嫌になること。
「それって分かりますね。僕のクラスはほとんどがイタリア人で、時々彼らがイタリア語で喋りだすと、ちょっとムカついたりとかしてました。」
「ラテン系の人の会話は早くてとめどないよな。うちら大阪人でもお手上げやわ。」
ロレーナが戻ってきて、私たちに尋ねてきた。
「日本語の会話って、なんか平坦で、なに話してるのか検討もつかないよ。日本人って、怒ったり叫んだりするの?」
「もちろんするよ!人によるけど。」
ショウが大げさに彼女に言い、私も笑いながらうなずいた。
「そうやで。とくに普段言い子ぶってる分、キレると豹変する人、けっこういてるんやから。」
「ああ、怖いなー。キレる日本人。」
ロレーナは肩をすくめて笑った。
「それはそうと、和歌子、マラガにいつか遊びに来てよ。私たちは、クリスマスに行くんだよ。」
「そうなんや。もちろんマラガ、行ってみたい!スペインはマドリッドとバルセロナだけしか行ってないから」
私が言うと、ショウがすぐに言った。
「マラガすっごくいいとこですよ。モロッコまでもフェリーですぐだし、人も優しいし‥美人も多いし。」
二人の説明を聞いているうちに、ますますスペインに興味が出てきた。何語も喋れない焦燥感からの脱出には、勉強が一番であり、今一番覚えたいのはスペイン語であるからだ。私もショウのように語学留学すべきか?ちょっと本気で考えてみようかと思い始めていた。
ビールを2杯飲んだところで、私たちはお開きにすることにした。何しろ二人は大阪に住んでいるのだから、いつでも会えることが分かったわけだし、しかも私は二人の邪魔をこれ以上したくない。
パブから出たところでショウはタバコを買いに行き、私とロレーナは彼女の学校生活について話しはじめた。
彼女のクラスメイトはとても国際色豊かで、アメリカ人、中国人、ウズベキスタン人と、それぞれ違う文化を持った人ばかりで面白いらしい。大人しそうな女性の先生も、なかなかお茶目な一面があるという。何にしても、日本を楽しんでくれているようで、良かった。
その時、商店街の向こうから、鮮やかなブルーがこちらに来るのが見えた。雑踏の中でもよく目立つその髪の持ち主は、絶対にアキラだと思った。
私はロレーナの会話を聞きながら、目で彼女を追った。こちらには全く気がついていないが、商店街の店をキョロキョロしながら、こちらに歩いてくる。
「ごめん、ロレーナ、なんかあそこにいるの友達みたい。」
ロレーナは私の視線の先を見ながら、
「あ、そうなの?気にしないで、話しかけに行って行って」
と私の肩に手を置きながら言った。
「うん‥でも、こっちに歩いてきてる。」
そういえば、最近アキラの姿を見ていなかったので、心配していたところだった。アキラは何かを探しているようだったが、ふいに満面の笑顔になり、隣の女性に話しかけた。その女性は背が高く、アキラとの身長差はゆうに20センチはありそうだった。
私たちの目の前に来ても気がつかないアキラに、声をかけた。
「アキラ!」
アキラは驚いた表情で私に振り向き、少しだけばつの悪そうな顔をした。
「和歌子!ビックリした。なにしてるん?」
アキラは全くのすっぴんのようで、ブルーの髪も洗いざらいでくしゃくしゃだった。
「友達と飲んでて‥ここのパブで。アキラこそ、なにしてるん?最近見かけんかったから、ちょっと心配してたんやで。どうなんその後?」
「ああ‥別になんも変わりないで。相変わらずリリーで真琴さんにこき使われて、毎日あっという間に過ぎてるかな。」
「そうなん、そんならいいけど‥」
私は隣の女性をふと見やった。にこにこと微笑んでいる彼女は驚くほどの美人で、まるでモデルか芸能人だ。きっちりと施された化粧は実に品がよく、栗色の髪は輝いていた。無地の黒いTシャツはアキラと同じものなのか。シンプルなジーンズから出た長い足はロレーナのそれを上回るものだった。
「アキラ、こちらの眩しすぎる女性は、友達?」
私は、妙に緊張しながら尋ねた。
「あ、うん。和歌子、会ったこと、あるやろ。『ナオミちゃん』。」
「お久しぶりです。和歌子さん。」
頭を下げる美女を見て私は困惑した。会ったことがあっただろうか。
「えっと‥」
「以前バーニ先生の家でお会いしました。」
私は記憶をたどり、ある美少女の姿を思い出した。
まさか。まるで別人ではないか。しかも、どこから見ても高校生には見えない。
「うわ‥驚いた。綺麗な子やとは思ったけど‥。」
私はまじまじと彼女の顔を見ながら言った。制服やメイクのせいだけではない。前回とはまるで雰囲気が違っている。
「ごめん、和歌子、うちら急いでて、また家で会おう。ほなまたね。」
アキラはそそくさと去り、美女は振り返ってまた頭を下げた。
その後ろ姿を見ていると、すれ違う人のほとんどが美女を振り返っているのに気がついた。無理もない。
「なにか危険ですね。」
呆然とする私の横から急に声がした。いつのまにか戻ってきていたショウに、私は全く気がついていなかった。
「うわー、和歌子、今の子、めっちゃ綺麗だったね!!」
無邪気に美女を褒めるロレーナに対して、ショウはまったく笑っておらず、真剣な表情でアキラたちの後ろ姿をまだ見ていた。私はなぜか、二人の間に立っている。
「今の、和歌子さんの友達ですか?」
「え?あ、うん。そうやけど。お隣でな、青い髪の方が。もう一人は、知り合いやな。」
ショウは小さく首を振った。
「良くないかもしれませんね。彼女と付き合うのは。」
私のほうを一切見ずにショウは静かに続けた。
「特に青い髪の女性は、危険なオーラを発しています。話をしていないし短い時間だったので責任は持てませんが、一見脆いようで強い負のオーラと人を巻き込む強い力を持っているようです。もう一人の方は、違うタイプですが、これもかなりやっかいですね。」
私は、口を開けたまま、自分がみるみるけげんな表情になっていくのを感じた。
「ちょっと‥一体なに言ってんの?」
するとロレーナが英語で私に言った。
「和歌子、ショウにはね、不思議な力があるの。大阪に来たのも、占い師としての仕事が見つかったからで‥。
でも、ショウ。どうしたの?普段は自分からそんなこと絶対言わないじゃない。とくに初対面の人には引かれるから言わないって。今日も絶対に言わないでくれって私に言ったのに。」
ロレーナはショウに少し責めるような口調で言った。
「そうだよ。普通はね。あの二人は普通じゃない。めったにあんな強い気を感じることはない。和歌子さん、頭のおかしい奴だと思ってくれてかまわない。あの友達とは距離を置いたほうがいい。」
私は混乱しながら、ショウの真剣なまなざしを見つめた。たしかに頭のおかしな奴だ。どうかしているんじゃないか。
ただ、その真剣なまなざしを見ていると、それが少なくとも彼にとっては冗談ではないことが分かった。
アキラとあの少女は、もうとっくに人ごみの中に消えていた。
目の前には、黒いギネスのグラスがあり、小さな白い泡が底から次々と上に向かって浮かび上がっている。
ショウとロレーナと私は、再び同じパブに戻ってきたのだった。偶然会ったアキラとナオミちゃんについて、ショウはどうしても物申したいことがあるらしい。
「それで、和歌子さんとあの女性の関係は、お隣さんで友達、ということですね?」
「そう。あ、でも最近はあんまし会ってへんかったな。アパートでばったり会うってこともなかったし。」
私は最近はあまりアキラに会っていなかったことも思い返してみた。マーク失踪事件から、心配していたのもつかの間、アキラはここ最近私を頼ってくることが少なくなっていた。
「まず、僕のことを少し紹介させてください。和歌子さんにはいずれ話すつもりだったんです、どうせ。」
ショウはそう言ってから、ギネスを持ち上げ、ごくりと一口飲んで、小さなため息をついた。
「僕は小さい頃から、少し変わった特技、いや違うな。特徴みたいなものがあったんです。人の本質というか、本性みたいなものが見えることがあった。それは最初は無意識だったけれど、だんだん意識的にもできるようになりました。それは訓練みたいなものだったかもしれません。
小学校の3年生の頃、クラスに転校生がやってきました。その子は東京からの転校生で、女の子でした。いつもむっつりしていて、まるでいやいや毎日学校に来ているようでした。僕は意識的にその女の子を『見て』みることにしました。ちょうどその時、僕の斜め前の席が彼女の席だったからです。
すると恐ろしいものが見えた。
押入れのような場所に大人の男性の死体が、体育座りみたいになって、まるで詰め込まれるように収まっている様子が見えました。なぜ眠っているのではなく死体だと分かったのか。 それは、彼の首に青黒い痣があり、あきらかに首を絞められた後だと分かりましたし、その頭から血もたくさん出ていたからです。けれどそれは、もうだいぶ時間が経っていたようで、赤黒く変色していました。
今まで意識的に人を『見た』ことはあっても、そんなものを見るのははじめてでした。僕は授業中に、前触れもなくいきなり吐いてしまい、クラス中がちょっとした騒ぎになりました。自分で言うのもなんですが、僕は通常、優等生で通っていたし、人に迷惑をかけることはほとんどなかった。担任も驚いて僕を保健室に連れて行きました。連れて行かれる間際、その転校生の顔をちらりと見やると、怯えたような、気味悪がっているような表情をしていました。
僕は彼女に接触すべきかどうか迷った。
僕が見たものが、何か意味のあることである保証などどこにもないし、第一彼女とは話したこともなかった。夜になると、あの男の顔が出てきて、僕を殺そうと、血まみれで追いかけてくる夢を何度も見るようになった。このままでは自分がおかしくなると思い、今日こそは転校生の彼女に何かしらのアクションを起こそうと決めました。
そして登校した日のことです。学校は騒然となっていて、門にはたくさんの記者とテレビカメラがごったがえしていました。
3年生とはいえ、何が起こったのか理解するには十分でした。
あの転校生の女の子の自宅の押入れから、男性の死体が発見されたのです。彼女の母親は東京で離婚して、大分の実家に戻ってきたところで、殺されていたのは母親の恋人だった。死後2週間以上が経過しており、春先で気温が上昇してきたことによって、その異臭に近所の住民が気がついて通報したとのことでした。
殺したのは転校生の母親で、恋人が自分の娘に、日常的に性的虐待をしていたことが原因だった。これは確かではないのですが、その転校生は、母親にも虐待されていたということが、学校でその後噂されていました。
このことは僕の今までうっすらと疑っていた能力を、確信せざるをえなくなりました。それまでも、人にそのことを話したことはなかったのですが、僕はますます口を閉ざし、独自にその能力について調べた。今ではある程度、自分の能力について理解しているつもりです。」
ショウは淡々と語り、またギネスを持ち上げた。私はふと自分のギネスのことを思い出し、それを見やった。グラスについた水滴が、するりとなめらかに流れ落ちた。
「それって、その、男性の顔とかは、見たりできたの?」
「テレビのニュースで被害者の写真を見ることができました。あの死に顔とは少し違っているような気がしましたけど、僕の夢に出てきた人物と、同じ顔をしていました。」
「そんなことって、、それって、予知能力?違うか。透視とかになるのかな?」
「どちらとも違うのです。それについてはまたお話しするとして。」
ショウは骨ばった手をテーブルの上で組み合わせた。まるで悪巧みでもするような手つきだった。
「あのアキラさんとナオミさんに、僕が何を見たか知りたいですか?」
ショウの見たもの
「あの青い髪の女性、アキラさんですか?あの人が隣に住んでいるのですね。そこはアパートなんですか?」
「そう、私が引っ越してきた時にはもう住んでて。あ、でも最近は、アパートでは見かけてなかってん。」
酔いは一気に冷めていた。ショウの真面目な表情に、私は自分の表情も強張るのを感じた。ロレーナは、黙って聞いていた。彼女はどこまで理解しているのだろう、とふと思った。けれど、彼女を気遣う余裕はなかった。
「和歌子さんのアパートは、わりと広々としているでしょう。日本のアパートにしては、ベランダも広い。外国人向けのアパートか、今はやりのデザイナーズマンションかもしれない。そうですね。」
私は頷いた。
「まず最初に、アキラさんは和歌子さんをとても慕っている。直感のようなものがあったのか、初めて会ったときから好意を持っていたはずです。あなたに自分の深い部分のことまで話した。とてもプライベートなことです。そのことが何であるのか、僕には分かりません。僕は画として見たものを言っているし、そこに僕の想像も含まれています。
あらかじめ言っておきますが、もちろん間違っている可能性もあります。
いいですね。間違っている可能性がある、ということを忘れないでください。
僕は今から見たものを話します。その間、和歌子さんに質問したり、確認したりすることはできません。力を使いながら話をすると、その見たものの記憶があやふやになる可能性があるからです。もし反論したくなっても、まずは最後まで聞いてください。いいですか?」
私はまた頷いた。心臓が、なにか間違った液体を血液のかわりに取り込んでしまったような感覚がした。ぬるくなったギネスを持ち上げ、一口飲んだ。真っ黒なその液体は、何の味もしなかった。
「まずはアキラという女性です。
彼女は幼少期か、少女時代に何か大きな傷になるような体験をしています。そのことで、心に大きな闇を抱えていて、それは今もなお増殖しています。他人と接することよりも、孤独になにかに打ち込むことが多いでしょう。
それは問題ではありません。人間はみな孤独なのですから。問題なのは、自分のそばにいる人間に対しての執着心なのです。それが彼女の中に、尋常ではないエネルギーを作り出しています。それは僕には、深い深い濃紺のような色に映りました。一見は黒く見えるけれど、夜の海のように、深く終わりのない青い色です。
率直に僕の見たものを言いましょう。
彼女はもうアパートにはあまり出入りしていないはずだ。いや、できないのかもしれない。
彼女の家のどこかに、もう生きてはいない生き物を隠しているからです。
残念ながら、それが男性なのか、女性なのか、僕には分かりません。僕が今まで見てきた人の中に、ごくたまにいるのですが、彼女はひょっとしたら僕と同類か、同じような力を持っている可能性があります。ごくたまにそういう人に出会うと分かるのですが、意識的に見ようとすると、ある一定のところまでいくともやがかかって見えなくなるんです。
山の中に入っていくと、突然深い霧に覆われることがありますよね。あれと同じです。
もう一人、アキラさんの隣に女性がいましたね。
彼女については僕の経験の中に全く同じケースがあったので、おそらく間違いないでしょう。彼女は2重人格か、もしくは多重人格者である可能性があります。これがけっこうやっかいなことを巻き起こすのです。彼女の中の、そのうちの1人に、狂気的なことに非常に興味を持った者がいます。これは特別な訓練により、解消することができます。本人が望めば、の話ですが。
あの2人はおそらく付き合っているか、少なくともお互いにとって特別な存在であるということは間違いないでしょう。大きな心配は、2人の強いエネルギーが、なにか不吉なことを生み出すのではないか、ということです。
和歌子さんが信じるかどうかは自由です。ただ、今の家は引っ越しを考えた方がいいのではないでしょうか。なにかあってからでは遅いでしょう。アパートの感じは、だいたいはっきりと見えました。セキュリティーは万全とは言えませんし、隣との行き来はしようと思えばベランダからでも可能だ。」
ショウはギネスを一口飲んで、少し顔をしかめた。不味かったからなのか、これからなにか苦いことを語ろうとしているのか。
「突然こんな不気味なことを言って、本当に申し訳ありません。僕は確かにこういう仕事をしているけれど、別にいつもこうなわけじゃない。特に強い力を感じた時のみです。
先ほど僕の体験をお話しましたよね?僕はあのあと強い後悔に襲われた。僕が見たことには意味があって、彼女を助けることができたかもしれないと思った。もうそんな思いをしたくないのです。分かっていただけますか?」
私は、「ええ」と言ったつもりだったが、声は出ていなかった。
「今度もし良かったら家に行かせてください。何かもっと見えるかもしれない。」
「ちょっと待って。」
ショウは目を大きく見開いて、私の次の言葉を待っていた。
「ちょい待ち。てゆうか、頭ついていかれへんわ。それって、アキラは誰かを殺して、それを家に隠してるって、そう言うの?」
声を小さくして、私は言った。隣の席にがやがやと若者の集団がやってきて、私の声をかき消した。
「その可能性があると言っているんです。さっきも言ったように、間違っている可能性は、もちろんあります。僕はもちろん、それを望んでいます。」
私はこの後のことをぼんやりと考えた。
電車に乗って枚方まで帰り、暗くなった住宅街を1人で歩き、『死体がある可能性のある』アパートに帰る。とてもじゃないが、よく眠れるとは思えなかった。
「大丈夫ですか?和歌子さん。もし良かったら、一緒に僕たちのホテルに泊まってはどうですか。」
「いや、大丈夫。私の母、大阪に住んでんねん。もしあれやったらそっちに泊まるから。」
「そうですか。」
ロレーナの方を見ると、やはり神妙な顔をしていた。
「ロレーナ、話の内容、わかった?」
「全然。でもとても深刻なことなのね。」
彼女は眉をひそめながら私に言った。
「とてもとても、深刻なことなのよ。」
私は深くため息をついた。この毒のなさそうな青年に会ったことを、少し後悔していた。それとも、彼の言っていることが本当であったなら、むしろ感謝すべきことなのだろうか。私は途方に暮れた気分になった。
私はふと大切なことを思い出して、ショウに言った。
「ショウくん、お願いだから、私のことは見ないでちょうだいね。」
ショウは口の端をキュッとあげて微笑んだ。
「努力します。」
あからさまに上を向いてため息をついた私に、ショウはまた言った。
「大丈夫です。本当に普段は普通の大人しい青年なんですよ。嫌いにならないでくださいね。」
どこが大人しいのだか。と思ったが、言わなかった。
「努力するわ。」
私たちはその後ビールを飲み終わると別れた。私は母親に連絡をとることにした。
ショウが引き起こしたもの
ショウが本当にサイキックなのだとしたら、アキラは要注意人物、そしてナオミは多重人格者ということになる。
アキラが仮に殺人者だとすると、まず思い浮かぶのはマークしかいない。マークの養女、セネガル出身の少女を探すと聞いて、アキラは逆上する。あのアキラのことだ。激しく動揺したはずだ。マークはそれをなだめようとしたが、アキラの激しい怒りは収まらず、殺害してしまった。アキラはどうしていいのか分からず、その死体をクローゼットの中にでも隠した。その後手紙を持って私のところへ来た。あの手紙は、マークが書いたものだろうか。それともアキラが?
馬鹿な。アキラはとてもユニークだが、人を殺したりするような人間ではない。私は首を振った。
しかしながら、長年ともに生活してきた恋人から、衝撃的な事実を聞かされ、その上、その少女を探すという理由で別れを告げられたのだ。大きく動揺しても無理はない。もともとアキラは、心配になるほど脆いところがあった。アキラの体じゅうのタトゥーを見ただけでも、普通でないことは明らかだった。彼女は衝動的になる瞬間が、定期的にあったのかもしれない。
マークに私が会ったのはいつだっただろう。おそらく1ヶ月は経っているはずだ。その次の日、アキラがパニックになってやって来た。
マークの手紙をもう一度読みたい。おそらくアキラが持っているのだろう。もしくはあの部屋のどこかにあるのではないか。もう一度読み直せば、なにか重要なことが分かるかもしれない。
母の家、私の実家に行こうと思っていたが、今日はどうにもそんな気分になれないし、場所を変えたところでよく眠れるとも思えなかった。そんなとき、電話が鳴った。バーニからだ。なんともいいタイミングだ。
「もしもしバーニ?」
「和歌子?ちょっと聞きたいことあってかけたんだよね。今大丈夫?」
「うん。私もちょうど話したいことあってん!でも、先言うて。」
「そう?実は、和歌子覚えてるかな。うちの高校の生徒で英語クラブの子のことなんだけど。」
「もしかして、ナオミって子のこと?」
「そうそう!なんで分かったの?!実はね、最近全く学校に来てなくて、どうやらアキラと一緒にいるらしいの。」
「実はやな、今日心斎橋でロレーナたちと飲んでて、その2人にバッタリ会うたで。」
「そうなの?!それが、ナオミのクラスの担任が、ナオミが学校を無断欠席してて心配してて、両親にも学校来てないこと伝えたんだけど、ちょっとした問題になっててね。
アキラが学校に来てたこともあったらしくて、ほら、彼女って目立つでしょ?タトゥーめっちゃあるしさ。髪ブルーだし。学校関係にはちょっと異質ってゆうか。それで、私つい、アキラが隣人だってこと話したのね、ナオミの担任に。」
「そうなんや。それで、ナオミちゃんの様子を聞かれたってわけやな。」
「そうそう、それで、アキラについて教えて欲しいって言われたわけ。てゆーか、ナオミとアキラが一緒にいるなら、学校にはちゃんと来るように説得してくれって。ナオミの親にも連絡したらしいんだけど、それが、担任が言うにはね、、。」
「何?」
「親は放任主義なんか、あんまり心配してるふうじゃなかったらしいの。ナオミって、一人暮らししてるらしくて、親は京都にいるんだけどね。」
「へえ。高校生で1人暮らしか。京都やったら、通えへん距離でもないのにな。」
「そう。何か特別な理由があって寮に住んでる子はいるけどさ。例えば、うちの学校ってサッカーが強いから、サッカー推薦とかならわかるのよ。でも、ナオミはただの英語クラブで、特別にうちの学校でなきゃいけない理由もなく、1人暮らししてるわけ。進学校だけど、取り立ててってわけじゃないの。あ、サッカー部の顧問の先生って、ちょーホットなの!和歌子に言ったことあったっけ? カッコイイんだよね。」
「いや、ないけど、今はどうでもええよな。まあ、珍しいかもしれへんね、それで1人暮らしは。ナオミちゃんて、何年生なん?」
「1年生。」
「ほなまだ16歳かなんかやな?」
「そうなの!それで親に、あんま学校来てないって言っても心配されてないってことで、担任は、何か家庭にも問題があるんじゃないかって勘ぐってたの。」
「なるほどね。まあ、そうなるんかな、学校的には。」
「うん。それにね、その担任の先生が妙なこと言うんだよね。」
「妙なことって?」
バーニは少しの間沈黙して、ガサガサと音を立てた。換気扇の音がする。
「今、家にいるん?」
「そうそう、ちょっとワイン注ぐから待ってくれる?えーっと、これ飲んでいい?何これ?イタリアワインだね。」
「ええよ。誰かにもらったやつちゃう?イタリアワイン、そんな好きやないねん。それで?」
「えーっと、あ、そうそう。ナオミがな、授業中におかしくなったらしいねん。」
「その担任の授業で?」
「そう、あれ?違ったっけかな?とにかく、英語で叫んだらしいのよ。だから何て言ったか分からなかったって。」
「英語じゃない授業で?」
「そうなの!英語じゃなく、現代社会か、なんかのやつでね。だからクラスの子たちもビックリしたらしいの。ナオミって、フランス人とのハーフなんだよ、綺麗でさ。まあ、英語もよく出来るけど、ネイティブなわけじゃないし、変でしょう?」
「確かにね。」
「普段は日本語でちゃんと喋ってるし、すごく変な出来事だったって。その次の日から、ナオミは学校に来てない。1週間になるらしいの。ちなみに、英語クラブには、もっと前から来てない。もともと、ゆるゆるの部活だしね。」
「そっか。にしても、何て叫んだのか、気になるな。」
「だよねー!しかもその先生が言うにはさ。あ、やっぱり担任の先生の授業だわ!現代社会で中国との関係について喋ってて、他の生徒の1人が中国に何かしらの恨みがあるのか、興奮して弁論大会みたいになったんだって。でも、ナオミが叫んだのはその内容についてじゃなかった。」
「何だったんだろう?」
「うーん。明日、英語クラブの子に聞いてみようかな。おっと、明日は日曜日か!イエイ!月曜日だわね。ナオミと同じクラスの子がいるから。ただ、ナオミって友達とか、全然いない子だからね。誰かといるとこ見たことないし。なんて言うのかな。イッピキオオカミ?」
「すごいやん。そんな日本語知ってるん?」
「オオカミって、クールじゃない?そうでしょ?それに、日本語のことわざ覚えるの、好きよ。」
ことわざではないが、まあ、いいだろう。バーニが私に日本語で喋ってくれたことはほとんどないのだが、たまにこうして、珍しい(彼女的に)日本語だけは言ってくる。おそらく使い方を確認したいのだろう。
「アキラはナオミと一緒にいるのかな?さっきピンポンしたけどいなかったし、最近全然会わないし。」
「アキラはたぶん、ナオミの家にいるんやないかな?私も全然会ってないよ、アパートでは。」
「ところで、和歌子の方の話って、何だったの?」
「うーん。複雑極まりないんやな、これが。ちょっと、会ってから話そうかな。」
「和歌子、今どこなん?」
「今、なんば」
「早く帰っておいでよ。まだ私、起きてるから。」
「本当は今日、浜寺の実家に帰るつもりやってんけどな。うん、帰ることにするわ。バーニ、眠くなったら、寝てや。あと1時間はかかるよって。」
「今、11時か。起きて待ってるよ。明日は日曜日だしね。最近、私たちだって、全然喋ってないでしょ?」
「確かにな。バーニ、いっこ変なこと頼んでええかな?」
「何?」
「アキラの部屋に侵入したいねん。」
「え?何?」
「ベランダから侵入できるかもしれへんやろ。もし、アキラが窓の鍵閉め忘れてたら。」
「和歌子、それって犯罪なんじゃ」
「分かってる。でも、何も部屋荒らそうってやないねん。ただ、手紙を見つけたいだけ。ほら、マークの手紙のこと、覚えてるやろ?」
「ああ。」
「アキラはずっと家に帰ってへん。だから窓もきっちり閉めてる可能性が高いけど、アキラのことや。開けたままにしてるかも。」
「なんでマークの手紙をそんなに必要としてるの?」
「それを説明するには、複雑なんや。帰ったら、説明するから。」
「ふーん。ま、ベランダつながってるしね。ちょっと行ってみて窓が開いてるか確認する。それだったらやってもいいよ。でも、侵入するのは、和歌子がやってよ!私、教師としての立場ってもんがあるんだから。」
「ごもっとも。それでええよ。」
「オッケー!気をつけてね。タクシー使えば?」
「あいにく、お金ないもんでね。ライターの仕事、文句ばっか言われて減ってるしな。クビなるんちゃう、近いうち。」
「好きなことで稼ぐって大変なのよ。好きなじゃない仕事で稼ぐのも、せつないもんだけど。」
「とにかく、またあとでね。」
「オッケー。」
私はバーニと喋りながら、早足で地下鉄乗り場へと移動した。
まずは、マークの手紙をどうしても読みたい。それは好奇心なのか、切迫感からなのか、分からなかったが、何もしないことはできない。
ショウのあの真剣な表情。何と言っても、とても嘘を言っているようには見えなかった。アキラのことも心配だ。
今出来ること、それが結果としてまちがっていても、確かめなければ今夜は眠れないと思った。酔っ払いが千鳥足で、「お姉さん、忙しい?!」と聞いてきたので、「とても。」と答えながら家路へ急いだ。
侵入
アパートに帰ると、バーニはスカイプでイギリスの友達と喋っていた。
「あ、和歌子おかえり!ベランダまだ行ってないの。ちょうど友達からスカイプきてさ。ごめんね!」
「いいよ。私じゃあちょっと見てくる。」
ベランダはアキラの部屋とつながっている。仕切りがあることはあるが、行けないことはない。私は裸足でベランダに出た。さっきまで歩いていた外の風は、涼しく気持ちが良かった。手すりを両手で掴み、体を持ち上げて、乗り越えた。その先には平らな屋根になっている。奥行きは2メートルほどあり、コンクリートで丈夫なものだ。その上を歩いたって、問題はない。私はゆっくりと屋根の上に降り立った。念のため慎重に一歩ずつ歩く。屋根の上に降り立つのには慣れている。なぜかと言うと、ロンドンのフラットで、時々天気の良い日は屋根の上でビールを飲んでいた。大きな窓があったがベランダはなく、窓から外に出るだけで、簡単に外に出れた。
屋根の上から見る景色って、ちょっと違うんだな。
私は暗闇に包まれた、見慣れた景色を見渡した。公園のベンチが、オレンジ色の電灯に照らされて、ぼうっと浮かび上がっている。
アキラのベランダまでは5歩くらいで着いた。作りは私たちのと全く同じである。私は、さっきと同様、手すりをつかんで、軽く勢いをつけて体を持ち上げた。
アキラのベランダには物はほとんどなく、私たちの部屋との仕切りのそばに、発泡スチロールの箱が置かれていた。中にはおそらく何か重みのあるものが入っているのだろう。でなきゃ風で吹き飛ばされてしまう。
ドアを慎重に見てみる。カーテンがぴったりと閉められていた。いや、これはカーテンではなく、ただの布のようだ。鍵はかかっているか。
私は、かかっていないことを期待しながら、同時に、かかっていてくれとも思った。この部屋に私を侵入させないで。矛盾しているけれど、確かな恐怖が少なからずあった。
鍵の箇所を見る。暗くてよく見えない。明かりは私たちのベランダから漏れ出ている、電灯の光だけだ。
私はドアにてをかけ、そっと横にスライドさせた。
カラカラカラ。
ドアは開いている!私は一瞬ひるんだが、迷わずドアを開けた。カーテン代わりの紺色の分厚い布、おそらくどこか外国製なのだろう、それをそっと開けて、アキラの部屋に入った。このドアは開けておこう、と心の中でつぶやいた。
アキラの部屋は、以前訪れた時と、なんら変わっていなかった。絵の具の匂いと、エキゾチックなお香の匂い。そして、大きなブッダの青い絵が、存在感を示していた。まずは明かりだ。私はランプのスイッチを入れ、部屋は赤い色に照らされた。
あまり色々なものに触れるのは良くない。まずは手紙を見つけることだ。ソファの上には、書類が乱雑に散らばっている。どれもA4サイズの白い紙で、印刷されているのは、日本語のものも、英語のものもあった。マークの手紙は英語で書かれたものだった。この中に紛れていないだろうか。
「メリダとシオンの物語」がすぐに見つかった。アキラと一緒に考えた、狼の話だ。きちんと端をホチキスで留めてあった。表紙がついていて、そこに、Akira&Naomiと書かれていた。おや?私の名前は端折られている。まあ大した問題ではない。事実、ゴーストライターとして働いているのだから、名前を端折られることには慣れている。
マークの手紙はどこだろう。そもそもあれは、封筒に入っていたのだろうか。パソコンで書かれ、プリントアウトされたものだった。
パソコン。
部屋の真ん中には、分厚い本が10冊くらい積み上げられ、その上にノートパソコンが乗っていた。
マークはパソコンであの手紙を書いた。このパソコンを使ったのではないか。アキラはこう言っていた。
「スーツケースやらなくなってるし、ロンドンに行ったんやと思う。もともと物をたくさん持ってる人とちゃうし。」
マークは物をたくさん持つタイプではなかった。パソコンをアキラと共同で使っていたことは、十分考えられる。それなら履歴が残っているはずだ。保存していれば、の話だが。
私はノートパソコンに近寄り、3秒ほど迷ってからそれを開いた。立ち上がるのに妙に時間がかかった。ザーという音をパソコンは発し、まるで、長い眠りを妨げられて、腹を立てているようだった。しかも、主人ではない知らない人間によって。
ようやく立ち上がった画面には、パスワードを打ち込まなければならなかったが、それは容易だった。キーボードに、小さなメモが貼り付けてあり、そこに記してあったからだ。注意深くそれを打ち込んだ。
ファイルを開くと、そこには英語しか並んでいなかった。アキラは自分の絵を、日本でというよりは、イギリスのサイトを使って売ろうとしていた。ドキュメントを開くと、ようやくそこには日本語のものもあった。
・日本とヨーロッパのアートを探る
・イギリス美術と美術館巡り
・仏教思想
・ブッダの地探訪
ライター顔負けの興味深いタイトルがそこには並んでいた。
Dear Akira
そのタイトルを見つけるのに時間はかからなかった。ビンゴだ!マークはやはりこのパソコンで手紙を書いていた。そして、保存していた。
私はその画面をそのままにして、すばやく再びベランダに出た。さっきと同じように物音に気を付けながら、しかしできる限り急いで。
部屋ではバーニがまだスカイプをしていた。
「和歌子、どうだった?手紙あった?」
「そんなとこ!」
私は自分の部屋に小走りで向かい、そしてパソコンに差したままになっているUSBメモリを抜き取った。そしてまたアキラの部屋に戻る。心臓が早鐘のように鳴っているし、頭の中で警告音が鳴っている。私はそれを無視しようとしている。
「ごめんな、アキラ。」
つぶやきながら、アキラの部屋へ再び侵入。そしてマークの手紙を保存した。
意外な客
マークの手紙を読み返しながら、私は頭を抱えていた。
やはり、もう一度読み返してみると、細かいところまで把握することができた。アキラがどんな思いでこれを読み返していたのか、できる限りリアルに想像しようとしたが、一度思いついてしまった考えをぬぐえずにいた。
それは、この手紙は、アキラの手によって書かれたのではないか、ということである。
まず、根本的なことだが、この手紙は長すぎるように思う。マークがどんな人物だったのか、私は知らないけれど、男性は一貫して、長い手紙というものが嫌いなものである。(もちろん人によるから、一概には言えないが)
そして、どうしても、『マークの娘の話』は信じがたい。現実離れしているということと、そんな大切なことを、2年もの間恋人に言わずに過ごせるものだろうか、と不思議になった。
この手紙は、複雑極まりないことを、何とかして分かりやすく伝えようという熱意が感じられ、それはそのまま、マークが誠実であろうとした、ということになるのだろうか。
この手紙を発見した後、アキラはパニックになってやってきた。そして、私に手紙を読ませて、状況を説明した。
私は、アキラのパソコンから、いくつか他の記事もコピーしていた。悪いとは思ったけれど、そのタイトルはとても興味深いものだったし、単純に読んでみたかったのだ。
仏像に関する記事やエッセイ、そしてアートに関する論文。
それらはどれも、うまくまとまっており、今すぐにでもライターとして働けるくらいだった。
英語の論文もあった。
それは、色の組み合わせに関する研究で、おそらく学校の授業の一環だったのではないかと思った。
ここでもう一度マークの手紙を読んでみる。
私は、英語をしゃべることに比べると、読むのは苦手である。ところが、このマークの手紙は、最初に読んだ時も感じたけれど、読みやすい文体だ。
私たち日本人が、臨機応変に日本語をくだけさせたり、面白くするためはしょったりすることはよくあるように、イギリス人も、英語をくだけさせたり、皮肉っぽくアレンジしたりする。
それがこの手紙にはないのだ。
私は何度も手紙を読み返して、それが学校の教科書のように、正しい英語で書かれたものであることに気が付いた。
マークは教師だったのだから、正しい英語を使うのは当然だったかもしれない。けれど、自分の彼女に、しかも、英語で普段から会話している彼女に対して、先生である必要はなかったはずだ。
もしくは、言いにくい内容だったから、かしこまった文章にしたというのだろうか。
しばらく考えを巡らせてもらちがあかず、しかも次の日はあいにく出勤しなければならない日だった。こんな時に限って仕事が来るものだ。
私はマークの手紙について引き続き考えを巡らせていたけれど、結局何の収穫もないまま、仕事を終えて帰宅した。
アパートに帰るとバーニが洗濯物を干しているところだった。
「あ、和歌子おかえり!」
「ただいまバーニ。って、洗濯夜やってるなんて、珍しいやん。」
「朝慌ててたから、脱水かけたまま家出ちゃってさあ。しわくちゃだけど、もう一回洗濯するのも何だし、もう気にせず干してんの!」
「へえ。朝私そんな早くなかったから、知ってたら干したったのに。」
「それは悪いでしょう、さすがに。」
バーニはブラを丁寧に洗濯バサミではさみながら、『その手があったか』というような表情をしていた。何となく、彼女の考えることは分かってきた、今日この頃である。
「そういえば和歌子!今日学校で、ナオミの担任と話したわけよ。」
「ああ、例のナオミが叫んだ件?」
「そうなのそうなの。でね、ナオミが叫んだのは、『私はあなたのこと許してる』って」
「え?何?」
「I have already forgived you!って、叫んだらしいよ。けっこうこれ調べるの大変だったわけよ。その担任の先生覚えてなくてさあ、生徒たちも、一言一句覚えてる子なんていなくて、何人かにインタビューして回って、やっと聞き出したんだから。ったく、探偵じゃないっつうのに。」
「あなたを許してる、か。うーん、やっぱ妙やな。何のことか分からへん。」
「でしょー?ある子はね、へんなものに取りつかれているんじゃないかって言うのよ。ナオミって、不思議な子だからね。」
「なるほどね。」
私はショウの言っていたことを思い出した。
『彼女は二重人格か、もしくは多重人格でしょう。経験があるので間違いないと思います。』
「で、和歌子、昨日のガサ入れうまくいったの?」
バーニの声はなぜか若干浮かれており、探偵気分にでもなっているのかもしれなかった。
「うん。手紙は見つけたで。でも、どうも謎が多くてな。」
「アキラといえば謎でしょ!あんな可愛い顔してんのに、タトゥーだらけだし髪ブルーだし。30過ぎた女子のやることから大きく外れてるよね。絶対何かあったんだと思う。」
「うん・・・。」
私は、ショウの言っていたことをバーニに話すのを結局やめた。何となく、これは私とアキラの間のことであるような気がしたからだ。家に侵入しておいて言うのもなんだけど、私はアキラのことが好きだからだ。
ふと思い出して、財布の中から一枚の名刺を取り出した。その名刺には、赤いバラの絵が描かれていた。そこの電話番号を確認し、自分の部屋に戻ってかけてみた。時間は10時すぎ。おそらく、いるはずだ。
「はい、リリーですけど」
電話の向こうで、ハスキーな声がぶっきらぼうに言った。
「真琴さん。お久しぶりです。私、和歌子です、アキラの隣の」
「おおー!和歌子、元気か?なんやあれから全然来てくれへんやないか。デートもええけどたまには顔拝ませてや。」
「そんな相手いませんよ。それより、今日アキラ来てます?」
「実はな、和歌子。ダメ元で頼んでええかな?」
真琴さんは急に小声になって言った。
「お願い!うちの仕事、手伝ってくれへんか?ただ立っとくだけでよろし。店番や。俺が出かけてる間だけ!」
「え?って、アキラは・・・」
「めっちゃ心配してんねん!あいつ昨日から無断欠勤や。そんなこと今まで一度もなかってんけど。今日も来てへん。」
「昨日から?ケータイには、かけてみました?」
「つながらん。おそらく電源、切ってるで。今日あたりさすがに連絡あるやろ思っててんけどな。和歌子、来れへんか?ただ立っとくだけで、時給900円。せめておれが出かける12時までだけでも!」
「別にいいですよ。今日はもう仕事終わったとこだから。そっちでアキラのことについて聞きたいこともあるんです。」
「よっしゃー!和歌子!恩に着るで!あ、そういやさっき、変な客来たで。和歌子の知り合いみたいやったけど。」
「誰ですか?」
「なかなかの男前や。好青年っていうかな。アキラに用があるゆうてたけど、今日はまだ来てない言うたら、じゃあいいです、って。ほんで、やっぱり和歌子さんに聞くのが筋やとかなんとかブツブツ言うとったな。変な奴や。」
「細身で髪に軽くウェーブのかかった?」
「そうそう、たぶんそいつやろ。ほんじゃ、頼むで!ほんの2時間程度!」
真琴はそう言って電話を切った。
ショウがLilyに現れた。一体何の用だったのだろう。