秘密の関係
フェイスブックの投稿を眺めている時、私は時間を殺しているような気分になる。退屈なのに、思わず見入ってしまう。とくになんの目的もなく見ているのだ。
だが今日は違う。決定的に違う。
午前7時。私は高校に行かなければならないし、そのために、早くパジャマを脱いで制服に着替えなければならない。殺すような時間が、余っているわけではないのだ。
フェイスブックにて、私は彼女の名前を入力し、必死で検索している。その名前は平凡すぎて、たくさんの名前の中から彼女を見つけるのは至難の業だといえた。しかも、中性的なその名前により、検索数は計り知れない。
「Akira Sato」
昨日、英語クラブの顧問の先生宅で出会った女性の名前。私は彼女が腰につけていた皮のポーチに、刺繍がしてあるのを見て取った。そのことを今朝思い出し、こうしてその名前をフェイスブックで探している。もう1時間くらい経つだろうか。
バー二先生の家には、先生の友達がいて、一緒に住んでいるという女性は、綺麗な人だった。長い黒髪はさらさらで、黒縁眼鏡のよく似合う、知的な印象の人だった。和歌子というその人が淹れてくれた紅茶は、とても美味しかった。私の両親はコーヒー派で、紅茶を丁寧に淹れてもらった経験などなかったから、その温かさは心に染みる味だった。
和歌子さんの後ろにいたその女性を目にした時、とても不思議なことが起こった。
体中が急に火照り、血管が広がるような、心臓の位置が変わったような気分になった。そんなことになったのは初めてだし、それは妙だったが、嫌な気持ちではなかった。
アキラというその女性は、華奢で、大きな瞳をしていて、不思議な雰囲気を持っていた。私は彼女から目が離せず、多分長い間見つめていた。彼女が私と目が合ったとき、にこりと微笑んで、その瞬間から私の心臓は早鐘のように鳴っていた。
先輩たちが英語でバー二先生と喋っていたけれど、何も頭に入らず、私はチラチラとアキラさんを見ていた。
アキラさんはシンプルな白いTシャツにブルーのカーディガンを羽織り、髪は無造作に片方にまとめられていた。その髪は綺麗なブルーだった。化粧などしていなかったが、とにかく肌がきれいだった。
何でもいいから彼女に話しかけたいと思った。
「I really like your hair.How did you dye it?Did you go to a hair dresser?」
なんとか質問することができた。アキラさんは私を見て、またにっこりと笑った。
「No,I didn’t.I dyed this by my self.」
アキラさんの頬にあるえくぼを見た時、私の胸はなぜか苦しくなった。彼女が美しいからか、彼女の笑顔が素敵だからか、彼女の英語がかっこいいからか、またはそのどれもだと思った。
ただ私は最初に見た時から知っていた。彼女は特別な人だと。
東京から大阪に引っ越してきて、高校では、この引っ込み思案な性格で、なかなか馴染めずにいる。正直言って、大阪弁で友達が早口で喋っていると、何を話しているのか分からない。英語クラブで英語を話しているときの方が、自分らしくいられるような気がする。
私は、フェイスブックで彼女を探すことを諦め、仕方なく身支度をした。
高校に入ってから1ヶ月と少し。ゴールデンウィークが明けると、少しだけ喋れるようになったクラスの友達に対して、またシャイになってしまっている。こんな引っ込み思案の性格を直したいと、以前から思っているけれど、なかなかそれは難しい。
インターナショナルスクールにいた頃、香港人の友達と仲良くしていて、いつも私たちは一緒だった。その子は、チェリーという背の高い女の子で、いつも読んだ本の話を二人でしていた。次第にお互いに感想を交換するようになり、交換日記に、読んだ本の評論の文章を書いてはその話ばかりしていた。
高校に入る前に、私は大阪へ、チェリーは香港へ引っ越した。お互い大人しくて、親しい友達と呼べるのはお互いしかいなかった。
大阪に引っ越したのは、1つに父の画家としての仕事が減ってきたことがある。母の実家は京都の宇治で旅館を営んでおり、父も母も、そこで働くことになったのである。
私は、母の妹が現在ニューヨークで暮らしているために、空き部屋となった部屋に住むことになった。父と母は、私に、一人暮らしの経験を若いうちからしておくことを勧め、毎月決まった金額でやりくりするように、また、アルバイトはせずにきちんと勉強することをルールとした。
父と母はとても仲がよく、私は一人っ子なのでいつもたくさんの話し合いを設けてくれた。何か大きな決断をするときには、必ず私は彼らの意見を聞いたし、とくに反対意見を持ったこともない。京都の宇治までは車で40分ほど。会いたければいつでも会えるので、私は一人暮らしをすることになった。
私は通学路の途中で、ふと考えを変えた。今日は漢文の小さなテストがあるだけで、その他ではとくに重要なことはなかったはずだ。それに、科学の授業で、同じ班の女子にいつも何かと文句を言われることを思い出した。決定的に文句を言われるのではなく、私がセットしたアルコールランプなどを、理由をつけて彼女がセットし直すのだ。彼女は基本的に私が話しかけても無視する。1時間目が科学だったはずだ。そして3、4時間目は体育。その時間も、ペアになるとき私はなかなか相手を見つけられずにいる。それに体育は昔から大の苦手だ。
今日一日、学校をサボってみよう。
私は高鳴る胸をおさえてケータイを取り出し、高校に病欠の連絡を入れた。事務員の女性の、機械的な返事を聞きながら、拍子抜けしてしまった。なんだ、簡単なものだ。
さて、これからどうしよう。今まで学校をサボったことなど一度もない。
私はすでに考えていることがあった。昨日訪れたバー二先生の家を、思い出せるかぎり探してみよう、と。昨日は、行きも帰りも先生の車で送ってもらったから確実に覚えているとはいえないが、高校からそう離れてはいなかった。
アキラさんがバー二先生と和歌子さんの隣人であるということは、もちろん覚えている。先生の家の周りをうろうろしているうちに、うまくすれば会えるかもしれない。
私は軽い足取りで歩き始めた。その感覚は私にとって、完全に新しいもので、自由を感じた。
1時間ほど歩いていると、見覚えのある小さなスーパーを発見した。きっと近くだと確信した私は、辺りを見回しながら歩き続けた。
「あの、もしかしてどこかお探しですか?」
住宅街にずんずん入っていったとき、ふいに声をかけられた。その男性は少し離れた私の左側に立っていた。私が少しの間黙っていると、
「あ、すんません、急に話しかけたりして。その‥道に迷ってるんやったら案内できたらなって思て‥」
若い男性は目をぱちぱちさせながらそう言った。
「えっと‥そうなんですけど、はっきり覚えてないから説明できないんです。大丈夫です、自分で探しますから。」
私はそう言って断った。以前にも何度かこうして話しかけられたことがあるが、話を続けるとどこまでも付いてくる可能性があるので、きっぱりと断るに限ると思った。
「でも、このへん住宅街やから見つけにくいよって‥どんな家お探しなんですか?」
私は歩き続けていた足をとめて彼を見た。
彼はハーフか、それとも外国人だった。私はハーフなので、仲間を見つけることはたまにある。インターナショナルスクールにいた頃はたくさんいたが、現在の高校では、まだ私はハーフの友達に出会っていない。
「‥アパートなんですけど、外国っぽい作りになってて、バルコニーがあって、多分黄土色、でした。」
「ふーーーむ、ヨーロッパぽい概観で、3階建てくらいの?」
「はい、たぶん3階建てでした。」
彼は、なんとなく知っているような気がする、と言って、やはり案内すると言った。
私は自分で、どうかしていると思わずにはいられなかった。約束しているわけでもないし、会える保証もないというのに、見ず知らずの男性に案内をしてもらっている。両親が知ったら腰を抜かすだろうし、なんて無用心で隙があるのだと、激怒するだろう。
「ごめん、失礼やったら本当にごめんなんやけど、君、ハーフ?」
隣でしばらく黙っていた彼が尋ねた。
「はい、そうです。失礼ですけど、あなたは?」
私は、ハーフかどうか質問されるのには慣れているので、別に尋ねられても嫌な気持ちにはならない。ただ、この男性は私よりも明らかに日本人らしくない顔立ちで、170センチある私より、10センチ以上確実に背が高い。
「僕もハーフ。父親がイギリス人で、母親がフィリピン人なんだ。」
日本人の血は入っていないのか、それで日本在住は珍しいなと思いながら、私も自然に答えた。
「私は、父親がフランス人で、母親が日本人。」
「そうなんや。」
その後、私たちは15分ほど歩き回っていた。彼が予想していた建物は、バー二先生の家ではなかった。彼は何度も謝って、もう1つ心当たりがあると言った。
この近辺には外国チックな建物が多いということに気が付いた。ノスタルジックというか、ヴィンテージ感があって、歩いていると不思議と落ち着いた気分になる。
「君、この近くの晴秀高校やね、制服懐かしいわ。僕もそこの出身で、2年前まで通ってたんやで。」
「え?先輩なんですか?」
彼は、自分は20歳で大学生であることを話した。その大学は、京都の有名私立大学の1つであった。
彼の髪は綺麗なブラウンでゆるやかにカールしており、肩まである。肌はどちらかというと色白で、瞳は薄い茶色とグレーが混ざったような、複雑な色をしている。
気が付かなかったが、彼のことを見たことがあるような気がしてきた。それもごく最近のことだ。だが、いつ、どこでなのか全く思い出せなかった。
私たちが目的のアパートを見つけたのは、それからまもなくだった。彼はいかにも安心した表情で、「あーー良かったーーー!」とため息をついた。
「ありがとうございました。」
私は向かい合って頭を下げた。
「うん。見つかってほんまに良かったね。ほな、バイバイ」
彼はくるりと向きを変えて走っていった。私はその後姿を見ながら、親切な人だと思っていた。
以前、見知らぬ人に話しかけられた時は、電話番号を聞かれて大変だった。今日も、別れ際に聞かれるのではないかと、内心心配していた自分は、なんて自信過剰だったのだろう。
私は、昨日と同じ場所であることを再度確認した。来たはいいけど、これからどうするつもりなのだろう。また鼓動が早くなり、そして急に不安になってきた。
アキラさんに恋人がいないわけがない。家に行ったら、その彼氏に出くわしてしまうかもしれない。そしたらなんて言えばいいのだろう。その後どんな風に自分を励ましたらいいのだろう。
けれど、今このアパートに一人でいるかもしれない。私が行ったら快くドアを開けてくれ、中で色々な話ができるかもしれない。第一、今ここで何もせずに帰って、学校も休んでいるのにどこに行ったらいいのか分からない。
私はしばらくアパートの前でじっと考え、その後エントランスに入った。そこはロビーになっていて、ドアの横にはステンドグラスがあった。その場所はとても美しく、また落ち着く雰囲気を持っていた。私はそこにあった棚にもたれ、ふたたびどうしようか迷い始めた。
意を決して訪れたアキラさんの部屋(バー二先生の左隣の部屋だと聞いていた)には誰もいなかった。私は考えたあげく、自分の電話番号と名前を書いた紙をポストに入れることにした。
『突然、ごめんなさい。私は昨日バー二先生の家でお会いしたミュラーナオミという者です。昨日お話したとき、ノルマンディーに行った事があると聞いたので、少しお話が聞けたらと思って寄ってみました。もし迷惑でなかったらメールを下さると嬉しいです。』
持っていたメモに電話番号と名前を書き、その番号が合っているかどうか何度も確認した。ポストに入れるのにまたしばらく迷ったが、結局それを滑り込ませ、足早に立ち去った。
メールは来るだろうか。来たらなんて返そうか。そんなことを考えながら、私はあてもなく歩き始めた。
LILIYにて
アキラのことが心配ながらも、次の日私たちは仕事に行かなければならず、仕方なくアキラを一人家に残して出かけた。
私は仕事帰りに、梅田にあるHISに寄った。ロンドンまでの航空券の値段を聞くためだ。一番安い航空券は、大韓航空と、ターキッシュエアライン(トルコ航空)で、どちらも往復12万から14万の間だった。その後すぐにアキラに電話してみると、一日中ずっと私たちの部屋にいたという。
「和歌子?ありがとう。おいててくれたDVD,全部見たで。あと、作ってくれてたチャーハンめっちゃ美味しかった、ありがとう。」
「ほんま?よかったわ。体調どう?なにかマークから連絡は?」
「なんもない。でも体調はええよ。今日はどうしてもバーのバイト休まれへんから、あと1時間もしたら出かけるわ。ちょうど、自分の部屋帰ろうとしてたとこやねん。」
「あ、そうなんや。えーと、枚方の、なんてバーやったっけ?」
「Lily ってバー。駅裏の、ちょっとさびれたとこにあんねん。」
「そうなんや。行ってみよかな、あとで」
「えー、来てや。アドレスメールで送るわ。」
その電話とほぼ同時に、私はロレーナからメールを受け取った。一杯飲まない?とのお誘いだった。私は枚方でもいいかと彼女に聞き、一緒にアキラの働いているLilyに行くことにした。
ロレーナは颯爽と枚方の駅に現れ、デニム素材のシャツに、白いジーンズをさらりと着こなし、私を見つけると満面の笑顔になった。
「和歌子、久しぶり!会いたかったよー。」
私たちはキス、ハグして近況報告をしながら駅裏へと歩き出した。スペイン人は両頬に1回ずつキスするのが普通である。イギリスにいた頃のスペイン人の友達らは、可能な限りスペイン文化を私に教えてくれようとした。表裏のない彼らの雰囲気が、大好きだった。
「うちらの隣に住んでる、友達が働いてるバーやねん。私も今日初めて行くんやけど‥えっと、このへんのはず‥」
Bar Lilyと書かれた看板を見つけたのは、駅から歩き始めて10分くらいしてからだった。その看板は黒板で、チョークアートで百合の花とマルガリータの絵が描かれていた。とてもお洒落な雰囲気だが、、うっかりすると見落としてしまうほど小さな店で、バーというよりスナックのような雰囲気である。
中に入ると、店内は薄暗く、赤い絨毯が敷き詰められていた。カウンターと、テーブル席が2つ。その狭い店内にはややそぐわない雰囲気の豪華なソファやガラステーブルが目立っている。
「わーーほんまに来てくれたんや!!」
アキラはブルーの髪をオールバックにし、黒いシャツをぱりっと着こなしていた。カウンター内には、ワイングラスやバーボングラスが綺麗に並べられ、それらは磨き上げられていた。
「アキラ、友達のロレーナ。スペイン出身で、日本語勉強してる」
「はじめまして、ロレーナです。スペインから、来ました。日本が、大好きです。」
ロレーナは日本語でアキラに自己紹介をした。
「すごい、日本語上手や!ごめんなさい、私スペイン語できひんわ。」
「大丈夫、英語も、話せます。」
彼女は両手でさえぎるようなジェスチャーをしながら、アキラに説明した。
「和歌子が、あなたは英語も流暢に喋るって、話してくれたから。」
その後英語でそう言うと、私とアキラの顔と見合わせてにっこりと笑った。
店内に客はおらず、アキラは心なしかいつもよりテンションが高く、カウンター内をすばやく動き回りながら、私たちのためにジントニックを作った。
アキラはしきりにロレーナに質問し、あいづちを打ったり笑ったりしている。まるで昨日の事件などなかったかのように、いたって普通に見え、てきぱきと仕事していた。
アキラが話し上手なのは知っていたけれど、バーカウンターの中にいる彼女は、もっと落ち着いていて、聞き上手でもあり、それはプロのバーテンの仕事だと感じた。私はふと、彼女はいつもこうして一人で働いているのか、気になった。
「アキラ、もしかして店長なん?」
アキラは洗い物をしながら顔を上げ、「まさか!」と言った。
「オーナーがいつも、10時くらいに出勤してくんねん。私は開店して、彼女が閉店する。もう一人バイトがいて、その子と私でシフト組んでるんだ。だから基本的には、一人か、オーナーと二人。」
「へーーえ、そうなんや。なんかゆるそうでええな。オーナーって、女性?」
「うん‥そうやで」
「アキラ、どのくらいここで働いてるの?」
ロレーナが聞いた。
「もう半年なるかな。バーで働いてたのは若い頃にもあったから、カクテルはある程度作り慣れてたんやけど、ここのオーナー、昔バーテンダーコンテストで準優勝したことあって、カクテルに関してめっちゃ厳しいねん。」
私はカクテルについての知識はないが、その世界が奥深いものであることは、十分承知している。
「へえ、私はいつもワインばっかりだから、たまにカクテル飲むときは、なんかお金持ちになった気分になるよ。」
「カクテルゆうても色々あるしね。サングリアだって言うたらカクテルやし、シャンディガフなんてビールにジンジャーエール混ぜただけやし。」
「そっか、私も少し、勉強してみようかな。」
「ロレーナ、興味あるん?」
「うん、日本に来てから、ワイン買ってよく一人で飲んでるけど、美味しいワインってとにかく高くて。スペインではワインすごく安いから。なにか日常的に飲めるカクテル自分で作りたいなって思ってたの。」
アキラはロレーナの話を、真剣に、興味深そうに聞いていた。
「たしかに、スペインワインは質もいいし、値段も手ごろなものが多いよね。リヨハRijocaは、うちのオーナーのお気に入りやわ。日本で買うのは馬鹿らしいやろ。高い税金かかってるし。」
「そうなの!私もリヨハが好きで、この前買おうとしたんだけど、高くて、買わなかった。」
私もそのワインは好きである。スペイン人のように、日常的にワインを飲む文化は、日本にはない。きっと、お手ごろで味もまあまあ良いワインが、ここでも見つかるはずだが。
「ジントニック好きなんやったら、トムコリンズなんておすすめやけど。」
「なに、それ?」
アキラの作ったジントニックは、きりっとドライで、爽やかに喉に流れ込んでくる。
「ジンベースの、いたってシンプルなカクテルやねん。シェイカーに、ジンとシロップとレモンジュース入れて、氷と一緒にシェイクして、それをグラスに注いで、サイダーで割る。」
「シェイカーがなかったら?」
私とバーニの家にはあるのだが、ロレーナはきっと持っていないだろう。
「なかったら、小さいグラスでよく混ぜてから、サイダーで割ったらええよ。なんでもええねん、入ったら一緒やねんから。家飲みやったらね。」
「そっかー!やってみる!ジンとシロップと、レモン‥」
私たちはしばらくの間、どんなお酒が好きか、などの話で盛り上がっていた。
その後、新しいお客さんがやってきて、アキラはそちらにかかりきりになった。親しい常連さんのようで、会話はやけにはずんでいた。
「和歌子、ここすごく落ち着くね。アキラもすっごくフレンドリーで優しいし。すごく気に入った、ここ。」
ロレーナは2杯目にトムコリンズをオーダーし、そこに浮かんだチェリーを口に運びながらそう言った。
「本当やね。特にこの椅子めっちゃ気持ちええわ。重要やねんな、すわり心地って。私らみたいに年とってくると、よけいな。」
「またそんなこと言って‥。ところで、アキラって何歳なの?すごく若そうに見えるけど。」
「同い年やで」
ロレーナは目を丸くして、自分自身を指差した。
「ちゃうちゃう、私と。」
「もーーー。ホントに日本人の女の子って、みんっな見た目若すぎの詐欺師だわ!」
その時入り口から、「おはよう、アキラ」と言いながら誰かが入ってきた。
私はその人物がオーナーだと、なかなか気づくことができなかった。アキラは、女性のオーナー、だと言ったからだ。
「おはようございます。真琴さん、夕方、氷屋のおっさん来えへんでしたよ。」
「ほんまか、あの海坊主またさぼりおって。あとで電話しとくわ、残りどのくらいや?」
「あと2本すね。」
「2本あったら、今日は足るやろ。ほな明日、美由紀に頼んだらええな。
なんやこれ‥アキラおまえ、氷ボールにすんの、相変わらず下手くそやな。言うたやろ、時間勝負やねんからいつまでも握り締めとったらあかんねん。めっちゃいびつやないか、今日のやつ。こんなんで、誰もバーボンやらウイスキーやら、飲みたないで。意固地ならんとゴム手袋使え言うてるやろ、いつも。
あ?使うた?‥ほな完全に練習不足やな。明日1本おまえのために余計に注文するから、暇なときひたすら氷と友達なれや、ええな?」
彼らの業務連絡に、耳をそばだてるつもりなど毛頭なかった。ただ、その「女性オーナー」に目が釘付けになってしまったのだ。
長身ですらりとした長い手足、ショートヘアは鮮やかな赤色で、刈り上げているが前下がりボブスタイルのようになっている。ワンレングスの間から、高い鼻が見て取れる。メイクは全くしていないが、切れ長のすっきりした目元には、アイラインを入れているかもしれない。
アキラと揃いの、黒の長袖のシャツの袖をまくると、そこには、大きな赤と黒のバラのタトゥーが見えた。タバコに火をつけながら、長いエプロンを腰に巻いている。細いが肩幅は広く、その胸の部分に、ふくらみは全くない。と言うより、とにかく、この人は、男性のように見える。
「真琴さん、紹介します。こちら和歌子で、私のお隣さん、とその友達ロレーナ。」
私は真琴というその人を、じろじろ見すぎていないだろうか。そんな不安が頭をよぎった。
「はじめまして。私、アキラの隣人で、友人の、和歌子です。」
真琴は眉毛を少し動かして小さくうなずき、ロレーナに目をやった。
「はじめまして、ロレーナです、スペインから、来ました。日本が、大好きです。」
ロレーナは、先ほどのアキラに対する自己紹介よりも、明らかに緊張した様子で、そう言った。
真琴は、くわえていたタバコを、アキラを見ることもなしに彼女に渡し、大げさにひざまずいた。アキラは、そんな真琴の行動に、慣れているように見えた。
「はじめまして、真琴です。二人ともすげーべっぴんさんすね。こんな場末のバーに来てくれて、ほんまおおきにです。」
上目遣いで私たち二人を交互に見つめながら言った。
「美人さんは、いつでも歓迎やで。アキラが友達連れてくるんも初めてやから、めっちゃ興味あるわ。どうやってこいつ落としたん?」
「真琴さん、やめてくださいよ、ほんまに友達やねんから。」
「ふーん、ま、ええけど。誰が知るん?先のことなんか、わからへんで。」
真琴の声はハスキーで、男にしては高く、女にしては低い。まるで、宝塚の男役のようだ。年齢が全く予想できない。肌の感じからして35,6という気もするし、40前半かもしれない。いや、全く予想がつかない。
ロレーナはささやいてきた。
「和歌子、男の人?それとも女の人?それとも‥」
『多分、そのどちらも。』
私たちは声をそろえてそう言い無言でうなずきあった。
私は、よくよく店内を眺めてみることにした。清潔感があり、ものが少ないが、たしかにこだわり抜かれたゴージャス感。真琴のセンスなのだろう。彼のタトゥーもバラの絵だったが、店のいたるところにバラが飾られている。このカウンターの、私の目の前にもバラの一輪挿しがあり、それは生花だ。
タカラジェンヌ真琴は、もう一人のお客さんに話しかけた。そのお客さんは女性で、おそらく真琴目当てで来ているのだろうと思われた。女性は、男性に対して出す猫なで声のような喋り方をしている。
アキラが私たちの元にやってきた。
「私、このまま忙しくならんかったら11時であがりやねん。和歌子それまでいるんやったら一緒に帰らへん?」
「うん、そちろん、そのつもりやで。」
「あっ、私そろそろ帰らないと!明日も学校だし、宿題やらないといけないから。」
ロレーナが慌しく帰り支度を始めた。私たちは近いうちにまた必ず会うことを約束した。
「アディオス!!」
真琴がカウンターの端からロレーナに声をかけ、手をあげてウインクした。
「ohhh ありがとう。」
ロレーナは感動した表情で、真琴に投げキッスをして帰っていった。
アキラがもう一人のお客さんのもとに行き、代わりに真琴が、私の前に来た。
「和歌子も、アキラみたく英語ぺらぺらなんやな。あ、スペイン語か?」
真琴は、カウンターの中にある、小さな冷蔵庫の上に腰掛けながらそう言った。
「一応日常会話程度は‥私もイギリス留学してたから。」
「あ、なるほどね。おれも英語習いたいんやけど、いつも3日坊主になってまうねん。仕事忙しいやら何やらいいわけしてな。」
「ははは」
真琴の顔を正面から見ると、小さな顔を取り囲む赤い髪は彼に本当によく似合っている。アキラと並んでいると青と赤のコントラストが美しい。
「さっきも言うたけど、アキラがここに友達連れてきたん、初めてやねん。あいつ友達おらんから、時々心配やって。‥仲良うしったてな。めっちゃええやつやねんけど、時々頭おかしなるのと、誤解されやすいとこあるから。」
真琴はタバコを持っている手でアキラを指し、少し声のボリュームを下げて私にそう言った。
「はい、でもアキラめっちゃええ子やし、うちら共通点も多いから。」
「まじで?和歌子もタトゥー中毒なん?」
「いえ!私はタトゥー入れてへんけど‥」
「ええことや。タトゥーは簡単に消されへんから、入れる前はよく考えな。アキラは完全に麻痺してもうてる。」
「うーん、そやけど私、彼女のブッダのタトゥー好きやけど」
「ああ、たしかにあれ綺麗やな。おい、アキラ」
アキラは「はい、」と言ってすぐに振り向いた。高校球児のようにすがすがしい上下関係を思わせる。
「お前のブッダのタトゥー、和歌子好きやって。良かったな」
「ほんまに!?」
アキラは瞳を輝かせながらそう言った。
「うん。ほんまに。なんていうか、神秘的やったわ。」
真琴が、ピスタチオを綺麗なガラスの皿に盛って、さりげなく出した。
「こいつ、わざわざ京都の有名な彫師のとこ通って、半年かけてあのタトゥー入れたんや。遊びでしょうもないタトゥー自分で入れてるけど、ブッダだけは質にこだわりたい言うて。」
たしかに、あのブッダはまるで絵画のように、洗練され、平和的で、それでいてとても大胆な構図だった。有名彫師と聞いても驚かない。
アキラはほどなくして勤務を終え、真琴が一杯おごると言ったが、それに対してアキラは、今日は帰ると断っていた。なにやらひそひそとカウンター内で話しており、真琴の驚いた表情からすると、マークが出て行ったことを伝えたのではないかという気がした。真琴は「大丈夫か?」と心配そうにささやき、「なんとか」とアキラは返していた。
帰り道、アキラは小さくため息をつきながら、
「ごめんな、驚いたやろ。真琴さん、普通の女性やなくて。今朝言いそびれてん。和歌子ほんまに来てくれるとは、そん時思わんかったし。」
「たしかにビックリしたけど‥めっちゃ素敵な人やね。惚れそうやったわ。」
私は笑いながらそう言った。
「真琴さんは、本業はシナリオライターなんや、実は。本人は隠したがるけど、知らん?加納 類、って。」
その名前を、私は知らなかったが、アキラによると、ここ数年人気の脚本家だということだ。そのことを聞いて、なるほど、と思った。あのオーラは、普通の人が発していたものではなかった。
「真琴さんの脚本の仕事が忙しくなると、真琴さんの妹さんがかわりに来はるんねん。あ、その人はノンケなんやけどな。」
アキラは、真琴は自分の兄のようだとも説明した。いつも気にかけてくれ、相談に乗ってくれるという。
「和歌子やから言っても大丈夫やと思って言うけど、真琴さんの彼女って、女優の岬 理恵名やねん。それはさすがに知ってるやろ?」
彼女の名はもちろん知っている。実力派女優として、いくつか賞もとっていたはずで、私たちとそう歳も変わらなかったはずだ。もちろん美人だが、愛らしい顔というより、クールな美人タイプで、長い黒髪ロングで、シャンプーのCMに出ているのを、つい最近見た。
「彼女、たまに店来んねん。前触れなしに。ほんで私は、突然、その日はバイト終わり、なんてこともあってな。もちろん話したことあるけど、あんまり好きちゃうわ。いつも機嫌悪いし。」
「そうなん。」
アキラは真琴のことについて話し、私は心底興味深く聞いていた。私は正直、真琴のことも気になるけれど、アキラが、どういう立ち位置であの店で働いているのかが気になった。
「アキラは、あの店ではやっぱその‥レズビアンってことになってるん?」
アキラは少し考えてから言った。
「私がそうじゃないのはもちろん真琴さんは知ってる。でも、お客さんの中には、私に会いにわざわざ来てくれる人もいてるから、あえて否定はせえへん。私もこの仕事、やっぱけっこう好きやから。」
「うん。今日アキラ見てて思ったよ。気配りしたり、ほどよく冗談も言って、とにかく私たちは居心地良かったもん。向いてるんだよ。」
アキラは照れながら、
「ありがとう。でも真琴さんに比べたら、まだまだ自分なんかおよびもせんわ。あの人の気配りってさりげないんやけどタイミングばっちりやし、がんばってる雰囲気全くないのに、ものすごい努力家やねん。」
「うん、それもなんとなく、分かる気がする。」
「自分があの人みたいにバーテンなるかは別にして、心底尊敬してる人。」
歩き続けて30分、我が家が近づいてきた。
「それで、アキラ、どうするん?マークのことは。」
アキラはうつむいたまま、
「とりあえず、待ってみる。ここで今までどおり生活しながら。しばらくたっても何もなかったら、またそん時考える。」
「そっか。」
私は、ロンドン行きの飛行機のことを考えていた。
どうなるかは分からないけれど、アキラと一緒に行くならそれもいいかな、と、もうすでに思い始めていた。でもそれはアキラ次第だから、彼女が行きたければ、きっと私も行くし、行かないなら、私も行かない。
誰かについていく旅など、一度もしたことはない。でも、アキラとだったら、それもいいのかな、とぼんやりと思っていた。
ナオミ
アキラさんからメールを受け取ったのは、私がメモを残してから2日後のことだった。
『ナオミちゃん、アキラです。
わざわざ家に寄ってくれて、ありがとう。もちろん、いつでもノルマンディーのこととか、なんでも話そう。私はたいてい夜は仕事してるけど、ほとんど家か、たまにギャラリーに出向く程度で、時間の融通は利くよ。ナオミちゃんのほうが忙しいと思うから。時間が空いたときでも、いつでもメールしてね。 』
私はすぐに返事を返した。
『ありがとうございます。私は土日なら学校がないからいつでも大丈夫なんですが、今週の土日はお忙しいですか?』
『日曜日やったら夕方まで何もないよ。どっかでお茶でもしようか』
『はい、ぜひお願いします。』
アキラさんの返信は、早くはないけれど、確実に何時間か以内には返ってきた。日曜日まで、私は指折り数えて日々を過ごし、着て行く服を考え、会話に困ったときの話題を考え、アキラさんを褒める言葉を考えた。それがやりすぎにならないよう気をつけながら、慎重に考えた。
私はそれらを書き留めたかったので、ノートに書き始めたが、ふと新しいノートを買うことを思い立った。近くの雑貨屋に行き、鍵のかかるノートを購入した。それは1500円と、かなり高価だったけれど、きちんと鍵がかかり、しかも私の好きなゴッホのひまわりの絵のデザインだったので、迷わず決めた。このノートを買った分は、どこかで節約しなければ、とも思った。
私は思いのままに書き綴り始めた。
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『アキラさんという人に出会って、声を聞き、目を見た時、私の体のなかに変化が起きた。
鼓動は早くなり、妙に落ち着かないのに、ずっと彼女を見ていたい、もっと話がしたいと思っていた。
こんな気持ちは気が早いかもしれないけど、私の頭の中には、運命という言葉がよぎった。なぜかは分からないけれど、彼女のそばにいたい。隣にいたい、と思った。
心の中を見ることができたなら、私の今の心が何色なのか見てみたい。
どうかアキラさんの髪の色みたいな、ブルーでありますように。
どうかアキラさんの心の色と、少しでも共通点がありますように。
彼女をとりまく世界が幸せであることを願うとき、同時にそこに私もいたいと思う。彼女の愛する人が私じゃなくても、違う形でそばにいられないだろうか。
友達や、妹のような存在だと思ってもらうことができれば、もっと長い間一緒にいられるんじゃないか。
ああ、私は今彼女からのメールを受け取り、もうすぐ目と目を合わせて話をすることができる。それだけでも幸せなことなのに、どうしてこんなに苦しくて泣きそうな気分になるの?
こんな気持ちは初めてだけど、それはとても新しいものであり、懐かしい気持ちにもなる。
私の体のすべてのパーツが、いつもと違うと言っている。
私の中のすべての声が、彼女は他の人と違う、と言っている。』
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日曜日の朝、私は早く起きて熱いシャワーを浴び、お気に入りの服に着替えた。
それはブルーのワンピースで、さらりとしたシルクっぽい素材が気に入っていた。
待ち合わせの場所はアキラさんが選んでくれた。それは枚方の駅にほど近い喫茶店で、それはカフェではなく、昔ながらの喫茶店、であった。私は約束の時間の30分前に到着し、先に店内に入り、ロイヤルミルクティーを注文した。
「ごめん、ナオミちゃん、だいぶ待ったんちゃう?」
約束の時間の5分前になった頃、アキラさんがやってきた。前回とはうって変わってきっちりした黒いシャツを着ていて、綺麗なブルーの髪はオールバックになっていた。外はそんなに寒くないのに、黒皮のジャケットを着ていた。
「いえ、全然。今来たところです。」
多分、生まれて初めて、私の声は分かりやすいほど裏返ってしまった。
アキラさんは笑いながら、
「はは、んなアホな。注文してもう飲んでるやんか。ごめんな、待たせて。」
「‥いえ、そんな‥」
もっと気の利いたいいわけがしたいのに、緊張してしまって、思うように喋れない。
アキラさんはエスプレッソを注文し、それからほほえみながら言った。
「メッセージありがとう。高校生とどんなとこ行ったらええんか分からんから、もう自分のお気に入りの喫茶店にしてもうた。
ここ、すぐ分かった?私のお気に入りの喫茶店やねん。窓がステンドグラスで、未だにこのインベーダーゲームのテーブルっていうのがたまらんくてな。インベーダーゲーム、知ってる?」
私は、ここのテーブルがゲーム盤になっているこのシステムが不思議だったので、素直に知らないと答えた。
「そうやろそうやろ。うちら世代にしても、かなりのオールドファッションやわ。化石もんやで、ここの喫茶店。ここ、ジュークボックスもあんねんで。あ、それも知らんやんな?」
アキラさんは、喫茶店にあるオールドファッションな設備について説明してくれた。私はその話を真剣に聞こうとしたが、アキラさんの目を見るのが精一杯で、なかなか内容が入ってこなかった。
ジュークボックスというのは、BGMが選べるらしいということは分かったが、インベーダーゲームについてはよく分からなかった。しかも私はゲームをしたことがないので、専門用語らしき言葉も理解できなかった。
とにかく落ち着かなくては。落ち着いて話を聞かなければ。考えてきた質問をして、ただ会いたかっただけ、ということがバレないようにしなければいけない。
「アキラさん、聞きたいことがあるんです。」
「お、何でも聞いてや。」
アキラさんは、エスプレッソとミネラルウォーターを交互に慌しく飲みながら言った。時間がないのだろうか、とふと気になった。
「私の父は、フランスのノルマンディー出身なんです。
私と母をそこに連れて行ってくれたのは、私が10歳の時でした。私たちが東京に住んでいた頃です。私は今でもよく覚えているんですけど、田舎ってこういう感じなんだ、って子供心に思いました。私、東京で生まれて育ったから、大阪に越してくるまで、東京の下町しか知らなかったんです。」
「東京のどこ?」
「上野です。‥それで、そこに、ノルマンディーに、たぶん2週間くらい滞在しました。
その間、馬に乗ったり、牧場でミルク絞りの体験をしたことを覚えています。ただ、フランスの、父の両親はすでに亡くなっていて、私は父方の祖父母の顔は知らないんです。
私たちは墓地に行きました。そこで母が、お墓の周りの雑草を必死で手入れしていたのを覚えています。周りにはたくさんお墓があって、私はその周りで遊んでいました。
それ以外の記憶は、あまり確かではないんです。楽しかったのは何となく覚えているんですけど、とくに親戚に会った覚えもなくて。
物心ついてから、父に何度か尋ねました。親戚はどうしているのか、またフランスに旅することはあるのか、と。
父は、自分はフランスより日本の方が好きだから、とくに訪れたいとは思わない、と言いました。母に出会ったのは、父が30歳の頃で、母は20歳だったそうです。
父は完璧に日本語が喋れるし、画家なんですけど、大学の美術科で、モデルのバイトをしていた頃に、母と出会ったそうです。」
「お父さん、画家なん?実は私も画家目指してるんやけど。へえ、なんて名前?」
アキラさんは大きな目をさらに見開いて私に尋ねた。私は、緊張しながらもスラスラと、自分が喋っていることに自分で驚いていた。こんな風に自分のことを語ったのは、インターナショナルスクールで、香港人の友達チェリーと喋って以来だと思った。
「ジュリウス ミュラーっていいます。」
アキラさんは記憶をたどるような表情をした。
「あまり有名ではありません。現に、今は母の実家の旅館でその手伝いをしているんです。私が言うのも変なんですけど、とても日本人らしい性格の人で、母の家族とも昔から上手くやっているんです。」
「そうなんや。ええことやんか、お母さんとの仲も、ええんやろうな。」
「はい、両親はとても仲が良くて、私も一人っ子なので、いままで家族で何でも話し合ってやってきました。
それで‥私はというと、なかなか高校になじめなくて、それが、引っ込み思案なこの性格だからだとか、大阪に引っ越してきたせいだとか、いろいろ自分でいいわけしながら悩んでいたんです。
でも、ふと最近、10歳の頃訪れたノルマンディーのこと思い出して、一度一人で訪れてみたいって思ったんです。
アキラさんがこの前、ノルマンディーに行ったことあるって聞いて、その話聞きたいなって思ったんです。私は子供のころに1度訪れただけだから。」
その言葉を聞き終わらないうちに、アキラさんは、はあーっとため息をついた。
「私の話で、ナオミちゃんが求めてるような話できる自信ないわ。
はは‥
そう‥私がノルマンディー行ったのは、私がイギリスのブライトンに留学してから、1年経った頃やった。
私の彼氏の友達、フランスと2重国籍持ってて、パリで生まれ育ったイギリス人やった。‥てゆうか、ほとんどフランス人やってん。田舎でキャンプして、夜通しバカ騒ぎしようってなって、実際、なんもない草原に車で行って、ほんで、音楽大音量でかけて、薬やって飲んで、ただクレイジーな夜を2日間ぶっつづけでやってん。
私はパリには行ったことあったし、私の彼氏はイギリス人やねんけど、パリなんか行きたないって言い張る人やったしね。その友達の彼女と4人で、ほんまいかれた2日間やった。
‥こんな話してええんかな?ごめんな。
でも、そこで過ごしてた時、めっちゃ不思議なことが起こってん。
私は、大自然みたいなものにそれまで触れたことなかったんやな。
ただ広い草原に、雑草だか貴重な草なんか分からんもんがいっぱいあって、夜になったら月の明かりしかなくて、ぼんやり霧が出てた。近くに小川があってな、その音がいつも絶え間なく聞こえてた。
彼氏の友達の犬と一緒に、その小川の上流まで行ってみようと思い立って、どんどん森の中に入っていって、人間の気配なんかなんもない、苔と茂みとただの静けさが漂ってるとこに行った。
そん時急に私、足が鉛みたいに重くなって、急に動かれへんようになってしもた。‥ちなみにそのときは、全くのシラフの状態やってん。
湿った木の根っこが飛び出た地面に、ただへたり込んだ。ほんで動かれへんし、そしたら今度は頭までがんがんしてきて、眠たないのに、目を開けてられへんようになった。
ナオミちゃん、ちなみに私は仏教徒なんやけどな、瞑想しょっちゅうしてんねん。
実はその時した体験が、私にとってはじめての、本当の意味での瞑想やったんや。
私は深いところまで瞑想していった。その時はまだ昼間やってんけど、犬に連れられてきて彼氏が私を見つけた時、もう夕方の6時まわってたんや。約5時間もの間、私は瞑想してた、ゆうことや。
説明すんの難しいんやけど、絶対に眠りこけたりしてなかった。私は、その間にたくさんの自分自身とか、先祖とか、汚い自分の感情とかも見てん。
‥私のその体験は、今も、ここに‥」
私はアキラさんの話に聞き入っていた。ただ、その大きな瞳は、ただ単に潤んでいるのか、涙なのか分からずにいた。けれど、今、完全に、アキラさんの目から大きな涙の粒がこぼれ落ちていた。
「‥ノルマンディーは、私にとって、特別な場所やねん。とにかく‥ごめんな。めっちゃひくし、困らせてるやんな。」
「‥‥‥」
「‥行きたいわ。私も、もう一度、あの場所に。」
アキラさんは、にっこりと私に微笑んだ。くっきりとできたえくぼの中に、涙の粒が一瞬たまり、そしてすぐに、ポロリとこぼれた。
私は、さっきまでの緊張はもうなかった。
店内はとても静かで、私たちの他に客はおらず、店員の気配もなく、ただ夕日がステンドグラスを通して私の顔にまぶしく照りつけた。
「アキラさん、とても、とても、変なこと言っていいですか?」
私の言葉に、アキラさんは黙ってうなずいた。目から黒い涙がしたたり落ちた。アイメイクが落ちてしまう。
アキラさんは、カバンを探り、ハンカチかティッシュか、涙を拭くものを探しているようだ。
私は、ワンピースのポケットからお気に入りのピンク色のハンカチを出して彼女に渡した。
彼女は一瞬迷ったような表情をしたが、それを受け取った。消え入るような声で、ありがと、と言った。
「私、そのアキラさんの体験と全く同じ夢を、何度も見ました。‥昨日の夜も、見たんです。」
アキラさんは、鼻水をすすりあげていた。アイメイクはばっちりしているけれど、ファンデーションは全くしておらず、白い透き通るような肌が、ピンク色に上気し、鼻は真っ赤になっていた。
「‥夢?」
私は、なぜかとても穏やかな気持ちになった。
「はい、その夢、はっきり覚えています。その犬はゴールデンレトリーバーで、エリーという名前でした。その‥瞑想をした後、私の夢はいつも終わってしまうのですが、それ以前のシチュエーションは、全くアキラさんの話と同じです。
その犬は、いつも笑っているような表情をしているんです。だから私もつい安心して、森の奥まで行ってしまったんです。怖かったけど、ただ好奇心と、何かを変えたい気持ちが強くあったんです。」
「‥ちょ、待って。エリーって、その‥犬の名前、私、言うた?」
「いいえ、言ったでしょう?私は夢で見たんです。」
アキラさんは、口を半開きにしたまま私を見て、眉をひそめた。
私は続けた。
「はは‥すみません。ただの私の問題なんです。
昔から友達が少なかったせいか、いつも自分の世界に篭りがちでした。そのうち、見る夢がやけにリアルになってきて、小学校5年の頃、『自家中毒』という精神的な病気になったのをきっかけに、心配した両親は、私を精神科のクリニックへ連れて行きました。
その医者は、私の想像力をできるだけ発散させて、はけ口をつくるように、と両親に言いました。薬も何種類が飲んでいました。
母親は若干心配しすぎるところがあったのですが、父親は、もっと冷静でした。
父は私に、毎日眠りにつく前、なんでもいいから物語を話すようにと言いました。
そして私は、毎日眠る前に、父親に物語を話して聞かせました。
普通の親が童話を読み聞かせる行為と全く逆の状態です。父は私が話し続けるかぎり、話を聞いてくれました。
話しながら眠ると、その影響か、私の作り話と同じような夢を、何度も見ることがありました。‥今の話も、その中のひとつです。」
「‥‥」
アキラさんはもう泣いてはいなかった。ただじっと私を見つめ、その瞳の中にある光は絶えず揺れていた。それとも、彼女の瞳は、実際小刻みに揺れていた。
私は、完全に冷めたロイヤルミルクティーを口に運んだ。たくさん話したので、喉が渇いていた。
「‥ナオミちゃん、なにかその、覚えてる話って他にある?夢ではなくて、自分でそうやって、お父さんに話した話の中で」
「もちろん覚えています。たくさんありますから。」
「もしよかっったら、いややなかったら、聞かせてくれへんかな。その中の、なにか1つ。」
私は、アキラさんの真剣なまなざしを見つめた。その視線は、まっすぐに、明らかに、私に向けられていた。私の鼓動は再び、彼女に初めて出会った時と同じように、早く、高鳴り始めた。
「もちろんです。どんな話がいいですか?」
アキラさんは、照れたような笑顔をうかべ、ゆっくり首を振りながら、エスプレッソの小さなカップを持ち上げた。冷めたエスプレッソは、もっと苦いのではないだろうか。
「何でもええねん。でも、そうやな、動物の出てくる話なんか‥好きやな。」
私は頭の中にある私の物語を探り、その中のひとつを選んだ。
「これは、狼と犬の物語なんです。
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あるところに、とても強い雌の狼がいました。その名前はメリダといいました。
メリダは森の中で一番のハンターであり、美しい狼でした。
毛並みはブロンドに輝き、月の光を受けると銀色にその色を変え、透き通るブルーの瞳の中心は、漆黒とイエローで複雑に輝いていました。
たくさんの雄の狼たちが、彼女と夫婦になりたがりましたが、メリダはそれを望みませんでした。自分より強く美しい存在など、この世には存在しないと考えていたからです。彼女はとても自信家であり、そして努力家でもありました。
ある日、狩りの訓練を彼女が崖で行っていたときのことです。一匹の犬が彼女の前に現れました。
その犬はシベリアンハスキーで、彼女と似たブルーの瞳をしていました。
メリダはもちろんいつものように警戒し、激しく威嚇しました。ところがそのハスキーは、ちっともひるまず、ただ彼女のことをじっと見つめていました。
メリダは言いました。
「ここは私の縄張りよ。早く立ち去りなさい。あんたみたいな犬っコロが来る場所じゃないわ。」
そのハスキーはその後も彼女をしばらく見つめたあと、静かに言いました。
「僕はシオンという名で、犬コロなんかではない。」
メリダは鼻で笑いました。
「この場所にいる限り、おまえに名などないわ。早く立ち去りなさい。」
そう言ったかと思うと、メリダはシオンに飛びかかりました。首の動脈を噛み切るのが、彼女のいつもの狩りのやり方でした。
ところがシオンは、メリダの攻撃を読んだかのように、すばやく彼女の後方にジャンプしてまわり、後ろから彼女に攻めかかってきました。メリダより明らかに小さなその体で、背中にしがみ付きました。
メリダはそのシオンの体を振り払おうとしましたが、いくらやってもシオンは食らい付いていました。
その時、崖の反対側から、別の縄張りから来た狼集団が現れました。以前メリダが襲ったことのある集落の奴らだと、彼女は一瞬にして悟りました。
メリダは背中に食らい付いたシオンをそのままにして、彼らに襲いかかりました。その数はメリダが予想していたよりも多く、彼女を一瞬ひるませました。
その時、背中からシオンがふわりと離れ、狼集団に立ち向かっていきました。その牙はかなり鋭く、さきほどメリダに噛み付いたものとは全くの別物のように見えました。
その戦いは半日におよび、メリダとシオンは、狼集団に勝利しました。
「メリダ。君をひと目見た時から恋に落ちてしまったんだ。
二人で力を合わせて、一緒に生きていかないか。」
傷だらけで、シオンはメリダにそう言いました。
「でも、私は狼であなたはハスキー。そんなの間違っている。」
メリダは言いました。
「間違いって、一体誰が決めるんだ?僕は君を愛してる。君はどうなんだ。」
メリダは、とまどう自分の気持ちに一瞬たじろぎながらも、迷いなく答えました。
「シオン。私も、あなたを愛してる。」
それから、二人の間には、狼犬の子供、ブラウニーが生まれました。
彼の体は決して大きくなかったけれど、そのハンター能力は、成長するにつれて秀でていきました。
ある日、母親であるメリダが、狩りの途中で、恨みを持たれていた狼集団から殺されてしまい、父親のシオンは、その悲しみから、どこかに消えてしまいました。
残されたブラウニーは、一人ぼっちになり、それでも父と母から受け継いだその気の強さとハンター能力により、強く生きていきました。
ブラウニーが成長するにつれ、彼らの暮らす森が、人間によって犯され始めました。
すでに、森の動物たちのボスとして彼らを率いていたブラウニーは、なんとかしようと、先頭をきって人間の住む下界へと偵察に行くことにしました。
そこには小さな小屋があり、老人と少年が暮らしていることを知りました。たくさんの羊を飼っていて、その羊を追い回す役目の犬が、そこにいることも知りました。
ブラウニーは、街を襲う前に、この小さな小屋をまず襲うことを考えました。
羊たちの数はとても多く、それにまぎれるように、一匹の犬が、こちらをじっと見つめているのに気が付きました。
「父さん!」
どんなに遠くからでも、一瞬でそれが父親であると、ブラウニーは悟りました。
そして父親のシオンは、ゆっくりとブラウニーに近づいてきました。そのかたわらには、まだ幼い少年が、あどけない表情で何かをしきりにシオンに話しかけていました。」
________________________________________
アキラさんは真剣なまなざしで私を見つめて言った。
「それで?どうなるの?」
「その続きは、次回へのお楽しみです。」
「えっ?何で?」
私は小さく息を吸ってから言った。
「アキラさんに、次に会う日が早く来るように、おまじないです。今度はいつ会えますか?」
アキラさんは大きく目を開いてから、肩をすくませてにっこり微笑んだ。
「もちろん、すぐに。必ず。」
私の心は相変わらず飛び跳ねるように落ち着かなかったけれど、もう怖くはなかった。素直に自分の気持ちを言うことは、ちっとも怖いことなんかじゃない。
「ナオミちゃん、話すの上手やな。引き込まれるような、落ち着いた、いい声してる。」
「アキラさんの声も、ちょっとハスキーで、かっこいいです。」
ありがと、と言ってアキラさんはおもむろに立ち上がった。トイレに行ったのかと思っていたけれど、彼女が戻ってくると急に音楽が鳴り始めた。
「ジュークボックスに私のお気に入りの曲入れてきてん。何だと思う?」
私は音楽にはあまり詳しくない。
「うーん、全然分かりません。‥洋楽ですか?」
アキラさんはにやりと笑って言った。
「ナオミちゃん、知らんやろな。マッキーやで。もう恋なんてしない。」
流れてきたマッキーの曲を、私は知っていた。いつなのかは覚えていないが、聞いたことがあった。
「知ってます、この曲。好きですよ。」
「ナオミちゃん、狼の話の続き、私が考えてもええかな?今度会うときまでに、考えておくから。」
「アキラさんも、物語考えるの好きなんですか?」
「もちろん。‥ところで、狼とハスキーの息子の名前、何故ブラウニーなん?かわいいけどさ」
「この話考えたときは6年生くらいだったんですけど、母親がよくブラウニーをおやつに作ってくれて、好きだったんです。私、名前考えるの下手なんです。」
アキラさんは、かわいいね、と言ってほほえんだ。
「じゃあ、続きはすぐに考えるから、またメールする。私、これから仕事行かなきゃやからさ。」
「なんの仕事してるんですか?」
「バーやねん、この近くの。」
「残念です。私、入れませんね‥。」
アキラさんは少し考えてから言った。
「別にええんちゃう?来ても。ちょっと大人っぽい格好してれば、ナオミちゃんなら高校生には見えへんやろ。」
「じゃあ‥今夜行ってもいいですか?」
「もちろんウェルカム。8時開店やから。えっと‥これ、私の名刺。」
渡された名刺は、透明のプラスチックの紙で、バラが一輪咲いていた。
和歌子
マークからの連絡は相変わらずなかったが、アキラの様子が落ち着いているので、とりあえず安心していた頃、バー二の生活に異変が見られるようになった。
まず、3日前に泥酔して帰宅し、私は自分の部屋で仕事をしていたけれど、男を連れ帰ってきたのが明らかだった。そしてその後のセックスの声に邪魔され、思うように仕事ができなかった。ヘッドホンで音楽を聴いてなんとかやり過ごしたが、時々ベッドのきしむ音が私の部屋にまで聞こえることがあった。1度ならまだ我慢できるが、それが昨日もまた同じだった。話し声が時々聞こえたが、確かではないが、前回とは別の男のようだった。
今夜も連れ帰ってくるのだろうか。なんとなく怯えた気持ちになっていた。
バー二のことは、知っているようであまり知らない。イギリスにいる間はフェイスブックのやり取りだけだった。
アキラが来たのは夕方になってからだった。
「和歌子、文章書くやんか、ちょっと教えてほしいことあんねんけど」
めずらしくまともなメイクをして、アキラは私の部屋にやってきた。
「うん、今はイギリス滞在記書いてるとこやで。」
「プリンター持ってへんから、プリントアウトさせてもらってもええかな。物語なんやけど‥」
私は彼女のUSBメモリをパソコンに差込み、すぐにプリントアウトした。
それは子供向けの童話のような話で、狼の家族の話だった。だが、完全に途中で終わっている。
「アキラ、これ、続き気になるんやけど、終わり?」
「そこでやな、」
アキラはベッドの上に勢いよく座り、胡坐をかいた。
「一緒に考えてくれへん?この話のつづき。」
アキラは上目遣いでいたずらっぽく言った。
物語を考えるのはもちろん好きだ。
「ええよ、ほな、考えよ。」
私たちは、あれやこれやとアイデアを出し合った。
話は、捨てられた狼犬が父親に再会するところで終わっていた。
アキラと私のアイデアは、時々まったく違うことがあり、それを話し合っているうちにそこから別のアイデアへと発展していった。そんな経験は初めてだったが、とても楽しく興味深い時間だった。私たちは、時間を忘れて、パソコンの前に長い間、並んで座っていた。
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『ブラウニーは、ひと目見た瞬間からそれが父だと分かったが、父の目はかつてのハンターの目ではなくなっていた。なぜそれが父だと分かったのかも、不思議なくらいだった。それは狼犬としての直感なのか、本能なのか、とにかく彼には一発で分かった。ブラウニーは父に言った。
「父さん、ここで何しているんだい?今までどこにいたのさ」
「‥‥」
「答えてよ!」
「すまない。メリダが死んでから、私の心は完全に壊れてしまったんだ。」
狼犬の父はうつむいて言った。ブラウニーとの距離は10メートルくらいあったが、彼らは会話をすることができた。
「私はメリダが死んだ時、一度死んでしまったんだ。森をうろつき、狼に食われそうになりながら、なんとか食べて生きていた。
ある日小川で水を飲もうとしたとき、ついにふらついて倒れた。私は半身水に浸かりながら、このまま死んでいくだろうと確信した。
メリダに会えるのなら、それでいい。むしろそれが自分の望みだと思った。私はしばらく視界が闇になり、周りの音も一切の匂いも感じなかった。
どれくらいの時間がたったのか、私にはまったく分からなかった。ふいに声がして私は朦朧としたまま意識を集中させた。
そこにはメリダがいた。出会ったときのままの美しく凛とした表情で、私をじっと見つめていた。彼女は言った。
『シオン。ここで何をしているの?まさかこのまま死ぬつもりじゃないでしょうね。呆れたわ。そんなガッツのない人だとは思わなかった。
私はずっとあなたを見てたのよ。私が死んだからってみるみる攻撃心と誇りを失っていくあなたに、ただ失望していたわ。』
『メリダ、君がいなくなってからの世界は、僕にとっては灰色の世界なんだ。これ以上耐えられないんだよ、君なしで生きていくなんて』
『たわごとはやめなさい!生きていることが当たり前だとでも思っているの?!なんて傲慢な。
いい?この世界はね、生きるか死ぬかしかないの。殺すことも生きることも、同じ道の上にあるのよ。
あなたと私が違う場所にいるからって、その魂まで離れる必要はないの。あなたが生きる力をなくしていくたびに、私はあなたに語りかけることができなくなっていたのよ。
私が恋をしたあなたはたくましかった。強く美しい魂を持っていた。それは私に、ともに生きていくという大きな決断をさせたのよ。忘れたなんて言わせるもんですか。
あなたは私と共に、これからも生きていくの。あなたの道の上に、私はいつも立っている。』
『メリダ‥』
『そしてあなたは今、深刻な怪我を抱えている。それは誰かの助けなしでは回復できない。
私は死後の世界の重要人物にあなたに助けが訪れるよう頼んできた。本望ではないけれど、人間である可能性が高いわ。この時代の流れを止めることはできない。』
『それは、人間に助けられ、生きながらえるという意味か?
そんなことをするくらいなら、このまま死なせてくれ。僕にもプライドというものがあるんだ。』
そこまで会話をして、メリダは消えてしまった。私は彼女の名前を何度も呼んだが、彼女は現れなかった。
私が気を失っている間、何が起きたのか分からないが、気が付いたら人間の家にいた。私は気が付いていなかったが、私の体はとても小さくなっていて、人間に抱えられていた。
それから、そこの主人は私に食べ物を与え、私は生きながらえた。主人は孫と暮らしており、それはまだ小さく、誰かの助けが必要だった。その後の生活の中で、その孫と私は共に生活をしていった。今もすぐそばにいる、人間の子供で、6歳なんだ。』
『知らないよ!何歳かなんて!どうしてだよ、父さん。もう回復したんだろ?だったら森に戻ってまた一緒に暮らそうよ。
知ってるか?今森では大変なことになってるんだ。人間だよ。父さんと一緒にいる人間たちのせいなんだよ!』
『分かっている。ブラウニー、お前を失望させてしまったことは、本当に申し訳ない。私だって以前は人間を忌み嫌っていた。
だがここに来て、彼らの言葉を覚え、次第にコミュニケーションをとっていくうち、私は彼らに溶け込んでいった。今では、家族として暮らしているんだ。』
『そんな‥‥』
ブラウニーは言葉を失った。変わり果てたのは父の外見だけではなく、内面までも変えてしまったのだと思った。
『ブラウニー、分かってくれ。すべてのものは移り変わり、形を変えざるをえないんだ。メリダが言ったように、魂はいつもそばにいることができる。お前がそれを信じるかぎり。体が生きていくことと、魂を持ち続けることは、別物なんだよ。』
『僕は、父さんと一緒に暮らすことはできないんだね。』
『お前はもうすでに自立している。私たちは実際、もう一緒に暮らしてもお互いうまくやっていくことは難しいだろう。』
『父さん‥』
『お前の幸せをいつも願っている。どんな道もお前には可能だ。私はもう年老いてしまった。正直言うと可能性のあるお前が羨ましいよ。』
ブラウニーは静かに父親に別れを告げた。そして、できるだけ人間の世界には関わらず、もっと森の深いところで暮らしていこうと決心していた。
自分は狼として生きていく。そして一人でもっと強くなろうと心に誓った。
どこかで淋しい思いはあったけれど、もうこれではっきりと、自分の両親はこの世界にはいないのだと知った。
『どんなに離れても、心はつながっている。それを信じる限り。』
ブラウニーは小さくつぶやいた。
踏みしめる大地は、彼に強くなる力を一歩踏み出すごとに与え、流れる川の水は、彼の疲れた体を癒した。
『かわいい息子、ブラウニー。あなたの歩く道はそれでいいのよ。あなたが困ったときは私が全力で助ける。
あなたには才能があり、美しい体があり、強い力がある。どうか狼としての誇りを捨てずに、強く、強く生きるのよ。』
深い森の中を、風よりも早くブラウニーは駆け抜けた。母親の声を忘れるはずがない。その声にブラウニーは頷いた。
雨上がりの木々の匂いを嗅ぎながら、自分の神経が研ぎ澄まされていくのを、彼は感じていた。大きく新鮮な空気を吸い込み、彼はまだ見ぬ深い森に向けて吠えた。』
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アキラは書き終えた物語を読みながら、静かに言った。
「結局、シオンは人間と暮らすことを選んだ。たとえ、自分の家族が現れたとしても。」
「うん、そやな。」
「和歌子、マークはどうなんやろ。たとえばマークにとって私は、助けたこの人間の主人のような存在なんやろか。だとしたら、戻ってくるやろか。」
アキラは、真剣なまなざしで私を見つめた。
「きっと、戻ってくる。うん、この物語のシオンのように、自分の場所がたとえ家族と離れていようとな。」
「せめて、メールの返信でもしてくれたらええのにな。」
「メールしたん?」
「うん、毎日チェックもしてるけど、なんもなし。」
「フェイスブックは?」
「そんなんせえへんけど」
アキラは友達が少ないのだということを忘れていた。私にとってはこんなに話しやすい存在であるのに、不思議なものだ。
「じゃあ、とにかく今は待つって感じなんや。」
「うん、とりあえず、ね‥」
アキラは歯切れ悪そうに言った。複雑な感情が混ざり合っているのだろうと予想した。
「今日は仕事?」
「そう、あ、そろそろ行かな。和歌子、今日私、家帰らんかもしれん。友達のとこ泊まるかも」
「そうなんや。じゃあまた明日やな。」
うん、とつぶやいて、アキラは遠くを見るような目をした。
私は、聞くほどのことでもないけれど、アキラは誰と泊まるのだろう、と気になった。
「あ、アキラ、ほんならアキラの家で寝てもええかな今日。」
「??ええけど、なんで?」
「バー二が彼氏連れてくるかもしれんから‥」
「なんや、ええよ、もちろん。ほな鍵渡しとくわ。明日の朝家おるんやろ?」
「うん、おるよ。」
アキラは、部屋にあるものはなんでも使っていいと言ったが、私はただ寝られればいいと言って鍵を受け取った。もしバー二が一人で帰ってくれば、アキラの家に泊まる必要もない。
夜9時を回ったころ、バー二が帰ってきた。予想通り、男を連れてきた。私は自分の部屋にいたが、彼らがリビングでがやがやと喋りながら酒を飲み始めることは疑いようがなかった。
私は少し迷ったが、リビングに行って彼らに話しかけることにした。
「バー二、おかえり」
「和歌子―!!調子どう?こちらはポール、ポール、これが和歌子。」
彼らはウォッカをグラスに注ぎ、そのポールという男はライムを半分に切っている。
「はじめまして、ポール。和歌子です。バー二のルームメイト。」
ポールは見るからに若く、まだ20そこそこなんじゃないかというようなB 系の服装をしており、とにかく、私の苦手なタイプである。
「ハーイ和歌子。元気?」
フレンドリーな奴。きっと日本人のちゃらちゃらした女子にもてるのだろう。
「バー二、私、今日アキラの家に泊まるわ。アキラおらんって言うから。」
「え?!なんで?一緒に飲もうよ!!」
「でも、書きたいものたまってるし、静かに仕事したいから」
「‥ごめん、和歌子。迷惑かけちゃった?」
「全然そんなことない。ただアキラの部屋けっこう落ち着くから。気にしないで、楽しんで、じゃあ」
私はパソコンだけ持ってそそくさとアキラの部屋へ行った。
隣に友達が住んでいるというのは、とても便利だ。実際、アキラの部屋は不思議と落ち着く。それはブッダの彫刻なのか、たくさんの彼女の絵なのか、お香の香りのせいなのか、理由は分からないけれど、確かに落ち着く空間だった。
アキラの部屋はとくに片付いてもいなかったが、マークが出て行った直後の乱雑さに比べたら、きちんと物はあるべき場所に収まっていた。
私はまずパソコンを立ち上げ、それからお香に火をつけた。アキラの部屋の照明は取り替えられており、赤いランプシェードからもれる光はぼんやりと不思議な空間を作っていた。
アキラの描いたブッダの絵を一枚一枚見ていった。それらのほとんどは、青い色がふんだんに使われていた。中には金や銀色をたくさん施しているものもあった。
ふと、部屋の角のスペースに気が付いた。椅子にインド模様の赤い布がかけられ、そこには今まさに描いている絵と思われるものがあった。この匂いだったのか、と気が付いたのは油絵の具の匂いだ。
イーゼルに立てかけられたその絵は、決して大きくはなく、その絵のそばに転がった枕のサイズと同じくらいだった。
まだ途中なのは明らかだが、その絵がブッダではないということは明らかだった。
その絵に描かれているのは少女だった。広い草原のような場所に立ち尽くし、白いワンピースを着ている。顔はまだ描かれていない。髪は長く、風に揺れている。
私はアキラの描く絵をすべて見たわけではないから確かではないけれど、その絵は他の絵とは全く違う手法で描かれているように見えた。
ブッダたちを描く時の彼女の描き方は、力強く思い切った筆使い、構図の斬新さ、そして人の目をひきつける鮮やかな色使い。
対してこの絵は、柔らかく繊細な雰囲気を持っており、筆の種類も細いもので描かれているようだ。空は点描で描かれている。
「こんな絵も描くのか。アキラは。」
私はしばらくその絵の前に立ち尽くし、慎重にその絵を観察していた。
アキラの部屋にはいわゆるダイニングテーブルのようなものはなかったが、その代わりに大きなソファベッドがあり、その上には書類がちらばっていた。
そこにはマークの手紙もあり、毎日読んでいるのだろうか、と想像した。ちらばった文章はプリントされたもので、アートに関する記事であった。日本語のものと、英語のものとが乱雑に混ざっている。
ふとそこに、一冊のノートがあるのが目に留まった。それは美しい金色のノートで、鍵がかかるようになっている。その絵画に私は見覚えがあった。
グスタフクリムトの『接吻』だ。恍惚な表情の女性が、男性の腕に抱かれてキスされている、有名な絵画だ。
私は裏にも絵があるのかと気になり、それを手に取った。金色に輝くそのノートは美しく、その素材もしっかりとしたものだった。高価そうだ。
その時パラリと中が見えた。鍵はかかっていない。
これはプライベート侵害だ。見てはいけない。私は自分に言い聞かせた。
けれど結局、私はそれを開いて読み始めてしまった。
それは詩のようだった。アキラの字は決して上手くはなかったが、乱雑ながらも読むには不便しない、文章を書きなれた人の字だった。
詩はどれも短く、ノートの半分くらいまで書き溜められていた。私はすべてを読むことはしなかったが、一番最近書かれたと思われる詩を読んだ。それだけなぜか、英語で書かれていた。
『君の宇宙の色は何色をしているんだろう。それはきっと美しく、荘厳で、そして他のどんな色とも似ていないのだろう。
君がどこで生まれたか、どこで育ったか、なんという名前なのか、どのくらい生きているか、そんなことは私には関係ない。
君がいつか君の宇宙の中で、新しい星を見つけたとき、私が何をしたいか想像できる?
私はその星を君から盗みとるんだよ。
そして自分の家に持ち帰り、それに色をつけていく。何を使おうか。
油絵の具なんて使わないよ。
もっと自由で愉快なものを使うのさ。
たぶんそれはチョコレートだったり、近くに咲いている花だったり、海水を使ったりするんじゃないかな。
完全に色を変えてから、君のところに返しにいくよ。
君の星は私の手によって、こんなふうに色を変えたことを見せにいく。
絶対に君は気に入るはずだよ。だって私と君はすでにこんなに近くにいるんだから。
その後何をするかって?
二人でそれを食べちゃうんだよ。
君の想像通り、とても、とても甘いだろうね。まるでイギリスのチョコレート。
甘すぎるなんて限界はないんだよ。
一日で全部食べなくていい。
私は途中で君に言うだろう。
私を食べて。ってね。』
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その詩を読んでから、私はこれをアキラがいつ書いたのだろう、と考えた。おそらくマークが出ていく前に、マークのことを考えながら書いたのだろう。
アキラの世界にいる心地よさを感じながら、私は再びパソコンに向かい、たんたんと仕事をしていった。
頭の中は次第にクリアになっていき、イギリス旅行記を書きながら、やはりイギリスを恋しく思っている自分を感じていた。
「あれ?!」
私は、ふとあることに気が付いた。
猫はどこだ。
アキラは猫のことなど何も言っていなかった。
秘密の始まり(ナオミ)
アキラさんのバーは駅裏にあった。グーグルマップで検索し、迷うことなく来れた。
バーに来たことなど一度もない。父親がよくカフェには連れて行ってくれるが、それとは完全に雰囲気が違っている。
『Lily』と書かれたその看板には、カクテルとバラの絵が描かれていた。私は自分の服装を再びチェックした。
大人っぽい服装、とアキラさんが言ったので、私はアキラさんと別れたあと、服を買いに行った。赤いワンピースにヒールのある靴、もともと持っていたレース素材のカーディガンを羽織った。赤いリップと、少しメイクもしてみた。いつもとは全く違う服装に、胸が高鳴った。ヒールのある靴を履くと、私の身長は170センチをゆうに超える大女になってしまうけれど、大人っぽくはなったはずだ。
時間は9時。こんな時間に出歩くなんて初めてだ。街の中の雰囲気は、昼間とは違っている。ネオンの明かりがきらめき、赤や黄色のランプの光が、街にあふれている。
思い切ってドアを開けると、そこは思っていたより狭い空間だった。ムードのある照明と、赤いカーペットに赤いバラの一輪挿し、黒い皮素材の一人がけのソファがカウンターに並んでいる。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中から声をかけてくれたのは、アキラさんではなかった。私は一瞬戸惑った。店を間違えたのだろうか。
「もしかして、ナオミちゃん?」
その赤い髪の男性は、タバコを持った手で私を指しながら、目を細めて聞いてきた。
「はい、あの、アキラさんは‥」
私は緊張しながら言った。
「あ、やっぱり!アキラから聞いてるで、友達が来るかもしれんから、って。あいつ今買出し行ってんねん。すぐ戻ってくるよって、心配せんとここ座っとき。」
「あ、そうなんですか。」
その男性はひらりとカウンターの中から出てきて私にソファーをすすめた。わざわざそれをひいて、座らせてくれた。
「はじめまして。真琴っていいます。」
彼はバラを一倫渡しながらそう言った。
「はじめまして。ナオミです‥」
私はそのバラを受け取りながら言った。心臓がどきどきしている。
「ちょ、待ってな。はあー、いったん落ち着かせてや。これは俺の問題やねん。ほんまごめん!」
その真琴という人はカウンター内に戻りながら、やけに大きな声でそう言った。しかも言っていることが分からないので、私はけげんな顔で彼を見た。
「どんだけ美人やねん!ナオミちゃん!!心臓悪いわ、いきなりこんなドラマみたいなシチュエーションで来られたら。おれ今日髪もっさーやし、なんもきばらんと来てもうたわ。今モーレツに後悔や!!」
「はぁ‥」
私は不思議な気持ちで、目の前で頭を抱えて後悔している人を眺めた。赤い髪は男性にしては長めで、腕にはバラのタトゥーがある。そういえば、アキラさんの腕にもタトゥーがチラッと見えたことを思い出した。すらりとした長い手足は、黒いシャツとパンツにばっちり似合っている。かっこいいな、と素直に思った。
「あかんあかん、おれはプロやねん。どんだけ好みの子でも客は客や。ちゃんとしたカクテル作るで、お姫様のために。ナオミちゃん、何にしよか?」
「あ‥私‥。」
高校生であることをこの人に言ってもいいのだろうか。いや、いいわけがない。かと言って、オレンジジュースなんて頼んでもいいものなのだろうか。アキラさんがいるものだと思っていたので、完全にそんなことは頭から抜けていた。
「お酒飲めるんかな?それともノンアルコールのほうがええ?」
黙っている私に真琴さんは言った。
「実は、お酒、飲めないんです‥」
「よっしゃ、オーケー。ほな、なんかノンアルコールカクテルやな。ナオミちゃん、なんか好きなフルーツとかある?」
「桃が好きです‥」
「オッケー、ピーチ使った劇的に美しいカクテルにしよ。こんな美人に釣り合うくらいの、めっちゃ綺麗なやつ作ったる。」
そう言って、彼はパン、と手を叩いて、すり合わせた。
「ありがとうございます。」
「はあー、まともに見られへんわ。桃好きとかめっちゃ可愛いことも言うし。あかんわ、はよ慣れなな。そんためにはずっと見つめとくのが一番ええんやけど、ずっと見られてたら、いややんな?」
「それはちょっと‥居心地が悪いと思います。」
「そーりゃそうや。よっしゃ、じゃあチラ見にするわ。あとは盗撮、隠しカメラの映像見て、徐々に慣れていくわ。」
私は思わず噴出した。
「隠しカメラ?」
「そうやで、ここの店のバラは全部カメラになってんねん。ほんで可愛い子が来たらそのビデオあとで家帰ってからガン見すんねん。」
真琴さんは喋りながらてきぱきとカウンター内をスマートに動き回り、冷蔵庫を開けたり、グラスを取り出したりしていた。
目の前に出されたカクテルは、信じられないほど綺麗だった。今までこんな飲み物を出されたことは一度もなかった。
ワイングラスとはまた違う、口の大きなグラスに、薄いピンクの液体がキラキラと光っていた。その上には小さな紫の花びらが浮かび、グラスの縁にはオレンジが飾られていた。
「カクテルの名前は、愛するナオミへ。ほんでその花は食べれるからね。」
「すごい‥綺麗です。とっても。」
その時、ドアを開く音がした。
「戻りましたー!」
その声は疑いようがなくアキラさんの声だった。
「おー!ナオミちゃんほんまに来てくれたんや!真琴さんこの子が」
「ナオミちゃん」
真琴さんがアキラさんが言い終わらないうちにそう言った。
「アキラおまえ、こんな美人が来るならそうと、言うとけや!めっちゃあせったやんか。」
アキラさんはスーパーの袋を持ってカウンターの中へ入っていった。
「ナオミちゃん、すぐここ分かった?真琴さんにいじめられへんかった?」
「はい、大丈夫です。」
アキラさんは慌しく買って来たものを取り出しながらそう言った。
黒いシャツをぱりっと着こなし、線の細い体はさらに細く見えた。ブルーの髪はカウンター内のライトに照らされて輝いていて、大きな目に引かれたアイラインは、目尻に向かって長く引かれていて、少しきつい印象を与える。
真琴さんと話しながら笑っているその頬には、えくぼがくっきりと現れ、耳には大きなメダルのようなピアスが光っていた。
昼間カフェで涙を見せていた彼女の表情とは全く違う、少し妖艶な表情だった。このバーの雰囲気のせいか、仕事モードなのかは分からないけれど、私はカウンター内で動き回る彼女の姿から目が離せなかった。
シャツの袖からは、タトゥーがのぞいている。花の模様だろうか。それは腕のどこまで続いているんだろう。もしかしたら肩や胸にまで続いているのかもしれない。そのタトゥーを見てみたい。その体とどんなふうに混ざり合っているのか見てみたい。
「ナオミちゃん、彼氏おんの?」
真琴さんが身を乗り出しながら聞いてきた。
「そんなの、いません。学校では、友達もいなくて根暗ですから。」
もったいないなー、と言いながら、真琴さんはタバコに火をつけた。真琴さんは、しきりにタバコを吸っている。
「‥アキラさんは、彼氏いるんですか?」
私は、思い切ってそう聞いてみた。ずっと聞きたかったことだ。不思議と緊張せずに聞くことができた。
「今は‥おらんよ。」
アキラさんは、なにかをメモする手を止めてそう言った。真琴さんがそれを聞いて一瞬意外そうな顔をした。
「アキラ‥」
真琴さんが何か言おうとするのを遮って、アキラさんが私に振り向いて言った。
「ぜんぜんモテへんし、友達もほとんどおらんしね。ここで働いてるときは楽しいけど。」
そう言ってアキラさんはにっこりと笑った。その笑顔は、私を笑顔にした。
真琴さんはしばらく黙っていたが、おもむろに切り出した。
「ナオミちゃん、将来の夢とかあんの?」
「夢、ですか?」
普通の質問なのに、私はひどく面食らった。そのことについて、あまり考えたことはなかった。ただ私は、親や先生に怒られないように、平均以上の成績でいることを心がけているだけだ。競うのも嫌いだし、目立つ行動もしたくないといつも思っている。
「まだ分かりません。自分が何をしたいのか。」
アキラさんがすぐに言った。
「若いうちはそれでいいんよ。絶対いずれ見つかるんやから。」
「そうそう」
真琴さんとアキラさんはそう言ってほほえんだ。
私は、こんなに居心地のいい場所ははじめてだと感じていた。
「モデルとか女優になったらいいんちゃう?ナオミちゃんならなれると思うで。背も高いし。何センチ?もしいややなかたら教えてくれへん?」
真琴さんが尋ねた。
「もちろん、いやじゃありません。170センチあるかないかです。」
「ええなあ。背の高い女子、大好きやねん。おれはどっちかっていうとスラッとした美人タイプが好みで‥」
「真琴さん、この前エリさん来たときは、小っちゃくて可愛い系がいいって言ってましたよね」
アキラさんが噴出しながらそう言った。
「アキラおまえ、おれの恋路邪魔するんやったらクビにすんで。」
「はっ、すんません。」
二人のやり取りは乱暴ながらも、仲がいいことが明らかだった。心の中があたたかくなっていくのを感じていた。
結局私は、10時過ぎまでその店にいた。帰り際、真琴さんはケータイの番号を書いた名刺を私にくれた。アキラさんがくれたものと同じ、透明のカードだった。
「絶対、また来てや。」
真琴さんはウインクしながらそう言った。私はもちろん、と言って頷いた。
アキラさんは、私を駅まで送ってくれると言い、一緒に店を出た。
「ごめんな、ナオミちゃん、こんな時間まで。ご両親心配してるんちゃう?」
「私、一人暮らしなんです。両親は今京都に住んでますから。」
「え?そうなんや。どこ住んでるん?」
私は自分のアパートの場所を説明した。アキラさんは、自分の家よりここから近い、と言った。
「へえ‥。ナオミちゃんの部屋、可愛いんやろうな。興味あるな。」
「とても殺風景なんです。なにか飾ったりしたいけど、自分の好みの部屋ってどんななのか、よく分からなくて。」
アキラさんは、ふーん、と言って黙った。ヒールを履いた私とアキラさんの身長差は、20センチはかるくありそうだった。街灯に照らされた私たちの前には、長い影が揺れている。
アキラさんはヒールのない黒いブーツを履いていて、私はヒールを履いている。足音は静かな夜の街に響いていた。
「行ってみたいな、ナオミちゃんの部屋」
ポツリとアキラさんはそう言った。
私は一瞬、聞き間違いかと思ったが、そのあとすぐに、顔中が火照るのが分かった。
「もちろん、来てください。いつでも‥」
「今夜でも?店閉めたら、行ってもええ?」
私は心臓がどきどきするのを抑えられず、立ち止まってうなずくのが精一杯だった。
「ナオミちゃん、まつげになんかついてるみたい。」
「え?ほんとですか?」
「ちょい見せて」
私はまつげを触りながら少しかがんだ。慣れないマスカラなんてしたから、ずっと変な感じはしていた。
次の瞬間、アキラさんは静かに私にキスした。彼女の唇はやけに冷たく、私の唇の温度を一瞬にして奪った。目を閉じたアキラさんのまつげが、私の目元に触れた。
「ごめん。」
すぐにアキラさんはそう言った。
私は言葉をなくしてただ立ち尽くした。と言うより、かがんだままの状態だった。
「ごめん。なんか、ナオミちゃんにキスしたくなっちゃったから、した。」
「私‥」
胸が急に苦しくなった。なにか得体の知れない感情が、体の奥から生まれてきた。
「どうしよう。アキラさん。」
私の声は震えているし、さらに震える両手で、口を覆った。
「泣きそうなくらい、嬉しいです。」
アキラさんは、12時を回った頃私のアパートにやってきた。
チャラの音楽を聴きながら、アキラさんは本当によく喋った。店のこと、真琴さんが本当は女性であること、アパートの隣に住む和歌子さんのこと。そして、一緒に暮らしていた彼氏が最近出ていったこと。
そのすべてに、私は驚き、真剣に聞いていた。アキラさんのことを知るために、一言も聞き漏らしたくはなかった。彼女の経験のすべてを知りたい。そして今思っていることを知りたい。
「ナオミちゃんに初めて会ったとき、何か不思議な気持ちになった。ずっと前から知ってるような」
「私も」
アキラさんはビールを買ってきて飲んでいた。私には、アルコール度数の低いチューハイを買ってきていて、二人で向かい合ってベッドの上に座っていた。それは桃の味で、さっき真琴さんが作ってくれたカクテルももちろん美味しかったけれど、この味は全く違っていた。
「アキラさん、タトゥー、見せてもらってもいいですか?」
私は、シャツの袖からのぞいているタトゥーを指して言った。黒いシャツは、バーで着ていたものだ。
「うん。私も今ちょうど、見て欲しいって思ってた。」
アキラさんはシャツのボタンを上から半分くらいまではずすと、それを脱いだ。黒いブラだけになると、その体にある色とりどりの絵が現れた。
腕から肩、胸の上のほうまでそのタトゥーは広がっていた。青と赤、黄色が混ざり合った花と幾何学模様。アキラさんはくるりと後ろを向き、背中を私に見せた。
そこには大きなブッダの絵が広がっていた。ブラの部分が、ちょうどブッダの目を隠していた。
「私は、特別な人にしか、このブッダを会わせない。」
そう言って、アキラさんはブラをはずした。
青と黄色と灰色で描かれたブッダのすべてが現れた。
私はブッダのことを詳しく知らないけれど、絶対にこんな顔ではなかったと確信できた。普通のブッダは、穏やかで、優しい表情をしていたはず。
私の目の前にあるブッダは、目を見開きこちらを凝視していた。その目はとても綺麗なブルーをしていて、首の付け根までのびたアキラさんのブルーの髪と、ちょうど同じ色をしていた。
それはとても美しかった。まるで絵画だと思いながら、そのブッダの足元に目を移していった。組んだ足のそばに、水溜りができている。それはブッダの涙のようにも見えるし、雨上がりのようにも見えた。
「ナオミ?」
不意にアキラさんがつぶやいた。
「なぞってくれん?私のブッダを。まるでナオミがこのブッダを描いたようにして。」
上半身裸になったアキラさんは私に言った。その顔は見えないけれど、その声は少し震えていた。
「はい。この美しいブッダに、挨拶するような気持ちも込めて」
私は自分の指をアキラさんの背中に這わせた。親指以外の指先に神経を集中させ、それを彼女の背中に触れさせた。赤いマニキュアをした私の指は、私のものではないような気がした。
ブッダを見つめながら指でその線をなぞっていった。ブッダの周りに散らばっている幾何学模様は、よく見ると宇宙の星空であることに気が付いた。
「アキラさん、これ、宇宙なんですね。ブッダの周りに散らばっているのは、星なんですね。」
「そう、私のブッダを囲む世界は、この地球上であってはならなかったから」
「私、宇宙や星の話、大好きなんです。」
アキラさんの細い背中を見つめながら、私は語りはじめた。
「小さい頃、私は自分の宇宙を、心のなかに持っていたんです。」
「‥どういうこと?」
「いつも宇宙のことを考えていた私は、心の中に自分だけの宇宙をつくることを思いつきました。今日カフェで話したように、毎日物語を考えていたけれど、その話はいつも私に何か違和感を与えていました。
私は違う星に生まれるはずだったと思うようになりました。その星があるのは、私たちのいる宇宙とは遠く離れた場所にあると思ったんです。」
「うん。それで?」
「私は心の中の宇宙を、毎日更新していきました。ひとつひとつ、星の数を増やしていったんです。」
アキラさんは笑いながら振り向いた。
「それで、今ナオミの宇宙には、何個星があるん?」
私も彼女の目を見て心から笑って言った。
「もうどうでもいいんです。今は。こんなに綺麗な星を見つけたから。」
私たちは、とても自然に再びキスをした。