07 この感情に名前をつけるなら
ヴァンが王立ファウスト魔術学園に入学して一週間がたった。
新入生たちは学園生活だけでなく、寮生活にも慣れてきた頃だ。
ヴァンの部屋は一人部屋だった。その代わり、物置部屋を改装した部屋で、狭いうえに窓がない。
とはいえ、彼自身は日当たりがないよりも、同居人がいないほうが嬉しかったらしく、結構気に入っているらしい。
「へぇ、ヴァンは一人部屋なんだ。私も一人がよかったなぁ」
リーゼロッテは羨望のまなざしでヴァンを見つめている。
現在、二人は魔術演習場での授業を受けている最中だ。先日、ヴァンが魔術講座を開いた場所である。
受けている授業は魔術演習。担当の教師に名前を呼ばれたら、みんなの前で初級魔術を披露することになっている。
名前を呼ばれるまでの間、生徒は座って待機する。出番までは暇なので、ヴァンたちは雑談していたのであった。
「バスルームがないから、学生共有の風呂に入らないといけないのが面倒だけどな。リーゼのルームメイトはどんなヤツだった?」
「……あれよ、あれ」
リーゼロッテが視線を送った先にはアリアがいた。
彼女はクラスメイトの前に立っている。魔術を見せる順番が回ってきたのだろう。
「では、アリア=シーメールさん。属性は自由に選んでいただいて結構ですので、初級魔術を発動させてください」
男性の教師が促すと、アリアはこくりとうなずいた。彼女の動きに合わせて、ご自慢の金髪ツインテールが揺れる。
……ついでに豊かな胸も揺れ動いた。
「ルームメイト、アリアだったのか。そいつはおっぱい、もとい災難だったな」
「ちょっと。どこ見て言ってんのよ」
ヴァンはアリアの胸をガン見していた。しょうがない。だって、思春期だもの。
「……まぁアリアだって悪人じゃないのよ? 昔ね、アリアは引っ込み思案で、友達ができなかったのよ」
「ああ。ぼっちだったとか言ってたっけ――ってあいつが引っ込み思案!? し、信じらんねぇな」
「昔の話よ。アリアはそんな自分が嫌で、イメチェンを図ったのよ。結果として失敗して、あんな高飛車なお嬢様になってしまっただけ。根は可愛いヤツなのよ? ヴァンにも迷惑かけるだろうけど、悪く思わないであげてね」
リーゼロッテは苦笑した。
二人は犬猿の仲だと思っていたが、案外仲がいいのかもしれない。
何故ならば、リーゼロッテはアリアのことを深く理解しているから。いがみ合うことも多いが、二人は強い絆で結ばれているのかも――。
「でも、ムカつくヤツよ! 自慢話は鬱陶しいし、すぐに人を馬鹿にするのもウザいし! あと胸がデカくて気持ち悪い!」
……全然仲良くないなぁこいつら、とヴァンは密かに思った。
「あ――おい、リーゼ。アリアが詠唱を始めるみたいだぞ。学年二位様の実力を拝もうぜ」
「……ふん。ま、きっとたいしたことないわよ」
リーゼロッテは文句を言いつつも、アリアに視線を移す。
アリアは足を肩と同じ幅に開き、目を閉じた。
「『母なる海と、天の恩寵を受け、此の空に祝福の架け橋を』――アルコバレーノ!」
完全詠唱を終えたアリアは、閉じた目をそっと開く。
アリアが天に手をかざすと、少し離れたところにミニチュアの暗雲が浮かぶ。その高さは、せいぜいアリアの身長の二倍程度だ。
そして、極小規模のスコールが降る。ザァザァと雨音を立てて、容赦なく大地を叩き続ける。
やがて雲は消え、雨のメロディーは終息する。
何もない空間に現れたのは、七色の虹。色鮮やかな放物線が宙に浮かんでいる。
魔術というより、もはや曲芸だ。彼女の魔術は見る者を楽しい気持ちにさせる。
アリアに水のマナを扱わせたら、同世代で右に出る者はいないだろう。学年二位の実力は伊達じゃない。
少し遅れて、虹を見たクラスメイトたちの歓声が飛び交った。
「おおー! すげぇ!」
「とてもキレイだわ……」
「さすがシーメール家のお嬢様だぜ!」
称賛の声を背中に受けるアリアの表情は、とても誇らしげだった。
その顔を見たリーゼロッテは「気取ってんじゃないわよ! むきぃー!」と腹を立てている。
「いや、でも今のは普通にすげぇと思うけどな。初級魔術とはいえ、あれは水と光の複合魔術だぞ? リーゼ、全然できなかったじゃん」
「うぐっ」
悔しそうに眉をひくひくと動かすリーゼロッテ。事実なうえに、複合魔術に失敗してヴァンに迷惑をかけた身としては何も言えない。
「アリアさん、お見事ですね。次、リーゼロッテ=スカーレットさん。前に出て来てください」
「は、はい!」
名前を呼ばれたリーゼロッテは勢いよく立ち上がる。
「属性は自由です。では、初級魔術を発動させてください」
「はい……」
リーゼロッテの緋色の瞳が、一瞬燃えるように輝いた。そして小鳥がさえずるように、静かに詠唱を始める。
「『煉獄に蔓延る紅き輩よ、その身を寄せ合い此処で爆ぜろ』――フレア・ボム!」
リーゼロッテの指先が赤く光る。火のマナが集まっている証左だ。
ヴァンに助けられたあのときとは違う……マナのコントロールは完璧だ。
そして今、リーゼロッテの指先から炎の爆弾が放たれる!
「せぇぇぇいっ!」
ちろちろ。
ちろちろちろちろ。
威勢のいい掛け声とは裏腹に、ショボい炎の塊が撃ち出された。炎は人の爪くらいの大きさしかない。
うん……マナのコントロールはできていた。
しかし、森羅万象からマナを十分に引き出せなかったのだろう。だから、あんなに小さな炎しか撃てなかったのだ。それにしても、ちょっと小さすぎるとは思うが。
「な、なるほど……はい、ありがとうございました」
教師の演習終了の合図とともに、どっと笑い声が上がった。
もちろん、アリアも大笑いしている。
「おーっほっほっほ! 随分と可愛い煉獄の炎ですわね!」
金髪を振り乱して笑うアリア。口調はお嬢様でも、レディーとは思えない豪快な笑い方だ。よほどリーゼロッテの失敗が嬉しいらしい。
「ううっ、ちょっと失敗しただけなのに……」
リーゼロッテは今にも泣きそうな声を漏らし、そしてうつむいた。小さな背中が、微かに震えている。
その様子を見たヴァンは立ち上がり、彼女の肩にぽんと手を乗せる。
「……ヴァン?」
リーゼロッテは顔を上げ、ヴァンを見つめる。
赤い瞳は少しだけ涙で潤んでいた。
「俺が仇を取ってやるよ」
ヴァンは不敵に笑ってみせた。ただし、目は全然笑っていない。
リーゼロッテは意外そうにヴァンの顔を見ていた。
(あのやる気なし魔術師が、私のためにやる気を出した?)
リーゼロッテは気づいていないかもしれない。
弟子を馬鹿にされたことに、ヴァンが腹を立てていることを。
「では、ヴァントネール=クロウリーさん。どうぞ」
教師が言うと、ヴァンは「はーい!」と妙に素直で元気のいい声で返事をした。
説明は不要だと言わんばかりに、ヴァンはすぐさま詠唱を開始する。
「『空色のキャンバスにお絵かきタイム』――マジカル・パレット」
ヴァンが何もない空間に指を振りかざすと、彩光が尾を引いた。彼の指の動きに合わせて、空間がカラフルに色づいていく。
詠唱のとおり、まるでお絵かきタイムである。鮮やかに空間を彩るヴァンの指は、まるで魔法の絵筆のようだ。
描いているのは人物画だろうか。ヴァンの指は止まることなく走り続ける。
クラスメイトたちからは驚きの声が上がる。
「すごくキレイだねー!」
「うわ、めっちゃ絵上手いじゃん……」
「最下位くん、やるなぁ」
「こんな面白い魔術あるんだねー!」
クラスメイトと同じく、リーゼロッテは「わぁ……すごい」と、ただただ感嘆の声を漏らす。
一方で、アリアは悔しそうにヴァンを睨みつけた。
ヴァンはアリアと同じ、水と光のマナを用いた複合魔術を唱えた。同じ複合魔術だが、ヴァンは短縮詠唱。まるで力の差を見せつけられているかのようだった。
しかも、ヴァンは見たことのない謎の魔術を使っている。
(まさか……あれはオリジナルの魔術?)
オリジナルの魔術……魔導書には記されていない、術者が編み出した唯一無二の魔術のことだ。その効果は低いことが多い。歴代の魔術師たちが生み出した既存の魔術を超えるなんてことは、滅多にないからだ。
ちなみにヴァンのオリジナル魔術も、その効果としてはお遊びの域を出ない魔術である。
アリアは得心する。
なるほど。オリジナルであるなら、知らない魔術であることにも納得がいく。しかし、ヴァンがオリジナルの魔術を扱える優秀な魔術師であることには納得がいかない!
そもそも、あの一節詠唱が意味不明である。
「お絵かきタイムって、なんですのその締まらない詠唱は……」
アリアはおもわず疑問を口にした。
いくら短縮詠唱とはいえ、あの適当な詠唱……アリアにとって、魔術の効果も詠唱も、すべてが未知だった。
加えて、アリアと同じ「曲芸」という土俵で魔術を披露した。アリアに対する挑戦状と受け取られて当然である。
(何より……わたくしより目立っているではありませんの! むきぃー!)
そこ! とりあえず、そこである!
自尊心を傷つけられたアリアは、ヴァンに対して静かに闘志を燃やしていた。
「その絵は……リーゼロッテさんですか?」
と、ここで教師がヴァンに尋ねる。
「そうです。リーゼの人物画でーす。実物どおり、可愛く描けてるでしょ?」
ヴァンは満面の笑みを浮かべて答えた。
瞬間、クラスメイトの間で「うぉぉぉー!」「きゃああああ!」と、興奮した声が聞こえた。
リーゼロッテは顔を真っ赤にする。怒りと羞恥心……そして美しい自画像を描いてくれている嬉しさがごちゃ混ぜになり、なんとも言えない表情を浮かべている。
(ば、ばか……可愛いとか言うなし! クラスのみんなに誤解されちゃうじゃない。そ、その、私とヴァンが……つ、付き合っているとか……っ!)
リーゼロッテは考える。
ヴァンは何故みんなの前で自分の絵を描いているのだろうか。
まさか……ヴァンは自分のことが? そういうことなのか?
(なななななっ、ないない! ないわよ、そんなの!)
リーゼロッテはさらに顔を赤くし、頭を左右にぶんぶん振った。
今まで『好き』のサインを送ってもらったことはない。そんな素振り、まったくなかったのだ。
でも……違うとなると、ヴァンがリーゼロッテの絵を描く理由がわからない。
リーゼロッテの心臓が、とくんと切ない音を立てる。
……まさか、本当に?
いつもひねくれているけれど、それは照れ隠しなの?
あなたは、ただ不器用なだけなの?
リーゼロッテが乙女モード全開になっていると、
「でっきたー!」
ヴァンが絵を完成させた。
「ぷっ……ぷぷっ! おーっほっほっほ!」
何故か馬鹿笑いをするアリア。
何事かと思い、リーゼロッテは完成した絵に視線を移す。
まず、赤い髪と緋色の瞳が目を引いた。少し幼いかなって自分でも思っている顔も再現されている。「でも、ちょっと可愛く描きすぎよ」と、リーゼロッテは内心でつぶやく。
さらに視線を落とし――そこで一気に怒りの沸点が頂点に達した。
リーゼロッテのない胸が大きくなっている。
それはもう、ばいんばいんになっている。
「先生! お子様ボディのリーゼがかわいそうだから、せめて絵だけでもセクシーにしてみました! 俺、リーゼの夢を叶えたかっただけなんですよ! なので、これはミスじゃないですー。減点しないでね?」
「な、なるほど……ぷっ、くくく」
おい教師。お前は笑うな、とリーゼロッテは心の中で強く非難する。
「リーゼ! 俺の絵、どう? 褒めてくれてもいいんだぜ?」
得意気なヴァンを見たリーゼロッテは、一歩一歩、彼に近づいていく。
彼女は心臓に手を当て、思考を巡らせた。
――胸の奥でのたうち回るこの感情は、なんと言うのかな?
憧れ?
それとも恋?
違う。全っっ然違う!
「リ、リーゼ? 怖い顔してどうした? というか、なんで手を振り上げてるの?」
「この感情は――怒りと言うのよぉぉぉぉぉ!」
「おべっしゃあぁぁ!?」
バチンバチンバチンバチン!
……リーゼロッテの往復ビンタが炸裂した。
いい加減、学習しないのかこの男は……。
もはや恒例になりつつあるお仕置きタイムなのであった。