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時代小説習作集

短編:反逆

 こと、こと。


不思議なほどに静かな音が夕暮れを迎えた山道に響く。

草鞋を履いた人馬の足が土を踏む音だ。

前日までの雨があがり、ここ、京を見下ろす老の坂は、薄く水を張ったように濡れそぼった大地が、将兵のざわめく音すら消している。


誰もが、一言も発しない。

その軍勢は、まるで冥府に向かう死者の群れのように、奇妙に無音のまま薄闇の中を歩いていく。


その老将は、水底(みなそこ)のような陰影に沈む、墨で刷かれた空間の一角で、最後の逡巡が鎌首をもたげるのを感じた。

薄墨色の壮麗な当世具足に草色で染め抜かれた狩衣を纏い、腰には若かりし頃の大太刀ではなく、小振りな打刀を佩いている。

帯に挿された腰覆には、装飾の施された南蛮式の短筒(たんづつ)が松明の明かりを反射してきらりと光っていた。


(良いのか)


何度目か分からない言葉を、内心で彼は再び呟いた。

何度も自分に問いかけ、そのたびに問い返した言葉だった。

かつて卑賤の身に落ちていた牢人の自分を拾い上げ、引き立ててくれた主。

名族、惟任氏の名跡を与え、日向守の重職を与え、今はかつて恐れ見上げた公方家や管領家、諸大名すら及ばぬ権力を与えてくれた、年下の主君。


彼を討つと決めた日から、何度も心の中に沸き起こる問いかけだった。


「殿。いま少しで、洛中にて。 ……先手の姿は見えませぬ」

内蔵助(くらのすけ)。 ……構えて用心いたせよ」

「承知」


囁きかける家老――斉藤内蔵助利三の顔は、緊張からか汗に濡れそぼっている。


そうだ。


この男を救い、わが子を救う。

その為に、齢六十七のこの老躯を押して、己は踏み出したのではなかったか。


謀叛という、血染めの道に。


「上様の命あって、徳川様を討ち取るとや」

「あの三河様が御謀反とはの」


近くを歩く徒士(かち)の囁きが、ふと耳に入る。

主君を最後に守る彼らは、いわば股肱の臣だ。

その彼らにすら、己の意思を告げていない。

いまだに、自分に命じられた言葉を正しいと思っている。


ふと、老将は羨ましくなった。

責任も少なく、何も知らず、主君に聞こえないよう囁く自由を得ている、彼らに。


彼はふと、昔のことを思い出した。


 ◇


 生まれは名門といえる。

美濃に多く割拠する名族・土岐氏の支流、そのひとつである明智氏の嫡男として、自分は生まれた。

南の尾張、東の甲斐の脅威はいまだ少なく、美濃は乱世の渦中にあった。


領主である土岐家嫡流を奪い取った、長井新九郎によって、国内のパワーバランスが大きく崩れた時期。

支流の中でもまだ小さかった明智家は、その激流に耐えることができなかった。

幼い彼はその激流に何度も足を掬われながら、命からがら逃げ延びた。


そして、数十年。


今、彼は幼少の頃学んだ秩序とはまったく異なる世界にいる。


大名ですらなかった一国人から成り上がり、畿内を制覇した主君、織田前右府信長。

それに従う重臣の筆頭にして、京を除く畿内の維持を任された大領主。

なまじの大名では足元にも及ばぬ兵力と国力を備えた出頭人。

それが今の彼、明智日向守光秀という男だ。


その威勢は、かつて天智の帝に引き立てられた藤原冠者鎌足(ふじわらのかじゃかまたり)のそれにも匹敵しよう。

かつて幼く無力だった少年だった男は、いまやこの国―この天下において誰もが知る権威者となったのだ。

その栄華に明智家千年の繁栄を夢見たこともあった。

自分の下に集ってくれた忠勇な家臣たちを前に、心強く思ったことも。

そして、その地位まで自分を引き立て、高めてくれた主君に子々孫々仕えようと思ったことも。


だが――と光秀は苦く思う。


その栄光が、夢が、儚い幻だと知った時の衝撃はどれほどであったか。

そう光秀に告げた現実は、いくつかの衝撃とともに彼の前に現れた。



2.



 話は、数年前に遡る。


「佐久間一党、出仕に及ばず」

「林大学頭、御致仕」


佐久間、林。放逐。

その言葉は、雷挺のように鋭く、光秀の衰えた肉体を打った。



佐久間家、そして林家。いずれも信長の織田家――弾正忠家を創業の頃から支えた譜代の家臣だ。

自分のようななり上がりの他国者とは違う。

織田を先祖代々、子々孫々守るはずの男たち。

百歩譲って、信長に背いたことがある林はともかく、佐久間は代々、信長に忠節を尽くしてきた家だ。


彼らを自分の主君は、自分に暖かい目を向けたその顔のままで切り捨てた。

領国統治に難あり、と言い捨てられて。

それは、信長にしてみれば檄文のつもりであったかもしれない。

出頭人どもに譜代が負けてどうする、もっと成果を出せ、という言葉だったのかもしれない。

あの、口にする言葉の何倍も心で告げる主君であれば、そうでもあろう。


だが、受けた彼らにとってはそれは衝撃以上の何かだった。

領国といえど、戦で切り取った領地であり、本領からは遠く離れている。

文化も言葉も違う他国を、数年で従えることなどできようはずもない。

だが、それを求めた主君の目には、彼らは不甲斐ないと映った。


譜代であっても、主君の求める眼鏡に適わずば改易。


それは、一武将に求められるものを遥かに超えていた。


悄然と城下を去る彼らの家族、郎党たちの姿は、光秀の目にも焼きついている。

だからこそ、彼はこれまで以上に全力で畿内の諸勢力との折衝に当たっていた。

自分が、ひいては自家が生き延びるために。



 ◇


 そんな折、内々に言われたのが徳川討伐だ。

この二十年、常に尾張の背後を守る良き同盟者であった三河守徳川家康だが、既に結盟の頃と世界は大きく変わっていた。

家康が命じられていたのは今川、武田からの東海地方防衛、それだけだ。

信長はその為だけに、過去何代にも渡って干戈を交え、宿敵と言ってよかったこの家と盟を結んだ。


そして、今川が滅び武田が滅んで後。

このかつての盟友は、再び織田にとってさらに以前の立場に戻りつつある。


『徳川殿が、御謀反を?』


光秀がそう問い返したのは、安土城の一室に備えられた茶室だ。

そこの炉には釜がくべてあるが、火はない。

そして主人席には誰もおらず、その横の壁に信長はだらしなく背をもたせ掛けていた。


室内にいるのは自分と信長、そして信長の嫡子であり織田の現当主でもある信忠だけだった。


『さん候』


黙った信長の代わりに答えたのは信忠だ。そのまま告げる。


『甲斐より報せがあった。甲信一揆、それを煽っていたのは三河守じゃ。

依田はじめ、甲州侍を匿っておるとの報もある』

『それは……』


光秀は絶句した。

それは確かに明白な謀叛だ。


金柑(みつひで)


主君の冷厳な声が、平伏する光秀の頭上から投げられる。


『長月、徳川(あれ)を京に招く』

『……』

『馳走せよ』


ぶるりと震えた。

武者震いではない。恐怖だ。


東海一の弓取り、徳川家康。

彼を破ることは、今の織田家を思えば、決して不可能ではない。

徳川家が百万石なのに対し、織田家は所領一千万石に近い。

加えて本領から離れた京に招き、馳走(あんさつ)するという。

家康の命運は決まっていた。

だが、その後。

彼の本拠とも言える三河、遠江、そして駿河をどのようにするのか。

光秀は思わず主君に反問していた。


『されば』


不気味な沈黙を続ける主君に向かい、かろうじて彼は声を出した。


『されば……三河を如何様に。三河守御成敗の後、かの国は騒擾の巷となりましょう。

岡崎三郎(徳川信康)既に亡しと申せ、浜松には一子長丸(徳川秀忠)がございまする。

幼君を担ぎ、駿遠三がこぞって浜松に馳走(参陣)すれば』

『無用』


信長の言葉はそれだけだった。

ただ、口の端に浮かんだ笑みが、光秀の憂いを杞憂と断じている。

沈黙する父に代わって光秀に言葉を投げた信忠の顔にも、親と同様の笑みが浮かんでいた。


『酒井、吉良、石川。既に手は伸びておる。奥平や菅沼もじゃ。

日向、その方が騒ぐことではない』


光秀は愕然とした。

織田家に専属の諜報部隊――所謂『乱破』、忍びの類はいない。

少なくとも光秀の知る限りは。

主君親子は、光秀の知らないところで暗躍する存在がいることを暗に示している。

そして、強固に見えた徳川家臣団にも、織田の見えざる手が伸びているという事実に

光秀は更なる衝撃を受けていた。


家臣同様に顎で使っているはずの徳川の家中にすら、それだけの網を巡らせている。

であれば、自分が率いる明智家には。


『日向よ』

『……はっ』

『土佐守(長宗我部元親)への調略、しばし捨て置け。

(われ)には別に働いてもらわねばならぬ』

『……』

『十五郎も良き年である。初陣させよ』


その言葉の意味を取り、光秀は目の前が暗くなるのを感じた。

主君の命令は明白だ。

徳川領に明智家が侵攻し、制圧せよ。

柴田勝家の北国勢、羽柴秀吉の中国勢、滝川一益の関東勢に加えて、いわば東海勢とも呼べる軍団を率いて徳川、ひいては北条に対抗しろ、と言っている。

それは、東海の旧徳川領を明智が受け継げと言っているに等しい。

光秀の嫡男である明智十五郎光慶を連れて行けと言っているのが、その証左だ。


『……四国は』

『三七(織田信孝)に五郎左(丹羽長秀)を与力させる』


長宗我部との長年の交渉の結果、ある程度の調略が進んだ四国を織田信孝に任せるという。

光秀は、主君の子でありながら、信孝という人物をまったく評価していなかった。

長兄、信忠や次兄、信雄に対抗しようと焦るあまり、父信長の粗暴な面だけをことさらに真似るだけの者、と思っている。

そして丹羽長秀は、そんな彼を止められるような男ではない。

おそらく今までの光秀の努力は水泡に帰し、四国人の無用の恨みだけを買う結末になるだろう。


だが、光秀にはそれすら最早どうでもいい。

光慶をつれて、徳川領を治める。

それは、大小名が分立していた中国や北国とは明らかにその難易度が違っていた。

その統治の難易度は、かつての佐久間、林の比ではない。

あの地域の人間は、よそ者を極端に嫌うことで知られている。

一揆が頻発することは目に見えていた。

もし、自分が失敗をすれば。

それは明智一族全体の滅びと同義語だ。

何より、自分はまだしも、若い光慶が斃れれば。

明智家は、もはや拠って立つ主君がいなくなるのだ。


信長と信忠の会話を上の空で聞きながら、光秀は虚脱していた。



 ◇


『日向』


ふと主君の声に気づき、あわてて光秀は目を覚まし、改めて平伏した。

畳の目がゆがむように思える。

だが、主君の声は、さらに彼を打ちのめすに足るものだった。


『殊の外じゃ。斉藤、那破について申し伝える』

『はっ』

『腹を召すべし』

『……!!』

『一鉄が訴え、最もなり。己が勝手にて主君を変える不義不忠、まことに不届き。

家中騒乱の元なり。よって腹召すべし』

『……しかし、上様』


持病の歯痛が悪化し、若い頃の彼が嘘のように短気になった主君の逆鱗に触れることを承知で、思わず光秀は顔を上げた。


『……』

『共に証文を交わして譲り受けた者です。一鉄の理なき訴えのみをお聞きあるはあまりに!

特に斉藤は我が家の家老(おとな)、どうか何卒』

『くどい』


断言する声に、思わず光秀は腕から力が抜けるのを感じた。

斉藤利三(さいとうとしみつ)那破直治(なはなおはる)は共に美濃の大名、稲葉一鉄から借り受けた家臣だ。

特に斉藤利三は戦にも政治にも長けた名臣で、光秀はこの男を喜んで家老に据えた。

だが、稲葉一鉄はどこをどう誤解したのか、二人が勝手に逐電(脱走)し、明智に走ったと信長に訴え出ていた。

そして信長は断を下したのだ。

二人に死ねと。

だが、光秀にしてみれば誤解としか思えなかった。

徳川残党という敵を前に二人が死ねば、明智軍はその翼を片方もぎ取られたに等しい。



絶望のままに額で畳を擦った光秀の心の奥から、どす黒い言葉が浮かび上がる。


頼れる家老を奪われ。

いつ知行を失うか怯え。

若いわが子すら死地へ送らねばならず。

敵するは主君を同盟者に謀殺され、怨み骨髄に達しているであろう無数の一揆衆たち。


明智は、滅びる。

よしんば滅びずに済んだとしても、その力は大きく失われていることだろう。

そして光秀の死後、織田の執権の席に座るのは自分ではない。

信長の四男(羽柴秀勝)を子に迎え、将来の連枝衆入りが約束された秀吉(サル)か、

あるいは安土城の普請惣奉行を勤め、四国に虐殺をもたらすであろう長秀(うつけ)か。

どちらにせよ、光秀が一代をかけて築き上げたものは無に帰すだろう。


止めるしかない。


なんとしても。


その時だっただろう。

光秀が松永久秀、荒木村重といった謀反人たちの軍役帳に、己の名を記すことを決意したのは。



 ◇


自らの屋敷にどこをどう辿ったものか、ふらふらと戻った光秀に、あわてて家臣たちが駆け寄った。

その中にはたくましい顔を厳つい髭で覆った斉藤利三の姿もある。

老いた父を心配そうに眺める光慶の姿もあった。


ふと、涙が溢れるのを感じた。

光秀が六十八に対し、光慶はいまだ十四。

いつ死んでもおかしくない自分に対し、若すぎる。

自分が死ねば、明智の命運は少年一人に託される。

父が必死の思いで作ったものを、彼は海千山千の同僚に囲まれて、守り抜かねばならないのだ。

それも、股肱ともいえる斉藤利三を失って。


『この者らを残して死ねぬ』


恥も外聞も無く、家臣たちの前で光秀は慟哭した。

自分がもっと若ければ。

もっと若いうちに、この子が生まれていれば。

戦場の駆け引き、主君との付き合い方、すべてを教えられたろう。

たくましく育った息子にすべてを託し、自分は孫を可愛がりながら花鳥風月を愛でる自由を得ただろう。

だが、わが子は遅く生まれすぎた。

手塩にかける、その塩を用意する時間すら、父には許されぬほどに。



 そして、光秀はひそかに動き出した。

主君に気取られぬよう、慎重に慎重を重ねて。

徳川への調略を見ても分かるとおり、信長の広げた見えない手はどこに繋がっているか知れたものではない。

だからこそ、彼は細川、筒井といった与力たち――軍制上、明智家に従うことになっている大名たちにも何の手も伸ばさなかった。

朝廷や、今は遥か備後国(広島県)の鞆の津にいるはずの旧主・足利義昭にも何も言わなかった。

それどころか、斉藤利三、明智秀満といった信頼に足る家臣以外には、誰にも謀反の意を告げなかった。

恐ろしかったのだ。

誰かが信長に内通してしまえば、光秀は、ひいては明智家は終わりなのだから。


策を弄すると見せかけ、信長親子をわずかな供回りだけで洛中に待機させたのもその一環だった。

信長の逃げ足の速さは、光秀自身誰よりもよく知っている。

自分に降りかかる危険を、超能力めいた鋭さで感知する主君であれば、

なまじの兵を持たせれば、その兵すべてを捨石にして逃げ出すくらい顔色も変えずにしてのけるだろう。

だからこそ、兵を持たせないまま、洛中に置いたのだ。


遥か南北朝の時代、いや、源平の争乱の昔から、京という都が戦場に向かないことは常識となっている。

特に周辺すべてが焼け野原になった本能寺であれば、逃げ出すことすら容易ではない。

徳川を油断させるため、と恐る恐る進言した光秀の策に、信長は気づかなかった。

光秀を見下ろした天下人の目に映るのは、何なのか。



そして今。



「殿。……先手は既に本能寺まで」


馬を寄せた利三が小声で囁いた。

その目には、覚悟を決めた男だけが持つ光が宿っている。

彼もまた、自分の置かれた状況をよく理解していた。

家臣には情け深い、目の前のこの老主君が、自分を守るために、信長を裏切ったことを。


だからこそ、利三は持てる能力を総動員して、一万もの兵を静かに寄せる。

織田信長(てき)の元へ。


「よし」


光秀は答えて目を閉じた。

脳裏にさまざまなものが過ぎる。

自分を引き立ててくれた信長の顔、肩をたたき、共に戦勝を祝った宴の日。

惟任の姓を賜り、日向守の官位を授けてもらったときの晴れがましい気持ち。

そして、かつての同僚、佐久間信盛、林通勝の顔。

坂本城で留守を守るわが子、十五郎光慶の顔。

そして。



不意に視界が晴れ、眼下に広大な盆地が見えた。

ぽつぽつと灯る灯火は、その下に人がいる証だ。


その光を見ながら、光秀は静かに利三に告げた。


「されば……敵は、本能寺にあり」

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― 新着の感想 ―
[一言]  僕の中で、織田信長と明智光秀ってイメージがしっくりこない戦国大名ナンバー1と2なのです。  お話の中だと、信長と言うと、残忍で合理主義者ってイメージでよく語られること多い人物だけれど、そ…
[一言] 是非も無し・・・orz 実際どうだったのか、気になります。
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