微風
お題:日本式の絵画 必須要素:首相 制限時間:1時間 文字数:1952字
「おいこら」
茹だるような夏の昼下がりだった。この古ぼけた家にもおざなりにクーラーがある。と言っても、そこは人気がなく自然で溢れている田舎の家だ。家中の窓という窓、扉という扉を開け放てば、気持ちのいい風が吹き込んでくるのでクーラーは出来る限り使わないでいる。電気代の節約。というより、単純にクーラーが苦手なだけだが。
可哀想に、同居人は文明の利器が恋しくてたまらないらしい。いや、そもそもが怠惰な人間だ。畳の上でのんきに寝転がっている同居人は着ているノースリーブも短パンの裾もめくれ上がっていてだらしない。
この家を人が訪ねてくることはさすがにないだろうが、あまりにあられもない同居人の姿を見かねて声をかけた。同居人は「なんだよー」と気だるげに呻いて、畳の上をごろりと転がって仰向けになる。じれったい。
「今日は絵を描くんだろ?」
「やる気が出ない」
「色々と準備してたくせに。もう筆を持って紙の前に座ればいつでも始められる状態だ」
見下ろす同居人の顔はわかりやすく不貞腐れている。
縁側にほど近く、日の当たらない、風の通りがいい場所に、俺には名前のわからない筆やら紙やらがごちゃごちゃと置かれている。本来なら俺の昼寝スポットであるその場所を同居人に譲ってやったのも、どうやら同居人が絵を描くことに乗り気になったらしいと気付いたからだ。
同居人はこんな体たらくでも、絵画の腕は本物だ。一浪して美大に行き、数年前には何某の絵画コンクールで良い賞(何とか大臣賞とか総理大臣賞とか)を取ったらしく、絵画の界隈ではそれなりに有名人であるらしい。俺はその手の話題には疎いのですべて人から聞きかじった話だが。
同居人は昨日の昼下がりにふらりと出かけていったかと思うと、夕方には買い物袋をぱんぱんにして帰ってきた。日も沈んでいき薄暗くなっていく室内で、同居人は明かりをつけないで買ってきたものを取り出していた。真新しいビニールにくるまれたそれらの梱包を一つずつ解いていく後ろ姿を、その妙に情けなく思える猫背を俺はぼんやりと見守った。別に話しかけたって何もないだろうが、話しかけるのは躊躇われる空気だった。
夕食を終えれば描くのか、と思っていた俺の予想はしかし外れ、同居人は酒を飲んだ後はいつものようにごろごろとしていて、一向に絵を描く気配を見せずに寝てしまった。
だから、俺は柄にもなく今朝からそわそわしていた。ぐうたらな同居人がようやく仕事を始めるのではないのか、いや、例え仕事ではなく趣味の範疇、暇つぶしであったとしても、絵を描く姿を間近で見られるのではないかと期待していた。
ところが、同居人は俺の思っていたようには動かない。
「暑いと集中力が持たないんだってば」
「…クーラーをつけてやろうか?」
俺としては最大限の譲歩である言葉を与えたつもりだった。家主の寛大な心に咽び泣いてもいいぐらいだ。
それでも同居人は「えー…」と嫌そうに眉をしかめた。普段なら俺がそう言うなり大喜びで窓や扉を閉めに行くだろうに、今は畳の上から起き上がる素振りも見せない。
そのまま黙っていると、縁側の柱に釘を打ってぶら下げた風鈴がちりんちりんと鳴った。弱いながらも吹き込んでくる風が汗の滲んで火照った体には心地いい。扇風機もあるにはあるが、今日はまだ出番がなかった。
「人のことより、お前も仕事したらどうよ? 〆切近いんじゃないの」
「…それをお前が言うのか。こちとら休憩中だ」
口を開いたかと思えば憎まれ口をたたく。
俺は飯とトイレ、お代わりの麦茶以外では朝からパソコンに張り付いていたせいで腰が痛い。〆切まではまだ充分な日数があるとしても、調子がいい時には進められるだけ進めておくに限る。いつどこで手詰まりになるのかわからないのだから。
ずっと立ったままで寝転がっている同居人を見下ろして喋るのもしんどくなってきたので、俺はその場に座った。同居人の頭上に落ちている団扇を手に取り、戯れに同居人の身体を扇いでやる。同居人は「うはは、至れり尽くせりじゃーん」と変な笑い方をする。
小学生にはもうおじさんと呼ばれてしまう年にさしかかっても、同居人は子どもっぽいところが消えない。その笑い方が少し癪に触り、団扇でぺしりと腹を叩いた。
同居人がじろりと眼をこちらに向ける。黒々としてカラスを思わせる瞳が俺は何となく苦手だ。
「そんなに描いてほしいわけ?」
「せっかくやる気を出したなら、わざわざ削ぐ必要もないだろ」
「ふうん」
「何か不満か?」
「いや別に」
ごろりと横向きになったかと思うと、同居人は畳に手をついて体を起こした。
「それじゃあ、まあ、ご期待に応えますか」
ひどくやる気のない声で同居人は呟いた。




