レモネード
お題:2つの暗殺者 制限時間:1時間 文字数:2378字
館内に照明の光が戻ってきた時、ただでさえがらがらだった客席には座っていた客の半分も残っていなかった。私はぐっと伸びをして凝り固まった背中を反らす。
エンドロールが流れる暗闇の中、がたがたと座席を鳴らして立ち上がった人影が出入り口に向かっていくのを三人見た。退屈な映画。ありきたりな、いえ、本当はありきたりではないけれど余りにもフィクションの中で見慣れてしまった恋愛模様。
上映中にあくびを噛み殺したのは私だけじゃない。斜め前に座っていた女性は頬杖をついていた頭ががくんがくんと揺れていた。
観客が出ていく流れに私も合流して非常ランプの消えてしまったドアから排出される。狭い廊下を歩いてロビーに出れば、男性が買ったばかりらしい湯気の立つコーヒーを啜っていた。
チケットカウンターもショップも無視して外に出るとひんやりとした空気が頬を冷ます。館内は暖房が効いていた。ぶるりと体が震えて、体に付きまとっていた気だるさのようなものが剥がれ落ちた気がする。
看板にペンキで記されたらしいシネマの文字は掠れて剥げて、どろりと下に垂れ流れたインクがお化け屋敷を連想させる。そのうち潰れそうだな、と思いながら映画館を通りすぎること十年。十年後にまたここを通っても残っていそうな気がするぐらいには街の風景に馴染んでいる。
コンクリートはさしてヒールの高くないブーツでも足音を増幅させるのだから嫌になる。かといって絨毯は足の沈む感覚が嫌だ。等間隔に立っている街灯に照らされながら川のほうへと向かう。
安っぽいラブロマンスも恋人が隣にいてくれたら制作者の望むような雰囲気に飲まれることができただろうか。映画そっちのけで肘おきに置いた手と手を重ね合わせるような、相手の肩に頭をもたれさせるような、他人も物語も関係なくキスするような。残念ながら、そんな人はもう二年もいない。
更衣室で制服を脱いでブラウスのボタンを留めている私の鼻先に映画のチケットを押し付けたのは、レモンだった。レモンは本名じゃなくて、本人が無類のレモン好きで何の料理にでもレモンを搾るし、持ち物のほとんどが黄色いからそう呼ばれている。本人もレモンと呼ばれることに満足している。
「姉さんはこういう映画興味ない?」
私はレモンの姉でもないし何ならレモンと同僚だけれど、彼女を始めとした周りの職員には姉さんと呼ばれている。大勢の前で嫌みっぽい上司からこんこんと罵詈雑言を浴びせられている後輩を助けた時からそんなあだ名が定着してしまった。
レモンは私のところへチケットを持ってくる前に他の女の子たちにも声をかけていた。知り合いからもらったチケット、日切れが近い、期限内に見に行く時間がないから譲りたい、適当な感想ももらえれば知り合いにも見に行った体裁を繕える。
チケットに印字されている使用期限は明後日まで。急に呼びかけられても恋に趣味にと忙しい彼女たちはごめんねと言うばかりで、私の番まで回ってきてしまった。
「興味はないかな」
「あちゃー」
レモンは額に手を当てて大袈裟に反応する。ブラウスのボタンを一番下まで止めると、スキニーパンツの裾に右足を押し込む。
「でも、帰り道に映画館の近くを通るから行ってもいいよ。席に座って二時間ぼうっとしてたらいいんでしょ?」
「そう!」
両足の通ったスキニーパンツを引き上げて、助かったーと朗らかに笑うレモンからチケットを受け取った。私が断ったとしてもチケットはただの紙切れと化しゴミ箱行きになるだけだけれど、レモンの知り合いはただの知り合いのままかお気に入りになれるかという点にはちょっぴり影響するかもしれない。
レモンは行かなくて正解だった。他の女の子たちもそう。二時間あれば何だって出来る。
ろくすっぽ映画なんて見ない私があけすけに感想を告げるのも印象としてはどうかと思う。そうなるように仕向けられた方向へ素知らぬ顔で流されておけば、たぶん彼女も知り合いもうまくいく。誰も反抗を望まない。反乱は明確な目的があり命がけでやるからこそ意味があって、日々の小競り合いなんて時間と精神を消費するだけの極めて迷惑な行為。
面白い、感動した、が語尾についていれば後は何だって良いだろう。ストーリーの肝を抑えつつレモンに伝える感想を脳内でざっくりまとめる。
明かりのない川はどうしてこうも不吉に見えるのだろうか。ぬらぬらと黒光りする水面に月明かりは届かず、近くの街灯ばかりが輪郭の淵を照らそうとしている。
橋は渡らないで川沿いに歩いていくと、宅地開発で同じ時期に建てられた無個性のマンションがずらずらと見えてくる。そのうちの一つのエントランスをくぐり、郵便ポストをチェックしてから部屋に向かう。
玄関のドアに鍵を差し込むと、錠の開く重たい感触と音がなかった。またか、と内心で舌打ちして扉を開ける。
リビングには電気が灯っていて玄関まで明かりが僅かに届いている。玄関には十センチヒールの赤いパンプスが私のローファーの隣に脱ぎ散らかされている。赤いヒールを揃えてスペースを空けてから、しゃがんでロングブーツのジッパーを引き下げる。ロングブーツは好きだけど脱ぎ着しにくいところだけが唯一の欠点、後は完璧。
のろのろと脱いでいるとリビングから足音がして、廊下のフローリングでぺたぺたと裸足を教える。
「おかえり。遅かったじゃん」
「あんたに言われたくない」
「一週間ぶりの帰還だろ。仲良くしてよ」
なでしこ、なんておしとやかな名前が全く似合わない女の堂々一位はぶうと唇を尖らせた。グレーのスエットなんていかにもな部屋着を着ているのに両耳にはお出掛け用の丸くて大きなイヤリングをまだつけている。
二年間、私に恋人がいないのはいつの間にか同居しはじめていた彼女のせいだ、と思う。




