ななしの彼女 ※未完
お題:忘れたい職業 制限時間:30分 文字数:1074字
彼女が隣の家に引っ越してきたその時、たまたま近所のスーパーから帰ってきた僕は彼女の家の玄関前を通る時に彼女から声をかけられて挨拶をした。
ベリーショートの髪型と耳元で揺れていたフープの型のイヤリング、ちょっと太い眉毛が印象的だった。年齢は二十代ぐらいだろうか、化粧っ気はなくてさっぱりしている感じだった。
踵の高い靴を履いている彼女は僕とちょうど同じぐらいの身長だった。胸元に星マークのついたTシャツと裾のひらひらした長いスカートを着ていて、真っ赤なトランクケースを片手に持っていた。
当然ながら僕らは初対面だ。僕はぎこちなく名乗って「よろしくお願いします」と言った。彼女も「よろしくお願いします」と言ったけれど、 名前は教えてくれなかった。
「好きに呼んでください」
そうして彼女は家の中へと姿を消した。表札を探したけれど、引っ越してきた直後だからかどこにも見当たらなかった。
お隣さんと話す機会なんてそうそうないだろうと思っていたけれど、翌日の朝、僕が愛犬の散歩に出てみたらお隣さんは家の前の庭でラジオ体操をしていた。今日の彼女は胸元にクマのイラストがかかれた白いTシャツと赤いジャージを履いている。
ぐるりと両腕を前に回した彼女は僕に気付くと「おはようございます」と言って、ぐるりと両腕を後ろに回した。「おはようございます」と返して通りすぎようとしたら、彼女はラジオ体操を止めてこちらに歩いてきた。
「ワンちゃん飼ってるんですね」
「はい」
「名前は?」
「さくら」
「撫でてもいいですか?」
「いいですよ」
彼女はしゃがむとさくらの鼻先に手を出し、さくらがすり寄ると顎の下を撫でた。やけに犬の扱いに慣れている。さくらは人懐っこい性格で誰にでも愛想が良く、吠えたり噛んだりもしないのでご近所付き合いにおいては大変助けられている。今みたいに。
「トイプードルって賢いワンちゃんなんですよね。私、お隣に住んでいます。良かったら仲良くしてくださいね」
律儀なのか天然なのかよくわからないけれど、彼女はさくらに向けてもきちんと挨拶をした。さくらは千切れんばかりに尻尾を振って喜びを表していた。
ひとしきり撫でて満足したらしい彼女はすっと立ち上がった。
「お散歩の邪魔してすみません。いってらっしゃい」
手を振った彼女に見送られて散歩コースを歩き出す。二十、三十メートルほど進んでからちらと振り返れば、彼女はラジオ体操の続きをしていた。
散歩から帰ってくる時に彼女の家の前を通りがかると、当たり前だがそこにはもう彼女の姿はなかった。




