はじめとカケル ※未完
お題:誰かと失望 制限時間:1時間 文字数:1440字
四分の三拍子、テンポはモデラート、強弱記号はp。真ん中のファから一オクターブ上の#ファに右手の薬指を置き、タイで繋がった四分音符と八分音符の長さで弾く。
僕が数少なく暗譜している楽曲の始まりだ。この音が心地よく始まれば三拍子のワルツが足取り軽やかに流れてゆくし、逆に不格好な音になれば踊っている最中に足を引っかけてしまうような出来のワルツになった。だから、最初の一音だけは決めなくてはならなかった。
大勢の観客が息を潜めたコンサートホールで、スポットライトを浴び、数度しか触れていないグランドピアノを前にしたときは必ず深呼吸をひとつする。舞台袖から椅子に座るまでの間にはこれから弾く曲を何度となく頭の中でイメージしているけれど、鍵盤に添えるように指の準備をしたとき、頭の中でぷつりと音が止む。深呼吸。そして、頭の中で流れだした一小節目のフレーズに合わせて指が動きはじめる。
静寂を打ち破る一音目には何よりも集中力が必要だった。
だから、例えグランドピアノではなく、長年埃を被っていたアップライトピアノに座っていたとしても僕は曲を弾く前には深呼吸をした。観客なんて一人もいない部屋で、先生の見ていない部屋で、練習ですらなくても、僕は集中して最初の一音を弾いた。
頭の中では小さくとも芯のあるpの#ファが鳴っていたけれど、実際にピアノから聞こえたのは頼りなくふにゃふにゃした音だった。それから頭の中にある楽譜の二段目まで弾いたところで、右手の音を間違えてしまい、僕は手を止めた。
やはり上手くいかない。はあ、と溜め息がもれた。
「お兄さんがピアノ弾ける人?」
急に近くから声が聞こえたので「うわっ」と驚いて肩が跳ねた。横を向くと、そこには髪を肩のあたりまで伸ばした女の子が立っていた。知らない女の子だ。キリッとつり上がっている目が印象的で、スポーティーなTシャツと半ズボン姿のその子は小学校低学年ぐらいだろうか。っていうか、この子、どこから入ってきたのだろう。いつから僕を見ていたんだろう。
などと、数秒の間に色々なことを考えていたら女の子はもう一度「ピアノ弾けるの?」と聞いてきた。
「えっと、最近まで習ってた、んだよ」
「男なのに珍しいね」
「そんなことないよ」
ピアノを習っていると言えば、老若男女問わずよく言われることだったからこの反応も予想できた。ピアノは女の子の習い事というイメージが強いけれど、僕の通っていた先生のところには僕以外にも男子の生徒は何人かいた。まあ、だいたいが中学生に上がる前にやめちゃったけど。
「へぇ、本当だったんだ」などと何やら一人で納得している彼女の質問に答えたことだし、今度はこちらから質問してみる。彼女については分からないことだらけだけど、とりあえず。
「えっと、名前を教えてくれるかな」
「七尾はじめです」
彼女はすんなりと名乗ってくれた。名字を聞いて合点が行った。近所で若い子と言ったら七尾さんのところにいる小学生の女の子ぐらいだな、とおじいちゃんが言っていたのを思い出した。
「どこから入ってきたの?」
「玄関から。ちゃんとこんにちはって言ったよ?」
さも当然と言わんばかりの自信ありげな様子で答えられて、そっかと頷くしかなかった。ピアノに集中していて周りが聞こえていなかったのだろう。田舎だから玄関の鍵は開けっぱなしだし。はじめちゃんは首を傾げた。
「お兄さんも名前教えて」
「蜂谷カケル、です」




