治癒師は、何一つ後悔せず死ぬ人間を作りたい
「心残りはありますか」
僕は、死にかけている人に必ずそう聞く。
十四のとき、初めて看取った老婆は、息子に謝りたいと言った。
十六のときの猟師は、もう一度だけ森へ入りたいと言った。
二十一のとき、三人の子供に囲まれた母親は、もっと一緒にいたかったと泣いた。
みんな、何かを残した。
言いたかった。
見たかった。
もう少しだけ生きたかった。
ある夜、薬草を刻んでいた師匠に聞いた。
「何一つ後悔せずに死んだ人って、見たことありますか」
「ないな」
「一人も?」
「死ぬ間際になりゃ、みんな欲張りになる」
僕は少し考えた。
「じゃあ、作れますかね」
包丁が止まった。
「何を?」
「何一つ後悔せずに死ぬ人です」
師匠は長いこと僕を見てから言った。
「お前は治癒師になる前に、一回頭を診てもらえ」
結局、頭は診てもらわなかった。
その代わり治癒師になった。
◇
村人は、僕のことをずいぶん親切な人間だと思っている。
足の悪い老人の家へ往診し、熱を出した子供を診て、金のない家からは薬代を取らない。
薪が積めずに困っていれば手伝うし、読み書きのできない老人には息子から来た手紙を読んでやる。
治癒には患者の暮らしを知ることが大切だ。
僕の場合、それ以上に大切だった。
病気を治しても、人は満足しない。
足を治せば畑へ戻りたがる。
畑へ戻れば、都会へ出た息子を心配する。
息子が帰れば、今度は孫の将来を気にする。
一つ消すと、次が出る。
人間の心残りは、病気よりずっとしつこい。
だから、ずっと試してみたかった。
全部消したら、どうなるのか。
試してみる相手は、七十一歳の家具職人ガルドだった。
「腰が痛え」
診察台に座ったガルドは、開口一番そう言った。
「腰だけですか」
「膝もだ」
「他には」
「右肩が上がらん」
「他には」
「お前は俺を病人にしたいのか」
「確認しているだけです」
「歯も一本抜けた」
「それは治せません」
「役に立たんな」
口は悪いが、治療が終わると何度も腰を捻り、膝を曲げ、右腕を上げた。
「……痛くねえ」
「しばらく無理はしないでください」
「今日から仕事する」
「どうぞ」
嬉しそうだった。
僕はいつもの質問をした。
「もし今日死ぬとしたら、心残りはありますか」
ガルドの顔から笑みが消えた。
「縁起でもねえこと聞くな」
「ありますか」
「……そりゃ、ある」
「一番大きいものは?」
しばらく黙ってから、ガルドは言った。
「息子だ」
王都にいる。
十二年前、工房を継がないと言って喧嘩別れした。
それ以来、一度も会っていないらしい。
僕は診療記録の病名の下に、新しい欄を作った。
《心残り:息子》
七十一歳。
妻とは死別。
身体は、僕がしばらく保たせられる。
心残りは具体的。
悪くない。
◇
最初に手をつけたのは、息子だった。
名前はダリオ。王都で商いをしている。
手紙を二通送った。
一通目には、ガルドの腰が悪いと書いた。
返事は冷たかった。
二通目には、
《死んでからでは確認できないこともあります》
とだけ書いた。
一か月後、ダリオが村へ来た。
工房の前で父親を見るなり言った。
「死にかけていると聞いた」
「誰が死にかけだ!」
二人が同時に僕を見た。
「そんなことは書いていません」
「この野郎」
「先生、後で話があります」
その日は夕方まで喧嘩していた。
翌朝も喧嘩した。
三日目、ダリオが工房の椅子を直していた。
四日目、ガルドがその直し方に文句をつけた。
六日目、ダリオは王都へ帰った。
「春にまた来る」
「勝手にしろ」
ガルドはそう言った。
僕は記録の《息子》に線を引いた。
春、ダリオは妻と娘を連れて戻ってきた。
七歳の孫娘はガルドを見るなり、
「お父さんより怖い顔」
と言った。
ガルドはその日から、孫娘が帰った後の家を「静かすぎる」と言うようになった。
僕は線を引いた《息子》の下に、新しく書いた。
《孫の成長》
一つ減らしたら、一つ増えた。
◇
他にもあった。
死んだ妻エマを、海へ連れていく約束を守れなかった。
工房を継ぐ人間がいない。
若い頃に作った食器棚が、今どこにあるか分からない。
昔喧嘩した鍛冶屋に、謝れないまま死なれた。
僕は一つずつ潰した。
海までは三日かかった。
ガルドは馬車に文句を言い、宿に文句を言い、潮の匂いにも文句を言った。
浜へ出ると、何も言わなくなった。
懐から青い髪紐を出した。
エマのものだった。
「海を見たいって言ってた」
「どうして来なかったんです」
「来年でいいと思った」
「来年は来なかった」
「そういうことだ」
ガルドは髪紐を握ったまま、水平線を見ていた。
しばらくして、小さく言った。
「遅くなったな」
握っていた髪紐を、また懐へ戻した。
誰に言ったのかは聞かなかった。
帰ってから、《エマと海を見る》に線を引いた。
工房の後継者は隣村から連れてきた。
木工が好きな十五歳の少年だった。
ガルドは最初、弟子なんか要らないと言った。
一か月後には、少年の作った箱をひっくり返し、角を指でなぞってから、
「蓋が三分ずれてる。明日もう一個作れ」
と言った。
《工房の後継者》にも線を引いた。
それから三年。
ガルドは七十五になった。
ダリオ一家は年に二度、王都から村へ来る。
孫娘は十一歳になった。
弟子は簡単な仕事なら一人で任されるようになった。
過去の話は、ほとんどしなくなった。
代わりに未来の話をするようになった。
孫が字を覚えるところを見たい。
弟子が一人前になるところを見たい。
来年、工房の前に植えた木が咲くところを見たい。
僕は記録を二つに分けた。
《過去への後悔》
《未来への希望》
前者は減った。
後者は増えた。
幸福にするほど、先を欲しがる。
息子と仲直りさせれば、孫の成長が見たくなる。
弟子を与えれば、一人前になるところが見たくなる。
身体を治せば、来年の春まで生きたくなる。
僕が心残りを消そうとするほど、ガルドには死ねない理由が増えていった。
そのことに気づいた夜、僕は長いこと記録を眺めた。
《未来への希望》
欄だけが増え続けている。
なら。
これを減らせばいいのではないか。
孫に会う回数を減らす。
弟子を工房から離す。
来年の春を期待させない。
未来との繋がりそのものを薄くすれば、欲しいものは減る。
理屈としては、正しいはずだった。
翌日、王都から手紙が届いた。
ダリオからだった。
《冬が明けたら、父さんを王都へ連れてきてほしい。娘が通う学校も店も見せたい》
僕は読み終えた。
ガルドには、まだ見せていない。
机の上に置いたまま、しばらく考えた。
これを渡せば、未来への希望が一つ増える。
渡さなければ、増えない。
簡単だった。
僕は手紙を机の引き出しへ入れた。
そのまま三日置いた。
四日目。
ガルドが診療所へ来た。
「王都から何か来てねえか」
「なぜです」
「この前、孫が来たとき、ダリオが手紙を出すって聞いた」
僕は引き出しを見た。
「来ています」
「なんで渡さねえ」
「少し、確認したいことがありました」
「何をだ」
答えなかった。
ガルドは僕の顔をしばらく見ていた。
僕が引き出しから手紙を出すと、ガルドは奪うように受け取った。
最後まで読んで、折り畳んだ。
「先生」
「はい」
「お前、時々ほんとに気味悪いな」
「よく言われます」
「褒めてねえ」
怒鳴るかと思った。
でもガルドは、それだけ言って帰った。
僕はその日、記録に何も書けなかった。
手紙を隠していた三日間、新しい予定は増えなかった。
それだけだった。
ガルドは工房へ行き、孫の話をし、春の木を気にしていた。
すでにある希望は、一つも減らない。
なら、もっと直接切るしかない。
孫を来させない。
弟子を工房から離す。
春まで生きる理由を、こちらから減らしていく。
そこまで考えて、記録を閉じた。
それをやれば、今度は僕自身が《会えなかった》《続けさせてもらえなかった》を作る。
心残りを消すために、新しい心残りを足すことになる。
◇
秋の収穫祭。
ガルドは酒を飲みすぎて、孫と弟子に両側から止められていた。
「じいちゃん、もう駄目!」
「師匠、先生に怒られますよ」
「俺は七十五だぞ。好きに飲ませろ」
「七十五だから止めてるの!」
夜が更け、人が減った頃。
ガルドが僕の隣へ座った。
「先生」
「何ですか」
「まだ、あれ聞くのか」
「あれ?」
「心残り」
「聞きますよ」
「じゃあ今聞け」
僕は杯を置いた。
「もし今日死ぬとしたら、心残りはありますか」
ガルドはしばらく黙った。
「……ねえな」
僕は顔を上げた。
「一つも?」
「たぶんな」
「孫は?」
「元気だ」
「弟子は?」
「あいつはもう、俺がいなくても食える」
「息子さんは」
「相変わらず馬鹿だが、まあやっていける」
「来年の春は?」
「見たいな」
「では、あるじゃないですか」
ガルドが笑った。
「違うんだよ」
「何が違うんです」
「知らん。自分で考えろ」
腹が立った。
僕はずっと考えている。
何年も。
本人より細かく、ガルドの心残りを記録してきた。
「今死んでも、本当に後悔しませんか」
ガルドは片付けをしている村人たちを見た。
孫娘は友達と屋台の残りを漁っている。
弟子は酔って椅子で寝ていた。
「しねえよ」
その夜、僕は記録に書いた。
《対象者ガルド》
《過去への後悔:なし》
《自己申告:本日死亡しても後悔なし》
少し迷って、最後に一行足した。
《候補:完成》
四年かかった。
手が少し震えた。
人間は実際に死ぬとき、答えを変える。
最後まで観察しなければならない。
◇
冬の初め。
ガルドが倒れた。
病気ではなかった。
七十五年動き続けた心臓が、弱っていた。
治癒魔法は傷を治せる。
病に侵された組織も戻せる。
でも、正常な七十五歳の心臓を二十歳には戻せない。
僕は魔力を流し、苦痛を抑えた。
夕方にはダリオ一家が着いた。
弟子も工房と寝台の間を何度も往復した。
夜が深くなるにつれ、ガルドの呼吸は浅くなった。
もう長くない。
僕には分かった。
ガルドが目を開けた。
「セイン」
初めて、名前で呼ばれた。
「はい」
「他の奴、外してくれ」
家族を部屋から出した。
扉が閉じる。
僕とガルドだけになった。
「治せるか」
「若返らせる魔法はありません」
「そうか」
「怖いですか」
「少しな」
僕の胸が高鳴った。
今だ。
「心残りはありますか」
ガルドが、かすかに笑った。
「やっぱり聞くんだな」
「大事なので」
「お前にとってはな」
僕は黙った。
ガルドは目を閉じたまま言った。
「ある」
頭の中が真っ白になった。
「……ある?」
「ああ」
「何がです」
「孫が大人になるところ」
僕は何も言わなかった。
「小僧が一人前になるところも見たい」
まだある。
「ダリオの店にも一度行きたかった」
まだ。
「春も見てえな。あの木、今年初めて花が咲くだろ」
四年。
四年かけた。
息子を戻した。
孫に会わせた。
海へ連れていった。
弟子を作った。
身体も、できる限り保たせた。
なのに、最後の最後でまた増えた。
僕はガルドの胸に当てていた手を見た。
魔力を流し続ければ、苦痛は抑えられる。
止めれば、すぐに死ぬわけではない。
ただ、苦しくなる。
一瞬だけ考えた。
苦痛が増えれば、欲望は減るのだろうか。
孫も春もどうでもよくなって、ただ終わってほしいと願うのだろうか。
確かめられる。
今なら。
僕は魔力を少し弱めた。
ガルドの眉が寄った。
呼吸が乱れる。
その顔を見た瞬間、手が止まった。
違う。
これは、僕が見たいものではない。
苦痛に負けて「もういい」と言わせても、何の意味もない。
魔力を戻した。
ガルドの呼吸が少し落ち着く。
「失敗だ」
気づけば、口に出していた。
「何が?」
「……僕です」
ガルドは目を開けた。
「で、お前は何を確かめたかった」
僕は答えなかった。
「まあ、いい」
ガルドは短く息を吐いた。
「お前が何してたか、全部は分からん」
「全部?」
「ダリオ呼んだり、海連れてったり、弟子連れてきたり。俺の人生を勝手にいじってたのは分かってた」
「なぜ止めなかったんです」
「だいたい得してたからな」
少し笑った。
「手紙隠したときは殴ろうかと思ったが」
「すみません」
「ほんとにな」
しばらく沈黙があった。
僕はもう一度聞いた。
「それでも、心残りはあるんですね」
「ああ」
「では、満足していない」
ガルドが眉を寄せた。
「なんでそうなる」
「まだ欲しいものがあるからです」
「見たいのと、足りないのは別だぞ」
意味が分からなかった。
「孫が大人になるところは見たい」
「はい」
「春も見たい」
「はい」
「できりゃ、あと十年くらい生きたい」
「では――」
「でも、見られなくても構わねえ」
僕は黙った。
「十分だからな」
「何がです」
「もう十分もらった」
「でも、まだ欲しいものがある」
「ああ」
「矛盾しています」
「してねえよ」
ガルドは少し笑った。
「飯食って腹いっぱいになっても、うまそうな菓子見りゃ食いたいだろ」
「僕はあまり」
「例え話だ」
「分かっています」
「満腹ってのは、世の中から食い物がなくなることじゃねえ」
それだけ言って、目を閉じた。
僕は何も言えなかった。
しばらくして、ガルドが小さく言った。
「みんな呼んでくれ」
家族を入れた。
孫娘が手を握った。
ダリオが反対側へ座った。
弟子は寝台の足元で泣いていた。
ガルドは一人ずつ見た。
「泣くな。うるせえ」
孫娘が余計に泣いた。
ダリオは笑いながら泣いた。
ガルドも少し笑った。
夜明け前。
最後に、ほとんど声にならない声で言った。
「いい人生だった」
そのまま死んだ。
◇
葬儀の夜。
僕は四年分の記録を机へ広げた。
《息子》
《海》
《工房》
《過去への後悔》
ほとんどすべてに線が引いてある。
《未来への希望》だけは残っていた。
孫の成人。
弟子の独立。
春の花。
ダリオの店。
一つも消えていない。
それでもガルドは、十分だと言った。
僕は新しい紙を出した。
《仮説一》
《人間は、未練と欲望をすべて解消すれば、満足して死ねる》
上から一本線を引く。
その下に書いた。
《仮説二》
《満足とは、欲しいものがなくなることではない》
少し考えて、その下に書いた。
《仮説三》
診療所の外で、戸を叩く音がした。
「先生ー!」
僕は記録を閉じた。
「今行きます」




