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治癒師は、何一つ後悔せず死ぬ人間を作りたい

作者: 菊丸
掲載日:2026/09/14

「心残りはありますか」


僕は、死にかけている人に必ずそう聞く。


十四のとき、初めて看取った老婆は、息子に謝りたいと言った。


十六のときの猟師は、もう一度だけ森へ入りたいと言った。


二十一のとき、三人の子供に囲まれた母親は、もっと一緒にいたかったと泣いた。


みんな、何かを残した。


言いたかった。


見たかった。


もう少しだけ生きたかった。


ある夜、薬草を刻んでいた師匠に聞いた。


「何一つ後悔せずに死んだ人って、見たことありますか」


「ないな」


「一人も?」


「死ぬ間際になりゃ、みんな欲張りになる」


僕は少し考えた。


「じゃあ、作れますかね」


包丁が止まった。


「何を?」


「何一つ後悔せずに死ぬ人です」


師匠は長いこと僕を見てから言った。


「お前は治癒師になる前に、一回頭を診てもらえ」


結局、頭は診てもらわなかった。


その代わり治癒師になった。



村人は、僕のことをずいぶん親切な人間だと思っている。


足の悪い老人の家へ往診し、熱を出した子供を診て、金のない家からは薬代を取らない。


薪が積めずに困っていれば手伝うし、読み書きのできない老人には息子から来た手紙を読んでやる。


治癒には患者の暮らしを知ることが大切だ。


僕の場合、それ以上に大切だった。


病気を治しても、人は満足しない。


足を治せば畑へ戻りたがる。


畑へ戻れば、都会へ出た息子を心配する。


息子が帰れば、今度は孫の将来を気にする。


一つ消すと、次が出る。


人間の心残りは、病気よりずっとしつこい。


だから、ずっと試してみたかった。


全部消したら、どうなるのか。


試してみる相手は、七十一歳の家具職人ガルドだった。


「腰が痛え」


診察台に座ったガルドは、開口一番そう言った。


「腰だけですか」


「膝もだ」


「他には」


「右肩が上がらん」


「他には」


「お前は俺を病人にしたいのか」


「確認しているだけです」


「歯も一本抜けた」


「それは治せません」


「役に立たんな」


口は悪いが、治療が終わると何度も腰を捻り、膝を曲げ、右腕を上げた。


「……痛くねえ」


「しばらく無理はしないでください」


「今日から仕事する」


「どうぞ」


嬉しそうだった。


僕はいつもの質問をした。


「もし今日死ぬとしたら、心残りはありますか」


ガルドの顔から笑みが消えた。


「縁起でもねえこと聞くな」


「ありますか」


「……そりゃ、ある」


「一番大きいものは?」


しばらく黙ってから、ガルドは言った。


「息子だ」


王都にいる。


十二年前、工房を継がないと言って喧嘩別れした。


それ以来、一度も会っていないらしい。


僕は診療記録の病名の下に、新しい欄を作った。


《心残り:息子》


七十一歳。


妻とは死別。


身体は、僕がしばらく保たせられる。


心残りは具体的。


悪くない。



最初に手をつけたのは、息子だった。


名前はダリオ。王都で商いをしている。


手紙を二通送った。


一通目には、ガルドの腰が悪いと書いた。


返事は冷たかった。


二通目には、


《死んでからでは確認できないこともあります》


とだけ書いた。


一か月後、ダリオが村へ来た。


工房の前で父親を見るなり言った。


「死にかけていると聞いた」


「誰が死にかけだ!」


二人が同時に僕を見た。


「そんなことは書いていません」


「この野郎」


「先生、後で話があります」


その日は夕方まで喧嘩していた。


翌朝も喧嘩した。


三日目、ダリオが工房の椅子を直していた。


四日目、ガルドがその直し方に文句をつけた。


六日目、ダリオは王都へ帰った。


「春にまた来る」


「勝手にしろ」


ガルドはそう言った。


僕は記録の《息子》に線を引いた。


春、ダリオは妻と娘を連れて戻ってきた。


七歳の孫娘はガルドを見るなり、


「お父さんより怖い顔」


と言った。


ガルドはその日から、孫娘が帰った後の家を「静かすぎる」と言うようになった。


僕は線を引いた《息子》の下に、新しく書いた。


《孫の成長》


一つ減らしたら、一つ増えた。



他にもあった。


死んだ妻エマを、海へ連れていく約束を守れなかった。


工房を継ぐ人間がいない。


若い頃に作った食器棚が、今どこにあるか分からない。


昔喧嘩した鍛冶屋に、謝れないまま死なれた。


僕は一つずつ潰した。


海までは三日かかった。


ガルドは馬車に文句を言い、宿に文句を言い、潮の匂いにも文句を言った。


浜へ出ると、何も言わなくなった。


懐から青い髪紐を出した。


エマのものだった。


「海を見たいって言ってた」


「どうして来なかったんです」


「来年でいいと思った」


「来年は来なかった」


「そういうことだ」


ガルドは髪紐を握ったまま、水平線を見ていた。


しばらくして、小さく言った。


「遅くなったな」


握っていた髪紐を、また懐へ戻した。


誰に言ったのかは聞かなかった。


帰ってから、《エマと海を見る》に線を引いた。


工房の後継者は隣村から連れてきた。


木工が好きな十五歳の少年だった。


ガルドは最初、弟子なんか要らないと言った。


一か月後には、少年の作った箱をひっくり返し、角を指でなぞってから、


「蓋が三分ずれてる。明日もう一個作れ」


と言った。


《工房の後継者》にも線を引いた。


それから三年。


ガルドは七十五になった。


ダリオ一家は年に二度、王都から村へ来る。


孫娘は十一歳になった。


弟子は簡単な仕事なら一人で任されるようになった。


過去の話は、ほとんどしなくなった。


代わりに未来の話をするようになった。


孫が字を覚えるところを見たい。


弟子が一人前になるところを見たい。


来年、工房の前に植えた木が咲くところを見たい。


僕は記録を二つに分けた。


《過去への後悔》


《未来への希望》


前者は減った。


後者は増えた。


幸福にするほど、先を欲しがる。


息子と仲直りさせれば、孫の成長が見たくなる。


弟子を与えれば、一人前になるところが見たくなる。


身体を治せば、来年の春まで生きたくなる。


僕が心残りを消そうとするほど、ガルドには死ねない理由が増えていった。


そのことに気づいた夜、僕は長いこと記録を眺めた。


《未来への希望》


欄だけが増え続けている。


なら。


これを減らせばいいのではないか。


孫に会う回数を減らす。


弟子を工房から離す。


来年の春を期待させない。


未来との繋がりそのものを薄くすれば、欲しいものは減る。


理屈としては、正しいはずだった。


翌日、王都から手紙が届いた。


ダリオからだった。


《冬が明けたら、父さんを王都へ連れてきてほしい。娘が通う学校も店も見せたい》


僕は読み終えた。


ガルドには、まだ見せていない。


机の上に置いたまま、しばらく考えた。


これを渡せば、未来への希望が一つ増える。


渡さなければ、増えない。


簡単だった。


僕は手紙を机の引き出しへ入れた。


そのまま三日置いた。


四日目。


ガルドが診療所へ来た。


「王都から何か来てねえか」


「なぜです」


「この前、孫が来たとき、ダリオが手紙を出すって聞いた」


僕は引き出しを見た。


「来ています」


「なんで渡さねえ」


「少し、確認したいことがありました」


「何をだ」


答えなかった。


ガルドは僕の顔をしばらく見ていた。


僕が引き出しから手紙を出すと、ガルドは奪うように受け取った。


最後まで読んで、折り畳んだ。


「先生」


「はい」


「お前、時々ほんとに気味悪いな」


「よく言われます」


「褒めてねえ」


怒鳴るかと思った。


でもガルドは、それだけ言って帰った。


僕はその日、記録に何も書けなかった。


手紙を隠していた三日間、新しい予定は増えなかった。


それだけだった。


ガルドは工房へ行き、孫の話をし、春の木を気にしていた。


すでにある希望は、一つも減らない。


なら、もっと直接切るしかない。


孫を来させない。


弟子を工房から離す。


春まで生きる理由を、こちらから減らしていく。


そこまで考えて、記録を閉じた。


それをやれば、今度は僕自身が《会えなかった》《続けさせてもらえなかった》を作る。


心残りを消すために、新しい心残りを足すことになる。



秋の収穫祭。


ガルドは酒を飲みすぎて、孫と弟子に両側から止められていた。


「じいちゃん、もう駄目!」


「師匠、先生に怒られますよ」


「俺は七十五だぞ。好きに飲ませろ」


「七十五だから止めてるの!」


夜が更け、人が減った頃。


ガルドが僕の隣へ座った。


「先生」


「何ですか」


「まだ、あれ聞くのか」


「あれ?」


「心残り」


「聞きますよ」


「じゃあ今聞け」


僕は杯を置いた。


「もし今日死ぬとしたら、心残りはありますか」


ガルドはしばらく黙った。


「……ねえな」


僕は顔を上げた。


「一つも?」


「たぶんな」


「孫は?」


「元気だ」


「弟子は?」


「あいつはもう、俺がいなくても食える」


「息子さんは」


「相変わらず馬鹿だが、まあやっていける」


「来年の春は?」


「見たいな」


「では、あるじゃないですか」


ガルドが笑った。


「違うんだよ」


「何が違うんです」


「知らん。自分で考えろ」


腹が立った。


僕はずっと考えている。


何年も。


本人より細かく、ガルドの心残りを記録してきた。


「今死んでも、本当に後悔しませんか」


ガルドは片付けをしている村人たちを見た。


孫娘は友達と屋台の残りを漁っている。


弟子は酔って椅子で寝ていた。


「しねえよ」


その夜、僕は記録に書いた。


《対象者ガルド》


《過去への後悔:なし》


《自己申告:本日死亡しても後悔なし》


少し迷って、最後に一行足した。


《候補:完成》


四年かかった。


手が少し震えた。


人間は実際に死ぬとき、答えを変える。


最後まで観察しなければならない。



冬の初め。


ガルドが倒れた。


病気ではなかった。


七十五年動き続けた心臓が、弱っていた。


治癒魔法は傷を治せる。


病に侵された組織も戻せる。


でも、正常な七十五歳の心臓を二十歳には戻せない。


僕は魔力を流し、苦痛を抑えた。


夕方にはダリオ一家が着いた。


弟子も工房と寝台の間を何度も往復した。


夜が深くなるにつれ、ガルドの呼吸は浅くなった。


もう長くない。


僕には分かった。


ガルドが目を開けた。


「セイン」


初めて、名前で呼ばれた。


「はい」


「他の奴、外してくれ」


家族を部屋から出した。


扉が閉じる。


僕とガルドだけになった。


「治せるか」


「若返らせる魔法はありません」


「そうか」


「怖いですか」


「少しな」


僕の胸が高鳴った。


今だ。


「心残りはありますか」


ガルドが、かすかに笑った。


「やっぱり聞くんだな」


「大事なので」


「お前にとってはな」


僕は黙った。


ガルドは目を閉じたまま言った。


「ある」


頭の中が真っ白になった。


「……ある?」


「ああ」


「何がです」


「孫が大人になるところ」


僕は何も言わなかった。


「小僧が一人前になるところも見たい」


まだある。


「ダリオの店にも一度行きたかった」


まだ。


「春も見てえな。あの木、今年初めて花が咲くだろ」


四年。


四年かけた。


息子を戻した。


孫に会わせた。


海へ連れていった。


弟子を作った。


身体も、できる限り保たせた。


なのに、最後の最後でまた増えた。


僕はガルドの胸に当てていた手を見た。


魔力を流し続ければ、苦痛は抑えられる。


止めれば、すぐに死ぬわけではない。


ただ、苦しくなる。


一瞬だけ考えた。


苦痛が増えれば、欲望は減るのだろうか。


孫も春もどうでもよくなって、ただ終わってほしいと願うのだろうか。


確かめられる。


今なら。


僕は魔力を少し弱めた。


ガルドの眉が寄った。


呼吸が乱れる。


その顔を見た瞬間、手が止まった。


違う。


これは、僕が見たいものではない。


苦痛に負けて「もういい」と言わせても、何の意味もない。


魔力を戻した。


ガルドの呼吸が少し落ち着く。


「失敗だ」


気づけば、口に出していた。


「何が?」


「……僕です」


ガルドは目を開けた。


「で、お前は何を確かめたかった」


僕は答えなかった。


「まあ、いい」


ガルドは短く息を吐いた。


「お前が何してたか、全部は分からん」


「全部?」


「ダリオ呼んだり、海連れてったり、弟子連れてきたり。俺の人生を勝手にいじってたのは分かってた」


「なぜ止めなかったんです」


「だいたい得してたからな」


少し笑った。


「手紙隠したときは殴ろうかと思ったが」


「すみません」


「ほんとにな」


しばらく沈黙があった。


僕はもう一度聞いた。


「それでも、心残りはあるんですね」


「ああ」


「では、満足していない」


ガルドが眉を寄せた。


「なんでそうなる」


「まだ欲しいものがあるからです」


「見たいのと、足りないのは別だぞ」


意味が分からなかった。


「孫が大人になるところは見たい」


「はい」


「春も見たい」


「はい」


「できりゃ、あと十年くらい生きたい」


「では――」


「でも、見られなくても構わねえ」


僕は黙った。


「十分だからな」


「何がです」


「もう十分もらった」


「でも、まだ欲しいものがある」


「ああ」


「矛盾しています」


「してねえよ」


ガルドは少し笑った。


「飯食って腹いっぱいになっても、うまそうな菓子見りゃ食いたいだろ」


「僕はあまり」


「例え話だ」


「分かっています」


「満腹ってのは、世の中から食い物がなくなることじゃねえ」


それだけ言って、目を閉じた。


僕は何も言えなかった。


しばらくして、ガルドが小さく言った。


「みんな呼んでくれ」


家族を入れた。


孫娘が手を握った。


ダリオが反対側へ座った。


弟子は寝台の足元で泣いていた。


ガルドは一人ずつ見た。


「泣くな。うるせえ」


孫娘が余計に泣いた。


ダリオは笑いながら泣いた。


ガルドも少し笑った。


夜明け前。


最後に、ほとんど声にならない声で言った。


「いい人生だった」


そのまま死んだ。



葬儀の夜。


僕は四年分の記録を机へ広げた。


《息子》


《海》


《工房》


《過去への後悔》


ほとんどすべてに線が引いてある。


《未来への希望》だけは残っていた。


孫の成人。


弟子の独立。


春の花。


ダリオの店。


一つも消えていない。


それでもガルドは、十分だと言った。


僕は新しい紙を出した。


《仮説一》


《人間は、未練と欲望をすべて解消すれば、満足して死ねる》


上から一本線を引く。


その下に書いた。


《仮説二》


《満足とは、欲しいものがなくなることではない》


少し考えて、その下に書いた。


《仮説三》


診療所の外で、戸を叩く音がした。


「先生ー!」


僕は記録を閉じた。


「今行きます」

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「満腹ってのは、世の中から食い物がなくなることじゃねえ」  大好きなフレーズです。世の中には素敵なものが溢れているけれど、別に全部が自分のものにならなくたっていい。両の手に収まる分だけあればいい。 …
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