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幼馴染に『地味で退屈』と振られた私、実は彼が憧れていた"麦わら帽子の少女"だった件〜あの夏の約束を忘れたあなたに、もう恋はしません〜

作者: uta
掲載日:2026/06/06

「お前といても、ときめかないんだ」


放課後の屋上で、五年間の片想いが終わった。


風が私の黒髪を攫っていく。眼鏡越しに見上げた蒼太の顔は、残酷なほどいつも通り爽やかで——だからこそ、余計に残酷だった。


「……そっか」


私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。


泣き叫ぶべきなのかもしれない。縋りつくべきなのかもしれない。でも、どこか予感していたのだ。いつかこの日が来ることを。


「悪いとは思ってる。でもさ、俺たちってずっと一緒にいすぎたんだよ」


蒼太は困ったように笑う。その笑顔を、私は十年見てきた。十年——いや、あの夏からだと考えれば、もっと長い。


「咲良は優しいし、いい奴だよ。でも、なんていうか……」


言葉を探すように、蒼太は視線を泳がせる。


「地味っていうか、退屈っていうか。俺にはもっと、運命的な出会いが必要なんだと思う」


——運命的な、出会い。


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。


知ってるよ、蒼太。あなたがずっと探してる『運命の人』のこと。十年前の夏、海で溺れたあなたを助けて、麦わら帽子のリボンだけを残して去った——あの少女のことを。


「蒼太くーん!」


屋上のドアが開いて、甘い声が響く。


振り返れば、艶やかな巻き髪を揺らした女の子が駆けてくる。ブランド物のバッグ、完璧なメイク、私とは正反対の華やかさ。


「あれ、白波さん? 二人でなにしてたの?」


氷室美月。学内でも有名な美人で、最近蒼太の周りをうろついていた女の子。その目が一瞬、獲物を見定めるように細められたのを、私は見逃さなかった。


「ああ、美月。ちょうど話が終わったところ」


蒼太が美月の肩を自然に抱き寄せる。その仕草に、すべてを悟った。


「そうだったんだ。ねえ蒼太くん、今日のデート楽しみにしてたんだから」


美月が私をちらりと見る。勝ち誇ったような、憐れむような、複雑な視線。


「白波さんも大変ね。蒼太くんとずっと一緒にいたのに、結局こうなっちゃうなんて」


その言葉には棘があった。けれど私は、表情を変えずに微笑んだ。


「……お幸せに」


それだけ言って、二人の横を通り過ぎる。背中に視線を感じながら、私は一度も振り返らなかった。


——だって、振り返ったら、泣いてしまうから。




帰り道、夕焼けが街を茜色に染めていた。


スマホには凛からの着信が何件も入っている。きっともう噂が広まったのだろう。蒼太と美月が付き合い始めたこと。そして、私が振られたこと。


『咲良、今どこ? 連絡して。ていうか私マジでキレてるんだけど!!』


凛のメッセージに既読だけつけて、私は家への道を急いだ。


「ただいま」


「おかえり、咲良」


母さんが台所から顔を出す。私の顔を見て、何かを察したように表情を曇らせた。


「……何かあった?」


「ううん、なんでもない」


嘘をついて自室に逃げ込む。ドアを閉めた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。


膝から力が抜けて、その場にしゃがみ込む。


「——っ」


声にならない嗚咽が漏れる。泣いちゃダメだ。泣いたら、五年間の想いが本当に終わってしまう気がして。


でも、止められなかった。


『地味で退屈』


その言葉が、何度も頭の中でリフレインする。


——わかってた。わかってたのに。


私は立ち上がり、机の引き出しを開けた。奥の奥、誰にも見つからない場所に、それはあった。


色褪せた、リボン。


十年前は鮮やかな赤だったそれは、今では茶色がかったくすんだ色になっている。麦わら帽子から外れた、あの日の欠片。


「……蒼太」


指先でリボンをなぞる。あの夏の日差しが、波の音が、溺れる少年の必死な目が、鮮やかに蘇る。


あなたがずっと探してる『運命の少女』は。

あなたが夢見てる『麦わら帽子の女の子』は。


——ずっと、隣にいたのに。


私はリボンを胸に抱きしめた。色褪せたそれは、まるで私の想いそのもののようで。


「……もう、いいよね」


誰に言うでもなく、呟く。


五年間、あなたの理想を壊さないように息を潜めてきた。地味な服を選び、眼鏡で顔を隠し、絵を描くことさえ諦めて。全部、全部——あなたの隣にいるために。


なのに、最後に言われた言葉が『退屈』だなんて。


「——もう、十分でしょ」


涙で滲む視界の中、私はリボンを引き出しに戻した。


あの夏の約束は、もう終わり。

あなたが思い出してくれる日を待つのも、もう終わり。


窓の外、夕焼けが闇に沈んでいく。明日からは——。


「白波咲良として、生きていく」


静かな決意が、胸の中で芽吹いた。




     ◇ ◇ ◇




——十年前、私は海で男の子を助けた。


祖母の家で過ごす夏休み。私は一人で海岸を歩いていた。


八月の太陽は容赦なく照りつけて、母さんがかぶせてくれた麦わら帽子の下で汗が流れる。鮮やかな赤いリボンが風に揺れるのが、視界の端で見えた。


「——たすけ……っ」


微かな声が聞こえたのは、その時だった。


目を凝らすと、波打ち際よりも少し沖で、一人の男の子がもがいている。大人の姿はどこにもない。


考えるより先に、体が動いていた。


「待って! 今行くから!」


サンダルを脱ぎ捨てて、海に飛び込む。水泳は得意だった。毎年夏になると、母さんと一緒にプールに通っていたから。


男の子のところに辿り着いた時、彼はもう半分パニック状態だった。


「大丈夫、大丈夫だから!」


必死に腕を掴んで、浅瀬に向かって泳ぐ。小さな体が私にしがみついてきて、何度か水を飲みそうになった。それでも諦めなかった。


どれくらい泳いだだろう。やっと足がつく場所まで来た時、私は疲労で膝をついた。


「っはぁ……はぁ……」


息を荒げながら男の子を見る。彼も激しく咳き込んでいた。でも、生きてる。よかった——。


「あ、ありがとう……」


男の子がようやく顔を上げた。涙と海水で濡れた顔。でも、その目だけは印象的だった。まっすぐで、きらきらしていて。


「きみ、すごいね。おれ、助かったんだ」


「……うん。もう大丈夫だから」


私は笑いかけようとした。その時、風が強く吹いた。


ふわり、と麦わら帽子が飛ばされる。


「あっ——」


慌てて手を伸ばしたけれど、帽子は波に攫われていく。追いかけようとした瞬間、男の子が私の服を掴んだ。


「待って、まだ海に入っちゃダメだよ!」


その手には——帽子から外れたリボンが握られていた。風で解けて、彼の手に絡みついたらしい。


「あ……」


「これ、きみのだよね。帽子は取れなかったけど、リボンだけ……」


男の子が差し出してくれたリボンを見つめた時、背筋に冷たいものが走った。


——あの帽子、おばあちゃんのだ。


祖母は厳格な人だった。母さんがいつも祖母の顔色を窺っているのを、幼いながらに感じ取っていた。海に勝手に入ったこと、大切な帽子を失くしたこと——どれほど叱られるか、想像しただけで足が震えた。


「名前……教えて。お礼がしたい」


男の子の声に、私は首を横に振った。


「ごめんなさい。私、行かなきゃ」


「え、待って——」


彼の声を背に、私は走り出した。リボンだけを手に、砂浜を駆け抜ける。振り返ってはいけない。振り返ったら、きっと動けなくなる。


祖母に叱られたこと。帽子を失くした罰で、残りの夏休みを部屋で過ごしたこと。それは今でも、苦い記憶として残っている。


でも——。


私は知らなかった。


あの男の子が、その後何年もあの海岸を訪れ続けたことを。『麦わら帽子のリボンを持った女の子』を探し続けたことを。


そして、その男の子が——。


「神崎蒼太」


中学一年の春、同じクラスになった彼を見た瞬間、心臓が止まるかと思った。


あの時の男の子だ。間違いない。あの目を、忘れるはずがない。


「俺さ、ずっと探してる人がいるんだ」


入学して間もない頃、蒼太は友人にそう話していた。窓際の席で絵を描いていた私の耳に、その声は嫌というほど届いた。


「小学生の頃、海で溺れたことがあってさ。その時助けてくれた女の子がいたんだけど……名前も聞けなくて。麦わら帽子をかぶっててさ、すげえ綺麗なリボンがついてたんだ。赤い、リボン」


その瞬間、手にした筆が止まった。


「そのリボン、今でも持ってるんだよ。いつか絶対見つけ出して、お礼を言うんだ。あの子は俺の——運命の人だから」


運命の人。


その言葉を聞いた時、私は悟ってしまった。


——言えない。


今更「あれは私だよ」なんて、言えるはずがない。だって蒼太が語る『あの子』は、まるで物語のヒロインのようにキラキラしている。きっと彼の中では、波間に現れた天使のような存在になっているのだろう。


現実は違う。祖母に叱られるのが怖くて逃げ出した、臆病な女の子。そんな真実を知ったら、蒼太はきっと幻滅する。


だから私は、何も言わないことを選んだ。


そして——。


「咲良ってさ、そういう控えめなところがいいよな」


眼鏡をかけ始めた。絵を描くのをやめた。派手な服は着なくなった。蒼太の理想を壊さないように。彼が夢見る『運命の少女』を汚さないように。


気づけば、私は『地味で目立たない幼馴染』になっていた。


「……ばかみたい」


十年前の記憶から引き戻されて、私は苦く笑った。


暗くなった部屋の中、引き出しの奥に仕舞った色褪せたリボンが、微かな月明かりを反射している。


五年間、彼の隣で息を殺してきた。『運命の少女』の影を追う彼を見守りながら、自分がその正体だと言えずに。


結局、何も伝えられないまま——『地味で退屈』と捨てられた。


皮肉だ。こんなにも、皮肉だ。


スマホが震える。凛からのメッセージ。


『明日、絶対学校来なさい。逃げたら許さないから。ていうか私蒼太ぶっ飛ばしてくる』


思わず小さく笑った。凛は変わらない。中学からずっと、私の味方でいてくれる。


「……明日、か」


窓の外を見上げる。雲の切れ間から月が顔を出す。


あの夏から十年。私は、どう生きてきたんだろう。誰かの理想のために自分を消して、誰かの夢を壊さないために息を潜めて。


——それで、幸せだった?


答えなんて、聞くまでもなかった。




     ◇ ◇ ◇




「あー、もう! 信じらんない!」


翌朝、教室に足を踏み入れた途端、凛が私の腕を掴んで窓際の席まで引きずっていった。


「あのクソ男……いや、クソとか言ったらクソに失礼だわ。蒼太って一体何様のつもりなの? 『地味で退屈』? 五年も咲良に尽くしてもらっといてそれ?」


「凛、声大きい……」


周囲の視線を感じて、私は小さくなる。案の定、クラスメイトたちがちらちらとこちらを見ていた。もう噂は広まっている。失恋した惨めな女——そんな目で見られているのがわかる。


「大きくて結構! つーかなんで咲良がそんな縮こまってんの! 悪いのはあっちでしょ!」


凛の大きな声に、さらに視線が集まる。私は溜息をついて、彼女の腕を引いた。


「……場所、変えよ」


連れ出した先は、校舎裏の美術準備室。ほとんど誰も来ないこの場所を、私たちは中学時代から秘密の場所にしていた。


「で? 昨日は何があったわけ? ちゃんと説明して」


埃っぽい椅子に座って、凛が腕を組む。私は窓際に寄りかかって、昨日のことを話した。


『ときめかない』『地味で退屈』『運命的な出会いが必要』——蒼太の言葉を繰り返すたびに、凛の表情が険しくなっていく。


「……聞いた? 全部聞いた?」


「聞いたけど」


「私は聞いてないよ!!」


凛が立ち上がり、壁を殴る。埃がぱらぱらと舞い落ちた。


「ふっっっざけんな! 誰のせいで咲良が『地味で退屈』になったと思ってんのあの男!」


「凛……」


「わかってんの? 私はずっと見てたの! 中学の時、咲良がどんどん変わっていくの、全部見てたんだから!」


その言葉に、胸が締め付けられた。


凛は知っている。かつての私を。


中学に入る前、私は今とは全然違う女の子だった。髪を可愛く結んで、お気に入りの服を着て、暇さえあればスケッチブックを広げていた。美術部に入りたかった。いつか美大に行って、絵を描いて生きていきたかった。


それが変わったのは——。


『俺にはずっと探してる人がいるんだ』


蒼太のあの言葉を聞いてから。


「覚えてる? 中二の冬」


凛が静かに言った。


「咲良、コンクールで金賞取ったじゃん。『海辺の夏』って絵で」


……覚えている。忘れられるはずがない。


「あの時、蒼太なんて言った? 『すごいな、咲良は絵が上手いんだな』——それだけ。絵の内容なんか見てなかった」


そう。あの絵には、麦わら帽子の少女が描かれていた。海辺で、男の子を助けようと手を伸ばす少女。私にとっての、あの夏の記憶。


でも蒼太は気づかなかった。自分が『運命の少女』と呼ぶ存在が、目の前で絵を描いていることに。


「あの日から咲良、絵描かなくなったよね」


凛の声が、まっすぐに心を射抜く。


「眼鏡かけ始めたよね。地味な服着るようになったよね。美大志望やめて、蒼太と同じ大学選んだよね——全部、全部私は見てた」


「……凛」


「五年間だよ。五年間あんたが何を犠牲にしてきたか、私は全部見てたの。なのに最後に言われた言葉が『地味で退屈』? 冗談じゃない」


凛の目に涙が光っていた。それを見て、私は息を呑んだ。


「咲良は全然地味じゃない。退屈でもない。ただ、あのバカのために自分を殺してただけでしょ。蒼太はそれも知らないで——」


「……知らなくていいの」


私は窓の外を見た。遠くに海が見える。あの夏の海が。


「私が勝手にやったことだから。蒼太は何も悪くない」


「はあ? 何言って——」


「勝手に好きになって、勝手に期待して、勝手に自分を変えた。全部私の選択だった。だから……恨む資格なんてないの」


沈黙が落ちる。


凛が大きく息を吐いて、私の肩を掴んだ。


「……いい加減にしなさい」


「え?」


「自己犠牲ごっこはもう終わり。咲良がどう思ってるか知らないけど、私から見たらあんたは十分傷ついてる。傷つく権利がある。怒る権利もある」


凛の目が、まっすぐに私を見る。


「で、立ち直る権利もね」


「立ち直る……」


「そ。いつまでも蒼太の影に隠れてないで、本当のあんたを見せなさいよ。眼鏡取って、好きな服着て、また絵を描いて。あんたが本気出したらどうなるか、私は知ってるんだから」


凛の言葉が、胸に染み込んでいく。


「咲良は、もっと輝いていいの」


その瞬間、何かが弾けた気がした。


五年間、息を潜めてきた。誰かの理想のために、誰かの夢のために、自分を押し殺してきた。


でも——それで、何が残った?


『地味で退屈』という言葉と、色褪せたリボンだけ。


「……ねえ、凛」


私は眼鏡に手をかけた。


「私、変わろうと思う」


凛の目が見開かれる。


「本当の私を——もう、隠すのやめる」


ゆっくりと眼鏡を外す。視界がぼやけて、それから——鮮明になった。


「……やっと、その顔見せてくれた」


凛が泣きそうな顔で笑った。


「おかえり、咲良」


窓から差し込む光が、準備室を明るく照らす。埃が舞う中で、私は五年ぶりに深呼吸した。


封印は、今日で終わり。


あの夏の私は死んだ。蒼太の『運命の少女』も、もういない。


今日からは——白波咲良として、生きていく。




     ◇ ◇ ◇




「でさ、具体的にどうすんの」


放課後、凛に連れられてやってきたのは駅前のカフェだった。窓際の席で向かい合い、私はアイスラテを啜る。


「どうって……」


「だから、『変わる』って言ったでしょ。口だけじゃ意味ないんだよ、行動で示さないと」


凛はスマホを取り出して、何かを検索し始めた。


「まず見た目ね。咲良、自分がどんな顔してるか忘れてるでしょ」


「え?」


「はい、これ」


凛がスマホのカメラを私に向ける。画面に映る自分の顔——眼鏡を外した、素顔。


「……」


長いまつげに縁取られた琥珀色の瞳。透明感のある肌。控えめだけど整った目鼻立ち。見慣れないその顔が、画面の中でこちらを見つめている。


「わかった? あんた普通に美人なの。眼鏡とボサボサの髪と地味服で隠してただけで」


「で、でも……」


「でもじゃない。週末、美容院行くよ。あと服も買う。私がコーディネートしてあげるから」


凛が勢いよく立ち上がる。その目は完全に本気だった。


「あと絵。咲良、また描きなよ」


「絵……」


「来月、隣町でアートイベントあるの知ってる? 一般参加もできるやつ。出なさい」


「いきなりそんな——」


「いきなりじゃない。五年のブランクがあるだけで、咲良の才能は消えてない。私が保証する」


凛の言葉には、有無を言わせない力があった。


「ていうかさ」


彼女は少し声を落として、私の目を見た。


「私ね、ずっと怒ってたの。咲良にじゃない、蒼太に。あと、何も言えなかった自分にも」


「凛……」


「中学の時から見てた。咲良がどんどん自分を消していくの。止められなかった。『好きにさせてあげよう』なんて思って、何も言わなかった。でもあれは間違いだった」


凛の声が震える。


「友達が自分を殺してるのに、黙って見てた私も同罪だよ」


「そんなこと——」


「だから今度は言う。咲良、あんたは誰かのために生きる必要なんかない。自分のために生きなさい。好きな服着て、好きなもの食べて、好きなことして——好きな人を、好きでいていいの」


涙が溢れそうになった。でも、今度は悲しみじゃない。


「……ありがとう、凛」


「お礼はいいから、とりあえずこれ食べて。糖分補給大事」


凛が店員を呼んで、特大のパフェを注文する。その強引さが、今は心地よかった。


週末、凛は宣言通り私を美容院に連れていった。


「この子、ずっと地味にしてたんですけど本当はすっごい可愛いんです。最大限引き出してください!」


「凛、恥ずかしいから……」


「うるさい、黙ってて」


美容師さんが笑いながら私の髪を触る。


「素敵な髪質ですね。カットとカラー、どうしましょう」


「暗めのアッシュブラウンで、長さは変えずにレイヤー入れてください。あと前髪は——」


凛が的確に指示を出していく。私はされるがままに座っていた。


二時間後。鏡の中の自分を見て、息を呑んだ。


「……これ、私?」


暗めのアッシュブラウンに染まった髪が、柔らかく顔を縁取っている。レイヤーが入って動きが出て、野暮ったさが消えた。前髪は目にかからない長さで流して、琥珀色の瞳がはっきり見える。


「ね? 言った通りでしょ」


凛が満足そうに笑う。


「次、服。行くよ」


駅ビルのセレクトショップを何軒もまわった。凛が次々と服を選んでは私に押し付ける。


「これ。あとこれも。試着して」


「多すぎ……」


「いいから!」


試着室で着替えて、カーテンを開ける。凛が目を見開いた。


「……最高」


白いブラウスにハイウエストのデニム。シンプルだけど、体のラインが綺麗に出る組み合わせ。抑えていたファッションセンスが、五年ぶりに息を吹き返した気がした。


「咲良、元々センスあったもんね。自分で選ばせても全然大丈夫そう」


「……久しぶりすぎて、忘れてた」


「思い出せばいいの。あんたの中にあるものは、消えてない」


凛の言葉が、胸に染みる。


買い物を終えて、私たちはカフェで一息ついた。ウィンドウに映る自分を見て、まだ少し信じられない気持ちでいる。


「ねえ、凛」


「ん?」


「絵……本当に描いていいかな」


「何言ってんの。当たり前でしょ」


凛がパフェのイチゴを頬張りながら言う。


「てか、アートイベントの締め切り二週間後だから。準備始めなさいよ」


「二週間……」


「できるって。中学の時、三日で金賞取る絵描いたの誰よ」


「あれは勢いで……」


「勢い大事。考えすぎないで、描きたいもの描けばいいの」


描きたいもの。


頭に浮かんだのは——あの夏の海だった。波の音。太陽の匂い。溺れる男の子と、必死に手を伸ばした自分。


「……決めた」


私は顔を上げた。


「私、あの夏を描く。でも、今度は——あの日の自分を閉じ込めるためじゃなくて」


凛が黙って聞いている。


「解放するために。あの夏に置いてきた私を、取り戻すために」


窓の外、夕焼けが街を染めていく。オレンジ色の光が、まるであの日の海みたいだった。


「いいじゃん」


凛が笑った。


「それでこそ、白波咲良」




     ◇ ◇ ◇




月曜日の朝。


教室に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


「……え?」

「誰、あの子」

「待って、白波さん……?」


ざわめきが波のように広がっていく。私は平静を装って、自分の席に向かった。


「おはよ、咲良」


凛がにやにやしながら近づいてくる。


「おはよう」


「いい反応じゃん、みんな」


「……正直、緊張してる」


「大丈夫大丈夫。堂々としてれば平気」


席に着くと、早速クラスメイトが近づいてきた。


「え、白波さんだよね? なんか雰囲気変わった? めっちゃ可愛くなってない?」


「髪染めた? いい色だね」


「てか眼鏡外したの? 目、すっごい綺麗……」


矢継ぎ早の質問に、私は曖昧に笑って答える。こういう注目のされ方は久しぶりで、まだ慣れない。


「イメチェン? いきなりどうしたの」


「……ちょっと、自分を変えたくなって」


そう答えた瞬間、教室のドアが開いた。


「——咲良?」


蒼太の声だった。


振り返ると、彼が入り口で固まっている。その隣には美月がいて——こちらを睨むような目で見ていた。


「え、マジで咲良? どうした、その……」


蒼太が戸惑いながら近づいてくる。私は真っ直ぐに彼を見返した。


「おはよう、蒼太」


「お、おう……おはよう」


彼の視線が私の顔をなぞる。髪、目、服。まるで初めて会った人を見るみたいに。


——そうだよね。あなたは、本当の私を見たことがなかったんだから。


「なんか、雰囲気変わったな。いい意味で」


「ありがとう」


素っ気なく返して、私は席に座り直した。以前なら蒼太に話しかけられただけで胸が高鳴っていた。でも今は、不思議なほど凪いでいる。


「……ちょっと、蒼太くん」


美月が蒼太の腕を引く。


「行こ? 一限始まるよ」


「あ、ああ……」


蒼太は何度かこちらを振り返りながら、美月に連れられて行った。その後ろ姿を見つめて、凛が小声で言う。


「あいつ、めっちゃ動揺してたね」


「……そうかな」


「そうだよ。見た? あの顔。初めて咲良のこと『見た』って感じ」


皮肉だった。五年間隣にいて、私が変わった瞬間にやっと気づくなんて。


「でも、もう関係ないでしょ」


凛の言葉に、私は小さく頷いた。


「うん。もう、関係ない」




変化は、外見だけじゃなかった。


昼休み、私は美術準備室に向かった。五年ぶりにキャンバスの前に立つ。


画材は凛が用意してくれていた。アクリル絵の具、筆、パレット——懐かしい匂いが鼻をくすぐる。


「……久しぶり」


筆を手に取る。指に馴染む感触。忘れていたわけじゃない。ただ、封印していただけ。


キャンバスに最初の一筆を落とす。青。夏の海の青。


描き始めたら、止まらなかった。


放課後になっても筆を置けず、気づけば夕方になっていた。キャンバスには、夏の海が広がりつつある。波打ち際、輝く水面、そして——


「すごい」


背後から声がした。振り返ると、美術部の顧問・橋本先生が立っていた。


「白波さん、久しぶりにアトリエにいると思ったら……これ、あなたが描いてるの?」


「は、はい……」


先生が絵に近づき、食い入るように見つめる。


「……素晴らしいわ。ブランクがあったとは思えない。いえ、むしろ——深みが増してる」


「え?」


「中学の頃のあなたの絵は、技術は確かだったけどどこか空虚だった。でもこれは違う。感情が……閉じ込められている」


先生の言葉に、胸が締め付けられた。


——感情が、閉じ込められている。


「ねえ、白波さん。来月のアートイベント、出る気ない?」


「実は、出ようと思ってて……」


「本当? それなら推薦状書くわ。あなたの絵は、もっと多くの人に見てもらうべき」


先生の目が真剣だった。


「あなたには才能がある。それを埋もれさせておくのは、もったいない」


その言葉が、五年間閉ざしていた扉をこじ開けた気がした。


「……ありがとうございます」


頭を下げる私に、先生は微笑んだ。


「頑張ってね。期待してるわ」


帰り道、凛に電話で報告した。


「マジで? 橋本先生がそこまで言うって相当だよ」


「自分でも、久しぶりに夢中で描いた。楽しかった」


「それだよ、それ。咲良が楽しそうにしてるの、久しぶりに見た」


電話越しでも、凛の笑顔が見える気がした。


「あ、そうだ。今日蒼太のやつ、午後の授業中もずっと咲良のこと見てたよ」


「……そう」


「興味ないって顔してるけど、ちょっと嬉しいでしょ」


「別に」


「嘘つきー」


凛の茶化す声に、小さく笑った。


正直に言えば、複雑だった。五年間好きだった人が、やっとこちらを見てくれた。でも——それは、外見が変わったから。本当の私を見てくれたわけじゃない。


「ねえ、凛」


「ん?」


「私、もう蒼太のこと好きじゃないかもしれない」


電話の向こうで、凛が息を呑む気配がした。


「……自分で気づいたんだ」


「うん。なんか、憑き物が落ちたみたい。今まで何に執着してたんだろうって」


「それでいいと思う。てか、それが正解だよ」


凛の声は穏やかだった。


「咲良は咲良の人生を生きて。蒼太のことは、もう忘れていい」


「——うん」


電話を切って、空を見上げた。夕焼けが綺麗だった。


明日も、絵を描こう。来月のイベントに向けて。


今度こそ、自分のために。




     ◇ ◇ ◇




アートイベント当日。


会場は隣町の文化センターで、思っていたよりも大規模だった。プロの芸術家から学生まで、様々な作品が展示されている。


「すごい人だね」


凛が周囲を見回しながら言う。付き添いで来てくれた彼女は、私以上に緊張しているように見えた。


「咲良の絵、どこに飾られてるの」


「Bブロックの……あ、あった」


自分の絵を見つけて、足が止まった。


『夏の海辺』——キャンバスには、十年前のあの海が広がっている。波打ち際で手を伸ばす少女の後ろ姿。逆光で顔は見えないけれど、風になびく髪と、外れかけた麦わら帽子のリボンが印象的に描かれている。


「……やっぱり、いい絵」


凛が呟く。私は黙って自分の絵を見つめた。


この絵を完成させるまで、何度も手が止まった。あの夏を描くことは、過去と向き合うことだったから。でも、最後まで描き切れた。それだけで、何かが変わった気がする。


「ねえ、あの人——」


凛が私の袖を引く。視線の先を追うと、一人の男性が私の絵の前で立ち止まっていた。


長身で、黒髪を軽く流した端正な顔立ち。切れ長の目が、真剣な表情で絵を見つめている。スーツの着こなしからして、学生ではなさそうだった。


「めっちゃイケメン……」


凛の声は聞こえていないのか、男性はじっと絵に見入っている。やがて、ゆっくりと顔を上げた。


目が合った。


「——失礼」


男性が近づいてくる。


「この絵を描かれた方ですか」


「あ、はい……」


「やはり。絵から感じた印象と、同じ瞳をしている」


不思議なことを言う人だった。でも、その言葉には誠実さがあった。


「桐生蓮と申します。普段はコンサル業をしていますが、趣味でアートコレクターもしていまして」


桐生——どこかで聞いた名前だ。


「もしかして、桐生グループの……」


私の言葉に、彼は少し困ったように笑った。


「ご存知でしたか。できれば、そちらの肩書きは抜きで話したかったのですが」


桐生グループ。日本有数の財閥だ。その御曹司が、私の絵の前に立っている。


「この絵は——どんな想いで描かれたのですか」


蓮さんの問いかけに、少し考えた。


「……昔の記憶です。忘れられない夏の日があって。その時の感情を、閉じ込めたくて」


「閉じ込めた」


「はい。でも——」


絵を見上げる。波打ち際の少女。あの日の私。


「今回描いたのは、閉じ込めるためじゃなくて。解放するためでした」


蓮さんが目を細めた。


「やはり、そうでしたか」


「え?」


「この絵には、言葉にできない感情が閉じ込められている。喜びも、悲しみも、後悔も——すべてが。それを描けるのは、同じ痛みを知っている人だけです」


心臓が、どくりと跳ねた。


「……私のこと、何か知っているんですか」


「いいえ。ただ、絵を見ればわかります。あなたが何かを——誰かを、想い続けてきたことが」


この人は、絵を通して私を見透かしている。そう感じた。


「白波さん、でしたか」


彼が名札を見て確認する。


「素晴らしい才能です。もし差し支えなければ、今後もあなたの作品を拝見する機会をいただけませんか」


「え、あの……」


「もちろん、無理にとは言いません。ただ、あなたの絵にはもっと多くの人に見てもらう価値がある。そのお手伝いができれば、と」


真摯な言葉だった。下心を感じさせない、純粋な関心。蒼太からは、一度も感じたことのないもの。


「……考えさせてください」


「もちろん。これ、私の連絡先です。気が向いたら、いつでも」


名刺を受け取る。シンプルなデザインに、『桐生蓮』の文字。


「では、失礼します。良い作品に出会えて、嬉しかった」


軽く会釈をして、蓮さんは去っていった。その後ろ姿を見送りながら、凛が興奮気味に言う。


「ちょっと、何あの人! めっちゃイケメンだし、桐生グループって超お金持ちだし! しかも咲良の絵めっちゃ褒めてたじゃん!」


「……うん」


「え、なにその反応。もっと喜びなよ!」


「いや、なんか……」


名刺を見つめる。初めて会った人なのに、不思議と緊張しなかった。まるで、ずっと前から知っていたような——。


「ねえ凛」


「ん?」


「あの人、私の絵を『本当に見てくれた』気がする」


「当たり前でしょ、ずっと見てたじゃん」


「そうじゃなくて。外側じゃなくて、中身を。絵に込めた想いを」


凛が黙った。


「……蒼太には、一度もそう感じなかったの」


答える代わりに、私は絵を見上げた。波打ち際の少女。色褪せたリボン。


蒼太は、私の絵を見ても何も感じなかった。目の前にいる私も、見ようとしなかった。


でも、今日初めて会ったこの人は——。


「帰ろっか」


凛の声で我に返る。


「うん」


会場を後にしながら、私は何度か名刺を見返した。


新しい出会い。これが何を意味するのか、まだわからない。


でも——何かが、動き始めている気がした。




     ◇ ◇ ◇




アートイベントから数日後。


私の変化は、学内で噂になっていた。


「白波さん、あのイベントで入賞したんでしょ? すごいよね」

「てか、めっちゃ綺麗になったよね。前から可愛かったの?」

「眼鏡外しただけでこんな変わる?」


廊下を歩くたびに視線を感じる。以前なら居心地悪く感じていたけれど、今は違う。これが本当の私なんだ、と思えるようになっていた。


「咲良」


後ろから呼ばれて振り返ると、蒼太が立っていた。


「……何?」


「いや、その……最近話してなかったから」


「そうだね」


素っ気なく返して、歩き出そうとする。でも蒼太は私の前に回り込んだ。


「待てよ。なんかお前、俺のこと避けてない?」


「避けてないよ。ただ、話すことがないだけ」


「話すことがないって……俺たち、幼馴染だろ」


『幼馴染』。その言葉に、胸が軋む。


「幼馴染ね。そうだったね」


「なんだよ、その言い方」


蒼太の声に苛立ちが混じる。でも、それは私のせいじゃない。


「蒼太こそ、私に何か用? 美月さんと一緒じゃなくていいの?」


「美月は……今日は用事があって」


どこか歯切れの悪い返事だった。


「それより、最近のお前、なんか変だぞ。急にイメチェンして、絵なんか描き出して。何かあったのか?」


「別に。自分を変えたかっただけ」


「俺と別れたから?」


「……関係ないよ」


嘘だった。でも、本当のことを言う義理はない。


「嘘つけ。絶対俺のこと意識してるだろ。急に綺麗になって、注目集めて——俺の気を引きたいんじゃないのか」


その言葉に、思わず笑ってしまった。


「何がおかしい」


「ごめん。でも、蒼太って本当に自分が好きだよね」


「は?」


「私が変わったのは、自分のため。あなたのためじゃない」


蒼太の顔が強張る。


「五年間、あなたの隣で自分を抑えてきた。もう十分だと思っただけ」


「自分を抑えてた? 何の話だよ」


「——知らなくていいよ」


踵を返そうとした時、蒼太が私の腕を掴んだ。


「待て。俺、今お前と話してるんだ」


「離して」


「なんでだよ。俺たち、ずっと一緒にいたじゃん。なのに急によそよそしくなって——」


「『地味で退屈』な幼馴染と話しても、つまらないでしょ」


蒼太の手から力が抜けた。


「それは——」


「私が言ったんじゃないよ。あなたが言ったの。忘れたの?」


沈黙。蒼太の顔が青ざめていく。


「咲良、あれは——」


「もういい。本当に、もういいの」


振り払って歩き出す。背中に視線を感じながら、一度も振り返らなかった。




放課後、美術準備室で絵を描いていると、凛がやってきた。


「聞いたよ、蒼太と廊下で話してたって」


「……誰から」


「クラスの子。めっちゃ噂になってた」


凛がパイプ椅子に座って、私の絵を覗き込む。


「で、何話したの」


「大したことじゃない。昔のことを蒸し返されただけ」


「蒸し返された?」


「『急に変わったのは俺の気を引きたいからだろ』って」


「はあ? あいつマジで言ったの?」


凛が眉を吊り上げる。


「自意識過剰にもほどがあるでしょ。世界が自分中心に回ってると思ってんの?」


「まあ、蒼太はそういう人だから」


筆を動かしながら答える。キャンバスには、新しい絵が形を成しつつあった。夜の海。月明かりに照らされた波。


「なんかさ、不思議なんだよね」


「何が」


「昔は蒼太に冷たくされるだけで一日中落ち込んでたのに。今は全然平気」


「それ、吹っ切れたってことじゃん」


「そうかもね」


筆を止めて、窓の外を見る。夕焼けが綺麗だった。


「蒼太の顔、ちょっと面白かった」


「面白い?」


「私が変わったこと、受け入れられないって顔してた。ずっと隣にいた『地味な幼馴染』が、急に別人になったみたいで」


「当たり前でしょ。あいつ、本当の咲良を見たことなかったんだから」


凛の言葉に、小さく頷く。


「ねえ、咲良」


「ん?」


「あのイベントで会った御曹司——桐生さんだっけ。連絡した?」


「……まだ」


「なんで?」


「なんか、怖くて」


「怖い?」


「うん。あの人、私のこと——私の絵を、ちゃんと見てくれたから。それが、ちょっと怖い」


凛が黙った。しばらくして、ぽつりと言う。


「……本気で見られるのが怖いってこと?」


「そう、かも。蒼太には本気で見られなくて、それで楽だった部分もあったんだと思う。でも桐生さんは違う。絵を通して、全部見透かされてる気がする」


「それって——」


「わかってる。逃げてちゃダメだって」


絵に向き直る。夜の海に、少しずつ光を足していく。


「来週、連絡してみる」


「本当?」


「うん。ちゃんと向き合わないと、また同じことの繰り返しになる気がするから」


凛がにっこり笑った。


「それでいい。咲良は前に進んでる」


「……そうだといいな」


キャンバスの中、夜の海が少しずつ明るくなっていく。朝が来る前の、一番暗い時間。でも、光は確実に近づいている。




     ◇ ◇ ◇




その週の金曜日、私のスマホに異変が起きた。


「——なに、これ」


SNSの通知が鳴り止まない。開いてみると、匿名アカウントから大量のメッセージが届いていた。


『調子乗ってるの?』

『急に綺麗ぶってウケる』

『蒼太くんに未練タラタラなんでしょ、バレバレ』

『元カノが近くにいると迷惑なんだよね』


心臓が冷たくなる。こんな悪意を向けられたことは初めてだった。


「咲良、どうしたの顔真っ青だよ」


凛が私のスマホを覗き込み、目を見開いた。


「……何これ。誹謗中傷じゃん」


「わかんない。急に……」


「アカウント見せて」


凛がスマホを操作する。匿名アカウントだけれど、投稿履歴やフォロワーから何かわかるかもしれない。


「これ、フォローしてるアカウントが——」


凛の顔が険しくなる。


「美月のサブ垢フォローしてる。しかも、作られたのつい最近。完全に咲良を攻撃するために作ったアカウントじゃん」


「美月さんが……?」


「決まってるでしょ。あいつしかいない」


凛がスマホを私に返す。画面の中で、まだメッセージが増え続けている。


「スクショ撮っといて。証拠になるから」


「うん……」


手が震えた。美月さんが私を敵視しているのは知っていた。でも、ここまでするとは。


「咲良、落ち着いて。こういうのは反応しないのが一番」


「わかってる。でも——」


『蒼太くんが可哀想。あんな地味女に五年も付きまとわれて』


最後のメッセージを見て、涙が滲んだ。地味女。付きまとい。蒼太のために自分を抑えてきた五年間が、こんな言葉で表されている。


「咲良」


凛が私の手を握った。


「あいつの言うことなんか気にしなくていい。咲良は何も悪くない」


「……うん」


深呼吸をして、スマホをカバンにしまった。見なければいい。反応しなければいい。それはわかっている。でも、傷ついている自分がいることも、否定できなかった。




放課後、いつものように美術準備室に向かった。


廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。


「白波さん」


振り返ると、桐生蓮さんが立っていた。


「え……なんで、ここに」


「すみません、驚かせましたか。先ほど職員室で橋本先生とお話ししていて、白波さんがまだ校内にいると聞いたもので」


「橋本先生と……?」


「ええ。あなたの才能について、色々と。それで、直接お話しできればと思い」


蓮さんはいつもの穏やかな表情だった。でも、私の顔を見て、わずかに眉をひそめた。


「——何かありましたか」


「え?」


「顔色が良くない。何か、嫌なことでも」


見抜かれている。この人には、隠し事ができない気がする。


「……ちょっと、SNSで嫌がらせを受けて」


「嫌がらせ?」


「大したことじゃないです。気にしないようにしてるので」


「誰がそんなことを」


「……元カレの、今の彼女です。たぶん」


蓮さんの表情が、一瞬だけ冷たくなった。


「見せてもらえますか」


「え、でも——」


「確認したいんです」


静かだけれど、有無を言わせない声だった。私はスマホを取り出し、メッセージを見せた。


蓮さんが画面をスクロールしていく。その目が、どんどん険しくなる。


「……酷いですね」


「はい」


「この程度の人間が、あなたを傷つける資格などない」


断言するような声だった。


「白波さん。あなたは何も悪くない。変わることも、前を向くことも、すべて正しい選択です」


「……ありがとうございます」


「この件、私に任せてもらえませんか」


「任せるって……」


「法的な対処も含めて、です。こういったケースは放置すると悪化します」


「でも、そこまでしてもらうわけには——」


「私がしたいんです」


蓮さんの目が、まっすぐに私を見る。


「あなたの絵に出会えたこと、感謝しています。だから、あなたを守りたい。それは私のエゴかもしれませんが」


「エゴ……」


「はい。私はあなたの絵に惹かれました。そして今、あなた自身にも。だから、傷ついてほしくない」


心臓が、どくりと跳ねた。


この人は——本気で言っている。初めて会った時から感じていた。この人は、嘘をつかない。


「……お願いします」


「わかりました。任せてください」


蓮さんが微笑んだ。その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも温かかった。




数日後、美月さんの匿名アカウントは消えていた。


凛から聞いた話によると、美月さんの家に弁護士からの内容証明が届いたらしい。誹謗中傷に対する法的措置の警告。桐生グループの顧問弁護士からの書面は、相当なインパクトがあったようだ。


「美月、めっちゃ青ざめてたって。蒼太に泣きついてたらしいけど、蒼太も引いてたみたい」


「そう……」


「蒼太もさすがにわかったんじゃない? 美月がどういう人間か」


廊下で美月さんとすれ違った時、彼女は私を睨みつけた。でも、何も言わなかった。言えなかったのだろう。


「ねえ、桐生さんってさ」


凛が意味ありげに笑う。


「咲良のこと、本気じゃない?」


「……わかんない」


「わかんないって。あれだけのことしてくれて?」


「だからこそ、わかんないの。なんでそこまでしてくれるのか」


「好きだからでしょ。シンプルに」


凛の言葉に、何も言い返せなかった。


蓮さんから、週末に会えないかとメッセージが来ている。まだ返事をしていない。


怖い。この気持ちが何なのか、まだわからないから。


でも——。


「返事、しなきゃね」


小さく呟いて、スマホを手に取った。




     ◇ ◇ ◇




その日、蒼太は自分の部屋にいた。


美月との関係は、最近うまくいっていない。SNSでの誹謗中傷の件が発覚してから、彼女の本性が見えてしまった。あんなに可愛いと思っていたのに——今は一緒にいても、どこか落ち着かない。


それに、咲良のことが頭から離れない。


あの日、廊下で見た彼女。眼鏡を外し、髪を綺麗に整え、別人のように輝いていた。いや、別人じゃない。あれが本当の咲良だったのだ。五年間、隣にいたのに気づかなかった。


「……俺、なんで」


机の引き出しを開ける。一番奥に、小さな箱がある。


取り出して、蓋を開けた。


——色褪せた、赤いリボン。


十年前、海で溺れた時に助けてくれた少女が残していったもの。あの日から、ずっと大切に保管してきた。いつか見つけ出して、お礼を言うために。


リボンを手に取り、窓際に歩み寄る。夕日がリボンを照らし、くすんだ赤色がほんのり輝いた。


「お前は、どこにいるんだよ……」


ずっと探していた。夏休みになるたびに、あの海岸を訪れた。高校に入ってからは、SNSで似たような経験をした人を探したこともある。でも、見つからなかった。


『俺にはもっと、運命的な出会いが必要なんだ』


咲良に言った言葉が、頭の中でリフレインする。


あの時、咲良は何も言わなかった。傷ついていたはずなのに、静かに微笑んで「お幸せに」とだけ言った。


——あいつは、いつもそうだった。


中学の時も、高校の時も、大学に入ってからも。俺の話を黙って聞いて、俺のわがままに付き合って、俺の理想を壊さないようにしていた。


『運命の少女』の話をするたびに、咲良は少しだけ目を伏せていた。それに気づかなかったわけじゃない。ただ、気にしなかっただけだ。


「俺、最低だな……」


リボンを握りしめる。


咲良が変わってから、彼女の絵が学内で話題になっている。アートイベントで入賞したこと、有名な御曹司に見出されたこと。噂はどんどん広がっていた。


そして——桐生蓮という男が、咲良の傍にいること。


「なんでだよ……」


苛立ちが込み上げる。咲良は俺の幼馴染だ。ずっと隣にいた。なのに、知らない男が急に現れて、咲良を守って、咲良に認められて。


俺は五年間、何をしていたんだ。


窓の外を見る。夕焼けがオレンジ色に染まっている。その色が、なぜか懐かしかった。


——あの夏も、こんな夕焼けだった。


十年前の記憶が蘇る。海で溺れて、必死に助けを求めて。そこに現れた、麦わら帽子の少女。逆光で顔はよく見えなかったけれど、琥珀色の瞳だけは覚えている。


「……琥珀色の、瞳」


心臓が、どくりと跳ねた。


咲良の瞳。眼鏡を外した時に見えた、あの色。夏の海を思わせる、琥珀色。


「——まさか」


頭の中で、パズルのピースが嵌まっていく。


中学二年の冬、咲良が描いた絵。『海辺の夏』というタイトルの、コンクールで金賞を取った作品。波打ち際で手を伸ばす少女の後ろ姿。風になびく髪と、外れかけた麦わら帽子——。


「嘘、だろ……」


リボンを見つめる。色褪せた、赤いリボン。


咲良の絵に描かれていた、麦わら帽子のリボンと、同じ色。


「咲良が……あの少女だったのか?」


震える声で呟く。否定したい。嘘だと言いたい。でも、すべてが繋がっていく。


咲良が中学から眼鏡をかけ始めたこと。地味な服を選ぶようになったこと。絵を描くのをやめたこと。俺の『運命の少女』の話を聞くたびに、目を伏せていたこと。


「五年間……いや、十年間、ずっと隣にいたのか」


リボンが、手の中で震えている。いや、震えているのは自分の手だ。


『あなたが好きだったのは、幻想の中の私。本当の私を見てくれなかった』


——咲良なら、そう言うだろう。


十年間、探し続けた『運命の少女』は、ずっと隣にいた。なのに俺は気づかなかった。気づこうとしなかった。


「俺は……なんて馬鹿だったんだ」


リボンを握りしめて、蒼太は崩れ落ちた。


後悔が、津波のように押し寄せてくる。でも、もう遅い。咲良はもう、俺を見ていない。俺じゃない誰かの傍で、笑っている。


「咲良——」


夕日が沈んでいく。部屋が暗くなっても、蒼太はその場から動けなかった。




     ◇ ◇ ◇




——個展の日がやってきた。


蓮さんの紹介で、小さなギャラリーを借りることができた。私の絵だけを展示する、初めての個展。


「緊張してる?」


凛が隣で聞いてくる。


「……めちゃくちゃ」


「大丈夫。咲良の絵は最高だから」


会場には、すでに何人かの来客がいた。橋本先生、蓮さん、そして——予想外の顔ぶれも。


「咲良」


母さんが、目を潤ませながら近づいてきた。


「素敵ね。あなたの絵、こんなに大きなところで見られるなんて」


「母さん……来てくれたんだ」


「当たり前でしょう。あなたの晴れ舞台なんだから」


母さんが私を抱きしめる。温かい腕の中で、少しだけ涙が滲んだ。


「頑張ったね、咲良」


「……うん」


ギャラリーの中央に、メインの絵が飾られている。


『夏の海と麦わら帽子』——十年前のあの日を描いた、集大成の作品。


波打ち際で、少女が少年の手を掴んでいる。逆光の中、少女の顔は見えない。でも、風になびく黒髪と、外れかけた麦わら帽子のリボンが、鮮やかに描かれている。


「素晴らしい絵ですね」


蓮さんが隣に立った。


「あなたの集大成——過去との決別、ですか」


「はい。これを描いて、やっと前に進める気がします」


「良かった」


蓮さんが微笑む。その笑顔を見ていると、心が穏やかになる。


この人といると、自分でいられる。飾らなくていい。隠さなくていい。——それが、どれほど楽なことか。


「蓮さん」


「はい」


「私——」


言いかけた時、ギャラリーの入り口が開いた。


「——咲良」


蒼太が、立っていた。


彼の目は、メインの絵に釘付けになっていた。『夏の海と麦わら帽子』。波打ち際の少女と少年。風になびくリボン。


「これ、は……」


蒼太の声が震えている。


「見ればわかるでしょ」


私は静かに答えた。


「十年前の夏。あなたが溺れた日の絵」


「やっぱり……やっぱり、お前だったのか」


蒼太が振り返る。その目には、信じられないというような色が浮かんでいた。


「なんで言わなかった。十年も——」


「言えなかったの」


「なんでだよ!」


声が響く。ギャラリーにいた人たちが、こちらを見ている。凛が一歩前に出ようとしたけれど、私は目で制した。


「最初は、言うタイミングがなかった。おばあちゃんに叱られて、しばらく会えなかったから」


「それは——」


「中学に入って、やっと再会できた。でも、あなたはもう『麦わら帽子の少女』を運命の人だと思い込んでた」


蒼太の顔が強張る。


「あなたが語る『あの子』は、キラキラした天使みたいな存在だった。現実は違う。祖母に叱られるのが怖くて、名前も言わずに逃げ出した臆病な女の子。——そんな真実を知ったら、あなたは幻滅すると思った」


「そんなこと——」


「だから、何も言わないことを選んだ。あなたの理想を壊さないように。あなたの隣にいられるように」


言葉が、静かに響く。


「五年間、息を殺して生きてきた。あなたが好きだから、あなたの傍にいたかったから。でも——」


絵を見上げる。波打ち際の少女。あの日の私。


「最後に言われた言葉が『地味で退屈』だった」


蒼太が言葉を失う。


「私は、あなたのために自分を消した。なのに、あなたはそれにも気づかなかった」


「咲良、俺は——」


「わかってる。あなたが悪いわけじゃない。全部、私が勝手にやったことだから」


涙は出なかった。もう、泣き尽くした後だから。


「でも、だからこそ——もう、終わりにしたいの」


蒼太が一歩近づく。


「待ってくれ。俺、今なら——今ならお前のこと、ちゃんと見られる。やり直せる。だから——」


「遅いよ、蒼太」


穏やかに、でも毅然と。


「あなたが好きだったのは、幻想の中の私。十年前の夏に、一瞬だけ現れた少女。——本当の私を、あなたは一度も見てくれなかった」


言葉が、蒼太の胸を貫く。


「私は、もうあなたのために生きるのをやめる。これからは、自分のために生きていく」


「咲良——」


「さよなら、蒼太」


最後に微笑んで、私は踵を返した。蓮さんが、静かに私の傍に立つ。


「——行きましょう」


「はい」


蒼太の声が後ろから聞こえた気がした。でも、振り返らなかった。


十年間の恋が、今、終わった。




     ◇ ◇ ◇




個展が終わった後、蒼太から何度も連絡が来た。


『話がしたい』『会ってくれ』『俺は変われる』——メッセージは日に日に増えていった。でも、私は一度も返信しなかった。


一週間後。


大学のキャンパスで、蒼太が私を待ち構えていた。


「咲良」


「……蒼太」


「頼むから、話を聞いてくれ」


彼の顔は憔悴していた。目の下には隈があり、いつもの爽やかさは消え失せている。


「……わかった。少しだけなら」


人気のない中庭のベンチに座る。蒼太は私の隣に座り、しばらく黙っていた。


「俺、ずっと考えてた」


ようやく口を開いた彼の声は、掠れていた。


「お前が……十年前の『あの子』だったって知って、最初は信じられなかった。でも、全部繋がるんだ。中学の時からお前が変わっていったこと、俺の話を聞くたびに目を伏せてたこと——全部」


「……うん」


「俺は、お前を傷つけてた。ずっと、ずっと。それに気づかないまま——」


蒼太が顔を覆う。


「俺、最低だった。『運命の少女』を探してるとか言いながら、ずっと隣にいたお前を見ようとしなかった。お前がどれだけ我慢してたか、どれだけ自分を殺してたか——」


「蒼太」


「わかってる。今更だって。でも、俺は——」


蒼太が顔を上げた。その目には、見たことのない必死さがあった。


「俺は、今のお前が好きだ」


「……え?」


「眼鏡をかけてた頃のお前も、今のお前も、全部好きだ。本当の姿を見せてくれなくても、お前自身が好きだったんだ。ただ、俺がそれに気づくのが遅すぎた」


「蒼太……」


「やり直させてくれ。今度こそ、お前をちゃんと見る。お前のことだけを考える。だから——」


「ダメだよ」


私は静かに首を横に振った。


「え?」


「ダメなの、蒼太」


立ち上がって、彼を見下ろす。


「私はもう、あなたのことを好きじゃない」


蒼太の顔が、凍りついた。


「五年間、あなただけを見てきた。あなたの理想になれるように、あなたを失わないように——必死だった。でも、それはもう終わったの」


「咲良——」


「あなたが『今のお前が好きだ』って言ってくれたこと、嬉しかったよ。でも——」


風が吹いて、髪が揺れる。


「私が変わったから好きになったんでしょう? 地味で眼鏡をかけてた時の私は、『退屈』だったんでしょう?」


「それは——」


「外見が変わらなかったら、あなたは私を見なかった。それが答えだよ」


蒼太が何か言おうとして、言葉を失う。否定できないのだ。私が変わらなければ、彼は一生気づかなかった。


「私は、最初から私を見てくれる人を選ぶ」


「桐生、か」


「……うん」


「あいつは——お前のことをちゃんと見てるのか」


「見てくれてる。私の絵を通して、私の心を見てくれてる。あなたには一度もそうしてもらえなかった」


残酷な言葉だとわかっている。でも、嘘はつきたくなかった。


「ごめんね、蒼太」


「謝るなよ……」


「でも、ごめん。私はもう、前を向いて歩きたいの。あの夏に置いてきた恋を、今度こそ自分のために生きる力に変えたいの」


蒼太がうつむく。肩が震えていた。


「……俺のこと、恨んでるか」


「ううん。恨んでない」


本当だった。もう、そんな感情は残っていない。


「あなたは私の初恋だった。五年間、幸せな時間もあった。それは嘘じゃない」


「咲良……」


「だから、ありがとう。そして——さよなら」


最後に微笑んで、私は歩き出した。


背中で、蒼太が泣いているのが聞こえた。でも、振り返らなかった。


振り返ったら、また立ち止まってしまうから。


——これでいい。


空を見上げる。秋の青空が、どこまでも澄んでいた。




     ◇ ◇ ◇




——一年後。


夏の海は、十年前と変わらず輝いていた。


「綺麗ですね」


隣を歩く蓮さんが、穏やかに微笑む。


「うん。……ここに来るの、久しぶり」


砂浜を歩きながら、十年前の記憶を辿る。溺れる男の子を助けた、あの場所。人生が変わった、あの瞬間。


「ここで、助けたんですか」


「たぶん、この辺り。はっきりとは覚えてないけど」


波が足元を洗う。冷たくて、懐かしい感触。


「咲良さん」


「はい」


「これ、渡したいものがあって」


蓮さんが、紙袋から何かを取り出した。


——麦わら帽子。


「え……」


「似合うと思ったんです。夏だから」


帽子を受け取る。手触りは軽くて、でも確かな存在感がある。


「ありがとうございます。でも、これ——」


言いかけて、気づいた。帽子についているリボン。


淡いブルーの、新しいリボン。


「色、選んでもいいですか? と聞いたら、あなたの瞳の色にしてくださいと」


「私の……瞳」


「琥珀色に近いブルー。夏の海の色、だそうです」


蓮さんが微笑む。


「あなたの過去を否定するつもりはありません。あの赤いリボンは、大切な思い出でしょう。でも——」


私の手を取って、帽子を頭に乗せてくれる。


「これからは、新しい色で歩いていきませんか」


新しい色。新しいリボン。新しい未来。


「……蓮さん」


「はい」


「私、あなたに会えてよかった」


言葉が、自然と溢れ出る。


「あなたは最初から、私を見てくれた。絵を通して、心を見てくれた。そんな人に出会えたこと——本当に、幸せです」


蓮さんの目が、優しく細められる。


「私もです。あなたに出会えて、あなたの絵に出会えて——人生が変わりました」


「大げさですよ」


「本当のことです」


彼が私の手を握る。大きくて、温かい手。


「これからも、あなたの絵を見続けたい。あなたの傍にいたい。——それが、私の願いです」


「……私も」


波の音が響く。十年前と同じ場所で、でも、隣にいるのは違う人。


——それでいい。


あの夏の私は、もういない。臆病で、逃げてばかりで、自分を隠し続けた少女は、もういない。


今ここにいるのは、自分の足で立って、自分の道を歩く私。


「帰ったら、新しい絵を描きます」


「どんな絵ですか」


「夏の海。でも今度は——未来に向かう絵」


蓮さんが笑った。その笑顔を見ていると、胸が温かくなる。


「楽しみにしています」


「はい」


手を繋いだまま、砂浜を歩き出す。新しい麦わら帽子のブルーのリボンが、風に揺れている。


家に帰ったら、引き出しの奥から色褪せた赤いリボンを取り出そう。捨てるわけじゃない。大切な思い出として、そっとしまっておく。


あれは、十年前の私の証だから。


でも、もう過去に縛られない。


「行きましょう」


「はい」


夏の日差しが、私たちを照らしている。海は青く、空は高く、風は優しい。


十年前のあの夏に置いてきた恋を、私は今——自分のために生きる力に変えた。


新しい麦わら帽子に、新しいリボン。

新しい隣人に、新しい未来。


——さよなら、あの夏の私。

——ありがとう、そしてさよなら。


波が砂浜を洗う。十年分の涙を流すように、静かに、優しく。


私は前を向いて、歩き出した。




【完】

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