第8話 報告書という剣
王宮の一角に急遽あてがわれた、私専用の執務室。
ロウソクの揺れる灯りの中、私は鬼気迫る表情で一枚の羊皮紙に向き合っていた。
もう新たなデータを掘り起こすフェーズは終わった。
問題は、八百万点を超える情報の混沌から、いかにして『必殺の一撃』を鍛え上げるかだ。
皇帝陛下に何百ページにもわたる監査報告書を提出しても意味がない。そんなものは情報の洪水であり、多忙を極める彼にとってはただの時間の無駄だ。
彼のような一分一秒を争う人間に必要なのは、問題の核心を一瞬で理解でき、かつ反論の余地のない、完璧に磨き上げられた『武器』。
ただ事実を並べるだけではダメだ。この一枚で、百の議論を終わらせる力を持たせなければ。
これは報告書ではない。この国の膿に叩きつける、宣戦布告なのだから。
私は自分のスキルに新たな命令を下した。
(《完璧なる整理整頓》、発動。これまでの全分析結果を、情報感度の高い、時間のないステークホルダー向けに、一枚の『エグゼクティブ・サマリー』として最適化せよ。目標は、インパクトの最大化と曖昧さの完全な排除)
すると私の意識の中でスキルが新たな働きを始めた。
それは情報の『整理整頓』から、情報の『編集・デザイン』への進化だった。
どの数字を使えば最も衝撃を与えられるか。
どのような図を用いれば複雑な金の流れを一目で理解させられるか。
どの家門の名前をどの順番で記載すれば、政治的影響を最大化できるか。
情報の洪水の中から、最も鋭利な刃となる言葉と数字だけが、まるで磁石に引かれる砂鉄のように浮かび上がってくる。
スキルが私の手を導くようにして、最適な答えを示していく。
私は無我夢中でペンを走らせた。
数時間後。
私の目の前には、たった一枚の羊皮紙が置かれていた。
そこにはこの国を百年以上蝕んできた不正の全体像が、恐ろしいほどに簡潔に、そして冷徹に描き出されていた。
中央には、幽霊会社を介した資金の流れを示すシンプルなフローチャート。
右側には、被害総額、使途不明金の割合、そして現在進行形で申請されている不正予算の件名といった、最も重要な数字。
そして左側には、この巨大な詐取システムに関与した十二の貴族家門の名前が序列順にリストアップされていた。
それはもはや報告書ではなかった。
国の膿を切り裂くために鍛え上げられた、一枚の鋭利な剣だった。
レオン様に護衛され、私は皇帝陛下の私的な執務室へと向かった。
重厚な扉の前で、レオン様が心配そうに私を見た。
「ミカ嬢、顔色が悪いぞ」
「大丈夫です。最高の武器が、鍛ち上がりましたから」
私の答えに、彼は何かを察したように黙って頷いた。
部屋の空気は張り詰めていた。
「陛下。緊急のご報告が」
私は言葉を尽くす代わりに、ただ机の上にその一枚の羊皮紙を静かに置いた。
アルベルト陛下は訝しげにそれを取り上げる。
そしてその金の瞳が紙の上を滑った瞬間、執務室の温度が数度下がったかのように感じられた。
最初は訝しげだった陛下の瞳が、次第に驚愕に、そして静かな怒りに、最後には絶対零度の氷のような冷たい光に変わっていく。
彼は一言も発しない。ただその静寂が、何よりも雄弁に彼の激情を物語っていた。
(何年も、ずっとだ。この国の根を蝕む癌の存在には気づいていた。だが、メスを入れるための確かな刃がなかった。下手に動けば、国そのものが崩壊しかねなかったのだ)
やがて彼はゆっくりと顔を上げた。
その顔から常の疲労の色は消え、代わりに絶対的な王としての冷徹な怒りが浮かび上がっていた。
「……疑ってはいた。何年も、ずっとだ。だが疑念は武器にはならん。持ち主を内側から蝕む毒にしかならん。内戦の引き金を引きかねない確たる証拠もなしに、彼らを断罪することはできなかった」
陛下の声は静かだった。しかしその奥底には長年の無念と、そしてついに手にした反撃の機会への確かな手応えが感じられた。
彼は私を真っ直ぐに見つめた。その金の瞳にはもう知的な好奇心の色はない。
そこにあるのは深い、心の底からの感謝と戦友に向けるような敬意だった。
「ミカ・アシュフィールド。君はただ部屋を片付けたのではない。私が十年もの間、渇望してやまなかった剣を鍛え上げてくれたのだ」
この言葉はどんな褒賞よりも、私の胸に深く突き刺さった。
陛下は私に金貨や宝物を与えはしなかった。
代わりに彼は、それらとは比較にならないほど重いものを私に与えた。
信頼と、責任だ。
「ミカ・アシュフィールドに、本日付で『王家筆頭監査官』の地位を与える。国内のいかなる記録の提出を命じ、いかなる貴族への聴取をも行う、全権を君に委ねる」
それは事実上の、国家財政の全権委任だった。
穏やかなスローライフを夢見ていた田舎貴族の娘が、一夜にして国の金庫番のトップに任命されたのだ。
(筆頭監査官? 国家財政の全権委任? スローライフはどこへ? いや、それどころか、これは前世以上のデスマーチ確定じゃない……!)
典型的な出世物語ならここで喜ぶべきなのだろうが、前世の記憶を持つ私にはそれがどれほど危険でストレスフルな仕事か痛いほど分かった。
良い仕事をすれば、さらに重く困難な仕事が降ってくる。これは社畜の宿命なのだ。
しかし、この人のこの顔を見てしまったら……断れるわけがなかった。
そして陛下は、私の隣で直立不動を続けるレオン様へと向き直った。
「騎士団長。君の新たな、そして最優先の任務を与える」
「はっ」
「筆頭監査官の身辺警護だ。彼女は今や、この王国において最も価値があり――そして最も命を狙われる資産となった。命に代えても、守り抜け」
「御意」
レオン様は短く、しかし力強く答えた。
その蒼い瞳が私に向けられる。その視線は今まで以上に熱く、そして何があっても守り抜くという騎士の誓いに満ちていた。
それはただの任務を超えた、彼の魂からの約束のように感じられた。
皇帝陛下と私、そしてレオン様。
三人が執務室に立つ。
もはや雇い主と、便利なスキルを持つ部下ではない。
国の腐敗に立ち向かう、一つのチームがここに誕生した瞬間だった。
(……私の穏やかなスローライフ計画。どうやらサーバーのルートディレクトリから、完全削除されちゃったみたいね……)
これから始まるであろう嵐のような日々を思い、私は心の中で誰にも聞こえないため息をついた。
しかし不思議と、絶望はなかった。
前世では得られなかった、確かな『やりがい』が私の心を静かに満たしていたからだ。




