第63話 テクスチャの欠落と世界の致命的エラー
「報告せよ。北方の国境で、何が起きている」
アルベルト陛下の低く、威厳に満ちた声が響く。
馬から転がり落ちるようにして膝をついた伝令兵は、恐怖に顔を引きつらせ、ガタガタと震えていた。その瞳には、この世のものとは思えない光景を見た者特有の、深い絶望の色が焼き付いている。
「へ、陛下……! 言葉では……言葉では説明できません! ただ、世界が……世界が『消えて』いるのです!」
「消えている? 敵国の侵略により焼き払われたということか?」
「いいえ! そうではありません! 地面も、空も、山も! そこにあるはずの風景がごっそりと抜け落ちて……その向こう側に、何もない『無』が広がっているのです! しかも、その『穴』から、見たこともない色の泥のような、光のようなものが溢れ出して……!」
伝令兵の言葉は支離滅裂だった。
周囲の村人たちは、理解不能な報告に顔を見合わせ、不安げにざわめいている。
だが、私だけはその現象の正体を、戦慄と共に理解していた。
空間座標の喪失。
あるいは、テクスチャデータの読み込みエラー。
この世界を構成するプログラムそのものが、物理的な限界を迎えて悲鳴を上げているのだ。
「……お父様。どうやら実家の片付けだけでは、このバグは収まらなかったようです」
私は唇を噛み、傍らで呆然としている父に告げた。
実家の蔵にあった「豊穣の小箱」。あれは単なるアイテム増殖バグを引き起こす端末に過ぎなかった。だが、あの箱が暴走したことで、この世界のシステム全体に過剰な負荷がかかり、処理落ち寸前の状態に陥っている可能性がある。
北方の異変は、その負荷が最も弱い部分――おそらく、古いデータが蓄積された「世界の継ぎ目」のような場所――で決壊した結果だ。
「ミカ。君の顔色が悪い。……これは、君が知る『あちら側』の現象か?」
レオンが、鋭い眼光で私を見つめる。
彼の直感は、いつだって恐ろしいほど正確だ。
「ええ、レオン。これは魔物の襲撃よりも質が悪いです。世界そのものが『記述』を放棄し始めています。放置すれば、北方の領地だけでなく、この王国全体が『読み込み不可』となって消滅するでしょう」
「消滅……だと?」
「文字通り、データごと消えます。バックアップなんてありません」
私の言葉に、レオンと陛下が息を呑む。
だが、彼らは決して狼狽えなかった。
次の瞬間には、二人の瞳に強烈な闘志の炎が宿る。
「ならば、行くしかあるまい」
陛下が即断した。
その声には、一国の王としての揺るぎない覚悟と、私への絶対的な信頼が込められている。
「この国の危機を救えるのは、私の最強の騎士団と、そして何より――世界最高の『掃除屋』である君だけだ。ミカ」
「……御意。この剣にかけて、必ずやバグごときを討ち果たしてみせましょう」
レオンが剣の柄を握りしめ、力強く頷く。
二人の英雄が、私を見てニヤリと笑った。
その不敵な笑みを見ていると、私の胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
絶望的なシステム障害。納期は今すぐ。リソースは私たち三人だけ。
――上等だ。これこそ、社畜SEの腕が鳴るというもの。
「では、参りましょうか。世界のOSがクラッシュする前に、緊急メンテナンスの開始です!」
私は高らかに宣言し、父に別れを告げた。
父は涙ながらに私たちを見送ってくれた。
私たちは村で一番足の速い馬を借り受け、北へと向けて疾走を開始した。
◇
北への道中、私たちは一度も休息を取らなかった。
馬を限界まで走らせ、ポーションで体力を回復させながら、風のように街道を駆け抜ける。
近づくにつれ、空気の質が変わっていくのが肌で感じられた。
鳥の声が消え、風の音が止む。
代わりに聞こえてくるのは、耳鳴りのような、ジジジ……という不快なノイズ音だけ。
「……おい。あれを見ろ」
先頭を走っていたレオンが、声を荒らげて前方を指差した。
丘を越えた私たちの目に飛び込んできたのは、伝令兵の報告さえも生温く感じるほどの、この世の終わりめいた光景だった。
空が、割れていた。
比喩ではない。青空の一部が、ガラス細工のようにギザギザに欠損し、その向こう側に、毒々しい紫色と黒色が混ざり合った「ノイズの嵐」が渦巻いている。
大地を見れば、草原があるはずの場所に、巨大な「格子状の穴」が開いていた。地面のテクスチャが剥がれ落ち、灰色のワイヤーフレームだけが虚空に浮いている。
そして、その穴の底から、形を持たない「何か」が、泥のように、あるいは煙のように溢れ出し、世界を浸食しようとしていた。
「……ひどい。レンダリング処理が完全に追いついていない。GPUが焼き切れる寸前の挙動だわ」
私は馬を止め、その惨状を睨みつけた。
溢れ出しているのは、ガラクタではない。
あれは「未定義データ」の塊だ。
処理しきれなくなった情報の残骸が、物理的な実体を持った「バグの泥」となって、正常な領域を上書き保存しようとしている。
「ミカ! あれを見ろ! 泥が……動いているぞ!」
陛下の警告に、私は目を凝らした。
溢れ出したバグの泥が、不定形の塊となり、まるで生き物のように蠢きながらこちらへ向かってくる。
その姿は、歪んだ獣のようでもあり、溶けかけた巨人のようでもある。
表面には、「エラー」「NULL」「404」といった文字の断片のようなものが、幾何学的な模様となって明滅していた。
「敵性体を確認! 迎撃する!」
レオンが叫び、馬から飛び降りると同時に剣を抜き放つ。
閃光一閃。
彼の剣圧が、先頭にいたバグの塊を真っ二つに斬り裂いた。
だが、手応えがなかったのか、レオンがわずかに眉をひそめる。
「……なんだ、こいつらは。肉の感触がない。まるで、霧を斬っているようだ」
斬られたバグは、一度は霧散したものの、すぐにまた周囲のノイズを集めて再生し始める。
物理攻撃無効。あるいは、ヒットボックスの判定がおかしいのか。
「レオン、下がれ! 私がやる!」
陛下が前に進み出ると、掌から灼熱の炎魔法を放った。
轟音と共に、バグの群れが炎に包まれる。
しかし、炎が消えた後には、焦げ跡一つ残さず、無傷のバグたちが平然と蠢いていた。
「魔法も効かぬか。……厄介だな」
陛下が舌打ちをする。
物理も魔法も通じない。この世界の理から外れた存在。
それが、システムエラーという名の怪物だ。
「お二人とも! 普通の攻撃では倒せません! あれは『データ』ですから!」
私は馬から降り、二人の間へと駆け寄った。
右手を掲げ、スキルを発動させる。
視界が一瞬で青いグリッドに覆われ、世界が数値の羅列へと変換される。
「解析開始。……ターゲット、不正なオブジェクトIDを検出。強制排除プログラムをロードします」
私の脳内で、コマンドプロンプトが高速で走り抜ける。
敵の構成要素を分解し、「この世界に存在してはいけないもの」として定義し直す。
そして、その定義を、二人の武器に「エンチャント(付与)」する。
「レオン、陛下! 武器を構えてください! あなたたちの攻撃に、『削除属性』を付与しました!」
「削除属性……? よく分からんが、ミカが言うなら斬れるということだな!」
レオンの剣が、青白く発光し始める。
陛下の剣にも、同様の光が宿る。
それは、私のスキル「整理整頓」の力が具現化した、対バグ用決戦兵器だ。
「行きます! 私が道を開きますから、お二人は溢れてくるザコを片っ端から『ゴミ箱』へ叩き込んでください!」
「承知した! 行くぞ、レオン!」
「御意!」
二人の英雄が、疾風のごとく駆け出した。
今度の一撃は、違った。
レオンの剣がバグに触れた瞬間、パァン!という乾いた破裂音と共に、怪物は光の粒子となって消滅した。
再生などさせない。完全なデータ消去だ。
「ははっ! なるほど、これはいい! 面白いように消えるぞ!」
陛下が笑いながら剣を振るうたびに、群れを成していたバグたちが次々と虚空へと還っていく。
圧倒的な武力と、私の論理的なバックアップ。
この組み合わせに、死角はない。
「ミカ! ザコは俺たちが引き受ける! 君は元凶を探せ!」
レオンが背後で敵を斬り伏せながら叫ぶ。
彼の背中が、どんな盾よりも頼もしく私を守ってくれている。
私はその信頼に応えるべく、戦場の中央で意識を研ぎ澄ませた。
「スキャン範囲、拡大。……深度、マックス!」
私の視覚が、物理的な限界を超えて拡張される。
地表のテクスチャを透過し、ワイヤーフレームの隙間を抜け、その奥深くにある「データの震源地」を探る。
溢れ出すバグの泥。その源流。
亀裂の底、深さ数百メートル。
そこに、それはあった。
「……見つけました」
巨大な、あまりにも巨大な、黒い球体。
それは直径十メートルほどの真円を描き、周囲の空間データを貪るように吸収しながら、絶えず不気味なノイズを吐き出していた。
「世界を食らう穴」。
ブラックホールのようなその球体こそが、このエラーを引き起こしているコアだ。
「レオン、陛下! あそこです! あの亀裂の底に、バグの親玉がいます!」
私が指差した先。
底知れぬ闇の穴。
そこから、ひときわ巨大なバグの奔流が、間欠泉のように噴き上がった。
「よし! 本丸のお出ましだな!」
陛下が不敵に笑う。
「ミカ、私につかまれ! 一気に底まで飛ぶぞ!」
「えっ!?」
返事をする間もなく、陛下は私の腰を抱き寄せた。
同時に、足元で風魔法が炸裂する。
ふわり、と体が浮き上がったかと思うと、次の瞬間、私たちは重力に逆らって亀裂の底へとダイブしていた。
「ちょ、陛下!? 強引すぎます!」
「ははは! 君と一緒なら、地獄の底へのダイブも悪くない!」
風の結界が、周囲の瓦礫やノイズを弾き飛ばす。
レオンもまた、壁面を蹴って私たちの後を追ってくる。
落下すること数秒。
私たちは、世界の裏側とも言える、ワイヤーフレームがむき出しになった異様な空間へと着地した。
目の前には、あの黒い球体が鎮座している。
近くで見ると、その異様さが際立っていた。
球体の表面には、無数の「目」のような模様が浮かび上がり、ギョロギョロと周囲を睨み回している。
そして、その中心には、ひび割れた黒い宝玉が埋め込まれていた。
「……あれが、本体か」
レオンが剣を構え、球体と対峙する。
球体から放たれるプレッシャーは、先ほどのザコとは桁違いだ。
空間そのものが歪み、立っているだけで平衡感覚が狂わされそうになる。
「気をつけてください。あれは、ただの魔道具ではありません。この周辺の『法則』を書き換える機能を持っています」
私は警告を発した。
私の解析によれば、あの球体は周囲の「重力定数」や「摩擦係数」をランダムに変更する権限を持っている。
うかつに近づけば、体が地面にめり込んだり、摩擦が消えて滑って転んだりするだろう。
物理法則を無視した、理不尽なフィールド効果。
まさに、クソゲーのラスボス仕様だ。
「法則を書き換えるだと? そんなふざけた真似を許すものか」
レオンが低く唸る。
「許しません。ここからは、私の領域です」
私は一歩前へ出た。
二人の英雄が左右に展開し、私のための道を確保する。
私は、黒い球体――暴走したシステムコアに向かって、右手を突き出した。
「あなたのその身勝手なルール変更、却下させていただきます」
私の瞳の奥で、青い光が爆発的に輝いた。
スキル《完璧なる整理整頓》、管理者権限モード、起動。
相手が法則を書き換えるなら、私はその「書き換え」をさらに「書き換える」。
上書き合戦だ。
そして、情報の処理速度において、元社畜SEである私に勝てる道理はない。
「重力異常、検知。……修正。摩擦係数、正常化。……修正。空間座標のズレ、補正完了」
私が言葉を発するたびに、球体から放たれる歪んだ波動が、ピシリ、ピシリと音を立てて砕け散っていく。
自分の有利なフィールドを無効化され、球体が怒り狂ったように明滅を始めた。
黒い触手のようなノイズが、私に向かって殺到する。
「させるかぁぁぁっ!!」
レオンの咆哮。
彼の剣閃が、迫りくる触手をすべて切り落とす。
陛下もまた、炎の障壁を展開し、あらゆる攻撃をシャットアウトする。
「ミカ! 守りは完璧だ! 君は攻撃に集中しろ!」
「はい! 今、終わらせます!」
私は、球体の中心にある黒い宝玉に狙いを定めた。
あれがコアだ。あそこさえ破壊すれば、このバグは収束する。
しかし、宝玉の周りには何重ものプロテクト(防御結界)が張り巡らされている。
物理的な破壊は不可能。
ならば、論理的に「解体」するまで。
「フォルダ構成、展開。……深層ディレクトリへアクセス。……見つけた。これが、あなたの核ね」
私の意識が、球体の内部へと侵入する。
そこには、数百年前に書かれたと思われる、古く、そして悲しいほどに非効率なプログラムコードが渦巻いていた。
『世界を良くしたい』『もっと豊かにしたい』。
そんな純粋な願いが、長い年月の中で劣化し、エラーを起こし、世界を食い荒らす呪いへと変貌してしまった残骸。
「……可哀想に。もう、休んでいいのよ」
私は慈しむように、そして冷徹に、最後のコマンドを打ち込んだ。
「全プロセス、強制終了。対象、黒い宝玉」
私の指先から放たれた光の矢が、一直線に宝玉へと突き刺さる。
バキィィィィィン!!
ガラスが割れるような甲高い音が、地下空間に響き渡った。
黒い宝玉に亀裂が走り、そこから眩いばかりの純白の光が溢れ出す。
「グォォォォォ……」
球体が断末魔のような低い音を立て、収縮を始めた。
周囲のノイズが、泥が、歪みが、すべて球体の中へと吸い込まれていく。
そして、最後には小さな光の粒となって、パンッ!と弾け飛んだ。
静寂が戻る。
見上げれば、割れていた空が、ジジジ……という音と共に修復されていくのが見えた。
剥がれ落ちていた地面のテクスチャが戻り、緑の草原が再生していく。
世界が、あるべき姿を取り戻したのだ。
「……終わった、のか?」
レオンが、剣を収めながら呟く。
「ええ。システムオールグリーン。正常稼働を確認しました」
私は、ふぅと息を吐き、その場にへたり込んだ。
さすがに、世界の法則を書き換える荒療治は骨が折れる。
魔力も精神力も空っぽだ。
「ミカ!」
レオンが慌てて私を抱き起こす。
陛下も駆け寄り、私の顔を覗き込む。
「見事だ、ミカ。君はまたしても、この国を救ってしまったな」
「……ただの、デバッグ作業ですわ」
私は力なく笑った。
二人の温かい視線に包まれながら、私は思う。
これで一件落着……と言いたいところだが、私の勘が告げている。
このバグは、単発の事故ではない。
実家の箱、そしてこの北方の球体。
これらは、もっと大きな「何か」の氷山の一角に過ぎないのではないか。
「……帰りましょう、王都へ。まだ、調べなければならないことが山積みです」
私の言葉に、二人は力強く頷いた。
最強のパーティによる、世界のお片付け。
その本当の戦いは、まだ始まったばかりなのかもしれない。
だが、今の私には不安はない。
この頼もしい二人がいれば、どんなバグだって修正してみせる。
私はレオンの腕の中で、安堵と共に意識を手放した。




