第60話 無限コピーのバグを修正せよ
「……『豊穣の小箱』? 何よ、その大層な名前は」
私は目の前に転がる古びた木箱を見下ろし、呆れた声を漏らした。
父が『幸せの箱』などと呼んで大切にしていた、この粗末な木箱。
これこそが、アシュフィールド領をゴミの海に沈めた元凶である。
私のスキル《完璧なる整理整頓》が、冷徹な解析結果を弾き出した。
視界に浮かぶ青いウィンドウには、信じられない文字が並んでいる。
かつては食料を増やすための、ありがたい魔道具だったらしい。
種を入れれば十倍に、パンを入れれば五倍に増えるという。
飢饉に苦しむ領民を救うための、素晴らしい古代の遺産だ。
しかし、今のこの箱はただのバグ製造機に成り下がっている。
内部の魔力回路が焼き切れ、制御プログラムが完全に暴走していた。
近くにある物体のデータを無差別に読み込み、複製し続けているのだ。
石ころ、枯れ葉、埃、そして壊れたガラクタ。
価値のないデータを無限ループでコピーし、実体化させて吐き出す。
いわば、ウイルスに感染してスパムメールを撒き散らすサーバーだ。
放置すれば、領地どころか国中がゴミで埋め尽くされるだろう。
私は溜め息をつき、お父様の方を振り返った。
「お父様、こんな危険なものを放置していたの?」
「いや、先祖代々伝わる家宝だと聞いていたんだ。使い方も分からんが、とりあえず蔵にしまっておけばいいと、おじい様から言われておってな」
父は困ったように頭を掻き、視線を泳がせている。
管理マニュアルのないレガシーシステムほど、恐ろしいものはない。
メンテナンスもされずに数百年も稼働していれば、バグらない方がおかしい。
「幸せどころか、ゴミ屋敷の元凶ですわ。今すぐシステムをシャットダウンします」
私は宣言し、不気味に明滅する箱へと歩み寄った。
紫色の光が、ドクンドクンと脈打っているのが見える。
まるで、生き物のような悪意を感じる光だ。
私が手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
「危ない! ミカ、直接触れるな! 魔力が暴走している、目に見えるほど濃いぞ。君の精神まで汚染されたらどうするつもりだ」
横から伸びてきた強い力が、私の手首を掴んだ。
騎士団長レオン・アークライトだ。
彼の蒼い瞳が、私を案じて激しく揺れている。
彼の言葉は正しい。
普通の魔術師なら、触れた瞬間に廃人になるレベルの魔力密度だ。
だが、私には関係ない。
私は、この世界の理すら整理する管理者なのだから。
私はレオン様の手を優しく解き、余裕たっぷりに微笑んでみせた。
「大丈夫です、レオン様。私のスキルは、混沌を拒絶しますから。整理整頓の極意は、まず元を断つことですわ」
私の言葉に、レオン様は一瞬だけ躊躇した。
しかし、すぐに私を信じて手を離してくれる。
これを止めなければ、アシュフィールド領はゴミに沈む。
私は意を決して、光り輝く箱に両手をかざした。
手袋越しでも分かる、ビリビリとした不快な振動が伝わってくる。
データが悲鳴を上げているのだ。
「システム介入、開始」
私が呟いた瞬間、バチリと激しい衝撃が指先を襲った。
脳内に、ノイズ混じりの不快な音が響き渡る。
視界を埋め尽くす、膨大なエラーログ。
無数の「スプーン」「皿」「布」「石ころ」という文字。
それらが猛烈な勢いで流れ去っていく。
箱が、自分自身の存在を維持しようと抵抗しているのだ。
私という異物を排除しようと、大量のジャンクデータを送りつけてくる。
一秒間に数億件もの処理落ち寸前のデータ。
普通の人間なら、脳が焼き切れて即死するだろう。
だが、私にとっては慣れ親しんだ光景だった。
前世のデスマーチに比べれば、こんなものはそよ風だ。
「……甘いですわね。この程度のデータ量で、私をパンクさせられるとでも思って?」
私は不敵に笑い、さらに強く意識を集中させた。
私の脳内で、最強のセキュリティソフトが起動する。
スキルの出力、全開。
情報の奔流を、真正面から受け止めてねじ伏せる。
私の指先から、清浄な青い光が溢れ出した。
その光は紫色の淀みを侵食し、瞬く間に箱全体を包み込む。
私の意思が、箱のコアシステムに到達した。
見つけた。
暴走しているコマンドラインだ。
『COPY』の命令が、無限に繰り返されている。
私は脳内の仮想キーボードを叩き、その命令を書き換えた。
「不要なコピー命令を全て停止! 無限ループを解除! ついでに、キャッシュも全消去です!」
私の叫びに呼応するように、箱から溢れていた光が収束していく。
暴れていた魔力の奔流が、一箇所に集まり、静かになっていった。
エラー音が消え、クリアな通知音が鳴り響く。
『処理完了』。
その文字が、脳内に浮かんだ。
「システム、正常化。バグを修正しました」
最後の一押しをすると、箱はパタンと音を立てて閉まった。
漏れ出していた紫色の光は消え、ただの古い木箱に戻った。
周囲に漂っていた重苦しい空気も、一瞬で晴れていく。
圧倒的な静寂が、蔵の中を満たした。
「……終わりましたわ。ふぅ」
私はその場にへたり込んだ。
全身の力が抜け、汗が滝のように流れる。
作業時間はわずか数秒だったが、濃密な時間だった。
その間に処理した情報量は、国家図書館数個分に匹敵するだろう。
さすがに、少し疲れた。
「ミカ!」
倒れそうになった私を、逞しい腕が受け止めた。
レオン様だ。
彼は私を抱きかかえ、自分の胸に顔をうずめさせた。
硬い鎧越しに、彼の激しい心臓の音が聞こえる。
それほどまでに、私を心配してくれていたのだ。
「よく頑張ったな。君の勇気には、いつも驚かされる。あれほどの魔力の暴走を、一瞬で鎮めるとは」
彼は私の髪を、愛おしそうに撫でた。
その手つきは優しく、私の疲れを溶かしていくようだ。
「……恥ずかしいです、レオン様。みんなが見ていますわ」
私は真っ赤になって抗議したが、彼は離してくれなかった。
むしろ、さらに強く抱きしめられる。
「素晴らしい。ミカ、君はまたしても世界を……いや、我が領地を救ったのだな」
背後から、感嘆の声が聞こえた。
アルベルト陛下だ。
彼は歩み寄り、私の手を取って跪いた。
まるで、女神を崇める信徒のような眼差しだ。
「君の力は、やはり規格外だ。この箱、調査のために王宮へ持ち帰ろう。君のスキルで、安全に保管しておいてくれ」
陛下の判断は的確だった。
こんな危険物、実家に置いておくわけにはいかない。
父がまたうっかり開けたら、今度こそ屋敷が沈んでしまう。
「分かりました。私の『アイテムボックス』の中なら、暴走することはありません」
私は箱を無造作に掴み、空間の裂け目へと放り込んだ。
私のアイテムボックス内は、時間が停止した絶対安全圏だ。
どんな危険な魔道具も、ここではただの置物に過ぎない。
これで、ゴミが自然発生することはない。
お片付けの第一段階、完了である。
私はレオン様の腕の中で、大きく息を吸い込んだ。
蔵の外に出ると、空は澄み渡り、心地よい風が吹き抜けていた。
ゴミの山で見えなかった空が、今はこんなにも青い。
「お父様、もう大丈夫よ。これからはゴミが増えることはないわ」
私が告げると、父はその場に泣き崩れた。
長年の悪夢から解放された安堵で、顔がくしゃくしゃになっている。
「ああ、ありがとう、ミカ。お前は本当に我が家の誇りだ。こんなに立派になって……」
父は涙を拭い、感極まった様子で私を抱きしめようとした。
だが、その腕が私に届くことはなかった。
横からスッと伸びてきた腕が、父の身体を物理的にブロックしたからだ。
「……気安く触れるな。彼女は今、魔力を使い果たして疲れているんだ」
レオン様が、私を背後に隠して父を牽制する。
その眼光は、魔王を前にした時よりも鋭い。
「な、なんだと! わしは父親だぞ!」
「俺はただ、彼女の安全を最優先しているだけだ」
過保護な騎士団長と、娘離れできない父親。
二人が子供のような言い争いを始めた。
陛下はそれを楽しそうに眺めている。
なんて平和な光景だろう。
私は呆れて、空を見上げた。
だが、感傷に浸っている時間はない。
バグの根源は断ったが、物理的な問題はまだ残っている。
「さて、次は屋敷の中の『お片付け』ですね」
私は袖をまくり、屋敷の中を見回した。
魔法で作られたコピー品は消えたが、元からあったガラクタはまだ残っている。
壊れた家具、古い書類、用途不明の道具。
長年蓄積された、正真正銘のゴミたちだ。
これらを全て整理し、領地全体の効率を上げなければならない。
私の中の社畜魂が、再び燃え上がった。
「レオン様、陛下。お手伝い、お願いしますわね」
私の言葉に、言い争っていた二人がピタリと止まった。
「えっ、俺たちがやるのか?」
陛下が驚いたように聞き返した。
目を丸くして、自分の豪華な服を見下ろしている。
皇帝に掃除をさせるなど、不敬罪で斬首されても文句は言えない。
だが、今の私は最強の現場監督だ。
遠慮などしない。
「当然です。視察に来たのでしょう? 領民の苦労を知る絶好の機会ですわ。さあ、まずはこの埃まみれのカーテンを外しますよ」
私は二人に、ほうきと雑巾を差し出した。
にっこりと、有無を言わせぬ笑顔で。
「……分かった。ミカが言うのなら、俺はやるぞ」
レオン様は真面目な顔でほうきを受け取った。
愛する人の頼みなら、たとえ火の中水の中。
掃除だろうと全力で挑むのが、騎士道らしい。
「私も、たまには汗を流すのも悪くないな。君との共同作業だと思えば、雑巾がけも悪くない」
陛下も楽しそうに雑巾を受け取った。
面白がっているだけかもしれないが、戦力としては十分だ。
最強の掃除部隊の結成である。
私たちは一日かけて、屋敷の中をピカピカに磨き上げた。
私はスキルの『鑑定』を使い、本当に必要なものだけを選別していった。
「これは修理可能、これはリサイクル。……このエロ本は即、廃棄処分です」
私は父の書斎から出てきた、怪しげなタイトルの本を手に取った。
『魅惑の女騎士・夜の特訓』。
こんなものを娘に見られるなんて、教育上よろしくない。
「ひ、ひえぇ! それはわしの宝物がぁ!」
父の悲鳴が屋敷に響く。
必死に手を伸ばしてくるが、遅い。
「不要なデータです。完全削除」
私は無慈悲にゴミ袋へ詰め込んだ。
容赦のない断捨離である。
隣でレオン様が、真っ赤な顔をして咳払いをしていた。
陛下はニヤニヤしながら、表紙を盗み見ている。
男なんて、みんなこんなものだ。
部屋から物が減るにつれ、家の中の空気がどんどん軽くなっていく。
風通しが良くなり、光が部屋の隅々まで届くようになる。
夕暮れ時、屋敷は見違えるように綺麗になった。
床は鏡のように輝き、窓からは夕焼けの光が美しく差し込んでいる。
埃っぽかった空気は、清涼な森の香りに変わっていた。
「ああ……こんなに綺麗な我が家は、何年ぶりだろう。まるで、新築の屋敷のようだ」
父が感動して、床を撫でている。
その背中は、朝よりもずっと小さく見えた。
ゴミという重荷を下ろして、ようやく安心できたのだろう。
「お父様。これからは、物を増やさないでね。一つ買ったら、一つ捨てる、それがルールよ」
「肝に銘じておくよ」
父は深く頷き、私に手を合わせた。
神様か何かだと思っているのだろうか。
「ミカ、よくやった。君の仕事ぶりは、いつ見ても完璧だ」
レオン様が、私の顔を優しく拭いてくれた。
彼のハンカチからは、良い香りがした。
一日中掃除をしていたはずなのに、彼は爽やかなままだ。
さすがは、最強の騎士様である。
「ありがとうございます。でも、これで終わりではありませんわ」
私は新たな企画書を、脳内に描いた。
実家の掃除は、ほんの序章に過ぎない。
私の視線は、窓の外に広がる領地全体へと向けられていた。
「実家の屋敷が綺麗になったのなら、次はこの『領地全体』の最適化です」
アシュフィールド領は、まだまだ非効率な部分が多い。
物流のルート、農作業の手順、税金の管理。
古臭い慣習や、無駄な手続きが山のようにある。
私が整理すべき場所は、見渡す限り広がっているのだ。
「……君は、休むということを知らないのか?」
陛下が、呆れたように、でも嬉しそうに言った。
彼は私の、仕事に燃える瞳を見るのが好きらしい。
「仕方がありませんわ。お片付けを待っている場所があるんですから」




