第57話 ゴミ屋敷のような財務局
王宮の東側に位置する財務局の建物は、どんよりとした空気に包まれていた。
窓は閉め切られ、澱んだ空気が溜まっている。
廊下を歩くだけで、埃っぽさが鼻をつく。
私はハンカチで口元を押さえながら、眉をひそめた。
「レオン様。ここは空気が悪すぎます。これでは数字も腐ってしまいますわ。」
「全くだ。警備の巡回でも、この棟だけは皆が避けたがる。」
レオン様が顔をしかめて、同意してくれる。
彼の整った顔立ちが、不快感で歪んでいた。
私は決意を込めて、目の前の重厚な扉を見上げた。
ここが、この国の金庫番たちが巣食う伏魔殿だ。
バルトロメウス伯爵が支配する、聖域と呼ばれる場所である。
「よし、行こうか。俺が扉を開けよう。」
レオン様が、遠慮なく扉を押し開けた。
ギィィ、と蝶番が錆び付いた音を立てる。
中に入ると、そこはまさにゴミ屋敷だった。
書類の山が壁のように積み上げられ、床が見えないほどだ。
羊皮紙の束が崩れ落ち、インク壺が転がっている。
「国家最高顧問、ミカ・アシュフィールドです。本日より、特別監査を実施しますわ。」
私の声が、広い事務室に響き渡る。
仕事の手を止めていた文官たちが、驚いて一斉にこちらを見た。
彼らの目は死んだ魚のように濁っている。
過酷な労働環境と、上からの圧力に疲れ切っているのだろう。
突然の訪問者に、彼らは動揺を隠せないようだった。
「な、何を言っているんだ。監査など、聞いていないぞ!」
部屋の奥にある豪華な執務机から、怒鳴り声が飛んできた。
書類の山をかき分けて、一人の男が姿を現す。
恰幅の良い体に、金糸の刺繍が施された派手な服を着ている。
彼こそが、財務官のバルトロメウス伯爵だ。
脂ぎった顔を紅潮させ、私を睨みつけてくる。
「誰の許可を得て入ってきた! ここは財務局だぞ!」
「陛下の直命です。文句があるなら、直接陛下にどうぞ。」
私は冷たく言い放ち、懐から勅状を取り出した。
金色の王家の紋章が輝く、絶対的な命令書だ。
それを彼の目の前に突きつける。
伯爵は勅状を見ると、みるみるうちに顔色を変えた。
赤黒かった顔が、今度は青白くなっていく。
「ば、馬鹿な……。陛下が、このような小娘に……。」
「小娘ではありません。国家最高顧問です。言葉を慎んでいただけますか?」
私が一歩踏み出すと、彼はたじろいだ。
しかし、すぐに気を取り直して、尊大な態度に戻る。
長年、この場所で王のように振る舞ってきたプライドがあるのだろう。
「ふん。まあいい。どうせ、形だけの監査だろう。」
彼は鼻で笑い、私を見下した。
「ここにある膨大な資料を、君のような素人に読めるはずがない。財務の仕事は、複雑で繊細なのだよ。」
「素人かどうかは、これから分かりますわ。レオン様、お願いします。」
「承知した。抵抗する者は、容赦なく捕縛する。」
レオン様が鋭い視線を向けると、周囲の文官たちは震え上がった。
彼の手が剣の柄にかかっているのを見て、誰も動こうとしない。
この部屋の制圧は、一瞬で完了した。
「全ての出納帳と、過去十年分の決算書を、あちらの机に集めてください。」
私が指示を出すと、文官たちは慌てて動き出した。
彼らは伯爵の顔色を伺いながらも、レオン様の威圧感に負けたようだ。
次々と埃を被った帳簿が、私の前の大きな机に積まれていく。
数分後には、私の身長を超えるほどの書類の塔ができあがった。
「これだけの量だ。読むだけで数年はかかるぞ。」
伯爵が勝ち誇ったように腕を組む。
確かに、普通の方法で読めばそうなるだろう。
しかし、私のやり方は普通ではない。
「数年もかけません。数分で終わらせます。」
「はっ! 何を寝言を。数分だと?」
「見ていてください。スキル発動、《完璧なる整理整頓》。」
私は右手をかざし、目の前の書類の山に意識を集中させた。
その瞬間、視界が鮮やかな青色のグリッド線に覆われる。
私のスキルが、部屋中の文字情報を猛烈な勢いでスキャンしていく。
パラパラパラ、と音を立てて、帳簿のページが勝手にめくれていく。
数百万行にも及ぶ数字の羅列が、私の脳内にデータとして取り込まれた。
「……ふむ。これは、ひどい乱雑さですね。」
私はデータの解析結果を見て、ため息をついた。
帳簿の中身は、間違いだらけだった。
計算ミス、記入漏れ、そして意図的な改竄。
あまりにも杜撰な管理体制に、呆れるほかない。
「この項目、『修繕費』とありますが、場所が書かれていません。」
私はスキャンしたデータの中から、一つの矛盾点を指摘した。
「昨年の三月に支払われた、金貨一万枚。これ、どこの修理に使ったのですか?」
私の問いに、伯爵は鼻で笑った。
「そんな細かいこと、いちいち覚えているわけがない。王宮は広いのだ、どこかが壊れたのだろう。」
「記録がない支出は、経費とは認められません。それは、あなたのポケットに入ったのでは?」
「な、何を無礼なことを! 侮辱罪で訴えるぞ!」
「事実を確認しているだけです。では、次の質問に参りましょう。」
私は伯爵の抗議を無視して、次のデータを提示した。
空中に魔法でグラフを投影し、金の流れを可視化する。
赤い線が、複雑に絡み合いながら一箇所へ集中していた。
「このグラフを見てください。特定の時期に、特定の業者への支払いが急増しています。」
「それがどうした。必要な物資を購入しただけだ。」
「購入品目は『消耗品』とだけ書かれています。具体的に何を買ったのですか?」
「そ、それは……紙とか、インクとかだ!」
「金貨五十万枚分の紙とインクですか? 王宮ごと紙で包めますわよ。」
私の冷静なツッコミに、周囲の文官たちが吹き出しそうになるのをこらえた。
伯爵は顔を真っ赤にして、言葉に詰まっている。
あまりにも稚拙な嘘だ。
前世の監査法人なら、新人でも見抜けるレベルである。
「さらに調査を進めると、面白いことが分かりました。」
私は指先を動かし、データを深掘りしていく。
支払先の業者名をリストアップし、それぞれの登記情報を照合する。
スキルが瞬時に、整合性をチェックしていった。
「伯爵。この『バルト建設』という会社、存在しませんわね。」
「なっ……!」
「住所に行ってみましたが、ただの空き地でしたわ。看板すらありませんでした。」
私が嘘をついた。
実際には行っていないが、スキルの情報検索で空き地だと判明している。
カマをかけたのだが、伯爵の反応ですぐに図星だと分かった。
「そ、それは……登記のミスだ! 移転したのを忘れていたのだ!」
「ミスにしては、額が大きすぎます。合計で金貨五十万枚。これは、立派な横領罪です。」
私の断定的な言葉に、事務室がざわめき始めた。
文官たちも、薄々は気づいていたのだろう。
しかし、伯爵の権力に逆らえず、黙認していたのだ。
真実が白日の下に晒され、彼らの顔に安堵と恐怖が入り混じる。
「おのれ……! 小娘が、調子に乗るなよ!」
伯爵がついに激高し、私に掴みかかろうとした。
彼は大きな体を揺らし、拳を振り上げる。
しかし、その手が私に届くことはない。
「ぐあっ!?」
レオン様が音もなく間に入り、伯爵の腕を捻り上げたのだ。
ボキリ、と鈍い音がして、伯爵が悲鳴を上げる。
その動きはあまりにも速く、目で追うことさえできなかった。
「ミカに、触れるなと言ったはずだ。」
レオン様の声は、氷点下のように冷たかった。
その瞳には、底知れぬ怒りが宿っている。
彼は伯爵をゴミのように床に転がし、冷たく見下ろした。
「い、痛い! 離せ! 無礼者め! 私は伯爵だぞ!」
「無礼なのは、君のほうだ。王の金を盗む泥棒が。」
「証拠はあるのか! ただの言いがかりだ!」
床に這いつくばりながらも、伯爵はまだ喚いている。
往生際が悪いとは、このことだ。
私は呆れながら、彼に近づいた。
「証拠なら、ここにありますわ。」
私は部屋の壁際にある、大きな棚を指さした。
何の変哲もない、古びた書類棚だ。
しかし、私のスキルには、その奥にあるものがはっきりと見えていた。
「レオン様。この部屋にある全ての隠し金庫の場所、特定しました。」
「さすがだ。すぐに開けさせよう。」
レオン様は私の指示に従い、壁や床を調べ始めた。
兵士たちが、棚を強引に動かす。
「そこ、左から三番目の棚の裏です。隠しスイッチがありますわ。」
私が指示した場所を、レオン様が剣の柄で叩いた。
カチリと音がして、壁の一部がスライドして開く。
中には、重厚な鉄の扉が現れた。
「なっ……!? なぜ、それを……!」
伯爵が絶望的な声を上げた。
彼だけの秘密だったはずの場所が、いとも簡単に見つかってしまったのだ。
レオン様が鉄の扉をこじ開けると、中から黄金の輝きが溢れ出した。
「おお……これはすごい。」
兵士たちが驚きの声を上げる。
隠し部屋の中には、山のような金貨と宝石が隠されていた。
さらに、裏帳簿と思われる黒い革表紙の本も積まれている。
「これを見ても、まだミスだと言い張るおつもりですか?」
私は冷めた目で、崩れ落ちた伯爵を見た。
彼はもう、何も言い返すことができない。
口をパクパクとさせ、魚のように喘いでいるだけだ。
「……終わりだ。バルトロメウス。君の地位も、名誉も、全て没収だ。」
レオン様が、彼を捕縛するように部下に命じた。
兵士たちが、伯爵の両脇を抱えて引きずっていく。
彼の豪華な服は埃にまみれ、見る影もない。
「助けてくれ! 誰か! 私は悪くない! これは必要経費だ!」
「見苦しいですわ。牢屋でゆっくり、言い訳を考えてください。」
彼の情けない叫び声は、冷たい廊下の奥へと消えていった。
後に残されたのは、静まり返った事務室と、怯える文官たちだけだ。
私は大きく息を吐き、乱れた髪を指で整えた。
「皆さん、安心してください。あなたたちの罪は問いません。」
私が声をかけると、文官たちは顔を上げた。
「これからは、正しいやり方で仕事をしてもらいます。ブラックな職場環境も、私が改善しますわ。」
「あ、ありがとうございます……!」
文官の一人が、涙ぐみながら頭を下げた。
それを合図に、他の者たちも次々と感謝の言葉を口にする。
彼らもまた、伯爵の圧政に苦しめられていた被害者なのだ。
「さて、レオン様。ゴミの処分は終わりましたが、ここからが大変です。」
私は広大な事務室を、改めて見回して言った。
伯爵がいなくなっても、このゴミ屋敷が片付いたわけではない。
未整理の書類が、まだ山のように残っている。
これらを全て処理し、正しいデータとして保存しなければならない。
「これを全て、新しいシステムに移行させる必要があります。今夜は、徹夜になりそうですわね。」
私が苦笑いしながら言うと、レオン様は困ったように笑った。
彼は私の、仕事熱心なところが心配で仕方ないようだ。
いつも、私が無理をしないか監視している。
「徹夜は許さないと言っただろう。君の体調が、俺には一番大事なんだ。」
レオン様は私の肩を抱き寄せ、優しく耳元で囁いた。
その距離の近さに、私の心臓がまた大きく跳ねる。
部下たちが見ている前で、こんな大胆なことをするなんて。
「で、でも、これをお片付けしないと、気が済みません。秩序のない部屋で眠るのは、苦痛ですわ。」
私は顔を赤くしながら、必死に訴えた。
整理整頓スキルを持つ者として、この惨状を放置して帰ることはできない。
それは、私のプライドが許さないのだ。
「分かった。ならば、俺も手伝おう。書類を運ぶくらいなら、俺にもできる。」
「レオン様がですか? 騎士団長のお仕事もありますのに。」
「君のためなら、どんな仕事でも喜んでやるさ。それに、君と二人きりで過ごせるなら、残業も悪くない。」
彼はウィンクをして、楽しそうに笑った。
この国の最強の騎士が、書類運びを手伝ってくれるというのだ。
なんて贅沢な、お片付けなのだろう。
私は幸せな気持ちで、新しい帳簿を開いた。
「ありがとうございます。では、お願いしますわ。」
「ああ、任せろ。どこから始めればいい?」
「まずは、勘定科目の整理から始めましょうか。」




