第55話 帝国の王子と新たな課題
窓の外では、村人たちが慌てて四方八方へと走り回っていた。
逃げ惑う人々の叫び声と、家財道具を運び出す騒がしい音が空気に混ざり、緊迫した空気が室内まで流れ込んでくる。
遠くからは、地鳴りのような響きが近づいていた。
無数の馬の蹄が力強く大地を叩く音。
それは明らかに、統制されたかなりの数による行軍の音だった。
レオン様は険しい表情で、勢いよく窓を開けて外の様子を確認した。
巻き上がる土煙の向こう側、風にたなびく見覚えのある旗が彼の瞳に映る。
金糸で刺繍された大鷲。
それは、隣国の強大な軍事力を象徴するものだった。
「ガルニア帝国の紋章か。ジークフリートめ。この非常時に一体何を考えている」
レオン様は低く唸るような声で言うと、腰の剣の感触を確かめた。
彼の背中からは、いつでも戦場に飛び出せるような鋭い殺気が放たれている。
私は深呼吸を繰り返し、まだふらつく体で必死に立ち上がった。
「待ってください、レオン様。私が詳細を鑑定します」
視界がわずかに揺れたが、私は意識を集中させて自身のスキルを遠くの軍勢に向かって飛ばした。
私の脳内には情報のグリッドが高速で走っていく。
それはまるで網を投げるように軍勢を包み込み、個々の兵士のステータスから装備の内容までを数値化して読み取っていく作業だった。
相手の正確な構成が、瞬時に理解できるのが分かった。
「……彼らは武器を一切構えていません。それに、大量の食料や生活物資を馬車に積んでいます。攻撃の予備動作も、魔法の充填反応も皆無です」
私は解析した結果を即座にレオン様に伝えた。
彼は意外そうな様子で片方の眉を高く上げ、剣の柄から手を離した。
「救援部隊、ということか。あの男にしては随分と気が利くな」
「はい。敵意の波動は全く検知できません。それどころか、困っている人を助けたいという純粋なエネルギーさえ感じます」
私は確信を持って彼の問いに対して答えた。
緊張が解けた村人たちが足を止める中、村の入り口に一台の豪華な馬車が静かに止まった。
漆黒のボディに金細工が施された、帝国皇族専用の車両だ。
そこから派手な格好を身に纏った一人の男が、軽やかな動作で降りてきた。
「やあ。クラインハルトの勇敢な英雄諸君。無事なようで何よりだ。風の便りに不穏な噂を聞いてね、飛んできたというわけさ」
ジークフリート王子が、顔を隠していた仮面を外しながら大声で豪快に笑った。
レオン様は不機嫌そうな顔を隠さずに、乱暴な足取りで家の外へ出た。
私も彼のすぐ後ろに続くようにして、埃っぽい外の空気の中へ足を踏み出した。
「ジークフリート。どうしてわざわざここに来た。陽動の任務はどうしたのだ。持ち場を離れるのは軍規違反ではないのか」
「陽動なら、もう疾うの昔に終わったさ。オリオン商会の傭兵どもは、主を失って皆逃げ出したよ。後始末は我が軍の優秀な部下たちに任せてある。指揮官がずっと現場に張り付いている必要もないだろう?」
王子は軽やかな動作で両肩をすくめて見せた。
その余裕に満ちた態度は、相変わらず見る者の神経を逆撫でする天才的なものだった。
「それより、この国の悲惨な惨状を見てな。皇子として居ても立ってもいられなくなったのだ。美しい大地が汚れ、人々が飢えているのは私の美学に反する」
彼は後ろに続く無数の馬車を誇らしげに指さした。
馬車の荷台からは、香ばしい香りが漂ってくる。
そこには、焼きたてのパンや暖かい毛布、そして当面の間を凌ぐのに十分な医療品が詰め込まれていた。
「これは我が帝国からの心ばかりの支援物資だ。君たちも喜んで受け取ってくれるだろう? 何しろ、今のこの村には何もないのだから」
彼は私に向かって片目を閉じ、軽くウィンクをした。
その不敵な笑みに、私は呆れてしまい深くため息をつくしかなかった。
「……ありがとうございます。でも、勝手な真似をされては困りますわ。帝国の軍勢を許可なく入れるのは、外交問題に発展しかねません」
「おっと。随分と厳しい言葉を投げかけるのだな。君を助けたいという俺の純粋な気持ちなのだぞ。政治的な思惑など、今の私には微塵もないというのに」
彼はわざとらしく芝居がかった動作で胸に手を当てた。
レオン様が壁のように彼の前に立ちはだかり、ジークフリートを睨みつける。
「純粋な気持ちだと。単なる下心の間違いではないのか。恩を売って彼女の気を引こうとする魂胆が見え見えだ」
「ははは。相変わらずだな、騎士団長殿。君のその異常な独占欲には参るよ。もっと広い心を持ったらどうだ?」
二人の王子の間に、目に見えるほどの激しい火花が散る。
周囲の兵士たちも、二人の発する威圧感に気圧されて動けずにいた。
「不毛な喧嘩はやめてください。今は、この国の人々を救うのが先決です。物資があるなら、すぐに配給の準備を整えましょう」
私は二人の間に割って入って場を収めようとした。
私の冷ややかな視線に気づいたのか、ジークフリートが急に真剣な表情へと変わった。
「その通りだ。ミカ殿。実は、解決すべき問題がまだ残っている。物資を配るだけでは根本的な解決にはならないのだ」
「新たな問題が発生したのですか?」
「ああ。この山脈にある魔光石の鉱山のことだ。オリオン商会が壊滅したことで、今は完全に管理者不在の状態になっている」
彼は懐から古い地図を広げて、ある一点を力強く指さした。
それはこの地域の経済を支えていた、かつての重要拠点だった。
「このままだと、周辺の盗賊や隣接する小国が、この貴重な資源を狙って争いを始めてしまうだろう。力による略奪が始まれば、この村は再び戦火に包まれる」
「……なるほど。管理の空白期間が生まれてしまったのですね。それが一番のバグの原因になります。不透明な領域が存在すると、そこからエラーが広がっていくものです」
私は彼の説明に納得して深く頷いた。
放置された価値ある資源は、必ず新たなトラブルを招く種になる。
無秩序な状態は、私の最も嫌うものの一つだった。
「そこでだ。君に一つ重要な提案がある。この鉱山の運営を、全て君に任せたいと思っている」
「この私にですか?」
「ああ。君の優れた整理整頓スキルで、この鉱山を世界一クリーンな場所に変えてほしいのだ。効率化、安全性の確保、そして利益の透明化。君なら完璧にこなせるはずだ」
ジークフリートの提案は、非常に合理的だった。
確かに私であれば、複雑に絡み合った鉱山の利権も設備も、論理的に整理して再構築することができるだろう。
でも、私の仕事がまた際限なく増えることになるのは明白だった。
私は、隣に立つレオン様の様子を伺った。
彼は難しい顔をして逞しい腕を組み、黙って考え込んでいた。
「……ミカ。君は、自身の心でどうしたいと思う。君が嫌なら、俺が全力で断ってやる」
「私は、目の前の放置されたゴミを放っておけません。これ以上、この国を不浄なもので汚したくないですから。無秩序を正すのが、私の役目だと思っています」
私は強い決意を込めて彼に対して答えた。
お片付けは、最後まで完璧に行うのが私の譲れない信条だ。
中途半端に終わらせることは、自分自身の存在を否定するのと同じだった。
「よし。交渉は成立だ。明日から早速、鉱山の視察に行くぞ」
ジークフリートが上機嫌な様子で声を弾ませた。
まるで遠足の予定を立てる子供のような無邪気さだったが、その瞳の奥には冷徹な計算が見え隠れしていた。
「待て。俺も必ず同行する。君一人を、この軽薄な男と行かせるわけにはいかない。護衛は騎士団長である俺の役目だ」
レオン様が即座に強い口調で同行を宣言した。
彼はジークフリートの狙いを見抜いているのだろう。
「おやおや。相変わらずの過保護だね。でも歓迎するよ。君がいれば、山賊の掃除をする手間が省けるからね」
ジークフリートは楽しそうに肩を揺らして笑った。
その夜、村では帝国の支援物資による炊き出しが行われ、久しぶりに明るい火が灯った。
私は翌日の視察に備え、地図とこれまでの鉱山の資料を頭の中で整理しながら短い眠りについた。
翌朝。
私たちは再び険しい山へと向かって出発した。
昨日までの混乱が嘘のように、朝の空気は冷たく澄んでいる。
今度は徒歩や普通の馬車ではなく、帝国の頑丈な軍用馬に乗っての移動だった。
この馬たちは厳しい訓練を受けており、急な斜面でも一切怯むことなく進んでいく。
鉱山に到着すると、そこは目を覆いたくなるような異様な光景だった。
資材はあちこちに投げ出され、採掘用の工具は錆びつき、本来の用途を失って転がっている。
山肌が魔力で無理やり削り取られ、あちこちに不自然な穴が開いていた。
それはまるで、美しい生き物の体を無造作に傷つけた跡のようだった。
「ひどい……。乱開発もいいところですわ」
私はその惨状を目の当たりにして、眉を激しくひそめた。
効率を完全に無視した強欲な削り方だった。
ただ目先の利益だけを追い求め、山の寿命を削るような行為に激しい憤りを感じる。
崩れかけた足場、無秩序に掘り進められたトンネル、そして放置された魔力の滓。
これらはすべて、管理者の怠慢が招いた「ゴミ」だった。
「お片付けのやりがいが十分にありそうですわね」
私は不敵に微笑むと、馬から降りて地面に両手を突いた。
そこから自身のスキルを広範囲にわたって発動させた。
「整理」と「鑑定」の同時展開だ。
「鉱山全体をスキャンします。埋蔵量と安全性を瞬時に確認してください」
視界が青く染まり、頭の中に山の詳細な断面図が立体的に浮かび上がる。
岩盤の密度、水脈の流れ、そして溜まったガスの位置までが手に取るように分かった。
「……やはり。地盤が極限まで緩んでいます。このままだと、一ヶ月以内に大規模な崩落が起きますわ。周辺の集落まで飲み込むほどの規模になるでしょう」
「なんだと。それほどまでに危険な状態なのか」
レオン様が驚いて手綱を引いて馬を止めた。
彼はすぐさま周囲を警戒し、部下たちに待機を命じた。
「はい。でも、適切に補強すれば大丈夫です。最適な柱の配置を今から計算します。無駄な掘削を止め、構造的に安定させるルートを割り出しました」
私は空中に青い光で詳細な設計図を描き出した。
それは複雑な計算式の結晶であり、この山を救うための唯一の解だった。
「ここ、ここ。そして、ここに対して魔光石の残滓を固めた柱を立てます。捨てられていた不純物を、強固な支柱に変えるのです。これならコストも抑えられますわ」
「資源の再利用を考えるとは。さすがだね、ミカ殿。ただ捨てるだけが掃除ではない、というわけか」
ジークフリートが感心したように何度も頷いた。
私はさらに周囲に対して、テキパキと指示を飛ばした。
私の声は不思議と周囲に響き渡り、動揺していた作業員たちを落ち着かせていく。
「物流のルートも根本から直します。今の道はあまりにも遠回りです。ここを少し削れば、運搬時間は半分になります。それに、労働者の休憩所をここに新設しましょう。疲労によるミスが一番の事故の原因ですから」
私の的確な言葉に合わせて、兵士や騎士たちが一斉に動き始めた。
ジークフリートの連れてきた帝国兵たちも、私の指示に従って重い資材を運び始める。
「すごい。ミカ様の指示通りに動くと、仕事が驚くほど早いぞ。迷いがなくなるんだ」
「まるで魔法を目の前で見ているみたいだ。あんなに複雑だった問題が、次々と解けていく」
作業員たちが口々に驚きと賞賛の声を上げる。
私はその中心に立って、次々と目の前の問題を解決していった。
淀んでいた空気が、私の指示一つで流れを変えていく感覚。
それは何物にも代えがたい快感だった。
ごちゃごちゃになった資材置き場を機能的に整理し、一目で在庫がわかるように配置を変える。
不透明だった過酷な労働契約を破棄し、成果に基づいた公平なものに書き換える。
現場の空気が、絶望から活気へと劇的に変化していくのが肌で感じられた。
「……これでよし。システムの基盤はようやく整いました」
数時間後。
鉱山は以前とは見違えるほど綺麗になった。
カオスだった混乱の場所が、秩序ある生産拠点に変わったのだ。
立ち込めていた不浄な空気は消え、山は本来の静謐さを取り戻したように見えた。
「ミカ。君は本当に……かける言葉も見つからないな。たった数時間で、これほどのことを成し遂げてしまうとは」
レオン様が呆然とした様子で周囲の変容を見回した。
彼は、私の背中に見えない翼があるのではないかと疑うような、そんな畏敬の念を込めた瞳で私を見つめていた。
「私はただ、使いやすくお片付けをしただけですわ。必要ないものを除き、必要なものを正しい場所に置く。それだけのことです」
私が笑うと、ジークフリートが感極まった様子で私の前に跪いた。
彼は私の手を取り、熱のこもった瞳で私を見上げた。
「ミカ殿。君を我が帝国の最高技術顧問として正式に迎えたい。君がいれば、帝国はあと百年の繁栄を約束されるだろう。金でも、地位でも、望むものは何でも出そう。私との結婚という選択肢さえも含めてね」
「即座にお断りします」
レオン様が即座に彼の言葉を強い力で遮った。
ジークフリートの手を払い除け、私を背後に隠すようにして一歩前へ出る。
「彼女は我がクラインハルトの最高顧問だ。君などのような、口先だけの男に渡すつもりは毛頭ない。帰れ、帝国へ」
彼は私を自分の馬の方へ強引に引き寄せた。
断固とした拒絶の意志が、彼の背中から溢れ出している。
「ひゃっ……!」
またしても私はレオン様の逞しい腕の中に収まってしまった。
彼の胸の鼓動が、背中を通じて伝わってくる。
「……一度離してください、レオン様。みんなが見ていますわ。恥ずかしいです」
「絶対に離さない。君は俺のすぐそばにいるべきだ。君がいなくなったら、俺の世界は再び混沌に飲み込まれてしまう」
彼の凄まじい独占欲は、山を降りるまでずっと続いた。
馬の背の上でしっかりと抱きしめられ、私は自由を奪われたままだった。
私は呆れながらも、その腕の温かさに抗いがたい心地よさを感じていた。
でも、王都に戻ればまた別の難題が待っているはずだ。
この国には、まだまだ多くの「片付けられるべき不浄」が残っている。
私は遠い空を見上げて、次のお片付けの計画を練り始めた。
「さて。次は、王宮の杜撰な予算の見直しから始めましょうか。あそこには、使い道のわからない不明金が山のように積み上がっていますから」
私の小さな囁きに、二人の王子は同時に顔を青くした。
彼らの耳には、それがどのような恐ろしい死刑宣告よりも、冷酷に響いたようだった。




