第33話 目覚めと二人の看病
深い、どこまでも深い闇の中だった。
音も光もない穏やかな静寂が、ただそこにあった。
前世で過労死した時も、こんな感覚だっただろうか。
いや、あの時はもっと焦りと未練、そしてやり残した仕事への執着があった気がする。それに比べて、今は不思議なほど心が凪いでいた。
やりきったという達成感だけが、温かい光のように私を包み込んでいる。
(あぁ、このまま眠るのも、悪くないかもしれない)
私が永遠の休息という名の甘い誘惑に身を委ねようとした、その時だった。
遠くから、誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。
一つは、低く切実な声。
もう一つは、威厳がありながらも必死さが滲む声。
私の名前を、何度も、何度も、呼んでいる。
『ミカ』
『ミカ嬢』
その声はだんだんと大きくなっていく。
まるで、深い海の底から私を引き上げようとする二つの力強い光のようだ。
その光に導かれるように、私の意識はゆっくりと浮上していく。
重い鉛のような瞼を、なんとかこじ開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、見慣れた私の執務室の天井だった。
「……ミカ!気がついたか!」
「ミカ嬢!」
すぐそばから、二つの声が同時に降ってきた。
見ると、私が寝かされているベッドの片側には皇帝アルベルト陛下が、もう片側には騎士団長のレオン様が、私の顔を食い入るように覗き込んでいる。
国の頂点に立つ二人の英雄が、揃いも揃って目の下に濃い隈を作り、憔悴しきった顔をしていた。その姿は、少しだけ可笑しく見えた。
「……陛下……レオン様……」
掠れた声が、かろうじて喉から出た。
「よかった……本当によかった……」
陛下は心の底から安堵したように、私の手を両手で優しく握りしめた。その手は、わずかに震えている。
「三日間だ。君は三日間、眠り続けていたんだぞ。もう二度と目を覚まさないかと……私は……」
その声には王の威厳などどこにもなかった。ただ大切な人を失うことを心から恐れる、一人の男の響きがあった。
「……すまない。俺が不甲斐ないばかりに、君にこれほどの無理をさせてしまった」
レオン様も悔しそうに唇を噛み締め、深く頭を下げた。
「俺は、君の盾にすらなかった」
そのあまりにも痛々しい姿に、私は慌てて体を起こそうとした。
しかし、全身に力が入らない。まるで自分の体ではないかのようだ。
「だめだ、ミカ。まだ動いては」
陛下が優しく、しかし有無を言わせぬ力で私をベッドに押し戻す。
「君は全魔力と精神力を使い果たした。王宮一の治癒魔術師が言うには、あと少し遅ければ手遅れだったと。……君の精神の核が、崩壊していたかもしれん」
その言葉に、私は自分がどれほど危険な賭けをしたのかを改めて実感し、背筋が冷たくなった。
「ライナス……アッシュフォード家は、どうなりましたか?」
「ああ。ライナスは捕縛し、今は特別牢に幽閉している。他の残党も、全て捕らえた。君のおかげでな」
レオン様が、少しだけ誇らしげに答えてくれた。
「そうですか……。よかった……」
私は心から安堵の息を漏らした。
私のプロジェクトは、無事に完了したのだ。
それから数日間、私は絶対安静を命じられた。
そしてなぜか、私の看病はこの国で最も忙しいはずの二人の男性が、交代で担当することになった。
日中は、レオン様が甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれた。
彼は見た目に似合わず、とても器用だった。薬草を煎じて飲みやすいように少しだけ蜂蜜を混ぜてくれたり、私が退屈しないようにと騎士団の面白い訓練の話や、珍しい魔物の話を聞かせてくれたりした。
「ミカ嬢。今日のスープだ。滋養のある薬草をたくさん入れておいた」
「ありがとうございます、レオン様。でも毎日申し訳ないです。護衛の任務もあるのに」
「気にするな。君の健康を管理することも、俺の最も重要な任務の一つだ」
彼はそう言うと少し照れたように、スプーンでスープを丁寧に冷ましながら私の口元へと運んでくる。
そのあまりにも近い距離と真剣な眼差しに、私はスープの味もよく分からなくなってしまった。
そして夜は、皇帝陛下が山のような公務の合間を縫って、必ず私の部屋を訪れた。
彼は難しい歴史の本を優しい声で読み聞かせてくれたり、チェスやカードゲームの相手をしてくれたりした。もちろん、私がほとんど動けないので、もっぱら彼が私の代わりに駒を動かすのだが。
「……ミカ。君は本当に筋がいいな。私が本気でチェスを指したくなったのは、宰相以外では君が初めてだ」
「陛下が手加減してくださっているだけですよ」
「いいや。君は常に三手先、四手先を読んでいる。その思考の道筋が、手に取るように分かる。……実に面白い」
彼はそう言うと、愛おしそうに私の髪をそっと撫でた。
その優しい手つきと甘い声に、私の心臓はいつも大きく高鳴った。
皇帝と騎士団長による、二人がかりの過保護すぎる看病。
それは正直なところ心臓に悪かったが、同時に前世では決して味わうことのできなかった温かくて満たされた時間でもあった。
私の体は、二人の手厚い看病のおかげで日に日に回復していった。
そしてそれに伴い、新たな疑問が私の頭をもたげてきた。
アッシュフォード家の事件は終わった。
国の大きな淀みも、ほとんど取り除かれた。
もう私が筆頭監査官として解決すべき大きな問題は、残っていないのではないだろうか。
だとしたら、私の役目はもう終わりなのでは?
役目が終われば、私はこの王宮から去るべきなのではないか。
そして今度こそ、あの夢にまで見た穏やかなスローライフを送るべきなのではないだろうか。
しかし、その考えが頭をよぎるたびに、私の胸はきゅうっと痛んだ。
この充実した日々を手放したくない。
そして、何よりも。
この二人と、離れたくない。
その気持ちに気づいてしまった時、私は自分がこの世界に、そしてこの二人にどれほど深く心を寄せてしまっていたのかを、思い知らされた。
私の異世界でのセカンドライフ。
それはこれから、どこへ向かっていくのだろう。
仕事のプロジェクトは終わったかもしれない。
でも、私の人生という名のプロジェクトは、どうやらもっと複雑で、そして甘い、新たなフェーズに突入しようとしているようだった。




