第30話 鋼鉄の扉の向こう側と影の当主
王宮の作戦室は、息が詰まるような沈黙に支配されていた。
私の目の前にある魔法の水晶は、修道院の地下深くにある鋼鉄の扉を映しているだけ。その向こう側で何が起きているのか、もはや私には窺い知ることもできない。通信魔法は、扉の強力な結界によって完全に遮断されていたからだ。
時間が、まるで凍り付いたように遅く重く流れていく。
作戦開始から、すでに一時間が経過していた。焦りがじわじわと私の心を蝕んでいく。疲労困憊の体に、精神的なプレッシャーが重くのしかかった。
(レオン様……騎士団の皆さん……どうか、ご無事で……)
祈るようにぎゅっと手を握りしめたその時だった。
そっと温かいものが私の肩を包んだ。
「ミカ。君はもう十分に役目を果たした」
隣に立つ、アルベルト陛下の声だった。
「今はただ信じるのだ。君が命懸けで切り開いた道を進む者たちを」
その声は、驚くほど穏やかだった。
絶体絶命のこの状況にあって、この国の頂点に立つ男は少しも揺らいでいない。その絶対的な王としての器の大きさに、私は少しだけ心を落ち着かせることができた。
「はい、陛下」
陛下の存在そのものが、私にとって何よりの支えだった。
その頃、修道院の地下最深部。
レオンと彼の率いる精鋭部隊は、目の前の巨大な鋼鉄の扉と対峙していた。扉には、見たこともない複雑な古代ルーン文字がびっしりと刻まれ、不気味な紫色の魔力の光を放っている。
「隊長。これは強力な『魂縛の結界』です。物理的な破壊は、ほぼ不可能です。解呪を試みますが、おそらく数時間はかかります」
騎士団の主席魔法使いが、汗を滲ませながら報告した。
「数時間もかけてはいられない。敵に時間を与えすぎる」
レオンは静かにそう言うと、腰の剣に手をかけた。それは先日陛下から賜った指揮官用の長剣。ミカがその知識とスキルで最適化を施した、特別な一振りだ。
(ミカ……。君なら、この状況をどう切り抜ける?)
彼は目を閉じ、鮮明に彼女の姿を思い浮かべた。
凛とした声が、脳裏に響く。
『問題の本質を見極めるのです、レオン様。そして最も効率的な解決策を実行する。それだけですわ』
そうだ。彼女ならきっとそう言う。
この扉の問題の本質は、物理的な強度ではない。扉を守る魔法の結界だ。
ならば、壊すべきは扉ではなく、結界そのもの。
レオンはゆっくりと剣を抜いた。その白銀の刀身が、地下の薄暗い明かりを反射して妖しく輝く。
「総員、退避!」
レオンが低く、しかしよく通る声で命じた。
騎士たちが戸惑いながらも後方へと下がる。
一人、扉の前に立ったレオンは、大きく息を吸い込んだ。そして、全神経を剣の一点に集中させる。
ミカがこの剣に付与してくれた隠された能力。
『これは特別な力です』と、彼女は言った。『古代の魔道具にあった、魔法の構造そのものを強制的に解体する力。レオン様の魔力にだけ反応するように最適化してあります』
その真剣な瞳を、レオンは忘れていなかった。
その力を、今ここで解放する。
「おおおおおっ!」
雄叫びと共に、レオンの剣が閃光を放った。
それはもはや斬撃ではなかった。凝縮された魔力そのものが光の槍となって、鋼鉄の扉に突き刺さる。
キィィィィン!という、空気を引き裂くような甲高い悲鳴。
扉に刻まれた古代ルーン文字が恐慌をきたしたように明滅し、紫色の光が火花となって砕け散っていく。
そして次の瞬間。
ゴゴゴゴゴ……という地響きと共に、数百年誰も開けることのできなかった巨大な鋼鉄の扉が、内側から弾け飛ぶように崩壊した。
「な……隊長の一撃が、結界ごと扉を……!」
後方で見ていた騎士たちが、信じられないといった表情で声を上げた。彼らの目に映るレオンの背中は、もはやただの騎士団長ではなかった。伝説の英雄そのものだった。
舞い上がる粉塵の向こう側に、広大な空間が現れた。
壁一面に金銀財宝が山と積まれ、眩いばかりの光を放っている。噂に違わぬ莫大な富。
しかし、騎士たちはその財宝には目もくれなかった。
彼らの視線は、部屋の中央に立つ一人の人物に釘付けになっていたからだ。
黄金の輝きも宝石の煌めきも、その人物の前では色褪せて見えた。
部屋の中央に、まるで闇そのものが人の形をとったかのように、一人の男が静かに佇んでいた。黒い豪奢なローブを纏い、顔を純白の仮面で隠している。
「よくぞここまで来た。クラインハルトの忠実なる犬どもよ」
仮面の奥から、くぐもった、しかしどこか若々しく落ち着き払った声が響いた。
彼は騎士団の突然の突入にも、全く動じていない。むしろ、待ちわびていたかのように両手を広げてみせた。
「そして……」
彼の仮面の目が、ゆっくりとレオンを捉えた。
「貴様が、我が一族の『落ちこぼれ』を誑かし、道を誤らせた騎士団長か。礼を言わねばなるまい。あの子がこれほどまでに、我らの計画の障害となるとは、嬉しい誤算だった」
侮辱。
その一言が、レオンの冷静さの最後の糸を焼き切った。頭の中で何かが弾け、全身の血が沸騰するような灼熱の怒りがこみ上げる。
「貴様。彼女を侮辱することだけは許さん」
レオンの声が、怒りで低く震える。
「彼女は、お前たちのような闇に生きる者ではない。この国を未来へと導く光だ!」
「光、か」
仮面の男は、心底おかしそうに肩を揺らした。
「面白いことを言う。我らアッシュフォードがその光を守るために、どれほど深く暗い泥水を啜ってきたか。光の下で綺麗事を並べるだけの貴様らには分かるまい」
その言葉には二百年の怨念と、そして影に生きてきた者だけが持つ歪んだ誇りが滲んでいた。
「だが、まあいい。ゲームはもう終盤だ。長話は好かん」
仮面の男はそう言うと、ゆっくりとその仮面に手をかけた。
「最後に我が顔くらいは見せてやろう。それがこれから死にゆく者への、せめてもの情けだ」
そして、仮面が外される。
その下に現れた素顔。それを見たレオンと騎士たちは、絶句した。
そこに立っていたのは、老人でも屈強な男でもなかった。
驚くほどに整った顔立ちをした、一人の青年だった。年の頃は二十歳前後だろうか。陽光を知らぬかのような白い肌。そしてレオンと同じ、美しい銀色の髪。
その顔立ちは、どこかミカの面影を宿しているようにも見えた。
「俺の名は、ライナス・フォン・アッシュフォード。この国の影を統べる、正統なる当主だ」
青年――ライナスは、にやりと唇の端を吊り上げた。
それは天使のように美しく、悪魔のように残酷な笑みだった。長年待ち望んだ獲物を前にした、純粋な歓喜と嗜虐心に満ちている。
「さあ、始めようか。我が同胞を、そして我が愛しき妹を誑かした罪深き騎士よ。お前の絶望する顔が見たくて、仕方がなかった」
彼の瞳の奥に、狂気と、そしてレオンへの明確な敵意が燃え盛る。




