プロローグ
「まぁ、もう十分に生きた方だろ」
乾いた咽喉に小さな声を響かせ、男は満足そうに呟いた。
半世紀を生きることもなく自身の人生をそう締めくくる男は、以前を知っている者が見ればその変わりように驚かせるだろう。
筋肉質で瑞々しかった肌は痩せて渇き、爪の先は割れて、ベッドから出ている時間の方が珍しい身体になってしまっていたが、夜明けのような髪と燃えるように赤い瞳だけは曇ることがなかった。
「だらだら老いていくよりはサクッと死じまった方が......」
その赤い瞳が哀しむことなんてないと言うように見上げるなり、驚きの色に変わる。
「おま、泣くヤツがあるかよ。これでも引き延ばした方だ。それももう限界なんだよ。お前もわかってンだろ?」
まるでこどもをあやすような声色で、痩せた蒼白い指先が触れるのは褐色の肌。
巨漢と呼ぶに相応しい体躯の男が、目の前の痩せた男のために背中を丸めている。
その背を慰めながら、ゆっくりと褐色の輪郭を滑っていく。
だらりと垂れた黒髪を少し絡めてほどき、幾何学的な模様が刻まれたタトゥーに触れ、肩を掴んで項垂れた頭を起こして前を向けと話しかける。
赤い瞳に映ったその顔はあまりにも酷く歪んでいた。
金色の瞳からは未だ涙が溢れ続け、鼻水なのか唾液なのか涙なのかもうわからないほどの有様に、こどものように泣きじゃくる男を見て、これから独りで生きていくことができるのかを案じて赤い瞳が僅かに揺れる。
これ以上なんと声をかければよいのか思案しながら、タトゥーをなぞるように胸元まで指を滑らせる。
自身の胸元にもある全く同じデザインのタトゥーを眺め、これまでの旅路を想う。
物理的にも、精神的にも生命を引き伸ばす原因となったそのタトゥーに刻まれた意味は、二人だけが知るものとなった。
出会った時のことや、衝突を繰り返し、時には殺意を向けていたことを思い出せば、今のような関係になったことが不思議でならない。
そんな感傷に浸ってしまうのは、死期が近いからか、死が待っている己よりも派手に泣く目の前の男のせいか。
このままでは感情が引っ張られそうなので、褐色の濡れた頬を渇いた手のひらで包んだ。
「なぁ、ンダ」
泣き続ける男に呼びかける。
この男の名だ。
故郷では聞き慣れなかった響きの名前も、すっかり唇に馴染んだ後だ。
ンダと呼ばれた褐色の男はこれから告げられるであろう言葉を察してか、駄々をこねるこどものように首を横に振る。
「泣くな。泣いたってどうにもならねぇんだ。俺が死ぬのはもう変わらねぇ。だから、泣くな」
自分のことで泣いてくれるなと、諌め諭す。
「でも、ギアーク」
ンダは反論するように名前を呼ぶ。
もうじき訪れる死を覚悟した男の名だ。
「僕の、悲しい気持ちは変わらない」
ギアークは悲しむなとも言ってやりたかったが、感受性のやたら高いンダには難しい話だと舌の上に乗せた言葉を飲み込んだ。
なにぶん、そういった感情を割り切れない程の時間を共有してきたことはギアーク自身も理解していた。
「今はそうかもな。でも、お前は大丈夫だ。俺の死も乗り越えられるし、今の痛みだっていつか忘れられる」
だって、お前はそういう奴なんだから。
ギアークはわかっていて、そこまでは口にしない。
自身の死に感じた痛みを癒して、知りもしないどこぞの誰かと生きる道を選ぶことができる。
ンダはそういう男なのだと、ギアークはわかっていた。
認識の齟齬を正すとすれば、ギアークという男はこの世の全ての人間に対してそう思っている。
自らを産み落とした両親も、唯一の肉親だと思っていた兄に対しても、血の繋がった家族よりも長く伴に過ごしたンダであろうと、自分が与える死という痛みはとても浅いものであり、そしていつか忘れられるものだと当然のように認識している。
だから。
「だからよ、もうすぐ死んじまう俺が不安になるような顔、すんなよ」
その涙でずっと忘れられないでいられると自惚れるほどの確信を得られるわけでもなければ、いつか通過点のひとつになってしまうこの事象に謝罪すればよいのか、感謝すればよいのか、なんて言葉を並べたらよいのかわからなかった。
どうせ立ち直っちまうんだから、今泣く意味なんてねぇだろ。
本当はそう言い捨ててしまいたかったが、一度ナイーブな方に足を突っ込んだ時のンダのめんどくささを理解しているギアークは言葉を慎重に選ぶ。
なんでこいつは病人の俺にこんなに気を遣わせてるんだ、普通逆だろ、なんて思わないこともなかったが、こういうところがこいつの愛嬌なんだとギアークもまた受け入れて甘やかしていた。
ンダは未だに死そのものを認めていないようだが、ギアークの言葉を聞いて唇に力を入れ、なんとか涙を堪えようとする。
要望には応えようと努力する姿勢にギアークは口元が緩み、前髪を撫でつけた。
すると、落ち着いてきたンダがぽつりぽつりと言葉を紡ぎはじめた。
「僕は、ギアークが死んだ悲しみも痛みも忘れたくないし、乗り越えたくない」
ンダの吐露に、ギアークは唸る。
具体的かつ実用的な話をするのならば、そういった用途の魔法的拘束や契約に縛られるものを挙げるのだろうが、おそらくンダが言いたいことはそうじゃないと察することができる。
ギアークには本当に理解できない感情ではあるが、そういった強制的なものではなく、具体性なんて無いきもち的な話なのだろうと考察する。
そうなればお手上げなのだが。
それほどまでに今想って貰えるのは光栄なのだが。
人間のきもちというものに永遠など無いし、信じてもいない。
だからこそ、ンダの告白に対する答えを持ち合わせていないことにただ唸ることしか出来ないでいた。
「気持ちは嬉しいが、俺のことまでそんな抱え込まなくていいんだぞ」
答えがない時は、気休め程度の言葉を贈ることしか出来ない。
「だって、僕の人生の殆どはギアークがくれたものだから」
ああ、これは全く聞く耳を持たない時だな、と察したギアークは口を閉じる。
「今生きているのはギアークのおかげだし、この生命は全部ギアークのものだと思ってるから、僕はお前とオドを繋げて寿命を分けたんだよ」
ンダの分厚くて大きな褐色の手が、ンダの前髪を遊んでいたギアークの手を掴んでゆっくりと降ろしていく。
毛深い眉、男にしては長い睫毛が並ぶ目元、戦士の証だというタトゥーが彫られた頬、広い顎、そして太い筋肉が浮いて走る首筋。
「じゃあ、ギアークが死ぬ時は———」




