8.影の群れ、カラスの襲来
都市を出て三日目、三人の旅人たちは北西に向かって順調に進んでいた。天気も良く、道中に大きな障害もなかったため、彼らはゆったりとしたペースで旅を続けていた。
昼過ぎ、彼らは小さな森の中の開けた場所で休憩することにした。ライラは荷物から食料を取り出し、簡単な昼食の準備を始めた。ルナは少し離れた場所で周囲を警戒しながら、時折不安そうな表情を浮かべていた。
そして、マルジョンスは…
「よいしょ…よいしょ…」
彼は地面に座り、手の上にリンゴを置いて、それを浮かせようと必死に集中していた。目は細め、額には汗。しかし、リンゴはピクリとも動かない。
「…浮かべ!」
マルジョンスは力を込めて言ったが、リンゴは相変わらず彼の手の上に静かに乗っているだけだった。
「もう、全然うまくいかないなぁ」彼はため息をついた。
「当たり前でしょ」ライラは昼食の準備をしながら言った。「魔法の才能がない上に、基礎から教えてもらっていないんだから」
「でも、エルフの魔法って、自然と対話するんでしょ?」マルジョンスは首を傾げた。「『リンゴさん、浮いてください』って言ってるのに…」
「それは違うわ」ライラは呆れた表情で言った。「そんな簡単なものじゃないのよ」
「難しいねぇ」マルジョンスはリンゴを空中に投げ上げ、キャッチした。「まあ、そのうちできるようになるよ。俺、勇者だし」
彼はルナの方を見た。少女は相変わらず不安そうな表情で、尻尾が落ち着きなく揺れていた。
「ねえ、ルナちゃん」マルジョンスは声をかけた。「ずっと心配そうだけど、大丈夫?」
「え?あ、うん…」ルナは小さく答えた。「でも、この先…魔王軍の領域に近づいていくから…」
「そっか」マルジョンスは頷いた。「でも心配しなくていいよ。もし危なくなったら…」
彼はニヤリと笑った。
「君を盾にして、俺とライラちゃんは逃げるから」
「えっ!?」ルナは驚いて目を見開いた。
「冗談だよ、冗談」マルジョンスは笑いながら手を振った。
ライラはマルジョンスの頭を軽く叩いた。
「そんなことを言うもんじゃないわ!」彼女は怒った表情で言った。「もしそんなことをしたら、次は私があなたを盾にするわよ」
「痛い痛い!」マルジョンスは頭を抱えた。「ごめん、冗談だってば…」
ルナは二人のやり取りを見て、少し緊張が和らいだようだった。小さく笑い、尻尾を振った。
「ありがとう…でも、本当に危ないから…」
その時、彼女の言葉は突然途切れた。ルナの狼の耳がピンと立ち、彼女の体は一瞬で緊張した。彼女の目が大きく見開かれ、尻尾の毛が逆立った。
「ルナちゃん?」マルジョンスは不思議そうに彼女を見た。
ルナは空を見上げ、ぶるぶると震え始めた。
「カ…カラス…」
マルジョンスとライラも空を見上げた。確かに、一羽の黒いカラスが彼らの上空を旋回していた。
「カラス?」マルジョンスは首を傾げた。「別に珍しくないじゃん…」
「違う…」ルナの声は震えていた。「あれは…魔王軍の…」
カラスは突然、不自然な鳴き声を上げた。それは通常のカラスの鳴き声ではなく、どこか金属的で、不気味なものだった。次の瞬間、カラスの体が黒い羽毛のように分解し始め、その羽毛が周囲に散らばった。
「なっ!?」マルジョンスは驚いて立ち上がった。
散らばった羽毛は地面に落ちると、それぞれが膨張し始め、新たな形を形成し始めた。気がつくと、周囲には十数体の奇妙な生き物が現れていた。それらは人間のような二足歩行の姿だったが、頭はカラスのようであり、腕の代わりに黒い翼を持っていた。
「カラス怪物…!」ライラは弓を構えた。
「みんな、気をつけて!」マルジョンスは光剣を抜いた。
カラス怪物たちは不気味な鳴き声を上げながら、三人に向かって一斉に襲いかかってきた。
「くそっ!」マルジョンスは剣を振るい、一体を真っ二つに切り裂いた。「思ったより弱いな!」
ライラも弓で何体かを射抜き、ルナも小さなナイフを手に戦っていた。確かに、カラス怪物たちは一撃で倒れる弱さだった。
「なんだ、これなら楽勝じゃ…」
マルジョンスの言葉が途切れたところで、彼が倒したはずのカラス怪物が再び黒い羽毛に分解し、元の姿に戻りつつあった。ライラとルナが倒した怪物たちも同様に復活し始めていた。
「な、なんだ!?」マルジョンスは驚いた。
「言おうとしたのに!」ルナが叫んだ。「カラス怪物は影の怪物なの!倒してもすぐに復活するの!」
「え!?なんでもっと早く言わないんだよ!」マルジョンスは怒鳴り返した。
「言おうとしたのに、あなたがすぐに切りかかったからでしょ!」ルナの目には涙が浮かんでいた。「説明する隙もなかったよ!」
「そ、それは…」マルジョンスは言い返せなかった。
「二人とも、喧嘩している場合じゃないわ!」ライラが二人の間に入った。「どうすれば倒せるの、ルナ?」
ルナは涙を拭いながら答えた。
「本体を倒さないと…これらは全部、本体から作られた影だから…」
「本体?」マルジョンスは周りを見回した。「どこにいるんだ?」
「近くにいるはず…」ルナは説明した。「カラス怪物の本体は通常、安全な場所から影を操っているの。たぶん、このあたりのどこかに…」
「なるほど」ライラは冷静に頷いた。「じゃあ、私はここで影を引きつけておくわ。マルジョンス、あなたとルナで本体を探して」
「えっ、俺?」マルジョンスは驚いた表情を見せた。「いや、俺はここで戦いたいな。影とはいえ、斬るの楽しいし」
「マルジョンス!」ライラの声には怒りが含まれていた。
「だったら、ルナちゃん一人で行けばいいじゃん」マルジョンスは軽く言った。「獣人だから、嗅覚や聴覚もいいんでしょ?一人でも大丈夫でしょ」
「え…?」ルナは不安そうな表情を浮かべた。
「だって、本体なんて探すの面倒くさいし」マルジョンスは肩をすくめた。「戦いたいなら、ここに残る方が効率いいじゃん」
ルナの目に涙が浮かび始めた。
「わ、分かった…私、一人で行くよ…」
彼女は尻尾を下げ、一人で森の方へと走り出した。
「ルナちゃん!」ライラは彼女を呼び止めようとしたが、ルナはすでに森の中に消えていた。
ライラはマルジョンスを鋭い目で睨みつけた。
「あなたって本当に…!どうしてそんなことを!?」
マルジョンスは彼女に背を向け、カラスモンスターたちと戦い続けていた。
「任せとけって」彼は小声で言った。「ちょっと見てくるから」
そう言うと、彼は突然、森の方へと走り出した。
「え!?マルジョンス!?」
ライラの声を背に、マルジョンスはルナの後を追った。彼は木々の陰に隠れながら、ルナを見失わないように慎重に進んでいく。
「ルナちゃん、大丈夫かな…」彼は小さく呟いた。
ルナは森の中を進み、時折立ち止まっては辺りの気配を探っていた。彼女の耳はピンと立ち、尻尾は緊張して硬くなっていた。
「どこ…?」彼女は小さく呟いた。
突然、彼女の耳がピクリと動いた。彼女は一本の大きな木を見上げた。
「あそこ…?」
ルナは木に手をかけ、器用に登り始めた。マルジョンスは少し離れた場所から、彼女の動きを見守っていた。
ルナは枝を伝い、高い所へと登っていく。やがて、彼女は何かを見つけたようで、動きが止まった。彼女の体が緊張しているのが見て取れた。
マルジョンスも別の木に登り、状況を確認した。
木の上の方に、黒い塊のようなものが見えた。それは人間のような上半身に、カラスの頭を持つ生物だった。下半身は木の枝と一体化しているようで、まるで木の一部のようだった。その目は赤く光り、辺りを見回していた。
「カラスモンスターの本体か…」マルジョンスは小声で言った。
ルナは恐る恐る近づき、ナイフを構えた。しかし、彼女の手は震えており、表情には恐怖が浮かんでいた。
「私にできるかな…」彼女は小さく呟いた。
彼女がモンスターに近づいた瞬間、何かの物音がした。モンスターは彼女に気づき、鋭い金属音のような鳴き声を上げた。
「ひっ!」ルナは驚いて後ずさり、バランスを崩した。「きゃっ!」
彼女は枝から滑り落ち、落下しそうになった。何とか別の枝につかまったものの、今度はモンスターが彼女に向かって襲いかかってきた。
「来ないで!」ルナは恐怖で叫んだ。
その時、モンスターの背後から突然、光の筋が走った。
「うおりゃあ!」
マルジョンスの声と共に、光剣がモンスターの背中を貫いた。モンスターは鋭い悲鳴を上げ、黒い液体のようなものを噴き出した。
「マルジョンス!?」ルナは驚いた声を上げた。
「よう、ルナちゃん」マルジョンスはニヤリと笑った。「助太刀に来たよ」
「でも、どうして…?」
「まあ、あんまり長い話はやめておこう」マルジョンスはモンスターから剣を引き抜いた。「こいつ、まだ生きてるみたいだし」
確かに、モンスターはまだ完全に倒れてはいなかった。それは最後の力を振り絞り、翼のような腕でマルジョンスを攻撃しようとした。
「甘いね!」マルジョンスは身をかわし、再び剣を振り下ろした。「これで終わりだ!」
光剣がモンスターの首を切り落とし、それは鋭い悲鳴と共に黒い煙となって消えていった。同時に、遠くからカラスモンスターたちの悲鳴のような声が聞こえてきた。
「やったね…」ルナは安堵の表情を見せた。「でも、なんで来てくれたの?ここで戦いたいって言ったのに…」
「まあね」マルジョンスは少し照れた様子で言った。「一人で行かせるのはちょっと心配だったし」
「でも、さっきは…」
「あれは演技だよ」マルジョンスはウインクした。「君が一人で行く振りをして、俺がこっそり後をつけるってシナリオ。映画みたいでしょ?」
「もう…」ルナの目に涙が浮かんだ。「怖かったのに…」
「ごめんごめん」マルジョンスは彼女の頭を優しく撫でた。「でも、泣き虫だなぁ、君は」
「泣き虫じゃないもん!」ルナは頬を膨らませた。「ただ…ちょっと心配だっただけ…」
「はいはい」マルジョンスは笑った。「さあ、ライラちゃんのところに戻ろう。心配してるだろうし」
二人は木から降り、急いで元の場所へと戻った。しかし、そこにライラの姿はなかった。周りに倒れていたカラスモンスターたちは、全て黒い煙となって消えていたが、ライラ自身が見当たらなかった。
「ライラちゃん?」マルジョンスは周りを見回した。
「どこ…?」ルナも不安そうに辺りを探した。
二人はお互いを見つめ、同じ不安を共有した。
「ライラちゃんが消えた…」マルジョンスの表情が真剣になった。
辺りには戦いの痕跡があったが、ライラがどこへ行ったのかを示す手がかりはなかった。ただ、地面には何か黒い羽毛のようなものが散らばっていた。
「これは…」ルナは羽毛を手に取り、震える声で言った。「カラスモンスターの…」
「まさか…」マルジョンスの顔から血の気が引いた。
「ライラちゃんが連れ去られたのかな…」マルジョンスは真剣な表情で言った。
「きっと魔王軍が…」ルナの声は震えていた。「私のせいだ…私が一緒に来なければ…」
「違うよ」マルジョンスはルナの肩に手を置いた。「誰のせいでもない。それに、ライラちゃんは強いから、きっと無事だよ」
「でも…」
「今は冷静になろう」マルジョンスは周囲を見回した。「何か手がかりはないか…」
二人は周辺を探し回ったが、ライラがどこへ連れて行かれたのかを示す明確な痕跡は見つからなかった。しかし、黒い羽毛は北の方角に向かって散らばっているように見えた。
「北か…」マルジョンスは呟いた。「ルナちゃんの村も北にあるよね」
「うん…」ルナは小さく頷いた。「もしかしたら、同じ方向かも…」
「よし、決めた」マルジョンスは立ち上がった。「俺たちはこのまま北へ向かう。ルナちゃんの村も救いつつ、ライラちゃんも探す」
「でも、二人だけで大丈夫かな…」ルナは不安そうに尻尾を下げた。
「大丈夫だって」マルジョンスは明るく笑った。「俺は勇者だし、ルナちゃんは…」
「泣き虫?」ルナは自嘲気味に言った。
「違うよ」マルジョンスは優しく彼女の頭を撫でた。「勇敢な狼少女だ。一人で本体を探しに行こうとしたじゃん」
ルナの頬が少し赤くなり、尻尾が小さく揺れた。
「うん…ありがとう」
二人は荷物をまとめ、北へと進む準備を始めた。ライラの荷物も大事に持ち、必ず彼女を見つけ出すという決意を新たにした。
「待ってて、ライラちゃん」マルジョンスは空を見上げた。「必ず助けに行くから」
遠くの木の上では、別のカラスが彼らの姿を見つめていた。それは普通のカラスとは明らかに違い、赤い目が不気味に光っていた。カラスは静かに飛び立ち、北の方角へと飛んでいった。