医師・2~死神 (1)
たったったったったった…っ。
これは、足音である。
恐らく、走っている。
こちらに向かって。
椅子に座って、寝ているように目を閉じていた白衣の男が、ゆっくりと瞼を上げた。
患者さんでしょうか。
扉の前を素通りするということもあってくれたら、自分としては好ましいことだと男は思う。
医者というものは、居なければ居ない方がいいのだ。
「だけど、多分、彼はここに来るのだと思います」
男の隣に立っていた、天使が云う。
真っ白い衣に身を包んでいる。そして翼が生えている。
絵に描いたような天使が立っている。
絵に描いたような格好をしていた方が、人に対して認識をさせやすいからだろう。
男は、首をそちらに向けて彼女の顔(性があるのかどうかは知らないが、顔と体つきで云えば、彼女だった)を見、苦笑しながら頷いた。
「そうでしょうねぇ」
患者以外が、ここへ向かう筈がないのだ。
患者本人に自覚は無くても、患者以外がここへ向かってくることはない。
天使は苦々しく眉を寄せ、「治療なんか、して欲しくないです」と呟く。
「もう少し、時間を置いて欲しい。罰は、もっと与えられるべきです」
「発狂するほどの時間を?」
男は相変わらず苦笑を浮かべる。
「それが患者ならば、私は治療しなくてはならないと思うんですけど、医師だから」
「それは分かっています。患者以外が、ここに招かれることはないのだし」
「招くとは少々、おかしな云い方ですね」
「……発狂して、地獄に落ちればいい…」
「天使の云うことじゃないですよ」
医師が云う。
「どうせ、地獄なんか無いんだから、あり得ない望みなんか云うんじゃありません」
「だから、もう少し長く、罰を受ければいい」
「相変わらず天使の云うことじゃない」
「天使だからです」
「そうなんですか?」
「天使は、人間がそんなに好きじゃない」
男が苦笑する。
「好きだから厳しいというのではない?」
「嫌いではいられませんけどね」
今度は天使が苦笑する。
「彼ほどには、人間を愛してません」
天使が、男を挟んで向かいに立っている黒衣の者を眺めて云う。(天使が「彼」と云うということは、こちらには性別があるらしい)
男は、天使と反対側に立っている黒衣の者を見上げた。
大きな鎌を肩にかついだ、絵に描いたような死神も、肩を竦めて苦笑した。
「人間を、より愛している方が、死神になるんですもの」
天使が云う。
「嫌われるだけなのに」
医師が笑う。
「愛し合えたら、時は止まる」
独り言のように死神は云う。
「今からここにやってくる患者さんは」
医師が云う。
「かりそめの永遠だ」
死神が医師の言葉尻を追いかける。
「彼は私を愛していないからね」
少し寂しそうに笑う死神。
「それに、あなただって、彼一人を愛してはいないものね。何せ、死神の中の死神だもの。あなたは人を愛しているのであって、ただ一人を愛することと愛されることは出来そうにない」
天使が少し、皮肉めいた声で死神に云った。
医師は、これからやってくる患者は男性らしい、と思った。
かちゃり、と遠くで扉の開く音が聞こえる。
「来たようですね、あなたの恋敵が?」
医師が、天使に向かって云う。
天使が首を傾げて、「恋敵って変な云い方」と頬を膨らませた。
「やあ、こんにちわ」
土間に立っていた若者に、白衣の男が微笑を浮かべて云う。
「何か御用ですか? 診察?」
「……」
若者は何も云わない。
額と頬に玉の汗が浮かんでいる。ただ走ってきたからとは思えない、顔色が良くない。
はあはあと、ただ息を乱して、何も云わない。
薄汚れたジーンズとTシャツを身につけた若者…、少年というにはトウがいっているように見える、青年と云うには(その言葉の印象から)爽やかさが足りない男性だ。
土間から一段高い板の間に立っている男から見ると、頭一つ分背が低い。
多分、自分と同じくらいか、ちょっとだけ低いくらいの背丈だろうと、白衣の男は思う。
死神よりは低い。天使よりは高い。
「ここに御用ではないんでしょうか?」
「ここは」
「はい」
「病院か」
「まあ、医者が居ますから」
白衣の男が、肩を竦める。
「……」
若者は、どうしていいのか分からない、という顔をしている。
暗く険しい顔つきに、戸惑いという表情が浮かぶ。
「ここに用は無い?」
「何でここに居るのか分からない…」
「道に迷ったんですか」
「さあ、どこに行ったらいいのか分からないし…」
声まで戸惑いがちである。
「では、ここ以外に用がある訳でもありませんね。お茶でも飲んで行きませんか」
「……」
「あなた、随分走っていたようですから、一休みしに来たんでしょうよ」
白衣の男はそう云って、くるりと背を向け「土足で構いませんよ」と云う。
そして真直ぐに伸びている廊下を歩いていく。
途中立ち止まり、左の壁を指して、「ここに入って待っててください」
と云った。
若者は、戸惑った表情のまま、板の間に足を下ろした。
若者は白衣の男が指差した扉を開けて、中に入った。
机と椅子がある。椅子は二つ。机に向かって背もたれと肘掛のあるもの、もう一つはそれらが無い円座の。医者が座るほう、患者が座るほう、どちらがどちらかすぐに分かる。
白い布を張ったついたてもある。診察室なのだろうか、と思う。
病院というのは、白…青白い、という印象があったのだが、ここは、木造だったからだろうか、何となくセピアがかった風景に見える。
自分以外に、誰も居ない。
立ち尽くしていると、時が止まったように思える。
時が止まった……
最初ノスタルジィを感じて、次には恐怖を覚え、若者は、ブルリと身を震わせると自分の肩を掴んだ。
カチャリ。
ぴく、と若者は背を強張らせ、振り向く。
扉が開いて、さっきの男が入ってきた。
「どうぞ、そちらの椅子にかけてください?」
円い方を指して、医師が云う。
患者が座るほうの椅子だ。
若者が座り、医師は机に盆を置いて、もう一つの医者が座るほうの椅子に座った。
盆の上のカップを一つ取り、若者に渡す。
中身はコーヒーである。
濃い茶色。
「お砂糖とミルクは必要ですか」
「要らない…」
「そうですか」
頷いて、医師は自分のカップを取り、ずずず、と啜った。
それを見て、倣うように若者が啜る。
医師は肘掛に肘をかけ、カップを両手で掴み、脚を組んで若者を見た。
「お茶まで出さなくったっていいのに」
医師の隣に立っていた天使が不貞腐れた声で云う。
「お茶じゃないよ、コーヒーだ」
同じく、天使とは反対側で医師の脇に立っていた死神が云う。
「同じです」
「いいじゃないか、別に。この医者はいつもこうだ」
「私達には無かったわ」
「だって、患者じゃないだろう、私達は」
ということは、やっぱり若者は患者なのだ。
医師は、やれやれ…と息を吐く。
医者と云うのは本来、患者を生かす仕事をするのであって、死なせてあげるために居るのじゃないのだが。
「でも、患者を『助ける』という表現をしたらば、おまえも立派な医者だぞ」
と死神が云った。
「おまえは立派な死神になれるぞ」
などとも。
それは無理だろう、この医師は、この死神ほど、別に人間を愛してはいなかったので。




