医師
きぃいぃ…。
おや、久々の患者さんでしょうか。
それとも道に迷って途方にくれた通りすがりの方でしょうか。
まあ、それはどちらも正解だったりするのかもしれませんが。
玄関の方から微かにドアの軋む音。
それを聴いて、白衣の男は眠っていたようだった目を開けて、微かに、苦笑らしきものを漏らした。
「こんにちわ」
白衣の男が、玄関に出てきて、土間に突っ立っていた者に声を掛ける。
にっこり笑って、どうぞ、と促した。
「上がってください? それとも、こちらに御用ではないのでしょうか?」
「分かりません」
立っていた者は、途方にくれた顔をして、白衣の男の目を、縋るように見ていた。
「御用があるのか無いのか、分からない?」
「はい」
「では、こちら以外に御用がありますか?」
「分かりません」
「では、やはりどうぞ? お時間はあるということでしょう。どうぞ、上がってお茶でも飲みませんか」
す、と道を空けるように、彼は体を横向けて、促すように、腕を廊下の奥のほうへ上げた。
やってきた者は、戸惑った顔をしたものの、
「はい」
と頷く。
「土足のままで構いませんので」
と白衣の男が声を掛け、土間に立っていた者が「恐れ入ります」と頭を下げ、廊下に立った。
そこは、診察室、なのだろうか。
窓の近くに机があり、それに向かって椅子が一つ。
その椅子の近くに、やはり椅子が一つ。
白衣の男がそこに通し、どうぞそちらへおかけください、と向かい合っている椅子の片方を指す。
やはり、恐れ入ります、とやってきた者が云って、椅子に腰掛けた。
「少々お待ちください」と白衣の男が云って、部屋の中にあるドアの中に消え、しばらくして、お盆を手にして戻ってきた。
やってきた者の見た目からだろうか、湯呑み茶碗に緑茶である。
机の上に置いて、片方の茶碗をやってきた者に渡した。
「どうぞ」
と云いながら茶碗を渡し、白衣の男は机に向かっている椅子に、やって来た者に向かって座った。
ずずず、と啜り、やってきた者が躊躇いがちにやはり啜ったのを見届けてから、白衣の男は
「さて」
「あなたのお名前は?」
「分かりません」
「そうですか。では、性別は女性と思ってよろしいでしょうか」
「はい、恐らく」
自分の胸元を見て、頷く。
医師の目の前に座っている者の胸には、豊かなふくらみがあった。
和服の場合、その膨らみはしょうしょう、目立ちにくいものであるが、それでも、彼女の乳房に張りがあることは分かった。
女が頷いた瞬間、ぴちゃん、と湯呑みの中に雫が落ちた。
「では、私が何者かは分かるでしょうか」
医師が訊く。
「お医者様だとお見受けしますが」
女は、躊躇いがちに云った。
「ここは病院では」
「はい、そうです」
医師が頷いてから云った。
「しかし、ここに来る気で来る人は余り居ないんですけど」
医師が女に苦笑を投げる。
女は、戸惑った様子で、「はあ」と曖昧に頷いた。
「では、あなたは何でしょう」
「……」
女は、口をつぐんで、困ったように首を傾げた。
「さあ、何なのでしょう」
「道に迷った方が、道を訊きに来ることもあるのですよね。…あなたは、そうなんですか?」
「……」
女は、さあ、と首を傾げた。
「道に迷うというのは、目的地が分かってる場合の表現ではありませんか、お医者様」
「はい、そうですね」
「だから、私は自分がどうなのだか分かりません」
「そうですか」
医師は、素直に頷いて、ずずず、と茶を啜った。
「道に迷った患者さんであることもあるのですけどね」
「……私は、あなたの患者に見えますか」
「分かりません」
「私も分かりません」
女はそう云って俯き、湯呑みの中を覗いた。
ぴちょん。
雫が落ちる。
「…入れなおしましょうか?」
医師が訊く。
「結構です」
赤い雫が、緑茶の中に落ちて、ゆらり…とマーブル模様を描いていた。
それを女は、一口飲んだ。
「お医者様は、何が専門なのです」
女が訊く。
「さて」
医師は平然とした顔で、首を傾げた。
「専門も何も…。患者さんが治療して欲しいと云えば何だって」
医師はそんなことを嘯き、女は苦笑した。
「もぐりかやぶ、どちらが良いですか、呼ばれるとすれば」
「辛辣ですね」
医師も苦笑を返す。
「あなたは患者さんなんですかね」
医師が云う。
「普通のお医者様なら、こんな私を見て、慌てて治療して当たり前ではないですか」
「あなたがどんなですって?」
女は、額からたらたらと、血を流していた。
いくつもの赤い筋が、頬へ、額へ…伝っている。
「だって、あなたが患者さんなのかどうか、私にはわかりませんもの」
医師が云う。
「だから、専門は何かと訊いたのです」
女が云う。
「少なくとも、外科ではないのかと…」
「あなた、外科治療して欲しいんですか」
「……」
「人を」
「はい」
「殺したんです」
女が云う。
「人を殺したんです」
もう一度云う。
淡々とした声で、しかし、どこか愛惜に満ちた声で。
医師が首を振る。
「違うでしょう」
「はい?」
「人を殺したんじゃないでしょう。あなた、人を食べたでしょう」
医師が、やはり淡々とした声で、平然とした声で云う。
女は苦笑した。くす…と声を漏らして。
「はい」
「あのね、人が牛の肉を食べる時に、牛を殺した、なんて云います? あなた、人を殺したんじゃなくて食べたんでしょ?」
「はい。…もしかして、私のような患者を、お医者様は診たことがあるのです?」
「さあ」
医師は、微かに笑って首を傾げた。
明言を避けている、といった風情だった。
「お医者様は、精神科医?」
「だから、専門なんか分かりません」
「……私、狂人なんでしょうか」
「さあ」
医者は、茶を啜った。
「私、とても、彼のことが好きだったんです」
「はい」
「ひとつに、なりたかったのです」
「ええ」
「肌を合わせても、…所詮は、私とあの人という、ふたつだったから」
「ええ。だから、食べたんですね?」
「はい」
「分かってるのなら、何故、私のところへ来ました」
「……それが、まるで良くないことのように思われたからかと」
治療が必要な者のように、自分が思われたからかもしれません。
「少なくとも私は、人を捨てました」
「何故そう思います」
「だってほら」
ぴちょん。
湯呑みの中に、赤いマーブル模様が出来る。
女の額から落ちた血で。
正確には、額ではなくて。
長い髪の、生え際辺りから、
2本、何かが見える。
皮膚を破って、尖った
「私は鬼です」
女が云う。
「そうですか」
医師が頷く。
「ご自分でそう思われるのならそうでしょう」
「お医者様は、そうお思いにはならないのですか」
「私がどう思ったって、あなた知ったことじゃないでしょう」
素っ気無い声で云う。
「……」
女は口をつぐむ。
「どうします? 私は何をしましょう? 傷を塞いで『それ』を削れというなら、やってあげますよ。私は医者ですから」
「……私、あの人を殺して食べました」
「はい、それはもう聞きました」
「私は、どうしたらいいのでしょう」
医師は、初めて、少し眉を寄せた。
「知りません、私は」
そして、そう云った。
「お医者様、道に迷った者が道を尋ねに来ることもあると云ったじゃないですか」
女が、少し責めるような声で云う。
「目的地が分かっている場合に、道に迷った、と云う、と云ったのはあなたですよ?」
医師は平然と云う。
「目的地を、知りたい」
独り言のように、女が呟く。
「そんなことは自分で決めてください」
「……私は、良くないことをしたんですか」
女が呟く。
医師はまた、「そんなことは私は知りません」と云う。
「美味しかったですか?」
医師が静かに訊く。
女は
女は、医師の言葉に、は、と顔を上げて、
小さな声で
しかしはっきりと
「ええ」
と肯いた。
女は、マーブル模様が消えて、真っ赤になった湯呑みの中身を飲み干して、微かに笑った。
「もう一杯、いかがですか」
と医師が訊く。
いいえ、と女は首を振った。
「私の血」
独り言を呟く。
「あの人が融けた、私の血」
もう一度、飲んだ。
「美味しかったですか」
医師が訊く。
もう一度女は
「はい」
と頷いた。
「それは良かった」
「私、本当は」
女が呟く。
「別に、あの人を食べなくても良かったんです」
「はい」
「私を、あの人が食べてくれるのでも、良かったの」
「そうでしょうとも…」
「美味しかったのなら、良かったじゃないですか」
医師が云う。
「他にもう、何も、要らないくらいに、美味しかったんです。お医者様」
女は、血まみれの顔で、晴れ晴れと笑って頷いた。
玄関で、医師が女に云う。
「あなたは、鬼になったんじゃなくてね」
「はい」
「そうだったんです」
「はい、そうだと思います」
「餓鬼」
「はい」
だからきっと、飢えて死ぬのでしょう、私は。
角の生えた女は、そう云って笑った。
「最後にとても美味しいものを食べたから、それで当たり前なのです」
それではお大事に。
医師が云って、扉を閉めた。
腐った肉の匂いがする。
それに被さっている干からびた死体には、角がある。
白衣の男は、湯呑みを片付けながらそんな幻を見た。
女が使った湯呑みの底に、うっすら残っている液体を舐めてみる。
「そんなに美味しいものではない」
と呟く。
時々居るんですよ、ああいう食欲過多の患者さん…。
「美味しかったですか」
という私の問いに、「いいえ」と答える人は稀です。
それが私はとても羨ましい。
そんな美味しいもの、私は食べたことが無いですから。
2002.8.12




