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青年が追い出されただけなのに、室内の雰囲気が一変した。
非難、軽蔑、嫌悪、その類は一切ない。しかしこのベッドで寝ているだけの自分に、どうしてか居心地の悪さを感じる。
肌触りの悪いシーツや、天井のシミの数を無駄に数えようと意識する。
「うるさい奴がいなくなったね。」先生の声は、わたしの心に反して穏やかだ。
「ごめんね、触るよ。痛くないようにするから。」
数歩分の距離を、コツコツと心地のいい靴音が縮めた。さっきまでは視覚も朧げで、あんまり姿を認識できていなかった。しかし認識しろと言わんばかりの距離には、彫刻のように浮かび上がった鎖骨、滑らかな輪郭、乾燥なんて知らない唇。まだわずかにぼやけた視界でも、はっきりとわかった。
無骨で大きな手だが、動作は丁寧で優しい。背中に差し込まれた腕が、わたしの上肢を持ち上げる。
ほうけていたら、背中に柔らかい物が差し込まれた。見つめあっていた天井と、シミを数えきることなく、お別れなった。
「痛くはなさそうだね。この姿勢のほうが、話しやすいし、楽だろう?」
今度は数歩遠ざかり、椅子を足で引き寄せる。ただの椅子に座っているだけなのに、恵まれた体躯と、美しいすぎる顔。美しすぎると、実力不足に感じる椅子でさえ座られただけで、芸術品に進化させてしまうのか。
いつの間にか、居心地の悪さは消え、目の前の人間に魅入られた。視線に遠慮を忘れていると、小さな咳払いが聞こえ「ちょっと見つめすぎかな。」と視線を制止された。
「えっと、まあ、そうだ。自己紹介がまだだったね。今更だけれど、僕はロンだ。」
自己紹介をしてもらっても、わたしは自己紹介できない。声も出にくいから、質問や返事はできない。とりあえず会釈をしておこう。
それにいま自分に必要なのは、自己紹介ではなく“自分に関する他己紹介”じゃないかと思う。
「僕の名前は、そんなのだったくらいに覚えていて。声はまだ出にくいんだよね?」
首を縦に振る。「僕が一方的に話すのはな―」先生は途中まで言葉にして、どうしたものかと考え込む。
上肢を起こしてもらい、息がしやすいなったように感じる。余裕が生まれたからか、部屋をさっと見通す。
部屋には大きな窓があり、そこからは肌触りの良い風と、日差しが床に伸びていた。
目の前の人が医師なのは確信できるが、どうもここが病院だとは思えない。それだというには、あまりにも普通すぎる気がする。
わたしも聞きたいことがあるが、声が出ないのなら難しい。声だけでなく、腕どころか指も動かせそうにない。
ハッと何か思いついた顔をして「エリアノートってわかるかな?」と問われた内容は、まるで珍紛漢紛。
「そうか、そこの知識も抜け落ちてるんだね。エリアノートは、このことだよ。」
言葉と同時に、目の前の空間には『僕の名前はロンだよ。見えていたら、首を小さくでも振ってみて。』そう表示された。急なことに、驚きすぎて目を擦りたくなった。まあ腕が動かないから、擦れないんだけれども。書いていた通りに、首をわずかに振った。
「よかった、見えてるね。これがエリアノートなんだけど、君も多分使えると思うんだ。診察したときに、残ってたいるのが確認できたから。使い方を教えるから、言われた通りにしてみて。」