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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

執事の家に転生しました。ご主人様ができました。捨てられました。今ここです

作者: 橘中の楽

見ていただきありがとうございます。

(ちゅう) 阿誠(あせい)。お前はもう来なくていい」


2つ下の俺のご主人様が、英字新聞をつまらなそうにめくりながら言った。

麗しい指先にささくれができている。後でハンドクリームをお持ちしなくてはーーーそんな呑気なことを考えていた朝だった。

ご主人様の言葉は、俺の心の臓を貫き、一瞬で石に変えた。


手元が狂い、カップに注ごうとしていた熱湯が白い手袋をした右手に降り注いだ。

焼き付くような痛みで意識が覚醒する。手袋を外さないと。


「聞こえたでしょう?忠さん…10年間、ご苦労様でした♡」


仕事仲間だと思っていた彼女の大きな瞳に浮かぶ憎悪の感情を見てーーー俺は悟った。

嵌められたのだと。

思い当たる節はいくつもあった。

身に覚えのないことで何度も叱責された。

涙を浮かべる彼女にご主人様の前で謝罪させられたこともあった。

でも、気にしてられなかった。

執事長に目をかけられるようになって、屋敷全体に関わる仕事が増えた。

元来不器用な質だ。

与えられた仕事を精一杯やってーーー日に日に冷たくなっていくご主人様の視線に気づいたって、夜の自室で絶望することしかできなかった。


それでもーーー信じていたのだ。

馬鹿みたいに信じていた。俺はずっとご主人様のそばで仕え続けられるのだと。


「阿誠、聞いてるか?お前は希望通り当主の元へ行っていいーーーおい、顔を上げろ」


手が死ぬほど痛くても、涙腺がぶっ壊れたみたいに涙で頬が冷たくなっていても、俺は音を立てなかった。

父の教えで、ご主人様の前では機械でいろと言われていた。

間違っても感情をあらわにしてはいけないとわかっていた。

だからーーーやめて。


「おい、顔を上げろって…は!?」


俯いたって、どうしても2歳分の身長差のあるご主人様と俺。

小さい彼に覗き込まれてしまえば、絶望しながら音もなく泣いている俺の顔が視界いっぱいに曝け出されるわけである。


「え、お前なんで泣いてーーー」


ご主人様だけでなく俺のことが大嫌いなはずの女まで絶句していた。

同僚たちから「アンドロイド」なんて裏で揶揄されているのは知っている。

俺は慌ててハンカチで目を擦った。右手を使ってしまったせいで、呻き声をあげてしまう。

最悪だ。ご主人様の前で醜態を見せるし、不注意で火傷もするしーーー


あ、でももう、俺は関係ないのか。

醜態を見せようが、どうでもいいのだ。

だって、捨てられたのだから。

やばい、考えるとまた涙腺が…


「というかその右手どうした!?」


いまだに湯気の立っている手袋に触れようとしてくるものだから、慌てて手を引っ込める。

そして、もう一度顔を拭った。必死に笑顔を浮かべる。


「ご命令、承服(しょうふく)いたしました。…お側にはいられませんが、ご主人様の健やかなご成長を祈っております」


ぽかんとしたご主人様の艶やかな黒髪を撫でてやりたくてーーーそんな不敬なことをできるような間柄ではなくなったのだと、自分を戒める。

…小さい頃は、本当にお可愛らしかった。「阿誠、撫でて?」と頭を押し付けてくるこの方を守るためなら命でもなんでも捨ててやると誓ったものだ。


俺はご主人様に最敬礼をした。

今日中に屋敷を出ていくのは俺にとっては決定事項だったから最後の挨拶のつもりだ。

いまだに惚けているご主人様。最近はいつもすました顔ばかりだったから、珍しいなと思った。

俺は内心苦笑しつつーーー断腸の思いでご主人様から視線を外し、「こんなつもりじゃなかった」とでも言いたげな女に近づく。


びくりと後ずさった彼女にーーー少し迷ったが、膝をついて視線を合わせる。


「私の引き出しの2段目にこれまでの仕事日誌が入っています。ーーー役に立ててください」


目の端が赤い自覚はあったが、気合で笑みを浮かべてやれば…ようやく彼女の顔に罪悪感が浮かんだ。

少し安心する。俺に向けられるのはどうでもいいがーーー歪んだ愛はご主人様の害になる。


野生の猫を撫でるつもりでそっと手を差し出しーーー逃げられなかったので、ゆっくりと頭を撫でた。俺にとっては可愛い仕事仲間の後輩だ。…嫌われていたと今日まで気づかなかった俺はとんでもなく愚かだったわけだが。


「…私さえいなくなれば、ちゃんと働けますね?ーーーご主人様を頼みましたよ」


彼女の返事を待たずに俺はご主人様の部屋を後にした。

俯いたまま早足で廊下を突っ切る。

そのまま階段を降り、使用人部屋に逃げ込もうとしたところでーーー


「阿誠、そのように前も見ずに歩いたら…阿誠?その手はどうしました?」


穏やかで聞き心地のいい執事長の声が聞こえーーー堰き止めていたものが、溢れ出した。

うずくまってしまった俺に気づいた近くの使用人仲間たちがざわついている。


「阿誠?阿誠?ーーー何がありました?」


執事長に捕まってからは目まぐるしかった。

医務室に運び込まれて、右手の火傷の処置をされた。

一度気を抜いたらもうダメで、俺は無言でずっと泣いていた。

手当てをしてくれた医師までもが慌てていた。アンドロイドは泣かないものだというのが常識らしい。俺はただの人間なのでそっとしておいて欲しいものだ。

たかが火傷なのに、俺が泣き続けるせいか包帯が何重にも巻かれてしまった。

医務室を出たら何故か人がたくさんいてーーーくしゃくしゃになっている顔を見られるのが恥ずかしくて視線を伏せた。一瞬目に入っただけだけど、惚けたみたいな顔をしている奴らが結構いた。仕事を放り出したりして、一体どうしたんだろう。


執事長に手を引かれて、俺は自室に戻った。

忙しい人なのに俺が「大丈夫です」を連呼してるのに、部屋まで送ると言って聞かなかった。


「…落ち着いたらまた話を聞きにきますから。ーーーあなたが泣いていると調子が狂います。数日休みをあげますから、ゆっくり休みなさい」


普段は厳しいくせにーーーこっちが弱ってると、不器用な優しさをくれるこの初老の男性を俺は第二の父親みたいに思っていた。

だから、そそくさと部屋を後にしようとする彼をーーー思わず呼び止めてしまった。


「執事長…十年間、お世話になりました」


ベットから立ち上がって深々と頭を下げる。

執事長が少し戸惑ったように、


「なんですか改まって、そんな言い方をするとこの屋敷を辞めるみたいにーーー」


悪い冗談だ、と言わんばかりの表情を浮かべる彼に向けて、俺は目を細める。


「はい。本日付で退職いたします」


「…は?」


執事長が初めて見る顔をしていた。

驚嘆、とでも題をつければいいだろうか。


「ま、待ちなさい…必ず話を聞きにきますから、今日はここにいてください」


執事長があまりに真剣な顔で念押してくるので、俺は思わず頷いてしまった。

バタンと締められた扉を見て、心の奥から息が漏れる。


「…早いとこ消えちゃいたかったのに」


ベットの上で膝を三角にしてうずくまっていたら、扉がノックされた。

返事をしなかったのに、勝手に扉が開く。

現れたのは、白いエプロンをした恰幅のいい女性だった。


「…えり」


思わず名前を呼べば「はあい」と茶目付けたっぷりに微笑まれた。

「なんでここに?」と思っていれば、彼女の方からーーー


「執事長が…あの冷静沈着が服を着て歩いてるみたいな執事長が焦った様子で『自分が行くまで阿誠を見張っててください』なんて言うから驚いちゃったわ。ーーー辞めるって言ったんですって?今屋敷中大騒ぎよ」


屋敷中大騒ぎーーーいまいちピンとこない。

数十人が働くこの屋敷から俺みたいな若造が1人消えても大した変化はないだろう。


「ーーー大袈裟だよ。俺は、ご主人様に捨てられたから出てくだけ」


自分で言葉にしてまた抉られる。

ポロポロと涙が出てきてーーー鼻を鳴らしていたら、えりが驚いたように言った。


「捨てられた?晴翔様に阿誠が?」


「嘘でしょう!?」と叫ばれた。

こんな嘘をついてどうするんだ、と言い返せば「確かにそうね」と困った顔。


「だからって辞めることないじゃないのーーー執事長だってあなたを後継に考えて育ててるのに」


えりの言葉にーーー苦く笑う。


「…お世話になった恩を返せないのは悪いと思ってるよ。でも、俺はご主人様に仕えられないならこの屋敷にはいたくないんだ」


女の後輩の前では取り繕ってきたがーーー今だって、嫉妬で押しつぶされそうだった。

「お前はもう来なくていい」と言われた俺の場所に誰かが代わりに収まる。

考えただけで脳髄が揺すぶられるみたいに気分が悪い。

俺の方が上手くできる、ご主人様をわかってあげられるーーーこんな醜い感情を持った人間は、可及的速やかにご主人様の視界から消え去るべきだろう。


ご主人様は神林晴翔様という。

突然投げ込まれるようにして言葉も生活様式も違う世界に生を受け、押し潰されかけていた俺の希望の光。

地獄から俺を掬い上げてくれたのが今のご主人様だった。


「神林家のために生きて死ね」


3歳の時に初めて耳にし、その後も幾度となく聞かされているこの台詞。

今世の父親の口癖である。

前世で成人した記憶があったからギリギリ壊れることはなかったものの、5歳で鞭打ち、7歳で躾を称した執拗な暴力。

日本でぬくぬくと生きてトラックに轢かれて死んだ俺には些か厳しすぎた。


「礼儀辞典を暗記できていないから」という理由で顔以外を血が滲むまで暴行され、玄関の外に立たされていた冬の日。

痛みと寒さで朦朧とする意識の中、これ以上の理不尽を被らないために必死に二本の足に力を入れていた。


パシャン。パシャン。パシャーーー


近づいてきたいくつもの足跡。

ぼやける視界の中でも、身なりのいい少年の顔には見覚えがあった。

ついこの間5歳になられたその方の誕生日会に行ったばかりだったから。


主家の神林家の人間に会った時の態度は躾けられている。

死ぬほど腹部が痛もうが、おそらく折れかけている左足がうずこうが、俺は静かに膝をついた。


吐いた息が凍るような雨の夜、まだほんの5歳だったご主人様が俺の前にしゃがみ込んだ。

吸い込まれそうな黒い瞳に、街頭の光が星のように瞬いていたのをよく覚えている。


「ーーーいじめられてるの?」


ご主人様は小さかった。

俺の家系のことも、過剰な躾のことも理解していなかったのだと思う。

ただ、わかるよ、という顔をしていた。

五歳児のする顔じゃなくてーーー子供のくせに、痛みを全部知ってて飲み込むしかないって諦めてるみたいに口元を上げて。

幼児の浮かべたアンバランスな諦観に、俺は尋常じゃなく心拍数が上がったのを覚えている。

この時すでに俺はご主人様の虜になっていた。


「怪我してるね…痛いよね。夜は寒いし」


はあ、と白いため息をついて、ご主人様はちっさい手のひらで俺の頰を撫でてくれた。

初めてだった。

こんなふうに誰かに愛しまれたのは。


「冷たいね…ねえ、名前は?」


忠阿誠(ちゅうあせい)です」


「あせい、ね。ーーー連れて帰ろうかな」


幼児の気まぐれによって俺は地獄から連れ出された。

180度変わった世界は、とても素晴らしいものーーーでもなくて、ご主人様は同級生にいじめられてしょっちゅう泣いていたし、突然ご主人様の横に現れた俺に厳しい大人も多かった。


それでもーーー


「…ご主人様のお側に仕えられるなら、なんでも良かったんです。ただ、寒い時は暖めて差し上げられる距離にいたかった」


俺を地獄から救い出してくれたあの温かくて小さな手を、俺が守りたいと思った。

理不尽を諦めるのに慣れてしまった子供を、笑わせてやりたかった。

だから、手に届く範囲で精一杯努力した。

学校に通う金はなかったけど、使用人仲間に頼んで礼儀作法を学んだ。

将来ご主人様の代筆ができるように、執事長に土下座までして字を教わった。


初めは冷たい人ばかりだった使用人たちも、俺の必死さが伝わったのか徐々に打ち解けてくれた。

任される仕事が増えて、もっともっとご主人様のお役に立てると思っててーーー


「…全部、空回りかあ」


はあ、と何度目かもわからないため息をついた時ーーー

廊下の方がひどく騒がしくなった。


言い争うような声に続き、幾人もの足音が続きーーー


「晴翔様!このような場所に来ては…」


え、晴翔様って、まさかこの足音はーーー


バタン!

勢いよく開かれた扉。

飛び込んできた人影がベッドに駆け寄ってきてーーー首を絞める勢いで抱きしめられた。


「阿誠!辞めるってどういうことだよ!!!!」


背中にまわされた腕が思いのほかに力強くて驚いてしまう。

…ご主人様も16歳になられたのだ。大きくなられたな、と感動してしまう。


しかし、苦しい。

そしてなんでこんな使用人部屋にきてしまっているんだ。神林家の方々が立ち入るエリアじゃないだろう。


呆然としていたら、ご主人さまの表情がみるみる険しくなっていく。


「おい、なんで何も言わない?ーーーまさか、一条家のやつまた何かしたか!?」


「今度引き抜きかけたらぶっ潰すって言ったのに!!」と物騒なことを耳元で叫ばれて肩が跳ねてしまう。

えりが呆れた様子で「晴翔様、落ち着いてくださいませ」と宥めているのだが締め付けは強くなるばかりだ。苦しい。


「あの、ご主人様ーーー苦しいので離してください」


失礼を承知で背中をトントンと叩いてみる。

いやいやと首元で髪をワサワサされただけだったが。


「…晴翔様?わがままはダメですよ」


ーーー最近わざと呼んでいなかった本名を口にすれば、わかりやすく固まってしまったご主人様。名前を呼ばれると照れるなんて、ほんとにお可愛らしい方だと思う。


そっとまわされた腕を外して、肩を押して距離を取る。

ようやくみることのできたご主人様の顔がわかりやすく拗ねていてーーー俺は、愚かにも期待してしまった。

こんな場所まで走ってきてくれて、それが俺が辞めるって噂のせいだなんて聞いたら期待もしたくなる。


「ご主人様、憚りながらーーーまた、おそばに使えることをお許しいただけるのですか?」


縋るような声になったと思う。

だからーーー視線がそらされた時、喉が潰れそうになった。


ご主人様は無言だった。

つまり、先ほどの発言を撤回する気はないということでーーー


いい加減枯れてしまってもいいと思うのだが、俺の涙腺が懲りずに崩壊する。


「…お、お世話になりました」


膝頭に頭を埋めて鼻をぐずぐずとやっていたら、ご主人様の焦った声が聞こえた気がした。

仮初の慰めなんていらないのに。


「頼むから泣くなってーーーほんとのこと言えるわけないし、まだ嫌われたくないしーーーって、お前ら見んな!寄るな!仕事しろ!!」


…ご主人様の豪快な登場のせいで部屋の扉が開けっぱなしになってたらしい。

俺を背中に隠すように立ったご主人様が犬でも追い払うみたいに「しっしっ」と言っている。


結局ご主人様は執事長に回収されていった。

学校をサボっていたらしい。俺のせいで申し訳ございませんとベッドの上で低頭謝罪した。

執事長は疲れた顔でこんなことを言い残していった。


「…阿誠は、余計なことは考えずに眠っていなさい。ーーー晴翔様は、周りに威嚇しないでください。阿誠のことはちゃんと見ておきますから」



その後、例の女の後輩メイドが何故かぐるぐる巻に縛られて謝罪に来たりした。

意味がわからないしやめてほしかった。

五人くらいの女の後輩たちが俺のベッド横に立って頭を下げるんだぜ?

悪夢かと思ったわ。


「この通り反省させ、場合によっては追い出すので…阿誠さん、やめないでください〜!!!」


「いや、別に謝って欲しいわけじゃ…それに俺がいなくてもどうにでもなるだろ」


自虐も込めて「ハハハ」と笑ったのだがーーー五人揃って首がもげそうな勢いで首を横に振られる。そして、ぐるぐる巻きの子は床にゴミのように転がされ、、残りの4人に怒涛の勢いで詰め寄られた。ヒエッ!


「『俺がいなくてもどうにかなる』って本気で言ってないですよね!?阿誠さん指名の依頼が大旦那様も晴翔様も半数くらいあるのに?若すぎるから(おさ)になってないだけで、掃除係も給仕係も全員が阿誠さんの指示で動いてるのに?本気でいなくなってもどうにかなるとか思ってないですよね!?」


若い女の子たちのパワーは凄まじすぎた。

ベッドのできるだけ端っこによりーーー苦笑いを浮かべてみたのだが、一向に許してもらえないらしい。


「大体簡単に辞められないですよ?今、晴翔様が手放すなら俺が私が!って立候補者続出してますからっ!」


…待て、なんの話だ?立候補者?いつから俺は選挙に出馬した??


ちょうど一番右に立っていたメイドが立候補者の1人だったらしくーーー「ずっと好きでした!付き合ってください!」と挙手しながら叫ばれた。


随分捨て身の慰めだなあと呆れつつーーーこんなにも必死に慰めてくれる後輩の気持ちが嬉しくて、ふにゃりと表情が緩んでしまう。


「ふふーーーありがとうございます、私のためにそこまでしてくれて。自分の身はもっと大切にしてくださいね?」


挙手したままだったメイドは赤くなりながら涙目になるという器用なことをしたあとでーーー


「スマートに振られたぁああああ!わかってたけどぉおおお!」


と叫びながら走り去っていった。

去り際まで芸が細かい。そこまで必死にやってもらわなくても大丈夫なのだが…。



夕食を食べた後で、俺は荷造りを始めた。

えりが「ちょっと!?この流れでまだやめようとする?」と焦っているが知ったこっちゃない。

もとより俺の私物は少なくーーーご主人様にもらったものばかりだったので、全て置いていくことにした。時計とか、万年筆とか高価なものも多いし、持って行って問題になってもまずいしな。


カバン一つに辞職願いまで書き上げーーーベッドで月を眺めていたら、ドアがノックされた。


「…阿誠。私です。入りますよ?」


執事長の声だった。

俺はスリッパに足を突っ込んで扉を開きーーー目の前に立っていた予想外の人物に絶句した。


「…ご主人、さま?」


ぽかんとしていたら、奥から執事長がそっと顔を出した。

俺は慌てて2人を部屋の中に招き入れる。


「執事長が戻ってきたなら私はお役御免ねーーーおやすみなさい、阿誠」


えりがそそくさと去っていた。

早い。振り返りもしない。

絶対逃げたんだと思う。俺も逃げたい。だってーーー


「おい、阿誠…これはなんだ?」


ご主人様がどす黒いオーラを浮かべて、俺の荷物と、すぐそばに置かれた退職願をつまみ上げた。いけないことなどしてないはずなのに、思わず喉を鳴らしてしまう。


「た、退職願です…」


「あ“?」


…一触即発の空気になった俺たちの間に執事長がスッと体を入れ込ませた。

後光が見えたぜ!ありがとう!ご主人様の怒りの原因がさっぱりわからない俺には救世主に見えるぜ!


「晴翔様…18歳になったら認めてもらえるのでしょう?大人になる、と先ほども言っていたじゃないですか」


…待て、俺の知らないところでまたもやご主人様の大切な事項が決定されてないか?

ご主人様が黙り込んだせいで部屋に沈黙が落ちる。

ので、俺はそっと執事長の服の袖を引いた。


「あの、ご主人様は何を認めてもらえるのですか?」


ダメ元で聞いてみた。

もちろん俺は自分がクビにされた立場だってわかっている。

でも、気になるんだよ!!ずっと宝物のように扱ってきた主人のことだ。知れることなら知りたい。


じーっと執事長を見つめていればーーー彼は少しだけ目を細めた。

それはもう愉快げに。


「…婚約者が、決まったのですよ」


ーーーこん、やく、しゃ。

こんやくしゃって…婚約者!?


「ええええ!!おめでとうございます!!!」


まずい、さっきとは違う意味で泣きそうだ。


「ご主人様に婚約者、ですか。…大きくなられましたねえ」


俺は涙をテッシュでぬぐいーーー鼻をチーンと噛んだところで、2人に向けられた不可解な視線に気づいた。

な、なんだよ。まるで残念な子を見るようなーーー


「『大きくなられましたねえ』って…二つしか変わらないだろ!?」


ダンっと地団駄を踏んだご主人様。ああ、お可愛らしい。でもきっとお相手の前では凛々しくも優しい紳士を演じるのだろう。

…こんな姿は俺の前だけ、なんていうアホな優越感を感じるな。こんな薄気味悪い執着を持ったりするから捨てられるんだ。


喜んだり萎れたりと忙しなく表情を変える俺を黙って眺めていた執事長がーーー「それで」と口火を切った。

部屋の空気が再度張り詰める。俺たちは2人とも執事長に育てられたみたいなところがあるから、この大人には弱いのだ。


「それでーーー阿誠はここを辞めてどこにいくつもりなのですか?」


執事長の聡明な瞳にまっすぐと見つめられーーー俺は気まずく目を逸らすことしかできなかった。


「そ、それはーーー適当に、雇ってくれるところ、です」


俺の返事にご主人様は絶句していた。

執事長はさもありなんとばかりに肩をすくめたが。


「お、お前、学校にも行ってないのに、そんなふうに仕事を探したらーーー」


「この容姿ですし、花街か金持ちの愛人行きまっしぐらですね。知りませんでしたよ、そのような破滅願望があるとは」


…二人揃ってひどい言い草である。

とはいえ、俺だってそのくらいわかっている。


でも、それでも、耐えられないと思ったのだ。


「…ご主人様に必要とされない自分なんて、ごみ以下です。ーーー相応の場所に行きます」


俺はご主人様の方を向けなかった。

なんとなく気まずくて、責めるような執事長の視線から逃れたくて、言わなくてもいい言葉を重ねてしまう。


「あ、の、そんなに心配しなくても、経験がないわけではないのでーーー」


「ああ“!?」


何故かここでご主人様が立ち上がって「どこの誰だよ!!!」と肩を揺すぶってきた。

急にご機嫌が悪くなってしまった。俺の話はそんなに不快だったのだろうか?


「パーティーで他家に泊まった時に少々…」


…ご主人様が怒りで顔を真っ赤にしてて、まずったな、と思った。

こんな話不快極まりないのだろう。ーーーご主人様は綺麗な顔をしているのだからお誘いも多いだろうに、潔癖なのだろうか。知らなかった、以後覚えておこう。


「執事長、う、嘘だよな?」


…そこでなんで俺のことを執事長に確認するんだと突っ込みたかった。

信じてもらえなかったのだろうか。それはそれで傷つくのだが。


執事長は大人だった。

なんのことでしょう?とばかりに微笑みーーー爆弾を落とした。


「さあ?男女問わず随分誘われてるのは知っていましたがーーー本当に行っていたとは。阿誠も男の子ですねえ」


燃料を、投下しやがりました!!!

まじかよ!!と目をかっぴらいてしまったのだが…執事長には冷え切った笑顔を向けられた。

ヒエ!すみません!怒ってますね!そうですよね!主家の方に話す内容ではないですよね!!


涙目になった阿誠をみて、執事長はこっそりため息をついた。

場が混沌としていた。阿誠がモテるのは使用人の間では周知の事実だ。意外と遊び人なのも。大旦那様は当然知っているし、どこかで目の前の主人の耳にも入れておくべきだとは思ったが…タイミングを誤った感は否めない。


執事長は嫉妬と怒りで耳まで赤くしている主人の肩に手を置きーーー小さく告げた。


「ほら、言ったでしょう?…ちゃんと言葉で縛っておきなさい、と」


婚約が大旦那様ーーー春翔の父親から認められたのは、晴翔が18歳になってから、だ。

つまりあと二年間でーーー全く晴翔の気持ちに気付いていない、鈍感な男を振り向かせないといけない。


「近すぎるから少し離れてみる。…あと2年で意識させて堕とす」


ーーーなどと晴翔が宣言してから、まさかこんなふうに話が転がるなんて、晴翔も執事長も思っていなかったわけだが。



ご主人様に手を取られて、キョトンとした顔の阿誠。

…その瞳に、情欲の色はない。


「ーーー愛してるんだ、阿誠」


晴翔が顔を真っ赤にして告げるがーーー溶けたマシュマロみたいな顔で笑うだけである。


「私も愛していますよ、ご主人様。ーーーやっぱりおそばに…」


「っっっっ!!!!もう知らない!ばか阿誠!この鈍感!人たらし!!」


「ご当主のとこで働いとけ!辞めたら許さない!」と捨て台詞のようにご主人様が言い残して去っていく。執事長が「全く」と頭を振りながらその背中を追いかけた。

阿誠は三度の拒否を涙目で見送りーーー静かになった自室で、呻き声をあげてうずくまったのだった。


「ーーーっぶな。本気にするとこだった!!!」



R18まで辿り着きませんでした…

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