妖隠録 弐 ~ 骨女
雨の音を聞いている。
先輩を待っている。
六月の空。
垂れ込めた黒い雲。
窓ガラスをかすめる鈍色の軌跡。湿気。時折、遠雷。
明かりの落ちた廊下の先には、火災報知器の赤が小さく沈黙していた。
床と背中、制服越しに触れるコンクリートの熱。痛いほど。冷たい。
目を閉じて、耳を澄まし、このまま校舎とひとつになって、静寂の放課後に沈んでしまいたい気になる。
そんな、ひっそりとした安息の重みは、季節の変わりめがもたらした淡い微熱であろうか。それとも、さきほど飲んだ薬の副作用かもしれない。ぼくはそこまで情緒ゆたかではない。
屋外の雨音に包まれながら、まぶたが落ちるに任せる。
……ポタン、と。
どこかで。ポタン、ポタン、ポタン、と。
一定の間隔の雨垂れの音に気づく。
ずっと聞こえていたはずなのに、いまさらのように。
遠くでする雷の唸りさえ、自然が織りなすオーケストラ。
こめかみの疼きの悩ましさには、どこか優しく心地よい。呼吸の熱さが無粋に思えるほどだった。
誰かが脇の階段を、タタタタと軽やかな、十六分音符の連弾で駆け下りてくる。
立ち上がって出迎えようとしたが、思った以上の倦怠感から顔をあげるにとどめる。
寸前の踊り場でぼくに気づいたのか、彼女の内履きは、少しだけ驚いたみたいにキュっと音を鳴らした。
「ごめんね。……待った、よね?」
雨の音を聞いている。
濃紺のブレザーは、ほのかな暗闇に溶けていた。靴下の白さだけが、やけにくっきり浮かんで見える。
彼女はスカートの前を気にするように、残りの階段をゆっくりと、もったいつけたみたいに降りてきた。
「……えっと。隣、いいかな?」
こちらを見ないでつぶやいた。
ぼくは返事の代わりに、手のひらを見せて答える。
ふんわりと湿気が香った。
さっきの落雷の影響か、夕方だというのに街は真っ暗だった。おそらく、また電車も止まっていることだろう。廊下は少し泥のにおいがした。
「雨、やまないね」
彼女はいつも誰に言うともなく、遠くを見てしゃべる。二人でいても、彼女はぼくを見ない。
ぼくもぼくで、顔を向けることすら億劫で、ずっと正面の壁を見つめていた。
誰のいたずらか、靴の跡がついた壁には不思議と人心地つく。
少し視線をずらせば校庭が覗ける窓があり、彼女からはきっとひどい雨模様だとか、建て替えたばかりの体育用具室も見えるだろう。
「すいません。こんな天気のときに」
彼女はびっくりしたようにふり返った。
世界が光り、数秒後に激しい雷鳴――バリバリバリっ、と空気を破る轟音。思わずぼくは眼を閉じてしまった。
そんなぼくを見て、彼女はくすくすと笑いだした。
「……なんですか」
自分のカッコ悪さにはずかしくて、ぼくは少し不機嫌になった。
「べつにー」
彼女は笑ったままだった。
ポケットからイヤホンをひっぱりだすと、少し時代遅れのデジタルオーディオを立ち上げる。
「怖くないんですか」
「なにが」
「カミナリですよ」
「ああ」
彼女は顔もあげず、得意げに口許を引いた。
「おへそ取られると思ってる?」
「ぼくは、先輩ほど悪い子じゃないですから」
「なに。わたしのこと、そういう女だと思ってるわけ?」
音楽を探していた指をとめ、彼女が頬をふくらませた。ぼくは笑って誤魔化す。
それが面白くなかったらしく、彼女はさらにむくれて、イヤホンで両耳をふさいでしまう。お目当ての曲を探りあてたらしい。
さー、と雨の音。静かなノイズ。
時間的に光源が乏しくなってきたせいで、雨の動きもアナログノイズを思わせるし、暗さに順応しようとする虹彩の働きで、視界はざらついたフィルターをかけたようだった。
「すいませんでした」
なんとなく気まずくて、思わず呟くが、雨とイヤホンのせいで聞こえていない様子だ。
雨の一筋。屋根やアスファルトに叩きつけられては霧散し、大気に溶け込む一瞬。それが無数。
水たまりは波紋を作るけれど、目に見えないほどに細かくなった水滴の響きはどこまでも、どこまでも遠く、どこへも広がる。
「……ごめんね」
ぽつんと小さな声がした。
「誤解ですよ」
ぼくは弁解した。
「知ってるよ」
彼女は意地悪そうな顔で笑う。耳にかけていた髪がはらりと落ちた。ちらりとのぞく左のえくぼは深い。
「あとでジュースおごってね」
「勘弁してくださいよ」
「うんうん。良い後輩をもって幸せだ」
どうしてぼくは、こんなにもこの人が好きなんだろうか。
「でもね。私だって苦手っていうか、怖いものぐらいあるわよ」
「なんです、それ」
彼女はだまってぼくを見ていた。真っ白な足を伸ばして、でもそのくるぶしあたりは闇に溶け込んで見えない。
「――で、死ぬこと……」
小さく素早く、かすれるように彼女が洩らした。
その言葉は冷酷なほど静かだった。瞳はずっと深くて、なんだか濁った水たまりみたいだった。不安を打ち消そうと、ぼくは目をそらし話題を変えた。
「なに聞いてるんです?」
「ん? ああ――」
一拍遅れて、彼女は左のイヤホンをはずした。
「聞く?」
差し出された純白の突起をながめながら、それが彼女の、おそらく誰も触れたことのない場所に接していた物で、不覚にもそこに残った体温の艶めかしさに、ほのかな生々しさをおぼえてしまっていた。
「あ。……いや」
きっと赤くなっていただろうけど、この時ばかりはこの停電に感謝したい気持ちだった。
「聞きます。聞きます」
なんで二回も言ってしまったんだろう。熱が上がってしまったようだ。
「ベイリーランチェストって知ってる? 知らないよね?」
「教えてください」
彼女の好きなものが知りたい。好きなものを語る彼女を見ていたい。
雨の音を聞いている。
さー、とノイズのような。雨の。
闇が落ちた廊下で、ぼくと彼女は白く細いコードでつながっていた。右耳と、左耳。はたから見たら、きっと恋人同士にも見えただろうけれど、もうそんな姿も、おぼろげにかすむくらいに時間は経っていた。
最初はおかしいと思ったのだが、考えてみたらきっと彼女もおかしかったんだろう。こんなところで二人きりなのだから。
ぼくだってもうとっくにおかしかったんだ。ふたりとも、おかしなことに気づけなかったんだ。
「いい曲でしょ」
うなずく。目を開けていても閉じても同じなのではないかと思えるほどの闇。
「彼女はね、ジプシーなの。非業の歌姫なんて言われてるけど。昔の歌。すごい昔の、遠い国の歌」
雨の音がする。雨の――
ひんやりとしたイヤホンからは、なんの音もしなかった。ぼくはそれを、彼女に言うべきか迷って、やっぱりだまっていることにしたのだった。
たぶん、こちらだけ断線してしまったんではなかろうか。さっきまで彼女が普通に聞いていたのだから、きっと接触の具合なのかもしれない。
貝殻に耳にあてると、波の音がするという。
子供の頃は本気でそれを信じていた。ロマンティックな勘違いであることに気づいたのは、いつだったろう。
それは血流の音だと教えられた。耳の中の音が、貝殻に反響して聞こえるだけなのだと。だから、指で耳をふさいでもそうだし、イヤホンでだって同じだ。
でもぼくは、まだいまだけは子供でいたいと思った。
この音が、雨の音にも似た響きが、いまこの瞬間の、ぼくにだけ聞くことが許された、彼女の鼓動――血脈の音だったらいいのに。
けれどもそれは、ぼくにとってやはり遠い国のものに他ならなかったのだ。
「ね、いい曲でしょう」
彼女の声ははずむようだった。
ぼくはそれに再びうなずいた。知らずに頬が雨に濡れた。熱い雨だった。
「ぼくがいますから。ぼくも行きますから」
もう。
切れそうな意識。
急に襲ってくる睡眠薬の容赦ない無粋さ。
いつから暗かったのか。いつのまにか暗かったのは、本当に天気のせいだけなのか。まぶたはとっくに閉じていたつもりなのに、本当はまだ開いていたのではないか。
いや。本当はもうとっくにぼくは、深い夢のなかを漂っていたのかもしれない。
雨の音。強い。
泥の臭い。じっとりと。
去年の秋の雨は記録的豪雨とされ、各地で甚大な被害をもたらした。学校の裏手の山が崩れて、古い体育用具室を潰した。
その土砂のなかから、ひとりの女生徒が見つかった。
家族の話では、こんな天気に誰かに呼び出されたらしい。イヤホンをつけてひとりで待っていた彼女は、きっと豪雨のなかの避難警報も聞こえなかったに違いない。
「ごめんなさい。待ちましたよね」
ぼくはおどけて笑おうとしたけれど、もう、顔の筋肉も、自由でなか、った。
「言い訳するわけじゃないんですが、電車が止まっちゃって。その、ぼく、彼女に伝えたいことがあって。えっと、ずっと」
「あとで、ジュースおごってよね」
雨の音がする。
泥の臭いはもうしない。
右耳からイヤホンが落ちた。制服のズボンの上にころりと。
その白い突起は、まるで彼女の骨のようだった。
雨の音を聞いている。
先輩を待っている。