トラベラー・イズ・ダイ 奇妙な駅と赤い影
「駅」をテーマにした、夏のホラー2020応募作品です。
列車を乗り継いで旅を続ける「わたし」が、終わりの始まりを目にします。長さは約1万字。
残酷なシーンの挿絵があります。そういった絵が見たくない方、イメージが固定されるのがお嫌な方は、挿絵の表示を消してお読みください。
お楽しみいただけたらうれしいです。
(そろそろ、次の乗換駅だろうか)
ぼんやりと思いながら、わたしは車両の揺れに身をゆだねていた。
座席の振動はなかなかに激しい。
河の中だから仕方ないのだが。
“───澄んだ河水が、沸騰したように爆ぜて波立っている。銀と錆灰色ののたうつ魚体に水面はとうに埋め尽くされて、膨らんだ腹と腹の間には指の入る余地もなかった。
大小の砂利に鱗を削られながら、わたしは流れの早い狭隘部を押し合いへし合い、しぶきを散らす群の中の一片となって上流へ、上流へ。遡上の本能に駆り立てられる肉体には、もはや痛いも苦しいもない。ただ鰭を振りたくり、進むだけだ。
芋洗い状態になっているそこは、捕食者にとって絶好の待ち伏せポイントでもあった。
衝撃。そして浮遊感。
パワーショベルのアームに薙ぎ払われたように、わたしの身体が河の中からかっさらわれる。
長い爪にえぐられた筋を胴の底から側面にかけて残し、魚体が回転しながら川辺の岩石の上に落下した。
暴力的に水から切り離されて、先ほどとは次元の違う息苦しさがわたしを襲ってくる。
鰓と口を開いてざらついた火山岩の表面でじたじたともがいていると、剛毛に覆われた巨木のような前脚が天から降ってきて、遠慮会釈もなくわたしを踏みつけた。
今のわたしは産卵直前のメスのサケ。あっさりと銀色の腹が裂け、腹の中では頑丈な卵巣膜が裂けた。
(ああ、クマだ)
牙が生えた涎まみれの口が迫ってきた。
茶褐色の毛のクマは、掌で固定したわたしの腹にかぶりつく。骨がぽりぽり折れていくのがわかる。クマはろくに咀嚼もせずに、噛みちぎったわたしの消化器官と卵巣を一緒くたに呑み込み、長い舌で自分の口周りを舐め、ついで脂肪がたっぷり乗った皮を器用に口で剥ぎ取って、むしゃむしゃ。
ごくん。”
そうしてわたしは、プラットホームにいた。
白い光で照明された広大な空間に、無限ではないかと思うほどの線路とホームが並行して走り、果ては見えない。コンコースとホームを結ぶ階段を無関心な人影が急ぎ足で昇り降りし、ひっきりなしに列車が出入りしている。
わたしの頭上、天井から吊り下がった古臭い反転フラップ式の発車標が、その渾名の通りパタパタと軽い音を立てて文字が書かれた黒塗りの板を反転させていく。やがて表示されたのは、
『シロザケ→エゾヒグマ』
大型哺乳動物に乗るのは久しぶりだ。
待つほどもなく、『エゾヒグマ』と方向幕に表記した列車が静かにホームに滑りこんできた。ぴたりと停車して自動ドアを開いた車両に、わたしは乗り込む。
ベルが鳴り、発車する直前。
なにかが気になって、わたしはホームへと振り向いた。なにか、赤いものが‥‥‥。
確認する前に、列車は走り始めていた。
いうまでもないが、わたしは人間ではない。
食べられることによって生物から生物へと移動していく、身体を持たない生命体なのだ。人類の辞書にわたしたちを示す言葉はなく、わたしたちは自身をただ「わたしたち」と呼ぶ。
わたしたちにとって、生きることは旅。同種以外の生物はみな、長短さまざまな路線を走る個性豊かな列車だ。
列車を乗り継いだあと、わたしはかならず車両の基本情報を押さえる。
ヒグマ、五歳になるオス。健康状態と栄養状態はまずまず良好なレベル。このまま秋の恵みを享受できれば、今年の冬はたぶん乗り越えられるだろう。
即時の降車を強いられる可能性は低そうなので、先頭から最後尾まで、車内をひととおり見て回る。
わたしのほかに乗客はいなかった。
すこし意外だ。そこそこ大型の魚とはいえサケは輸送量が少ないので、ひとり旅でもおかしなことはなかったが、成獣に達したヒグマともなれば何人か乗り合わせていると思っていた。
まあ、いい。この身体はこれから長い間、たくさんの獣や魚を食べ続ける。中にはわたしの同種を宿した獲物もいるだろう。そうなれば旅ももっとにぎやかになる。
だが。数日後。
『エゾヒグマ→ヒト』
‥‥‥わたしはまた駅のプラットホームで、いささか苦い面持ちで発車標の表示を見上げていた。
冬眠前、より多くの餌を求めて人里に近づいた若いクマは、さっくりと猟師たちに駆除されてしまったのだった。
死体をそのまま放棄でもしてくれたら、共食いの形でほかのヒグマの身体に乗り移れたかもしれない。が、彼らは狩った命はきちんといただく主義の人々だったらしい。わたしは手際よく解体され大鍋でぐつぐつ煮られて、猟師たちの胃袋に収まることとなった。
今度のわたしの乗車車両は、狩猟を含めたアウトドアレジャーを愛好する人間のオスのひとりである。
(人間だから輸送量は大きい。でも、サケの遡行ルートでわかっていたけど、日本人かあ‥‥‥)
ため息。これは国籍差別とは違う感情だ。
人間から見ればまるで幽霊のような存在ではあるが、わたしたちはそれでも物質世界に依存している。
生物としての質量や活動性は、その個体がわたしたちを運べる輸送量であり、自我を保ち続けるには大きくて活発な生き物に乗車する必要がある。
そして、加熱調理にも消化酵素にも耐えるわたしたちだが、八〇〇度やら一〇〇〇度やらに達する炉で焼かれて灰になってしまうとさすがに駄目なのだ。焦げた骨のかけらでは誰にも食べてもらえないし。
土葬もごく一部で行われてはいるが、日本は圧倒的に火葬の国だ。わたしたちにとっては鬼門といえる。
しかしもう噛まれて呑まれてしまっている以上、ぐずったところでなんにもならないのが現実。
ホームに入ってきた、やや古びた列車のドアを渋々くぐろうとして、
(‥‥‥赤い、服?)
視界の端に映ったものに、わたしはうつむき気味だった顔を上げる。
列車の車体越し、線路を挟んだ向こうのがら空きのホームにぽつん、と赤い生地の衣で身を覆ったちっぽけな立ち姿があった。表情はよくわからないが、車窓の中の切り取られた空間から、わたしの方をじっと見ている。
なぜとは無し、ぞっとした。
発車を予告するベルが鳴る。ホームが違うのだから、あれが同じ路線の乗客のわけはない。赤い影から目と意識を背けて、わたしは『ヒト』という種族名と、そのあとに個体名の表示を掲げた車両に歩み入った。背後で扉が閉じる。
かすかなうなりを上げてホームを離れる列車の中は、がらんとしていた。
♦ ♦ ♦ ♦
“僕はハンドルを大きく切って、黄色のジムニーを自宅のガレージ、普段使いしているレクサスと行楽用のミニバンの隣に滑り込ませた。
不整地を走破できるよう車高を上げているので、運転席の視点は高い。ほかにもバック時に使う後方LEDライトや折り畳み式のキャリアカーゴなど、あちこちに手を入れたアウトドア仕様の一台だ。
リモートでガレージのシャッターを降ろし、本日の猟果の分け前であるクマ肉、約五キログラムのうちの大半をガレージの隅に据えた横型の大容量冷凍庫に収める。ザックとライフルケースを肩にかけて、自宅の勝手口に通じる斜路を昇り、鍵を開けた。
「おかえりなさい、パパ!」
「おおっと」
嵩張るものをガレージから直に出し入れできるよう、勝手口といっても余裕をもってつくってある。そうでなければ、パジャマ姿で奥から駆け出してきた愛娘に飛びつかれた拍子に、戸枠に頭をぶつけていたかもしれない。
「パパが鉄砲を持ってるときに荒っぽいことをしちゃダメだって、前もいっただろう? 鉄砲をちゃんとしまったあとで、寝る前にお話ししようね」
「てっぽうでクマさんうったの?」
「あとで、あとで」
あしらいながら、我が子の可愛らしさに頬が緩む。もう時刻は午後十時近くなっていたが、猟の後の宴席で呑兵衛たちに囲まれながら酒を口にせず、急いで帰ってきた甲斐があったというものだ。
「すみません、どうしてもお父さんにお帰りなさいをいうんだ、って寝付いてくれなくて‥‥‥」
スリッパの軽い足音とともに、子供部屋がある二階に通じる階段から若い女性が顔をのぞかせた。
彼女は安藤さん。週末だけ札幌から来てもらって子守りを任せている大学生。妻に先立たれた僕が釣りに猟にと遊び歩けるのは、娘とめっぽう気が合い家事能力も優秀なこの人のおかげだ。
「いいんですよ。あとは僕が娘を見ますから。そうだこれ、冷蔵庫に入れておいてくれますか? 仕留めたばかりのクマ肉です。よかったらお土産にどうぞ、うちで食べる分はまだあるので」
「わ、嬉しい! ありがとうございます、いただいていきます。母の大好物なんです」
ザックから俺が取り出した一キログラム分ほどのビニール包みを、安藤さんはにこにこと受け取る。さすが道民、猟獣肉に抵抗がない。
猟銃と銃弾を別々の保管場所に仕舞い、錠をおろしてから部屋着に着替えて娘の部屋に行く。手早くやったつもりだが、普段の就寝時間をとっくに過ぎて、子供の目はとろりと焦点を失って流れがちだった。
「‥‥‥クマさん、おっきかった? どんなお顔してた?」
「そうだなあ‥‥‥」
山に分け入るあたりから話をはじめ、仲間のひとりが獣道を見つけたころには、娘はもう眠りに落ちていた。僕は寝息を立てる娘の肩に布団をかけ、小さな常夜灯だけをともして部屋を出た。”
───どうやら、このわたしは中年に差し掛かった人間のオスで、血圧が高めな以外はおおむね健康体、定まった繁殖のパートナーは持たない。これから繁殖する意欲もどうやらあまりなさそうだ。
いずれもわたしにとって良い材料ではない。長くこの路線に縛られることを意味している。できればそれは避けたい。
わたしたちの生態は、複数の宿主を乗り換えていくタイプの寄生虫に似ている。
そして寄生虫の中には、都合に合わせて宿主の行動をコントロールするものがいる。野鳥の体内に入るために、中間宿主であるカタツムリを鳥に捕食されやすい葉の表側に誘導し、自らはカタツムリの目の中でイモムシに擬態するロイコクロリディウムが有名な例だ。
ロイコクロリディウムほど強烈ではないが、わたしたちも自分が乗った列車の進路に干渉することができる。体内から衝動や嗜好を誘導して、生物の行動を変化させられるのだ。
わたしは今後の旅程を練り始めた。
(あのとき、乗換駅のプラットホームでわたしを見ていた赤い服の乗客はなんだったのか)
歯車に噛んだ小石のように、頭の中に引っかかって思考を滞らせる物事がある。
(ひとりで列車に乗るには、あの影はあまりに小さすぎはしなかったか)(ヒト路線のホームは普段はもっと混雑している印象なのに、あの日は乗降客がひどく少なかった気がする)(乗り場だけじゃなく、駅のコンコースで行き会う人数も、最近はまばらになってきているような‥‥‥‥)
ああ、もう。
こんなとき、情報交換できる同種が乗り合わせていないのが恨めしい。殺風景な車内で鬱々とひとり思い悩むうちに、苛立ちと不安ばかりが募る。
思いついて、ガレージの冷凍庫の中に貯めこまれていたエゾシカやウサギの肉の中から、手つかずらしいものを車両に食べさせてみたが、空振りだった。わたしたちの草食動物線の利用率は元来低いのだが、それでもがっかりした。
人間のオスの生殖可能期間は長い。腰を据えて、車両の性欲を昂進させ、次の子供をつくるように仕向ける選択肢もあった。それでもわたしがこの肉体を可能な限り早く廃棄すると決めたのは、焦りだけでなく、なにか嫌な予感があったからだ。
ただし、火葬はいけない。わたしの自我と記憶、わたしの根幹を守るためには、廃棄後の遺体は日本社会のルールで処理されては困る。自宅での自殺や公道での交通事故死は論外だ。
失踪してからの、人目につかない場所での死。現場は山か、海か。
(‥‥‥やはり、海がいいだろう。この人間は幸い前から釣り好きで、単身夜釣りに出ての事故なら、だれも怪しまない)
とはいっても、わたしが肉体に対して路線変更を強いることができる範囲は本来、限定的だ。衝動的に海に飛び込ませる、サメなど大型の肉食魚に食べられやすいよう海中で血を流させる、こういった生存本能に反する運行をさせるためには、わたし自身も支配力の限りを尽くさなければならない。
走行中の機関車の運転席に押し入って、運転手から力づくで制御を奪うようなものだ。二度目はないし、やる側にも覚悟と準備が必要となる。
♦ ♦ ♦ ♦
“「パパ、きょうのやきにく、やっぱりこないの?」
「ごめんね、お仕事があるんだ。それと、今日は遊園地がメインだろう? 食べ物の話ばかりしてると食いしん坊さんみたいだぞ?」
連休初日の朝、僕は娘と安藤さん、娘の同級生二人とその保護者の計六名を遊園地のゲート前まで車で送る。絶叫マシンを満喫した後、近くのグランピング施設に移動してバーベキューをする予定だという。
本格的なキャンプなら僕の出番もあるが、この日程で男親がひとり混じっても浮くだけだ。娘は少々不満げだったが、夕方まで釣具屋巡りでもしているのが利口というもの。娘への償いには、明日たっぷりと時間を割こう。
夕方迎えに来ることを約束して、僕はふたたび車上の人となった。なぜか最近ひどく疲れやすいので、ルアー漁りの前にどこかで昼寝もいいかな。”
(とりあえずは、順調‥‥‥)
死のルートを選択して以来、わたしは体内からずっと、彼の整備状態に干渉を続けていた。
具体的には食欲を抑制し、睡眠を浅くして体力を奪っているのだ。空腹感や眠気・めまいといった副作用は取り除いてあるので、本人はむしろ体調がいいとさえ感じている。実際には、集中力や自制心が日々下がっていっているのだが。
たった今も脳の前頭葉の、欲望にブレーキをかける部位を麻痺させて、船外機付きゴムボートを衝動買いさせることに成功した。
もともと欲しかった釣り用のボート。支払いの後で自分に呆れたようではあったが、彼に深刻な疑念は生じなかった。
これでほぼ、ハード面での用意は済んだ。
あとは気象や潮の満ち干を見計らって海に出て、大型魚の多いポイントで水死すれば乗換だ。
待ちの姿勢に移行したわたしは、もうすぐ棄てる列車が嬉々としてミニバンのルーフキャリアに梱包されたゴムボートを積み、時間通りにグランピング施設に車を回して子供たちと、すっかり酒臭くなっている母親たち(さすがに安藤さんは呑んでいなかった)を回収して家に送り届け、娘とふたりで自宅に帰るのを温かく見守った。
永遠の旅人であるわたしたちに、ひとつひとつの乗り物への執着はない。
それでも、過ぎさってゆく旅路は感慨を引き起こすものだ。
だからわたしは、優しい父親が娘を風呂に入れながらジェットコースターに乗った興奮に耳を傾けるのを一緒に聞き、
「パパ」
低温にしたドライヤーで娘の髪を乾かすあいだ、細くふわふわした毛が指の隙間で踊るのを感じ、
「ねえ、パパ」
一日はしゃいだ疲れと、まだ残る楽しさの余韻がないまぜになった、眠いのに眠りたくない顔をした娘に口を開けさせて電動歯ブラシで小さな歯を磨き上げ、
「聞いてパパ」
それから、
「パパ、そんな風におなかざくざく切ったら、わたし痛いよ」
それから、よく研いだナイフで、床に横たえた娘の白い皮膚となお白い脂肪層と筋肉を切り開き、消化管から内容物が漏れて食肉を汚染しないよう気をつけながら腹を裂いた。このとき内臓の色や形から、病変がないことを確認する。健康そのもの。逆さに返したナイフの先端部で下から上へ胸の中心を割っていく。かすかなパリパリという音。胸骨をひどく柔らかく感じる。
「‥‥‥痛いよ、パパ、いたいよ?」
臓器も大きな血管も無傷なので、ぱっくりと縦に胴を開かれても娘はまだ生きている。肺と肺の間に覗く心臓はコトコト、コトコトと脈打ち、生命を主張している。どこから食べようか、まずは出血が少なく手ごろな大きさの部分、このすこし膨らんで軟らかそうなところがいい、そっと左手の指で壊れ物を扱うようにつまみ上げ、右手のナイフを走らせてほんの一口分、大事な大事なお肉を切り取る。流れ出る血液すらもったいない、ほおばる前に切り口に吸い付いて味わう、舌の上を流れる鉄味と、塩味と、えもいわれぬ命の味。さあいよいよ肉を
(───────まて、待て待て!? なんだ、これはなんだ!!!?)
男の中で、わたしは驚愕した。
いまこの車両は、我が子を食べようとしている。
でもわたしが本当に驚いているのは、その行為ではなく内側、脳の中の状態だ。
わたしは自分でも辿れないほど長く旅をしてきた。主に肉食獣に乗っている時だが人間を餌食にしたことぐらい何度もあるし、人間の兵士や犯罪者を乗り物にしていて当事者の内から殺人を眺めたこともある。
だがこんなに、飢えも怒りも興奮も怯えもなく、ただひたひたと満ちる圧倒的な食の欲望に押し流されて、静かに穏やかに人間を食う人間は、まったく経験と想像の埒外にあった。
いったいなにが起きているというのだ。
呆然とするわたしをよそに、彼は一片の生肉を愛おしそうに口に含み、よく噛んで味わってから、
ごくん。
「‥‥‥ぱぱ」
生きたまま胸郭を割り開かれると、肺がふいごのように動いて空気を出し入れする機能が損なわれるので、人間はほとんど呼吸ができなくなる。呼吸ができなければ声が出せない。
出せないはずなのに、たしかに聞こえた。大の字に寝かされて臓物をすべて外気に晒し、父親に切り刻まれて食われていっている娘が、にっこりと微笑んでささやくのが。
「──────パパ、わたし、おいしい?」
ッギャギャギャギャぎゃりりりりりギギギィィィイイイ!!!!!!
その瞬間に、絶叫のようなブレーキ音が鳴り響き、車両の構造が強大な負荷にたわめられて激しく軋み、席から立ち上がっていたわたしは列車の床に投げ出された。
制動距離もへったくれもない無茶苦茶な停車。倒れたままわたしが頭を巡らせると、鉄の臭いがする火花を散らしながら列車がストップしたのは、突然現れた駅の構内だった。いつものあの煌々と明かりがついた乗換駅ではない。あそこはこんなにちっぽけではないし、こんなに暗くも不気味でもない。
線路は島を挟んで二本きり。痛んだ木造のホームには屋根さえなく、闇夜の漂流船を思わせるその上面いっぱいに突っ立つ、赤い無数の影、影。
(こ、こんな‥‥‥!)
目が慣れると、駅の細部が徐々に見えてくる。
ホームの向こう側には、かわいらしい狭軌の列車があった。華やかであったろう塗装はぼろぼろになり、車体は無残に破壊されてレールの上にうずくまっている。
娘の名前がかすれた方向幕に表示されていた。
駅側から伸ばされた無数の指先が隙間に食い込み、力づくで金属の扉がこじ開けられる。
目の前で破壊音を生じながらドアが全開になり、爪が剥がれた血まみれの手を先頭に、わたしの胸ほどの背丈しかない者たちが車内になだれ込んできた。
『ヴァア゛・あぁああああああああ゛あ゛アアアアア゛ア゛ア゛────────!!!!!!!』
奴らの、血も凍る咆哮。
恐怖心に突き動かされてわたしは這った体勢から強引に走り出す。どこへ逃げるかは考えになかった。
車窓をぶち割って飛び込んできた奴らが、襲ってくるというより降ってくる。
奴らの体重は軽い。数人を振りほどいた。だが、すさまじい握力で足首を、髪を、衣服越しに全身の皮膚をつかまれてすぐに動けなくなった。
(こいつらは、わたしたちだ。わたしたちの、変種‥‥‥!)
変種などいままで見たことも聞いたこともないが、駅を経由し、食われて列車に乗り込んできた以上は、ほかに考えられない。
小さく軽いということは、自身を構成する情報の総量が少ないということだ。おそらくこいつらには、まともな自我も記憶もない。だが従来のわたしたちと比べて、同じ輸送量の生物に多くの個体が乗車できる。
なによりも異様なのは、列車に対する桁違いの支配力だ。空気中に放散するフェロモンか、接触によってなんらかの媒介物を体内に送り込んだのか、こいつらは自分が乗っている娘から、わたしが乗った父親を操ってのけた。望んで我が子を食べるように。
必死で事態を把握しようとするわたしをよそに、駅の発車ベルが割れた音を響かせた。列車が走り出す。砕けた窓と壊れて開けっぱなしのドアから吹き込む風が、巻いてごうごうと唸る。
車中は奴らでいっぱいで、その真ん中でわたしが磔さながらに押さえつけられている。ものすごい力に、骨と関節が悲鳴を上げている。
(なんとか、こいつらの存在を同種に警告しなくては。一刻も早く。‥‥‥さもないと、大変なことになる)
もちろんわたしは、人類の未来を憂いているわけではない。
だが見えるのだ。
近い将来。食卓に座ったあなたが、皿の上のジューシーなステーキをナイフで切り分け、フォークで突き刺す。
その肉はあなたの両親や兄弟や子供かもしれないし、恋人かもしれないし、不意に隣に座ってにこにこと笑いかけながら、
「わたしを食べてくれませんか?」
と誘ってきた見知らぬ誰かかもしれない。
あなたが肉を噛みしめて、味わい、呑みこむ。同時にあの駅のプラットホームに、真っ赤な服を着た人影がペンキをぶちまけたように溢れ出し、ドアから窓から乗り込んで、先客たちを虐殺しながら列車を占領するのだ。あっという間に。
わたしたちは駆逐されてしまうだろう。
人間はどうだろうか。
“たっぷりと食べた僕は口元を血で汚したまま、娘だったものを抱き上げてキッチンに移動した。これから血を抜き、解体して、配るのだ。安藤さんや友人たちに。”
逃げようとあがいていたわたしだが、叶いそうにない。
頸椎にかかる力が増してきた。みしみしという断裂音。抵抗する体力はもう尽きた。
滅びに向けて軌道を駆ける列車の中で、わたしの旅が、終わる。
みしみし。みしみし。
────ごきん。
お読みいただき感謝です。
「生命の主体は遺伝子であり、肉体は遺伝子の乗り物に過ぎない」という説がありまして。この物語の主人公はそこから想を得ました。
いざ書いてみると、ハル・クレメンツの『20億の針』(というか大昔、子供のころに読んだジュブナイル版の『星から来た探偵』)に出てくる宇宙人みたいになりましたが。
なお、「肉体を持たない存在がなんで服を着てたり、身体があるような描写なんだよ」と思われるかもしれませんが、そこはホラーゆえの不条理ということで。
強いてこじつければ、生物に寄生する情報生命体が、自分を認識するときには仮想空間で人間の姿を模倣している、といった感じでしょうか。