追憶 ~十歳の喧嘩~
あの時、俺は嬉しくて泣き出しそうだった。
それを我慢するために、内に留めてしまった彼女への言葉。
「ありがとう」、と。
いつか素直に言えたらいいなと思った。
* * *
「クソがっ」
不意打ちで風の魔法弾が放たれた。
俺はかわし切れず、炸裂した衝撃波に吹き飛ばされて地面を勢い良く転がった。
口の中の砂と混じるジャリジャリとした血をペッと吐き捨てた。
体中に土と草の切れ端を纏わり付かせたままに立ち上がる。
「解ったろ? 魔法無しが俺達に敵う訳ないっつうの」
校舎の裏庭でゲラゲラと嗤う幼年学校の同級生、その貴族の子弟たる少年達。
クソつまらんことで始まった喧嘩。
俺に魔導銃を向けている茶髪のデブは俺の幼馴染のエリゼに好意を抱いている。
それで、いつもエリゼと一緒にいる俺が大層御気に入らないという話だった。
無視や悪評の流布から始まり、所有物の破損など、毎日余念なく俺への嫌がらせは続いた。
そしてその取り巻き達も常に追随して。
耐え続けた俺の堪忍袋の緒は、父さんから誕生日に貰った魔導杖を折られ踏み躙られたことで、切れた。
「……じゃねよ」
「何だヨハン? まっーたく聞こえねえぞ」
取り巻きとまたゲラゲラゲラと嗤う。
「バカが粋がってんじゃねえよ!」
右足の指先に魔力を一瞬だけ集中して地面を蹴る。
高速で彼我の距離を移動し、デブへ目掛けて左拳を振りかぶる。
「!?」
デブに遅い掛かる俺の真横で、取り巻きの一人が慌てて魔導短銃を俺へと向けていた。
そいつの失策を今度は俺が嘲笑する。
「この魔法無しがっ!!」
引き金が引かれ、風の魔術式が作動、風の攻性魔法が放たれる。
それは護身用に使われる、汎用的な非致死性の魔法。
魔導弓に比べて威力の落ちる機械式の魔導銃は、魔法を駆使する騎士や開拓者、そして魔獣に対して不十分な武器であるが、子供の喧嘩に行使するには埒外と評価される威力は備えている。
先ほどの俺のように、当たれば人間の振るう拳など比較にならない衝撃を受けるだろう。
(当たればな)
地面を蹴って跳躍。
眼下で狙いを外した風魔法の弾が、他の取り巻きを吹っ飛ばしていった。
宙に逃れた俺を追って、デブの魔導銃の銃口が追ってくる。
「このっ! このっ! このっ!」
流石は子爵家は騎士隊長の息子。
騎士としては不摂生の極みたる肥満だが、魔導銃の扱には素人のようなぎこちなさが感じられない。
すぐに頭が熱くなり過ぎるボンボンらしいクソ以下の自制心しかないデブは、外れた魔法が校舎の壁やそこら辺の花壇の草木を壊しているのに魔法の射出を止めようとしない。
騎士隊長の息子のくせに、全く以て騎士には適性が無いバカである。
「あっ!?」
魔法を掠らせもせずに接近した俺の右足が、デブの手から魔導銃を蹴り飛ばす。
デブの呆然としたアホ面に左拳を打ち込もうとしたとき。
微かな潮の匂いを嗅いで、すぐ後ろへと跳躍した。
それと入れ替わるようにして、俺のいた場所へと炎の槍が突き刺さる。
「おいおい……」
炎の槍が飛んで来た方向、花壇の方角を見る。
最初に脱落した取り巻きが、銃口から煙を上げる魔導銃を構えていた。
「ヨハン、ヨハン……、お前えっ!!」
打ち所が悪かったのか、額から血を流して目は正気を失い、言葉の切れた意味不明な叫びと共に魔導銃を乱射する。
もう一人の取り巻きは悲鳴を上げながら何処かへ逃げて行ったが、俺を仕留め損ねたデブは魔導銃を拾って同じように撃ってくる。
魔法の嵐の中を必死に逃げ回る。
風と炎が皮膚を掠っていくが、視線は二人を捉えたまま外さない。
「魔法無しが!! ? くそっ」
薄くなった弾幕。
取り巻きの魔導銃が沈黙する。
銃と、その使用者の魔力が尽きたのだ。
その隙へと踏み込んで距離を詰る。
瞠目し、硬直したその隙だらけの鳩尾へ握った右拳を叩き込む。
彼の身体は車に跳ね飛ばされたように吹き飛び、転がり続けて壁の端にぶつかった。
死体のように横たわる身体はピクリとも動かない。
右横からカチリ、カチリと音がする。
デブの魔導銃も魔力が切れたようだ。
「まて、まてよおいっ!」
握ったままの右拳。
魔力を込めたら、頭が少しクラッとした。
魔力切れになる予兆。
魔法による身体強化は回避の為だけに、それも一瞬だけのオンオフを繰り返して使った。
総量にすれば、デブが散々に使った魔法二発分にも満たない。
どれだけ身体を鍛えても、どれだけ技を磨こうとも。
この程度のボンクラどもでさえ、群れられると、手に余る。
「俺に手を出せばお前の親父がどうなるか解ってんだろうな!? 貧乏貴族の騎士爵家の衛士一人、どうとでもできるんだぞ!!」
ぴたりと、足が止まった。
「……」
デブの恐怖に青く引きつっていた顔が、血の色が戻ると共に傲慢な笑みへと変わる。
「そうだ、そうだぞヨハン。はははっ、家柄の差をよ~く考えろ。騎士爵家つってもな、子爵家からしたらゴミなんだよ、ゴミ」
ゴリッと音がする。
近づいてきたデブが、俺の目の前に立ち、右手に握る魔導銃の銃口で俺の額に突き付けられた。
「どうしたどうした? お得意の拳はどうした? 全く、魔法の使えない奴ってのは哀れでしかないな~。 おっと、猿を真似する魔法は使えるんだっけか? それ魔法って言えるんかよ。 ア―ハッハッハッ」
額を鉄の銃口が抉る。
血が流れ出し、鼻の横を伝いながら落ちていく。
「チッ。その目、本当に腹の立つ野郎だな!!」
「お前こそ。本当につまらない野郎だな」
「このっ」
魔導銃のグリップで左頬を殴られた。
「ハッ、クソだな」
殴った方のデブの顔が、真っ赤に変わる。
「ヨハンッ!!」
蛍の光よりも小さくて、陽炎よりもぼやけた魔力洸がデブの左手に灯る。
その呆れるほどに無様な強化魔法に包まれた拳が振るわれようとしたとき、複数の足音が近付いて来た。
「先生こっちです!!」
少女の声が聞こえた。
校舎の陰から数人の教師達と、一人の少女の姿が現れた。
「ッ」
デブが踵を返して逃げようとするが、あっという間に教師に捕まり取り押さえられる。
「ヨハンっ、大丈夫だった!?」
息せき切って少女が俺の所にやって来る。
心配そうに俺を見上げる朽葉色の瞳。
艶やかな長い亜麻色は所々が乱れている。
「……エリゼ」
エリゼ・ダーン。
俺の一つ年下の幼馴染で、その顔は人形のように整っている。
ペシエの中でも容姿の美しさにおいて、誰もが別格と誉め称える少女。
「兄さんがね、ヨハンが彼らに連れて行かれるのを見たって。だからティム先生を探してね……」
伸ばされたエリゼの右手が、俺の傷付いた頬を、額を触れる。
「ぐすっ。ごめんヨハン。遅れてゴメンね」
俺は左手でエリゼの頭を撫でた。
「泣くなよエリゼ。いや正直、ホントに助かった」
侯爵家出身で謹厳実直なティム先生ならこの場を治められる。
後で教師達による聞き取りなどがあるだろうが、俺にとってそう悪い形にはならないだろう、と思う。
「血が出てるよ。早く保健室に行こう」
「わかったよ。って袖を引っ張らないでくれよ」
エリゼに急かされ、ティム先生の方を見る。
デブを魔法で拘束し他の教師へ指示を出していたティム先生は、俺と視線が合うとコクリと頷いた。
それに頭を下げて、エリゼに引っ張られながら、俺は保健室へと向かった。
「ねえヨハン」
そう声を掛けて来たエリゼの顔は見えない。
「私、とても心配したんだよ?」
「……ごめん」
ちらりと見えたエリゼの目の端に、涙が見えた。
「ごめんなエリゼ。俺はもうお前に心配を掛けるような事はしない。……誓うよ」
……。
「……うん」
振り向いて頷いてくれたエリゼの顔は微笑んでいたけど。
でも流れた涙の跡が残っていた。
(誓うよエリゼ。絶対にもうお前を泣かせたりしない)
木漏れ日の道を抜けて、俺達は校舎に入って行った。
※次のエピソードから少し鬱要素が入るようになります。