妖しい道の駅がある山道
進むべき道が見えない時の不安や苦悩、絶望といった物は簡単に人の心を闇に落としていく。
ケイコは地元の大学に通う二年生だ。
彼女は昨年、遂に念願のロードバイクを手に入れた。ロードバイクという物は、学生が気軽に購入出来る物ではない。これを手に入れる為に高校時代からアルバイトなどをして貯めたお金は、大半を使い果たしてしまった。
ケイコには、どうしても叶えたい夢があった。それは、道の駅を巡りながら日本一周旅行をするというものだ。今回はその夢への第一歩として、いくつかの道の駅を一人で巡ってみる事にした。
必要な準備をしっかりと済ませたケイコは、いよいよ出発の日を迎えた。気持ちが昂っていくのを感じる。それに、もしかしたら素敵な出会いだって――そんな淡い期待も込めながら、ケイコはペダルに足をのせて漕ぎ始めた。
旅を始めてから数日が経過したが、ケイコは今日も順調に走り続けている。
旅の途中で寄ったいくつかの道の駅では、とても素晴らしい体験が出来た。
ケイコが本当に楽しみにしていた物の一つで、御当地名産の甘味を口にした瞬間などは、脳が最高の歓喜に満たされ続け、痺れる舌が言葉を紡げない程であった。
また、ある場所で見渡した風景は、まるで名画から切り抜いた様であったし、心地よい疲労感が極上のスパイスとなり、この世で一番幸せな瞬間を独り占めしているのではないかとさえ思った。
見知らぬ土地に一人きり――言い知れぬ高揚感が抑え切れない夜には、胸の鼓動が寝ている時でさえ鳴り止まないのではないかと心配もした。
今日はこの後、この旅一番の難所である山越えが待ち構えている。その先にある道の駅で折り返す予定だ。ケイコは気合を入れながらペダルを踏みしめる。
やがて山のふもとへ着くと、想像していた以上の勾配で道が続いており、ケイコは少し顔色を悪くした。
――この山道はやっぱり初心者の自分にはちょっと辛かったか。
進むか迂回するかで迷ったケイコだったが、ロードバイクを手で押しながら山道を登る事にした。幸い、計画はかなり余裕をもって立ててある。
突然大雨が振り出した。山道では良くある事なのだが、徐々に不安な気持ちがケイコに迫ってくる。
雨足は一向に弱まらない。生暖かい湿った空気が、ケイコの身体に纏わりついている。随分前から、汗も止まらない。
徐々に霧が立ち込め始める。ケイコは、山越えを決行した事に後悔を感じ始めていた。多分、まだ半分程度までしか登れていない。呼吸が一際荒くなり、全身の毛穴から脂汗が噴き出している。
ついに真っ白な濃霧となった。ケイコに出来る事は、舗装された道の上を歩き続ける事だけだ。あたかも水の中を歩いているかの様に、身体全体がこわばって動かしにくい。呼吸をする度に声も一緒に出てくる様になった。音を乗せた生暖かい吐息が、そのままケイコの首に絡みついている気がする。肩を上下させながら、何とか肺に空気を取り入れる。口へと吸い込まれた白い霧は、血管を通りながらケイコの体中を巡り、まるで彼女の存在全てが飲み込まれていく様に感じた。
ケイコの胸の鼓動はいよいよ、足元を揺らすまでになった。全く言う事を聞かない身体は、何かに乗っ取られているに違いない。息を吐き出したのか、吸い込んだのか、それすら覚束ない。身体を包み込む真っ白な底なし沼が、いよいよケイコの存在全てを飲み込もうとした瞬間に、微かに人の声を耳が拾った。
――おいっ! しっかりするんだ! 飲み込まれてはいけない!
耳元から届く声はとても心地よく、唇に何かが触れる感触があったのを最後に、ケイコはそのまま暗闇の中へと沈んでいった。
「目が醒めたかい」
男が、優しい声でそう語りかけてきた。
そちらへ視線をやる。意識が覚醒したのを感じたケイコは、混乱する頭の中から必要な記憶の糸を手繰り寄せ、それらを紡いで事実を確認してから答えた。
「えぇ……ありがとう。少し意識を失っていたみたい」
「ああ、危ない所だったよ。遠くに光が見えたから、急いでここまで来たんだ」
男はロードバイクをちらりと見てそう言うと、椅子から立ち上がり、ゆっくりと手を差し出してきた。ケイコは、差し出された手をつかみながら身体を起こすと、周りに視線を向けた。色々な木彫りの置物が目に映る。馬の首から龍の生えたもの、蟹が逆立ちをしているもの、大きな猫の背中にかえるが五匹乗っているもの。背後には、ぼろぼろに朽ちた木製の壁に大きな看板が掛かっている。錆びが大部分を占めているし、ペンキもほとんど剥げ落ちていて、文字は全く読めない。ケイコが横になっていた長いベンチも、ほとんど壊れかけているようだ。埃を被った照明が、部屋の中を妖しく照らしている。
「ここは――どこかの道の駅かしら?」
ケイコは彼に尋ねてみた。
「ああそうさ、僕のお気に入りの場所だよ」
「そうだったのね。こんな所にもあったんだ。地図には載っていなかったわ」
「そりゃそうさ。だってここは未知の駅だからね」
「なによそれ」
ケイコはふふっと笑った。
「さぁ、そろそろ霧が晴れる頃だ」
そう言いながら、男はケイコのロードバイクに鈴をつけてくれた。
「これでもう迷わないよ。じゃあ行こうか」
ケイコは胸がひどく締め付けられる
「またこの駅に来たら、あなたに会えるかしら」
彼は眉尻を下げながら、ゆっくりと首を振る。
「そうなの、残念ね」
ケイコは少し俯いて黙ってしまう。すると、男は言った。
「いや、これで良いんだ」
そうして男はケイコが来た道へと消えていった。
――名前くらい聞いておくんだったな、とケイコは少し後悔をした。唇に人差し指を触れながら、頬を淡く紅に染める。
やがてケイコは真っ白な霧を抜けた。そしてロードバイクに跨がると、まるで何事もなかったかの様に山道を一気に下り始めた。
鈴の音が爽やかな音色を奏でる。
不安や絶望を食らう怪異は常にあなたの隣にいる。未知に迷ってしまった人の手を引ける、みちびける様な存在に、私はなりたい。
そんなお話。