第五話 僕が職場を辞めたわけ
第五話 僕が職場を辞めたわけ
そんなこんなことがあり、梨原君と行ったラーメン屋から一か月ほどが過ぎたある日のことだった。それは梅雨に入って二週間ほど経った頃の―――もうすぐに物流関係の業種は繁忙期に入る頃、僕は仕事の始まる二十分ほど前の時間に来るようにと倉庫長から事前にから言われていた。そこは正社員用の詰所に、つまり僕は倉庫長に呼び出されたというわけだ。
「あれ?芦原さんも?」
「茂部さん?」
その正社員の詰所には僕の他に先客がいたんだ。それは他ならない芦原 沙和子さんという女の子だ。
「茂部さん、芦原さん。二人に来てもらったのはほかではないんだ」
そうして倉庫長は切り出す。いっさいの無駄な話をせずに、淡々と僕と芦原さんにその事実を突きつける。
「茂部さんと芦原さんは五時間勤務だよね。でもあなた方は来月から四時間勤務に変更することになるんだ」
「へ?」
僕の勤務時間を一時間短縮するっていうこと?
「つ、つまり給料が下がるってことですか?倉庫長・・・」
「苦渋の決断なんだよ、解ってくれ茂部さん、芦原さん。きみ達二人を雇用しつつ、人件費を抑えるにはこうするしかないんだよ」
「は、はぁ・・・」
それなら仕方がないかもしれないね。解雇になってしまうよりかたはマシかもね。僕は仕方ないねっていう苦笑いの表情を浮かべて芦原さんを見たんだ。
「ッ」
え?
「―――」
でも芦原さんのほうは本当に顔面蒼白になって、その蒼くなった唇をわなわなと震わせていたんだ。
「ちょっ・・・そんなの困ります。私にはどうしても月に十万円は絶対に必要なんですっ」
「でもね、芦原さん」
倉庫長は、解ってくれという苦渋の表情だ。
「そ、そんなの十万円ないと自分のえっと・・・あれを払えないんです!!私。・・・絶対に一日四時間なんてダメなんです!!」
そこから芦原さんの懇願が続くことしばらくして、やっとのことで倉庫長は眉間に皺を寄せた厳しい表情で語りだす。
「実はね、きみ達二人に福利厚生をかけるように、然るべきところからの指導があってね。今までのような条件にするにはきみ達を四時間雇用にするしか方法がなかったんだ」
「保険ですか?倉庫長」
「うん。芦原さん」
「福利厚生も困るんです。給料が下がる保険とか私要らないんで、保険をかけないでください。扶養家族から外れてしまうんですっ。ねぇ、それなら私を五時間から六時間にしてください。それで保険料を支払っても給料は十万円を超えるんですっ」
「でもね・・・芦原さん。う~ん」
倉庫長は本当に困り顔だったけど、最後の『考えておくよ』の一言で僕と芦原さんは、まるで追い払われるように、正社員室から追い出されたんだ。
「―――・・・」
思うところがあった僕は、業務が終わった二十時に、倉庫長をつかまえた。ちなみに芦原さんは機嫌悪く二十時になったらさっさと倉庫から帰宅してしまって、もうこの場にはいない。だから僕としてはちょっと都合がよかった。
「倉庫長。ちょっと話があるんです」
「茂部さん?」
「あの・・・」
僕は周りを確認すると、何人かの同僚の姿が見える。同僚には僕の話を聞かれたくなかったんだ。だから僕は―――
「大事な話なんです。ちょっと外に出ませんか、倉庫長」
僕はそう言って倉庫長を倉庫の外へと連れ出したんだ。そうして怪訝な表情の倉庫長を前にして僕は喋りだした。
「あの、倉庫長。もし僕がこの倉庫からいなくなれば、芦原さんを福利厚生つきで六時間にしてあげることってできないでしょうか?」
「―――茂部さん。きみ―――」
倉庫長の顔が怪訝なものから驚いたような表情になったんだ。そして、真剣な顔に。
「それはまぁ、可能だけど―――いいのかい茂部さん? ここの職場を辞めるってことは、四十代で職を失うことと同義だよ?」
その深い意味を僕は解っているよ。でも、それよりも僕は芦原さんのためになにかをしてあげたかったんだ。こんな僕でもなにか人の役に立てるようなことが。
「はい。解っています」
僕は真剣な顔と、腰を折り深々と頭を下げることで、その覚悟を倉庫長に示したんだ。
「―――解ったよ、茂部さん・・・」
倉庫長は神妙な声でそうつぶやいたんだ。
「今までお世話になりました、倉庫長。くれぐれも芦原さんのことはよろしくお願いします。それと僕が言ったことは、芦原さんやみんなにも伏せておいてくださいね。お願いします」
僕は自分の言いたいことを言ったあと、ふぅっと頭を上げてもう一回一礼すると、踵を返そうと、身体をよじったときだった。
「茂部さん」
「倉庫長?」
そのときに倉庫長が僕の名前を呼んだんだ。
「一つ。茂部さんが芦原さんにそこまでする理由を私に聞かせてくれないかい?」
その問いに僕は―――ちょっと言いよどんだけど。意を決して口を開いたんだ。
「あの、なんていいましょうか。僕は四十五歳のおっさんですけど、そんな僕にも護ってやりたいと想う人が、同僚にいるんです。その女の子は小柄なのに一生懸命に荷物を持とうとして頑張ってるんです。だから、僕はそんな芦原さんを―――ははははっ。・・・まぁ、そんなところです」
僕は苦笑交じりで最後だけは言葉を濁し、足早にこの二十年近くアルバイトとしてだけど、勤めた倉庫と倉庫長の前から立ち去ったんだ。足早に立ち去った理由は、倉庫長に話したことが恥ずかしい内容だということ、それともう僕はこの倉庫の関係者じゃなくなったってことだ。
「ありがとう・・・僕の天使。さようなら―――」
そうして僕は家へと続いていく道に愛車の自転車を躍らせたんだ。まぁ、百万円ほど口座にあるんだ。僕の家賃は三万円だから、あと三年ぐらいは住める。そのときまでにはきっと次の職場が見つかるってば。
このときの僕はそんなことを思っていたんだ。その考えが甘すぎるものだということは全く知らずに―――・・・
僕が倉庫を去ってから早三か月が過ぎようとしていた。もう九月の終わり頃で季節は夏を通り越して秋に近づいていく頃だ。昼間の最高気温も三十度を下回るようになって、七月八月の盛夏の頃よりはだいぶ過ごしやすくはなってきている。でも昼間はまだまだ汗ばむ気温だ。でも僕の新居には冷房も除湿機もない。あるのは実家に置いてあった今にも火を噴きだしそうな古いタイプの扇風機だけだよ。その扇風機を長時間稼働させているだけで、上部が熱くなる。
「はぁ・・・」
僕はため息を吐きながら公営の職業安定所の自動扉から外へと出た。今日も、うまくいかなくてダメだった。職業安定所の職員の人に、いくつかの会社に電話をしてもらうものの、面接にこぎつける前に会社の人事対応の人に『あぁ、四十五歳の男性で、資格も持っていない方ですか。すみません、その条件の方の採用はありませんね』と言われて電話を切られてしまう。
職業安定所を出た僕は、昼下がりの街中をとぼとぼと帰路に着く。僕の周りではスーツを着た同年代のサラリーマン達が、昼ごはんを求めて街中を闊歩しているんだ。それに比べて僕は・・・。
「今日の昼飯は私の奢りだからね」
「ほんとですか?部長っ!?」
などと、僕の同年代の人は何人かの部下達を引き連れて高そうな小料理屋に入っていく。僕には敷居とお金が高すぎて入れないお店だ。あの人も僕と同じ年代の人なのに―――僕とは次元がなにもかも違っているんだ。あの同年代の人はきっと奥さんも子どももいるんだろうなぁ・・・。僕は―――、僕は若い頃いったいなにをして過ごしていたんだろう・・・。
たとえるならあの人は綺麗な透明な翅が生えて空を飛べる美しい昆虫だ。そんな美しい昆虫は虫捕り網を持った子ども達には大人気の、トンボ、セミ、カブトムシなどの空を飛ぶ昆虫だ。
かたや底辺の僕には翅もなく、力強い脚もなく、ただ短い脚で地面を這い回ることしかできない地虫だ。地虫のような隠棲虫は太陽の光さえ眩しくて、その陽光を浴びるとすぐに干からびて死んでしまう。僕はそんな底辺に生きもがく地虫だ。
「僕は・・・なにをやっていたんだろう―――若い頃。まだ幼虫のような学生の頃―――・・・」
自転車を漕ぐ僕は。―――徐々に家に近づくにしたがって坂道の角度が増してくる。最近の僕はその坂道を愛車で漕ぐことに疲れを感じるようになってきたんだ。僕は愛車から降りると、自転車のハンドルを手に取った。
「これが年を取るってことなのかなぁ」
これは僕が四十五歳の九月二十八日の昼下がりのことだったんだ―――