第一話 僕がこうなったわけ。
第一話
母さんが逝った。父さんはとっくに僕がまだ三十代の頃に亡くなっている。三日前は母さんの葬式だった。
「・・・・・・」
僕は弟から分骨してもらった母さんの小さな骨壺を、脚の間に置いたままぼうっとどことなく見つめていた。いろいろと考えないといけないことはいっぱいあるのに、いろんなことが同時に浮かんでくるせいでなにも結局僕は無為にして何もできない。
「あぁ・・・」
小さな目覚まし時計が目に入った。もう十三時だった。もうすぐ仕事だ。僕はアルバイトだから忌引きなんて制度の対象外。母さんの死で三日休んだ僕は一万五千円が手に入らなくなった。ちょっと悲しい。
「はぁ―――」
僕はこれからどうしよう。母さんが死んじゃったから、年金もなくなったし、家庭を持っている弟と妹には頼りたくないし―――・・・僕は。項垂れる僕の視界に入るものは、僕の服を着たお腹からズボンを履いた下半身だけだ。
それは僕がアルバイトを終えて家に帰って来たときだったんだ。母さんは、すでに居間で倒れていて、僕は大慌てですぐに救急車を呼んだんだけど、そのまま病院で帰らぬ人になってしまったんだ。
僕が今まで母さんと住んでいた家は公営住宅だった。母亡き今、六十五歳以下の僕は公営住宅を追い出されることになったんだ。だから、僕は今、家賃三万円のおんぼろアパートを見つけ、今はそこに住んでいる。でも上に住んでいる人の足音や隣に住んでいる老夫婦の会話や咳払いが薄い壁を簡単に突き抜け、つーつーで僕の耳に聞こえてくる。昭和四十年代に建てられたアパートはだいぶガタがきていて隙間風も入ってくるし、酷い雨のときはぽたぽたと窓際から雨漏りをする。
僕の誕生日は来月の二十二日だ。来月の二十二日で僕は満四十五歳になる。僕は一応大学を四年間で卒業している。でも、僕は大学在学中の就職活動中に内定を貰えなかったんだ。だから、僕はそのままアルバイトを転々とし、今のアルバイト先で五つ目だ。時給千円の五時間。一か月の給料、十一万円は上限ぎりぎりで保険制度の適用範囲内なのに、なぜか僕のアルバイト先は年金制度も保険制度も僕にはかけてくれない。
しかも僕は四十四歳だからどれだけ困窮していても、六十五歳以上入居可の市営住宅や公営住宅には入居できないし、公営の交通機関も全くもって安くはならない。どれだけ僕が困窮していても、配偶者がいなければ条件の対象外だ。僕が大学生の頃や二十代の頃は、世間ではいわゆる『氷河期』と言われていた頃で、その頃に次々と、働き方改革が行われたんだ。一度、線路から外れると僕みたいになる。
「こんな世の中に誰がしたぁあああッ!!」
僕は独り叫ぶ。
「ッ!!」
そのとき上の人のドンドンと足を鳴らす音。たぶん僕の心の思いの丈が上の人にも聞こえたみたい。
「やったっ!!」
僕は思わずガッツポーズ。上に住む人は僕の思いの丈を聞いてくれたんだ!! こんなにも嬉しいことはないってば。だって、こんな話を職場の人ともよくするんだけど、話し合えば話し合うほどに、互いの気分が滅入ってくるんだもん。
さて、時間も押していることだし、しかたないアルバイト先に行くか。僕は立ち上がり、台所へと向かった。古い昭和時代の水道の蛇口をひねり、一リットルの空ペットボトルに水道水を入れた。これが今日の職場での僕の飲物だ。
ついでに実家から死ぬ思いでこの新居のアパートに運んできた、くそ重い冷蔵庫の扉を開き、昨日の仕事帰りにスーパーに寄って買ったアンパンを取り出した。そのアンパンは半額シールが貼り付いている。
「よしっ!!」
思わず僕はガッツポーズをした。この半額シールのアンパンを見つけたときは飛び上がるほど嬉しかったんだ。僕は十五時にアルバイト先に入り、二十時にあがる。帰りしなにまたスーパーに寄って値引き商品を探そう。
僕はそんなこんなでアルバイト先に行く準備を終え、このいつも軋むぼろアパートの扉を閉めた。別に盗られるものもないしさ。あ、でもあの冷蔵庫と同じく実家から持ってきた現役十年選手になる洗濯機と電子レンジを盗られたら困るけどね。
僕は海の方へ倉庫街にあるアルバイト先に着いた。僕の仕事先は物流関係だ。僕は運転免許を持っているものの、車は運転したことがないから時給千円五時間の荷物の梱包や仕分けの仕事をしている。運送トラックの運転手になれたら今より時給は高いし、働く時間も長くなるんだけど―――。
「こんにちは。チーフ」
僕はこのアルバイト先のチーフにぺこりと頭を下げた。
「あ、茂部さんじゃないですか。こんにちは」
僕が挨拶した彼は、元々は僕の後から学生アルバイトで入ってきた子だった。でも、今の彼は正社員だ。つまりはアルバイトから正社員になった子だ。僕の後輩が今では僕の上司だ。
「あ、うん。梨原君、こんにちは」
「茂部さん、仕事帰りにいっぱいやっていきませんか?」
梨原君は自分の口元に、右拳を持っていきぐいっと煽る仕草を僕に見せた。
「な、何言ってるのさ、梨原君。梨原君も知ってるでしょ?僕はお金なんかないよ」
それでも梨原君はいやらしくにやにやしながら、僕に近づいてくる。ちなみにこの職場で僕に話しかけてくれる人は、この梨原君ぐらいしかいない。梨原君は中々に人懐っこい性格で、誰でも臆することなく、話しかけるいい子だ。でも、うっとうしいときもあるけどね。
「えっと茂部さん、家賃が三万円ですよね? それから食費が三万円。それと光熱費が二万円―――毎月三万円は余りません?」
梨原君は、指折りで三、三、二と数えだす。
「いやいや、そんな残るお金なんてあってないものだってば」
「久しぶりに茂部さんとお酒を飲みに行きたかったんですが・・・」
「ごめんよ、梨原君・・・」
「いいえ・・・」
梨原君は本当に残念そうな顔をしながら、正社員用の机に戻っていった。さてと、梨原君が僕の前から去っていったあと、僕は柱についている掛け時計を見やった。今の時間は―――
「十四時四十五分か」
あと十五分で仕事が始まる時間だ。僕はタイムカードに時間を印字した。えと、確か僕の今日の担務は、と。
「・・・」
僕はタイムカード印字機の横に置かれている担務表を覗き込むようにして見たんだ。僕の名前『茂部 影』は、と―――あ、見つけた。
「―――・・・」
そこで僕は固まった。僕の今日の担務は梱包係だ。梱包係とは、運ばれてきた剥き出しの商品をダンボール箱に丁寧に、緩衝材と商品を一緒に詰め込んで、紙テープで止め梱包していく作業だ。今日僕と一緒に詰める相棒の人の名前を見て僕は固まったというわけだ―――
「どけ」
後ろから若いにーちゃんの声がする。この声の主は、今日僕と一緒に梱包係の仕事する人だ。でも、この子のどけって僕に言ってるのかな?
「だからどけって。邪魔なんだよ、おっさん」
「え?」
僕は、そのにーちゃんに二回言われてやっとこさ、気が付いたんだ。
「~~~・・・」
僕はこの若いにーちゃんにおそるおそる振り返ったんだ。この若いにーちゃんの名前は今池君っていうんだけど、この子は血の気が多いし、耳にピアスの痕がいっぱいあるし、茶髪だし、できれば僕があまり関わり合いになりたくない怖い子だ。
「はぁ、ふんふふん」
僕は、できればこの今池君を曖昧にやり過ごしたい。だから今池君にちゃんとはっきり返事することなく、『はぁ、うんうん』と小さく右手を上げながらその場から離れた。僕は、怖い今池君と関わり合いになりたくない。だから、僕が今池君に話しかけられたときは、僕はいつも言葉をはっきりさせないで口をもごもごさせてやり過ごすんだ。
「ちッ」
今池君は眉間に皺を寄せながら舌を鳴らすと、風を切るように歩いていって担務表の前まで来てその場に陣取った。
「・・・」
僕はなにか悪いことでもしたのかな?全然自分じゃ分からないし、もし今池君の癇に障ることをしていたとしてもまるで自覚がない。
今池君の体格も普通だし、背丈も平均身長ぐらい。僕にはいつもきつくあたってくるけど、なんでかかなぁ他の人の受けは中々にいいんだ、この今池君って子は。僕にはあたりがきつい子だけど・・・。
時間が十五時に近づけば近づくほど、この職場でアルバイトをする人達が集まってくる。だいたい二十人ぐらいがこの物流倉庫でアルバイトをしているんだ。こんなところでアルバイトをしているような人は、たいていがダブルワークの人か、もしくは僕と同じ就職負け組で親と同居しながらアルバイトをしている人だ。たまに学生をしながらアルバイトとをしている子もいる。こんな汗水垂らす肉体労働だから、女の子はほとんどいない。いるにはいるけど、みんな主婦の中年の女の人だ。でも、そんな中でも何人か若い女の子がいる。その女の子は、シフトの都合上で今日は出勤日じゃないみたいだけど。
僕がいろいろと物思いに耽っている間に、十五時がやって来たみたいで、さっき僕に話しかけてきてくれた梨原君と、この梱包倉庫の倉庫長が奥にある正社員専用の詰所から歩いてやってきた。そして正社員二人の登場で、今日の仕事内容の軽い打ち合わせミーティングが始まったんだ。
「―――」
今日の僕の相棒の今池君は終始不機嫌そうな顔で、僕に喋りかけてくることもなく、黙々と商品をダンボール箱に入れていく。
「んっしょ」
僕は今池君が荷物を入れたダンボール箱を紙テープで巻いていく。紙テープを貼る位置は底の三点だ。まず横に一本それと角に二本。荷物もナットとかボルトといった金属製の物もあるから、しっかりと紙テープで貼り止めしておかないと、重みに耐え兼ねて底が抜けてしまうんだ。しかも、ダンボール箱が重いから、んっしょって僕は掛け声をかけないと重くて持ち上げられないときがある。
「んっしょ」
これ、重たいなぁ。何が入ってるんだろう。まぁ、中身は見ることはないけど、だって、この荷物は僕の荷物じゃなくて誰かの荷物だから。
「んっしょ―――ッ」
突然の衝撃が僕に走る。言う前から蹴ってるし・・・今池君。
「うっせぇッ」
「うわ・・・っ」
蹴られた僕はしゃがんでいた体勢を崩してその場に尻餅をつく。
「あいたたたた・・・」
本当に突然のことだったんだ。僕の尻に今池君の足が飛んできたんだ。僕の太ももから尻にかけて、今池君の安全靴の靴底のスタンプが一つできた。
僕は無言で起き上がった。
「ごめんよ、今池君。ひょっとしてうるさかったかな?」
「―――」
でも、今池君は何も答えず、僕には視線すら合わせようとしない。まぁ、でもさっきの蹴りの強さから見て、今池君も手加減してくれたことは僕には解っている。でも尻もちをついてしまったお尻が痛い。今池君は血の気が多い子だ。ときどき倉庫内でも怒鳴っているのを見かける。僕は怖いから近づかない。
「・・・」
僕は座り直して再びこの梱包作業を続けるのだった―――。
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「お疲れさまです」
五時間後のちょうど二十時になった。僕は梱包作業の手を置き、立ち上がる。僕は十五時から二十時までの勤務契約になっている。今池君は七時間勤務だから、勤務の真ん中に短い休憩があり、二十二時までが彼の勤務時間だ。僕もこの七時間勤務をしたいとは思っている。なんせ母亡き今は、ちょっとでも収入があったほうがいいからさ。でも、梨原君や倉庫長へ、要望を出せる勇気がないんだ。後ろを振り返れば、荷物を入れ、梱包するダンボールはまだパレットの上に山ほど載っていた。でも、僕はこれ以上の作業はできない身分だから帰るしかない。まだこんなに残っている山積みの梱包作業を今池君一人にやらせるのは気の毒だけど。
「あぁ~」
僕は腰の屈伸をし、腰をさすった。
「ちッ!!」
またも今池君の不機嫌そうな舌打ちだ。僕はなにか今池君の気に障ることでもしたのかな?よく分からない。僕がその梱包作業場を離れたとき、違う作業場から違う人が一人やってきて僕の作業を引き継ぐ。
「茂部さんの引き継ぎは俺がするわ」
「もっと早くきてほしかった、的場くん」
「ごめんごめん―――今池くん」
「・・・」
その的場という人も僕と同世代だけど、なぜか今池君とは仲がいいんだ。今池君と、そのあとから来た的場君、その二人は楽しく喋りながら梱包作業を始めた。僕はそれを後目にタイムカードを印字し、そのまま倉庫の出入り口から帰宅したんだ―――。