花の丘 〜刹那〜
読む方によってはバッドエンド、すっきりしない終わり方に思われるかもしれません。苦手な方はご注意ください。
青ノ民。この世の全てを見透かすが如く深い深い青の瞳を持つ民。それはかつて人々に化け物と恐れられ、迫害され、冷たい海の底へと追いやられた一族。
彼らは人間離れした強靭な肉体と極めて高い身体能力を持つ。心臓を刀でひとつきされたとしても決して死なず、その傷は瞬く間に消えると言う。
青ノ民は水中に溶けたわずかな酸素でも生きられる。そのため彼らは相入れぬ人間たちと暮らすことを早々に諦め、水底に引きこもったのだった。
今となっては数ある言い伝えの一つに過ぎぬ。それでも、今も只人に混ざって生活する青ノ民がいると言う噂話はいつになっても絶えぬのだった。
「青ノ民…」
声が震えた。
声だけではない。あやめは目の前に立つ愛する人を見て、全身の震えを抑えるのがやっとだった。
盗賊に襲われていたあやめを庇った青年は、確かに刀傷を受けたはずだった。只人なら立っていられないほどの深手のはずだ。
しかし彼はすぐに立ち上がり、盗賊が振るった刃を素手で打ち砕いたのだった。
盗賊は化け物、と吐き捨てるとそのまま逃げていった。
「あやめ、怪我は?」
青年は差し出しかけた右手を引っ込めた。血で汚れた手を見て、あやめが怯えたのに気づいたのだった。傷は治っても、流れた血が消えるわけではない。
そんなあやめを見て、青年は寂しそうに微笑んだ。
あやめは怯えてしまった自分を恥じた。彼は助けてくれた。あやめのことを身を呈して守ってくれたのだった。
「有さん…」
あやめが呼びかけると、長身の青年は膝をついて目線を合わせた。
「今まで黙っていてごめん。君が無事で良かった」
青年は汚れていない方の手でそっとあやめの頬に触れると、立ち上がった。
「さようなら」
そのまま背を向けて歩み去ろうとする。
彼が行ってしまう。
(行かないで…)
このまま別れてしまったら、二度と彼には会えなくなる。あやめはなぜかそんなふうに感じた。
あやめは駆け出した。後ろから青年の首に縋り付く。
「有さん‼︎」
青年は驚いて振り返った。
「あやめ…」
去って行く彼を見て、はっきりわかった。
「私、有さんが好き」
あやめは有の右手を自分の両手で包み込んだ。今度は怯えずに。
しっかりと彼の瞳を見つめた。
「愛してる。あなたが何者であっても。この気持ちは変わったりしない」
あやめがもう一歩踏み込み、最後の距離を埋めると、有はそっと抱きしめ返してくれた。
「ありがとう…」
彼の囁きは、少し掠れて地面に落ちた。
あやめの恋人は青ノ民だった。
有の瞳は青ではなかった。光の加減で紫紺に見えぬこともなかったが、黒に近いごくありふれた色彩だった。
そのことについてあやめが尋ねると、彼からは
「青くない瞳を持つ子が生まれることもある」
という答えが返ってきた。
あやめは何も変わらないと思った。有が青ノ民と知らなかった頃と。
だって彼はただの人間と何ら変わりないから。ほんの少し人より丈夫で力が強いだけ。瞳の色すら、変わらない。
この時のあやめは、これからもずっと有と共に時を重ねていけると信じていたのだった。
「もう、来ないでくれ、巴」
そんなある日、あやめはそう言われて有のそばを去る美しい女を見た。こちらに背を向けている有の表情は窺えない。しかし、彼の声は普段あやめにかける穏やかな声とは違い、冷たく硬質だった。
ただならぬ雰囲気を漂わせる二人に、あやめはとっさに木陰に身を隠してしまった。あやめとの約束の時間を前に、彼が会っていたあの人はいったい誰なのだろうか。
「あやめ」
振り返った有があやめに気づき、声をかけた。
「有さん、今の人は…?」
あやめが尋ねると、有は少し困ったような表現を浮かべた。
「ただの古馴染みだよ。心配いらない。もう来るなとはっきり言ってやったのだからね」
彼はそう言って頭を撫でてくれた。しかし、あやめの胸は妙にざわつくのだった。
(綺麗な人だったな…)
翌日、あやめは昨日の出来事を思い出しながらぼんやりと歩いていた。
昨日見た女は、最先端の流行りを取り入れた西洋ドレスに身を包んでいた。蔓薔薇の髪留めは、絹のように艶やかで赤みがかった光沢を放つ彼女の髪を引き立たせていた。上品さを保ちながらも、見る人に垢抜けた印象を与える。
それに比べて、あやめは自分の格好を見て溜息を吐きたくなった。
よく言えば真面目、悪く言えば地味で典型的な女袴姿。洋服などとても着られない貧相な身体付き。
(あんな人が古馴染みだなんて)
不安になる要素しか無い。よく考えてみたらあやめは有の好みも、出会う前の過去も何一つ知らないのだった。
そんな風に考え事をしていたあやめは、突然頭上から降ってきた声に驚いて我に返った。
「ねえ、ちょっと私とお話しましょう?」
見上げると、木の上に腰かけた女があやめを見下ろしている。
「巴、さん…?」
有は確か、この女をそう呼んでいたはずだ。
「あら、嬉しいわぁ。覚えていてくれて」
女は木から飛び降り、一足飛びにあやめの目の前に迫った。にっこりと、妖艶に笑って言う。
「付き合ってくれるわよね?」
あやめは巴に連れられ、人気のない丘にやって来た。
「いい眺めでしょう?」
彼女の言葉通り、青い花の咲き乱れる丘は美しい。あやめはしばし、その眺めに見惚れた。
「ここね、昔よく有と来たのよ」
「有さんと…」
「そう、有と。私は彼をずっと前から知っているわ」
巴は含みを持たせた口調で言った。その視線は意味ありげで、挑戦的で…
(これは、牽制?)
有のことを何も知らないあやめに比べて自分は何でも知っているのだと、巴はそう言いたげだった。
「…それが言いたかっただけなら、帰らせていただきます」
あやめが踵を返すと、後ろから腕を掴まれ、引き止められた。
「放してください!」
巴の腕を振りほどこうとしたあやめは、いくら頑張ってもそれが叶わないことに気づいた。あやめが力一杯抵抗しても、巴は涼しい顔を崩さない。彼女の力は、それ程までに強かったのである。
ぞくりと背筋に悪寒が走った。
「あなたは…」
ざあっと吹く風に煽られ舞う花弁を映して、普段は赤みがかって見える彼女の瞳が、一瞬青く染まった。
巴は肩にかかる長い髪を払った。
「青ノ民よ、人は私をそう呼ぶわね。有とおんなじ」
巴が一歩踏み込んで来た。俯くあやめを覗き込むようにして、顔を近づける。
「あなた、本当に有を愛してる?」
「愛しているわ!」
その問いには、断固として答えた。他の何が劣っていようとも、この気持ちだけは負けない。あやめは有が青ノ民と知りながら、共に生きることを選んだのだった。
「そう」
巴は揺るがないあやめを一目見て、素っ気なく身を離した。
「だったらあなたは身を引くべきよ。愛しているなら、なおさら。だってそうでしょう?」
「どういう、意味…?」
わけがわからずにいるあやめに、巴は目を見開いた。
「嘘?あなた、まさか知らないの?」
「え?」
巴はひどく滑稽なものを見たように笑い出した。
「何が可笑しいの⁉︎」
あやめが睨み付けると、巴は目を拭って答えた。
「ハハ、そんなことも知らずに有を、色褪せた子を愛しているだなんて。これが笑わずにいられるかしら」
「アデューン・アイ?」
耳慣れぬ言葉に、あやめは眉根を寄せた。
「いいわ、知らないなら教えてあげる。色褪せた子っていうのはね…」
巴は自分の瞳に触れた。その表情が、まるで忌まわしいものに触れたかのように歪む。
「青くない瞳を持つ子供を、青ノ民がそう呼ぶのよ」
色褪せた子が何故、人に混ざって地上で暮らすのか。その答えを聞いたあやめは、自分の胸を押さえた。
(本当に、私は何も知らなかった。彼の苦しみを一つも知らずに、ただ優しさに甘えていただけだった…)
色褪せた子は、水の中では生活できない。同族と暮らすことはできないのだった。だからといって、地上で只人と全く同じように生活することもできない。青ノ民だと露見したなら、人から恐れられ、化け物だと罵られてしまう。
色褪せた子は、あやめの想像を絶する程に孤独な存在なのだった。
それでも…
「それでも、一緒にいることはできます」
あやめは顔を上げて言った。
「私は絶対に離れない。たとえ人と暮らせなくなったとしても、私は有さんについて行く。私だけは、有さんとずっと一緒にいます」
彼の孤独を、埋めてあげたかった。
しかし、巴は冷たく言い放った。
「無理よ」
「どうして⁉︎」
「不可能なの」
巴は頑なだった。彼女の態度に、あやめもついカッとなってしまった。
「…あなたも、人間に裏切られたんですか?だから人が信じられないんじゃないですか⁉︎」
「やめて‼︎」
巴は耳を覆った。
「そんなんじゃないわよ…」
伸ばした前髪が、俯いた巴の表情を隠す。
あやめはしまったと感じた。彼女もまた色褪せた子。ここであやめが傷つけるようなことを言ってしまったら、人間と青ノ民がわかり合えないという証拠を与えてしまう。
「あの、巴さ…」
「あなたは有を置いて行く。それは決まっていることなのよ」
巴は譫言のように不可能だと繰り返す。
あやめはその様子に困惑した。ただあやめと有を引き離したいだけならば、始めのように自分がいかに有に相応しいか、意気揚々と語れば良い。あやめが何も知らないことを責めれば良い。
(青ノ民には、まだ私が知らない何かがある…?)
巴の、あやめが有を置いて行くという確信の元。あやめはその理由を知りたかった。
冷静さを取り戻し、巴に尋ねた。
「…理由を、聞かせてくれませんか?」
巴はゆらりと顔を上げた。乱れた髪の隙間から、不気味なほどに光を失った瞳が覗いた。その口元が、不自然に引き上げられる。
人に対する嘲りなのか、諦めか哀れみか、はたまた自嘲の笑みなのか。あやめには、とてもその心を計り知ることなどできなかった。
巴はゆっくりと口を開くと、囁いた。
その口から語られた青ノ民と人間の決定的な違いを聞いた時、あやめは彼女の絶望の一端を思い知らされたのだった。
数日の後、あやめは有をあの美しい丘に呼び出した。
「あやめ、どうかしたの?」
呆けたように、咲き乱れる青い花を眺めていたあやめに、有が声をかけた。
「ううん、何でもないわ。何でも…」
慌ててそう答えかけ、ぐっと息を飲み込む。言わなくてはならないことがある。愛しているからこそ…
「有さん、ごめんなさい」
「何が?」
「私と、別れてください」
顔を上げられなかった。
あの時、巴はこう言ったのだ。
『青ノ民の寿命は千年なの』
『あなたが年老いて死んだ時、有は独りになる』
『あなたは有を不幸にするわ』
あやめはそれを聞いた時、目の前が真っ暗になった。
(だってそんなのって、どうしようもないじゃない…)
どんなに共にいたいと願っても、どんなに愛していても。あやめの寿命は、彼の十分の一にも満たない。
出てこぬ言葉を振り絞ってなおも言い返そうとするあやめに、巴はこうも語った。
『言ったでしょう?色褪せた子は孤独だって』
『同族に見放され、親にまで見捨てられて。今度は恋人に置いて逝かれるっていうの?あなたはそんなことを有に耐えろと言うつもり?』
もう、何も言えなかった。言えるはずもなかった。
『刹那の恋など要らない』
巴はそう吐き捨てた。
『これ以上、あの人を苦しめないで』
その言葉は、あやめの心に重くのしかかった。
「…どうして?」
有は静かに尋ねた。
「あなたが、私のことを動物のようにしか愛していないとわかったから」
あやめの答えに、有はさっと顔を強張らせた。
「そんなわけないだろう!どうして急に」
「だってあなたは言ってくれなかった!あなたが千年もの時を生きるなんて、私は知らなかった!」
有が、あやめの肩を掴む。
「巴だな、あいつが何か言ったんだろう?真に受けるな。おれを信じてはくれないのか⁉︎」
「…色褪せた子」
あやめのその呟きに、有は明らかに怯んだ。弱まった有の腕を振り払い、冷たい目で彼を見る。
「信じられない。あなたは何も教えてくれなかった。寿命のことも、色褪せた子のことも」
背負っている苦しみも、何一つ。
「そんな人を信じられると思う?私が老いて醜くなっても、あなたは若く美しいまま。どうせ私のことなんて見捨てるのよ」
(どうか私を憎んで)
「あなたといたら気が狂いそうよ」
(どうか私を忘れて)
「私は私と同じ人間といた方がずっと幸せになれる」
(そしてどうか…)
「だから、さようなら。もう私の前に現れないで」
(幸せになって)
追い縋る彼の手を振り切って、あやめは背を向けた。
泣かないように、少しだけ上を見て歩き出す。
「あやめ」
有の声が追いかけて来た。あやめは歯を食いしばり、振り向かない。
「一つだけ、教えてくれないか?」
あやめは足を止めた。
「何」
「君はおれを愛してた?君は信じなくても、おれは君を愛していたよ…」
知っている。そんなことは、痛いほど。
愛してなどいなかった、全然本気じゃなかったと、本当はそう言わなければならないはずだった。それでも、あやめの口をついて出た言葉は…
「…愛していたわ」
今も、これからも、ずっと。
(世界で一番、愛してる)
「約束してくれ。本当に幸せになると」
「ええ、約束する。だからあなたも私がいないところで幸せになって」
「…おれの幸せは君だったよ」
涙が滲んだ。あやめは慌てて、早足で歩き出す。
しかし、数歩のところであやめの足は止まった。
「⁉︎」
突然跳躍して追いかけてきた有の腕が、あやめを捕まえたのだった。
彼はあやめの耳元で囁く。
「青ノ民との約束を、安易に破らない方がいい。冷たい水の底に、連れ去られたくないのなら」
「有さ…」
どこからともなく風が吹いた。青い花が散り、舞い上がる。
突風と共に、彼の姿が消え去る。振り返ってももう、跡形もなく。
「有さん」
(有さん、有さん、有さん)
あやめは溢れ出る涙を手で拭うと、空を見上げた。
(後悔は、しない…)
数年の後。
あやめは花嫁装束に身を包んでいた。隣を見上げると、少し緊張した面持ちの男性があやめを見て微笑む。
その人は、あやめの心の奥底に忘れられない人がいることを知っていた。それでもいいと言ってくれた人だった。有とは違うけれど、底抜けの優しさを持つ人。少し不器用で、でも真面目でとても誠実な人。
あやめはこれからこの人と生きていくのだ。
(私は幸せにならなくちゃいけない)
この人とならできる、あやめはそう思った。
あやめはその人に微笑み返した。少し成長したあやめの微笑みは、美しかった。
それからまたいくつかの季節が流れ、すっかり大人になったあやめは息子と共に公園に来ていた。
「お母さまー」
人工池の柵の側で手を振る幼い息子に手を振り返す。
あやめはなんとなく、晴天の空を見上げた。その青はいつか見た花を思い出させる。
息子の方に視線を戻した時、あやめは自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。
息子が、いない。
「有助⁉︎」
あやめは慌てて息子の名を呼んだが、返事はない。
(池に落ちたんだ…!)
一瞬でも目を離したことを激しく後悔した。名を呼びながら池へと駆け寄る。
柵から池を覗き込んだが、有助はいない。
「有助!」
「お母さま?」
池の向こう側、ちょうど死角になっていたところから、有助はひょっこりと顔を覗かせた。
あやめは安堵に胸を撫で下ろした。
「よかった。もう、急に消えるからびっくりしたわ。いったいどうしたの?」
「僕ね、お池に落ちちゃいそうになったんだけどね、あのお兄ちゃんが助けてくれたの」
「お兄ちゃん?」
息子が指し示す方向を見たが、そこには誰もいない。
有助もきょとんとした顔をする。
「あれぇ?さっきまでいたんだけど」
あやめはふと、首を傾げる息子の肩に小さな青い花弁が一枚乗っかっているのに気づいた。
「…ありがとう」
あやめは小さく呟く。
トテトテと寄ってきた有助が不思議そうに尋ねた。
「何か言った?お母さま」
あやめはにっこり笑って愛する息子を抱き上げた。
「お母様ね、今すっごく、幸せよ!」
初投稿です。素人の駄文ですが、お読みくださり感謝いたします。もしよろしければ感想、批評等よろしくお願いいたします。
2020年4月10日追記
このお話の100年後の物語を投稿いたしました。
『花の丘 〜永遠〜』
シリーズ化しましたので、題名上のリンクからお読みいただけます。