88話 令嬢は感情に蓋をする
求婚の意思を伝え、リグルドが去っていった後。
フィオーラはじっと悩んでいた。
(政治的に考えるならきっと、これ以上ない婚約よ)
婚約相手のリグルドも、人間的に信頼できそうな相手だ。
これより政治的な条件が良い求婚者は、そうそう現れないはずだった。
(アルカシア王家と千年樹教団の足並みがそろうようになれば、もっと上手に、黒の獣への対策ができるようになるかもしれないし……)
フィオーラはアルムの主として、とても大きな力を手にしてしまっている。
この力を上手く使い、多くの人の役に立ちたいと、最近考えることが多くなった。
(そう考えると、リグルド殿下との婚約はとても好ましいけれど……)
問題は、フィオーラの抱える、アルムへの思いだった。
今はまだできるだけ、心の奥のその感情の、名前を直視しないようにしているけれど。
アルムと触れ合うたび無視できない程、その感情は大きくなっている。
「アルム……」
「なんだい?」
フィオーラははっとした。
つい、心の中の思いを、唇からこぼしてしまっていたようだ。
「僕に何か、頼みたいことでもあるのかい?」
どことなく嬉しそうに、アルムが身を乗り出してきた。
ここのところアルムは、フィオーラから呼ばれない限り、動かないようにしていた。
先ほど、リグルドの求婚に口を出しかけたのは珍しいくらいだ。
「いえ、その、頼みごとがあるわけではないのですが……」
アルムのことを考えていました、と言うわけにもいかず、フィオーラは誤魔化しの言葉を探した。
「……そうだ、アルムは、さっきのリグルド殿下の求婚を、どう思いましたか?」
「リグルドの求婚?」
アルムの声が、冬を迎えたように冷え込んだ。
「…………悪くない話だと思うよ。打算ずくめの提案に見えたけど、リグルド自身は誠実そうだ。……フィオーラのことも、きっと大切にしてくれるさ」
「…………そうですね」
アルムの返答に、フィオーラは一人打ちのめされていた。
(私、リグルド殿下との婚約に反対してくれたらって……)
心のどこかで期待し、アルムに望んでしまっていたのだ。
勝手に期待し、勝手に落胆してしまった自分に気がついて。
フィオーラは自嘲するしかなかった。
「アルム、答えてくれてありがとうございました。リグルド殿下との婚約について、私なりに前向きに考えてみますね」
そう言ってフィオーラは、自らの感情に蓋をしたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
――――ちなみに、その日。
フィオーラ達のいたアルカシア皇国西部は、大雨に見舞われることになる。
十数年に一度とも言われる悪天候と、アルムの感情を結び付けて考えるだけの余裕は、残念ながらその日のフィオーラにはないのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
アルカシア皇国西部に、十数年に一度の大雨が降った三日後。
フィオーラは旅の最終目的地である、千年樹教団の本部へと到着することになった。
「わあっ……!」
頭上を見上げ、フィオーラは歓声を上げていた。
「すごい……‼ ここからでも、世界樹様の全体は見えないんですね……!」
首を反らし、上へ上へ。
視線を持ち上げていっても、世界樹のてっぺんは見えなかった。
あまりの高さに、上部が雲の層に隠れてしまっているためだ。
「あの幹も、どれくらい太いんでしょうか……?」
あまりに大きすぎ、感覚が狂ってしまいそうだ。
百人のフィオーラが手をつなぎ輪を作っても、おさまりそうにない大きさだった。
世界樹は銀の幹に緑の葉を大きく広げ、世界を見渡すように直立している。
「きゅきゅっ‼ きゅきゅきゅきゅっ‼」
イズーも興奮し、とても楽しそうにしている。
精霊であるイズーにとって、世界樹は近しくも尊敬できる存在だ。
初めて直にその威容を目にし、興奮がおさまらないようだった。
「もう、そんなにはしゃいじゃって。お子様なのね」
一方、同じく精霊であるモモは、フィオーラの肩の上で平然としていた。
無理に感情を押し殺している様子もなく、ごく平常心のようだった。
「モモは世界樹様を見ても、いつも通りなのね」
「……慣れよ慣れ。別に、初めて見るわけじゃないもの」
「ここへ来たことがあるんですか?」
「昔ね」
フィオーラは問いかけるが、モモに応える気は無いようだ。
まるで普通のモモンガのように、鼻先をくしくしとしている。
(モモの過去って、どんなことがあったんだろう……?)
謎多き精霊だ。
フィオーラがモモを撫でていると、視界の端に銀と緑がよぎった。
(アルム……)
世界樹を背後に立つアルムは、まるで一幅の名画のようだった。
先端に行くにつれ緑を帯びる銀髪。若葉を思わせる二つの瞳。
世界樹と同じ色を持つアルムは、人の姿をとっていても次代の世界樹なのだと、そう思わせる説得力があった。
(あ……)
視線に気づかれたのか、アルムが顔を反らしてしまった。
リグルドの求婚を相談して以降なぜか、ぎこちない雰囲気がアルムの間に漂っている。
(………気まずいけど、今は他にも、集中することがあるわ)
フィオーラたちが向かうのは。千年樹教団の本部。
当代の聖女と、話をするためだった。