86話 世界樹は思い悩む
部屋から出たアルムは、廊下の扉に背中を預け立っていた。
扉越しにフィオーラの気配を感じながら、わずかに目を細めている。
(リグルド、か……)
かの王太子の顔を思い出すと、体の中心が焦げ付くような痛みを感じた。
(今日彼は何度も、フィオーラの手を握っていた)
その姿を見るたびに、アルムの心は乱れていた。
落ち着かず不安だったが、この国へ来る前にハルツから告げられた言葉を、思い出し耐えていたのだ。
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『――――あまりフィオーラに構いすぎないようにしろ? どういうことだい?』
『言葉通りの意味です』
ハルツの発言に、アルムは眉をひそめた。
『何が言いたいんだい? フィオーラは僕の主だ。主の傍に控えるのは、当たり前のことだろう?』
『アルム様のお気持ちはわかります。ですがそれでは、フィオーラ様が見くびられてしまうんです』
やや言いづらそうに、しかし断固とした口調でハルツが続けた。
『アルム様の主として、フィオーラ様は大変注目を浴びています。当然、フィオーラ様を値踏みし利用しようとする人間も、この先もっと増えていきます』
『それがどうしたというんだい? フィオーラを騙し利用とする人間は、僕が許さないよ』
どんな相手がこようとも、アルムが動けばすむことだ。
人間ではないアルムはアルムの理論で、フィオーラのために動くだけだった。
『……アルム様のお気持ちは尊いです。ですがこの先フィオーラ様にもいつか、一人で相手と渡り合わなければならない時がやってきます。その時までずっと、フィオーラ様の問題をアルム様一人で解決していると、フィオーラ様はアルム様がいないと何もできない人間だと、そう誤解され真の信頼を勝ち得ることが難しくなります』
『……フィオーラが、いらない苦労をするってことかい?』
『そうなるかもしれません。弱者に門戸を開く教団内部であっても、上に登れば上る程、厄介な人間を相手どらなければならなくなりますからね』
ハルツが苦笑を浮かべた。
捨てられたも同然に教団にやってきて、彼なりに色々苦労した経験が滲むようだった。
『……フィオーラ様はこのままいけば、わが教団で聖女になるお方です。聖女となれば、常に人目にさらされ、小さな失敗にも注目されるようになります。……ですから今のうち、失敗が小さな傷ですむうちに、色々と経験を積んでおいて欲しいのです』
ハルツの説明は、アルムにもわかるところがある話だった。
(他の樹木に寄り掛かりきりで育った若木は、小さな嵐で折れてしまうことがある……)
フィオーラを大切に思うからこそ、手を出さずに見守る。
そういった関わり方があることは、アルムにも理解できた。
『……わかったよ。直接フィオーラに危害を加えようとする相手は別だけど、それ以外の相手に対しては、できるだけ前にでないようにしておこう』
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ハルツとの会話を思い出し、アルムはため息をついた。
(ハルツにはあぁ言ったけれど……。思いのほか辛いな)
リグルドに触れられていたフィオーラを思い出すと、胸の奥が鈍く痛んだ。
彼からの贈り物のケーキを前に喜ぶフィオーラを見た時には、今よりもっと、胸が締め付けられたのを覚えている。
(この体に詰まっているのは、人間を模したかりそめの臓器でしかないのに不思議だ……)
そっと胸に手を置き、アルムは考え込んだ。
人に似た姿をとっても、本質は人間と全くの別物だ。
あえて言うなら、イズーら精霊樹から生まれた精霊たちの方が、まだアルムに近いくらいだった。
(人間とそれ以外、か……)
少し前に関わった、ジャシルとクリューエルのことをよく覚えている。
種族の壁を越え寄り添っていた二人の影が、アルムの心に今も強く残っていた。
(フィオーラとはこの先も、ずっと一緒にいたいと思っているけれど……)
今でも十分、フィオーラはアルムを慕い思いやってくれている。
しかしそれだけでは足りないと、そう感じることが最近増えていた。
まだ足りない、もっと欲しいと、心の奥が叫ぶ時があるのだ。
(さっきフィオーラが僕の指を握った時も、ずっと触れていたいと思ったんだ)
不思議な感情だった。
嬉しくて、けど同時に苦しくもどかしい。
アルムが初めて味わう思いだった。
(僕はフィオーラと、どうしたいんだろう?)
目をつぶり考えても、一向に答えは思い浮かばなかった。
「また難しそうな顔をしてるわね」
「……モモ……」
廊下を滑空してきたモモが、アルムの頭の上へ着地した。
アルムはわざわざ振り払う気にもなれず、モモにさせるがままにさせていた。
「あら、私に飛び乗られて大人しいなんて、本格的に悩んでいるのね」
「……煩くするなら他へ行ってくれ」
「行かないわよ。せっかくあんた向けの、助言を持ってきてあげたんだもの」
「助言……?」
アルムが問い返すと、モモが頭の上で口を開いた。
「あんたは世界樹で、フィオーラとは違うところばかりだけど……。それでも、感情を持つ生き物であることは同じよ。ならばきっと大丈夫だと、そう信じればいいのよ」
「……抽象的すぎて、何が言いたいかわからないよ」
「当たり前よ。答えはあんた自身の心しか、知らないことなんだもの」
訝しむアルムの頭を、モモの小さな指が撫でた。
「くすぐったいんだが……」
「ふふ、いいじゃない。一回くらいこうして、頭を撫でてみたかったのよ」
「……そろそろ落とそうか?」
「え、嫌よ。ちょっと待ちな――――きゃうあぁぁっ⁉」
ぺしん、こてん、と。
アルムにはたかれたモモが、壁にあたり転がっていく。
「痛いわよこの恩知らずっ!!」
「勝手に乗ってきたのはそっちだろう」
怒るモモに、アルムは憮然とした声を返しながらも。
ほんの少しだけ心が、軽くなった気がしたのだった。