85話 令嬢は王太子に出迎えられる
サハルダ王国を発ち、二つの小国を進んだフィオーラはついに、アルカシア皇国の国境を超えることになった。
「フィオーラ様、ようこそ我が国にいらっしゃいました」
国境の町では今まで見たことも無い、豪奢なもてなしが用意されていた。
大通りの両側にずらりと騎士が並び、剣を掲げ直立している。
町並みは花々で美しく飾り立てられ、祭日に迷い込んだようだった。
「私の名はリグルド・アルカシア。国王陛下より、フィオーラ様の歓待と警護の任を賜っています」
騎士の正装に身を包んだ長身の青年が、フィオーラの前で膝をついていた。
まるで主君に忠誠を誓う騎士のような体勢だったが、
(この方がアルカシア皇国の王太子……)
彼の存在こそが、ある意味一番豪奢なもてなしだった。
リグルド・アルカシア。
大国アルカシアの王太子であり、剣の名手としても名高い青年だ。
皇国騎士団第一隊の隊長を務めており、漆黒の騎士服を身につけている。
長身の美丈夫であり、黒髪をなびかせ凛と振る舞う姿は、男女問わず多くの人間をひきつけていた。
リグルドは完璧な騎士の礼を終えると、立ち上がり右手をフィオーラへと差しだした。
「お手をどうぞ。この街の名所を案内いたします」
少しだけ迷って、フィオーラは差し出された手に指先を重ねた。
失礼が無いよう、みっともない振る舞いをしないよう気を付けながら。
リグルドに導かれ、歩き出したのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「疲れた……」
用意された寝室で、フィオーラは横になっていた。
今日は終日、人目に晒された一日だった。
リグルドと町を回り、昼食を共にして。
昼からは町に集まったアルカシア皇国の有力者たちと、顔を合わせることになったのだ。
(なんとか、大きな失敗をせず終わることができたけど……)
一日中神経が休まらず、これ以上なく疲れていた。
義母らのせいで肉体面での負荷にはなれていたが、社交疲れは別物だった。
「お疲れ様、フィオーラ」
頬にひんやりとした指先があたった。
アルムだ。
人間より少し低い体温が、フィオーラにはとても心地よかった。
ずっとこうして触れていて欲しいと、そう思ってしまう程だった。
「今日は何か、よく眠れるハーブを持ってこようか? それとも味も楽しめる、香草茶の方がいいかい?」
「ありがとうございます。……香草茶でお願いしたいです」
疲労で回らない頭で、フィオーラはアルムに甘えることにした。
「わかった。すぐに用意するよ」
右手でフィオーラの頬に触れたまま、アルムが樹歌を口ずさんだ。
左手に光が集まり、茶の元になる香草が現出する。
「ノーラ、これで頼む」
「はい。お任せください」
香草を加工し、お茶を淹れるのはノーラの役目だ。
ノーラがお湯を求め厨房に向かうと、部屋にはフィオーラとアルム、そして眠りこけるイズーだけになった。
(……落ち着かない……)
寝台に横たわったまま、フィオーラはアルムを盗み見た。
銀のまつ毛はわずかに伏せられていて、緑の瞳に淡い影を落としかけている。
アルムは何を見るでもなしに、ただ横顔をフィオーラへと向けていた。
(触りたいな……)
アルムはどこもかしこも美くしすぎて。
きちんとここにいるのだと、触れて確かめたくなってしまう。
フィオーラはそっと、頬に添えられたアルムの指へ触れた。
「……フィオーラ?」
「アルムは、指の先まで綺麗ですね」
男性にしてはやや細めの指に、欠けの無い爪が備わっている。
彫刻のような完璧な均整を誇る手だが、触るとしっかりと骨が通っているのがわかった。
指の長さを比べるように、フィオーラは指をゆるく絡めた。。
「指、大きいですね。私の掌くらいなら、すっぽりと覆ってしまえ―――」
「フィオーラ様、いらっしゃいますか?」
部屋の扉がノックされた。
ノーラではない。
アルカシア皇国からつけられた侍女だ。
「……なんでしょうか?」
精一杯平静を装いながら、フィオーラは答えを返した。
(今、私、アルムに何をして何を言ってっ……!)
半ば以上、無意識での行動だった。
疲れで頭が回っておらず、思ったことをそのまま口にしていた。
冷静になるとかなり、恥ずかしいことをしている。
フィオーラは内心身もだえしながら、侍女に入室を許可した。
「贈り物が届いております」
「……わかりました。見せてください」
舞い上がり混乱していたフィオーラの心が落ち着いていく。
基本的にフィオーラは、贈り物を受け取らないようにしていた。
送り主と品物が何かだけを確認し、丁重に送り返している。
(お返しをするのが大変だし、受けとっておいてお返しを要求されないのも、それはそれでめんどうごとになるものね……)
贈り物をして機嫌を取ることで、動かすことのできる人間だと思われてはならなかった。
今回はどなたから、と。
箱に添えられていた手紙をフィオーラは手に取った。。
(……リグルド殿下……)
黒髪の王太子からだった。
箱の中身を確認すると、生菓子のようだ。
(これは、やりづらい……)
生菓子である以上、箱を開けたら送り返しにくい。
とはいえ、中身も見ずただ送り返すには、相手の地位が高すぎ失礼だった。
「もし、フィオーラ様がいらないと仰るのであれば、そのまま破棄するよう仰せつかっています」
悩むフィオーラの背中を押すように、侍女が情報を加えてきた。
(もったいない……)
義母からの仕打ちで、食事を丸一日抜かれたことも珍しくなかったのだ。。
あの時のことを思い出すと、食べ物を捨てるのに強い抵抗を感じた。
「……わかりました。ありがたく受け取らせていただきますね」
リグルドとは、明日も顔を合わせる予定だ。
その際にお礼の言葉を述べ、返礼は何がいいか聞くことにする。
箱を受け取ったフィオーラは、小さく蓋を開け中身をのぞきこんだ。
「これは……」
昼食に出されたレモンケーキと同じものだ。
レモンの酸味と苦みがクリームの甘さと合わさって、とても美味しかったのを覚えている。
(昼食の時はずっと社交用の笑顔で、表情には出さなかったつもりだけど……)
リグルドには見抜かれていたようだった。
(すごいわ。大国の王太子の方だけあって、とても優秀なのね)
思わず感心してしまった。
フィオーラはケーキを手に、アルムへと振り返った。
「アルムも一緒に食べませんか? 香草茶のお茶うけにしましょう」
「そのケーキ、リグルドからかい?」
ちらとケーキを一瞥すると、アルムが平坦な声で尋ねてきた。
「はい、リグルド殿下からです」
「……なら遠慮しておくよ」
「いらないんですか?」
「君に贈られたケーキなんだ。君一人で味わうと良いよ」
アルムはそう言うと、フィオーラとイズーを残し、部屋を出て行ってしまった。
「アルム……?」
いつもよりそっけない彼の態度にとまどいながら、フィオーラはケーキ入りの箱を抱えていたのだった。




