68話 令嬢は司教を案じる
「……残念ながらこちらに、脅迫状はまだ届いていません」
エミリオの誘拐を巡って、ディルツが眉間のしわを深めていた。
「脅迫状から足をつくのを、恐れてのことかもしれません。現にこうして、こちらには世界樹様がおられますからね」
「誘拐したのに、何も要求してこないのかい?」
「改めて要求せずとも、自明の事柄だからでしょうね。誘拐犯の狙いは間違いなく、『エミリオ殿下の王位継承権の放棄』でしょうから」
浅はかな奴だ、と。ディルツが怒りを吐き捨てた。
「誘拐犯の黒幕は、ルシード殿下に決まっています。母親の実家の力で劣り、本人にも良くない噂が多いのも、ルシード殿下も認識しているはずです。自らの行動を改め王太子に相応しくなろうとするのではなく、エミリオを引きずり下ろすことで、王太子の座を手に入れようとしているのですよ」
「……ルシード殿下は大樹の元を去った後、なにか動きを起こしていますか?」
フィオーラが尋ねると、ディルツが首を振った。
「今のところ、何も。腹立たしいほどいつも通りに、エミリオの捜索に協力するフリも見せず、王宮内をうろついているようです」
「そうでしたか……」
与えられた情報を整理し、フィオーラは考え込んだ。
(エミリオ殿下は今、どこにいらっしゃるのかしら……?)
不安で心臓が痛くなった。
今エミリオはこの瞬間にも、誘拐犯から暴力を受けているかもしれない。
ある程度の傷は、アルムに協力してもらえば治癒できるとは言え、エミリオの恐怖を思うと、焦燥感が止まらなかった。
「……フィオーラ様と世界樹様には、協力していただけるようで感謝いたします」
ですが、と。
ディルツは教団の代表へ、鋭い一瞥を投げた。
「千年樹教団に対して、私は失望いたしました。……今回の件に関しては、相応の対処をさせてもらおう」
「どのような対応をお求めですか?」
怖れを隠し切れない様子で、教団の代表が尋ねた。
「今回、そちらは大樹周辺の警備を、万全に敷けていなかっただろう? この先、そちらに大樹の管理を預けるのは不安だから、大樹の一切をこちらで管理させてもらおう」
「そ、そんなのは無理ですよ!!」
教団の代表が悲鳴を上げ、ちらりとアルムを見つめた。
「……ずいぶんと、君たち人間は傲慢なんだね。自分たちが育てたわけでもない大樹の権利を主張し争うなんて、僕からすれば馬鹿らしくて呆れてしまうよ」
「……確かに、世界樹様の仰る通りですね」
冷ややかなアルムの視線に、ディルツも食い下がれないようだ。
「……わかりました。では今回は、そちらの責任者、大樹前の式典の準備の指揮を執っていた人間を、責任をとって辞めさせてもらうことで手を打とう」
ディルツはずいぶんと譲歩したようだが、フィオーラは嫌な予感がした。
「そちらの教団では今、私の不肖の弟、ハルツが在籍し、権力を握っていると聞きます」
「っ!!」
予感が的中し、フィオーラは息をのんだ。
「お恥ずかしい話ですが公然の秘密として、ハルツは私の父の血を引いていません。公爵夫人に手を出した、薄汚く愚かな盗人の血を継いでいるのです。こたびの式典の不備も、ハルツの落ち度であるとすれば、私には納得ですよ」
「そんなの言いがかりです!」
フィオーラは反論した。
確かに、ハルツはここのところあちこち飛び回り忙しくしていたが、式典警護の責任者は別人。
完全な言いがかりだった。
(でも、事実がどうであるかなんて、ディルツ様には関係ないんだわ……)
単にこの機会に、憎んでいるハルツを痛い目に会わせたいだけだ。
まず最初に、『大樹の権利を全てよこせ』などと要求をしてきたのも、教団側に対し一度譲歩した実績を作ることで、二番目の要求を通しやすくするためだった。
「エミリオ殿下の誘拐に感じ、そちらの教団に悪意は無かったと信じていますよ。だからこそここは、ハルツ一人の追放で手を打とうと思います」
いかがいたしますか、と。
ディルツが要求を突き付けたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「――――私は、ディルツ様の要求を受け入れるつもりです」
話を聞いたハルツは、僅かに考え込んだ後、口を開いた。
「私一人の首ですむのなら、安いものだと思いますよ」
「ハルツ様……」
フィオーラは唇を噛んだ。
ハルツへ話をする前から、うっすらと予想できていた解答だが、やはり悲しかった。
(ハルツ様は優しく、責任感も強いわ。自らを受け入れてくれた教団のためなら、泥を被る選択を選んでしまえる方よ……)
だがそんな彼だからこそ、理不尽な追放は受け入れられなかった。
「フィオーラ様、そんなにお心を痛めないでください。これは私にとっても、そう悪い話ではないんですよ」
「え……?」
「生まれというもの、生みの母親が犯した罪と言うのは、決して消えないものです」
ハルツの言葉に、フィオーラはどきりとしてしまった。
突き刺さる言葉だった。
(私のお母様も、お父様の愛人だったもの……)
父親側から迫られ手を出された結果とはいえ、フィオーラの母親・ファナは侍女でありながら、伯爵家当主の子を孕んでしまったのだ。
ファナもまた被害者だが、父親の本妻・リムエラからすれば加害者の一人に映ったはず。
フィオーラがリムエラに虐げられて育ったのも、原因はそこにあった。
「ディルツ様は一生、私を許すことは無いと思います。私がこの国で教団に留まる限り、また手をだしてくるかもしれません。……これ以上私は、私を拾ってくれた教団に、迷惑をかけたくないんですよ」
穏やかにハルツは笑っていた。
何かを諦めた人間特有の穏やかさだ。
「幸い私は、それなりに健康な肉体を持っています。教団を追い出されても、食べるには困りませんよ。……ですからどうかフィオーラ様も、そんな悲しい顔をしないでください」
青色の瞳に慈愛と諦めを浮かべ、ハルツが茶色の髪を揺らした。
「こんな私でも、教団の役に立てるなら本望です。教団を去る前に、色々と引継ぎをしなければいけないので、失礼いたしますね」