65話 令嬢は着飾る
「こうして私がここに来るのは、今日が最後になると思います」
「……なんだって?」
フィオーラの告げた言葉に、エミリオは目を大きく開いた。
「どういうことだ? なんでなんだ? もしかして、僕のことが嫌いになったのか?」
すがりつくように、エミリオが問いかけてくる。
その様子にフィオーラの胸も痛むが、自らの選択を変えることはできなかった。
「そんなことはありません。エミリオ殿下のことは、お慕い申し上げています。不敬かもしれませんが、弟のように思っています」
「弟……」
エミリオの表情がくるりと変わり、不満そうに唇を歪めている。
「……いや、今はそれはいい。よくないけど、それはいいんだ。……僕のことが嫌いになったんじゃないならどうして、もう来れないなんて言うんだ?」
「ティグルの様子が、安定してきたからです」
気ままに駆け回る馬の姿をした精霊をフィオーラは見やった。
(元々私がここへ来たのは、生まれたばかりの精霊様を見守るためだったもの)
だからこそこうして、王宮の奥庭を気安く訪れることができたのだ。
ティグルが自らの体に慣れ、外でもやっていけると確信が持てた今、状況は変わっている。
黒の獣に苦しむ人々を助けてもらうために、ティグルには旅立ってもらうことになったのだ。
「じきにティグルは旅立たれ、私がこうしてここへ、毎日やってくることもなくなるんです」
「…………フィオーラだけじゃなく、ティグルまでいなくなるなんて」
エミリオは呆然と呟いた。
瞳にはうっすらと、涙が滲み始めている。
「どうしてだよ⁉ ティグルはわかるけど、でもっ、フィオーラは違うだろっ⁉ これからもずっと、ここに遊びに来ればいいだろう⁉」
「……私も、そうしたい気持ちはあるのですが……」
だがフィオーラには、ここへ留まることはできなかった。
「私はじきに、アルムと共に王都を発ち、この国を出る予定なんです」
そもそも、フィオーラがアルムの主となったのは、今ある世界樹がそう遠くない未来に、朽ちるとされているからだ。
人の社会は、世界樹の恩恵無くして成り立たなかった。
今の世界樹が弱り切り倒れる前にその根元へ向かい、代替わりをしなければならない。
(まだ猶予はあるとはいえ、あまりこの国に長居すると、ディルツ様のように求婚してくる方や、私をこの国に引きとどめようとする方が増えるはずですし……)
エミリオには悪いが、それでもフィオーラは、この国を出なければならなかった。
かみ砕き事情を説明するも、エミリオの感情はおさまらないようだ。
「っ、裏切り者っ‼」
地団太を踏むと、震えながら顔をうつむけていた。
「フィオーラも僕を、また僕を、お母さまのように置いていくんだっ‼」
「違います。二度と会えなくなるわけでは――――」
「もういい帰れっ‼」
「ですが、エミリオ殿下……」
「帰れと言ってるんだ‼」
エミリオはそう言うと、自らも走り出してしまった。
「…………」
この国に留まる選択肢が取れないフィオーラはただ、その背中を見つめることしかできなかった。
(お別れの品、渡しそびれてしまったわ)
懐にあるのは、一枚の栞だった。
(エミリオ殿下は、座学の勉強が嫌いだと仰っていたから……)
少しでも苦手意識が薄まるように、と。
本を開いた時に目に飛び込む、栞を持ってきたのだ。
栞にはエミリオの好物のサクランボの絵と、サクランボの花の押し花が施されている。
今は花が散り実が熟す季節のため、アルムから教わった樹歌で咲かせた花だ。
樹歌の影響か、押し花となってもほんのりと甘い香りが残っている栞だった。
(直接お渡しできなくて残念だけど……)
エミリオへの別れの手紙に、栞を同封することにしたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
教団内の建物に用意された自室に帰り、エミリオへの手紙を出したフィオーラは、忙しく動くことになった。
間もなくこの国を発つため、行く先の知識を勉強したり、さまざまな旅準備が必要だ。
加えてフィオーラが旅立つ前に一目会おうとする、この国の人間たちとの面会もあった。
教団側で面会相手は厳選してくれたようだが、それでも毎日、何人もとの社交をこなさなかればならなかった。
(疲れた……。でもこれも、明日一区切りがつくのよね)
明日は、ティグルが任地へと旅立つ日だ。
それを記念し、最大限盛り上げるために、予定がしっかりと組まれている。
明日は大樹の前に多くの貴人を集め、ティグルの姿をお披露目する手はずだ。
その準備や予行演習のため、フィオーラは一層、忙しくしているのだった。
(忙しいのは、私だけじゃないわ。ハルツ様もあちこち、駆けまわっているみたいだし……)
ディルツの件もあり、直接顔を合わせることはないが、同じ教団の中にいるのだ。
聞こえてきた話によると、ハルツは多忙を極めているようだった。
元より有能で頼りにされていたことに加え、セオドアの一件が尾を引いている。
セオドアに加担していた教団の人間が、軒並み謹慎中か降格されたため、仕事のできるハルツは、あちこちから引っ張りだこらしかった。
(ハルツ様たちの仕事を台無しにしないためにも、私がきちんとしないと……)
一つ頷き、フィオーラは明日の予定を再確認した。
(明日は大樹の元に、王族の一員としてエミリオ殿下もやってくるのよね)
貴重な顔を合わせる機会だ。
今度こそきちんとお別れを言いたいと、フィオーラは思ったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
明けて翌日。
良く晴れていて、空には雲一つなかった。
ティグルの旅立ちに相応しい、幸先のいい朝のようだ。
「うぅ……。やっぱり恥ずかしいですね……」
しかし空模様とは反対に、フィオーラの気持ちは晴れなかった。
原因はノーラたち侍女が着つけてくれた、正装用のドレスだった。
白い絹は滑らかで、淡く光を帯びているように見える最高級品だ。
たっぷりと重ねられた布が揺れると、細やかな金刺繍が輝いた。
裾と袖を長く引くデザインで、淡く透ける素材が華奢な肢体を包んでいる。
首元には繊細な金細工が飾られ、アルムの瞳を思わせる、鮮やかな緑の軌跡が揺れていた。
神秘的かつ可憐な、文句のつけようもない装いだったが、だからこそフィオーラは落ち着かなかった。
豪華な衣装をどこかに引っ掛けてしまわないか心配で、衣装負けしているようで恥ずかしかった。
「フィオーラ、準備はできたかい?」
「はい、大丈夫です」
アルムが化粧室に入ってきた。
手に二輪の薔薇を持ったまま、しばし固まっているようだ。