58話 令嬢は馬上の人になる
「ひひんっ‼」
フィオーラの背後から、ティグルのいななきが響いた。
ついで近づいてくる軽快な蹄の音。
ティグルが顔を近づけ、長いまつ毛に囲まれた瞳を、じっとフィオーラに向けていた。
(急にどうしたんだろう?)
ルシードが気に食わないのだろうか?
フィオーラが首を傾げていると、アルムがティグルと顔を見合わせ頷いていた。
「うん、それはいいな」
ティグルの背中に手をかけ、アルムがひらりと身を躍らせた。
体重を感じさせない軽やかな跳躍。
思わずフィオーラが見とれていると、アルムは馬上の人になっていた。
「さ、フィオーラも」
「え? きゃっ⁉」
差し伸ばされたアルムの手を反射的に取ると、ぐいと引っられる。
背中に手が伸ばされ持ち上げられ、視界が一気に上昇する。
気が付けばフィオーラもまた、ティグルの背中に座らされていた。
「アルム?」
「よし。さぁ行こう。――――走れ!」
「ひひんっ‼」
前脚で地面を打つと、ティグルが走り始める。
四本の脚が力強く地面を蹴り、みるみるルシードたちが遠ざかっていく。
「わわっ⁉」
高速で左右を流れていく景色に、フィオーラは声をあげた。
ティグルの背中に、横座りをしている形だ。
落ちる、と体を固くするが、思いのほか体は安定していた。
アルムの腕に支えられ、しっかりと抱えられているようだ。
「ありがとうございます。アルムは大丈夫ですか?」
ティグルは鞍も鐙もつけておらず、当然手綱も無かった。
裸馬に乗るも同然の状態だが、アルムは平然としている。
(わぁ……。髪が風になびいて煌いて、綺麗……)
間近に迫った横顔に、フィオーラの鼓動が跳ね上がる。
細身だがしっかりとしたアルムの胸板に、顔を押し付けるような形だ。
鼓動を誤魔化すように、少しうつむいて口を開いた。
「アルム、馬に乗ったことはありませんよね? 先代の世界樹様から受け継いだ知識の中には、乗馬の知識もあったんですか?」
「いや、無いよ。ティグルはただの馬ではなく、精霊だからね。背中に乗って駆けるくらい造作も無いよ。人間が言う、朝飯前と言うやつさ」
もうすぐ昼ご飯だけどね、と。
真面目な顔で言うアルムに、フィオーラはくすりと笑ってしまった。
「ふふ、おかげで助かりました。ティグルとアルムに感謝です」
「きゅっ‼」
その通り、と言うようにイズーが一鳴きした。
ちゃっかりとティグルの頭部に陣取り、先頭で風を受けている。
一見危なっかしいが、イズーもまた精霊だ。
きゅいきゅいと鳴きながら、風を楽しんでいるようだった。
「この後どうする、フィオーラ? このまま奥庭の出入り口まで向かうかい?」
「そうしてください、あ、でも、もう一つお願いがあります」
「何だい? さっきのルシードとか言う男を、蹴り飛ばしに行くのかい?」
王子を足蹴にしようと、さらりと言ってのけるアルム。
フィオーラに近づこうとする相手には、容赦が無いのだった。
「いえ、違います。エミリオ殿下です」
駆けゆくフィオーラたちの姿を、エミリオはそれは羨ましそうな目で見ていた。
「先ほどは置き去りにしてしまいましたし、次に会った時にでも、ティグルの背中に乗せてもらえませんか?」
「……あいつなら、まぁいいかな。君も乗せてくれるかい?」
「ひひんっ‼」
アルムの問いかけに、ティグルがいななきを返した。
両者ともそれなりに、エミリオのことはかわいがっているようだ。
「二人とも、ありがとうございます。エミリオ殿下、きっと喜びますよ」
幼い王子が顔を輝かせる場面を想像して、フィオーラは微笑んだのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
フィオーラ達は奥庭を出ると、そのまま王宮から離れ、千年樹教団の教会へと向かうことにする。
道すがら、馬車の窓からはずっと、王都上空に葉を広げた大樹が、建物の屋根越しに見えていた。
(次は、あの大樹の元に行って様子を確認しないと)
セオドアの誘拐事件の際、フィオーラを助けるためにアルムが成長させた大樹だ。
はやくも王都の名物になりつつある大樹へと、馬車で寄る予定になっていた。
近づくにつれ、窓の外がうっすらと暗くなっていく。
大きく枝を広げた大樹の、木陰へと入ったからだ。
(あれ……? 馬車が止まるのが、少し早いような?)
大樹の根元まで、もう少し距離があるはずだ。
フィオーラが何だろうと思っていると、馬車が停止し御者席から声がかけられた。
「フィオーラ様、先客がいらっしゃるようです」
「……どなたでしょうか?」
大樹が音を張っているのは、セオドアの隠れ屋敷があった場所だ。
セオドアは今や王太子の位を廃嫡され、王都を去ってしまっている。
そして大樹の根元へは、関係が無い人間は立ち入り禁止にしてあるのだった。
「シュタルスタット公爵家のお方のようです」
この国の政治中枢の一角を占める、名門公爵家の名前だ。
急ごしらえで政治知識を叩きこまれたフィオーラでも、知っている相手だった。
(それに確か、大樹の生えている土地の、所有者でもあるのよね?)
セオドアの隠れ屋敷を、突き破るように成長した大樹。
しかし、屋敷のあった土地自体はセオドアの、ひいては王家の土地ではないのだった。
王太子であったセオドアと縁を持ち貸を作るために、シュタルスタット家が提供していたのだ。
名義上はシュタルスタット家の土地だからこそ、フィオーラの誘拐事件の際にセオドアが黒幕だと判明した後も、捜査が遅れたと聞いていた。
「……わかりました。ご挨拶しておきましょう」
とりあえず、相手が何のためにやってきたのか、確認することにする。
馬車を降りようとすると、アルムが先に動いた。
まず、自分が外に出て安全を確認している。
フィオーラがアルムの横に降り立つと、大樹の前には一際立派な、四頭立ての馬車が停まっていた。
「初めまして。フィオーラ・リスティスです。そちら様は、どなたでいらっしゃいますか?」
大樹の前に立つ集団の、中心人物と思しき男性に声をかける。
茶色の髪を丁寧に撫でつけた、二十代後半に見える男性だ。
遠目でもわかる上質な生地のジェストコールに、華やかな刺繍の施されたベスト。
おそらくは彼が、シュタルスタット公爵家の人間だ。
(初対面、よね……?)
どことなく既視感を覚え、フィオーラは首を傾げる。
人間の姿のアルムに出会うまでずっと、フィオーラは実家の伯爵家とその近辺だけ生活していた。
公爵家の人間と知り合う機会など、無いはずなのに不思議だ。
「あぁ、あなたがあの、新たな世界樹の主であるのだな。美しき貴人とお会いできて光栄の限りだよ」
男性が両腕を広げ、歓迎の意を示している。
整った顔には美しい、だが内心の読めない笑みを浮かべていた。
「私の名はディルツ・シュタルスタット。つい先年、公爵家の当主についた者さ」
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次話は土曜に更新予定です。




