30話 令嬢は司教の案を受け入れる
ハルツ司教の口にした妥協案と言う単語。
ミレアの痣、薔薇の所有権、それに侍女のノーラの転職といった事柄をまとめると、フィオーラにも思ついた考えがあった。
「ハルツ様のおっしゃる妥協案ですが、それはもしかして、ミレア様の痣を治す代わりに、薔薇の権利を諦めてもらうということでしょうか?」
「その通りです。ミレア様達が薔薇の所有権を主張するということは、我らの教団と道を違えるということです。もしそうなったならば、教団がミレア様の痣の治療に協力することはありません。教団の言うことは無視するが治癒の力はよこせという一方的な主張を、認めるわけにはいきませんからね」
「…………反対に、ミレア様達が薔薇の所有権を手放すなら、痣の治療も行うということですよね?」
「そのつもりですが…………実はこの話、一つ問題点があるんです」
ハルツ司教が肩をすくめた。
「ミレア様の痣を治すのは、おそらく私達には不可能です」
「治癒師の方でもですか?」
「難しいでしょうね。なんせ、世界樹の化身であるアルム様のお力によってできたものです。生半可な手段では消せないだろうと、優れた癒し手であるサイラスも同じ意見のようでした」
「…………そういうことだったんですね」
なるほど、だから妥協案か、と。
フィオーラにも全体像が見えてきた。
「アルムの血なら、ミレア様の痣も消せるんですよね?」
「できるよ。やりたくはないけどね」
アルムが顔をしかめた。
害虫呼ばわりと言い、ミレアのことはとことん嫌いなようだ。
「…………でも、フィオーラが望むなら、そして伯爵邸の薔薇を救うためなら、血の1滴2滴くらいなら提供してやるよ。害虫だって上手く利用すれば、実りの助けになるものだからね」
「ありがとうございます」
アルムの返答に、フィオーラは胸を撫でおろした。
ミレアの痣が気になるのは、フィオーラの自分勝手な思いだ。
そんな思いを解消しつつ、薔薇の保護に役立てられるなら、願ってもいない機会だった。
「フィオーラ様、アルム様、ご協力ありがとうございます。薔薇の所有権を諦めてもらう代わりに、アルム様がミレア様の痣を治す。薔薇の管理と警護を行うため、伯爵邸は教団に貸し出してもらう。その間、ミレア様達には伯爵家の別邸に移っていただく形になるかと思います」
「わかりました。…………伯爵家の別邸、私は使用したことはありませんが、本邸よりは一回り小さいはずです。侍女の数も減らさなくてはいけないでしょうから、その際に教団でノーラを引き抜き、転職先の斡旋を助けてくれるということでしょうか?」
「そのつもりです。このような形で大丈夫でしょうか?」
「お願いいたします。ノーラのことも薔薇の保護も、そうしていただけるととても助かります」
頷いて肩の力を抜きつつ、フィオーラには一つ気になることがあった。
(ハルツ様、この短い期間でミレア様達を説き伏せる方法を考えたんですよね。交渉ごとに慣れていて、さすがは貴族出身ということでしょうか…………?)
それに思い出せば、ハルツ司教は伯爵令嬢であるミレアに対しても全く物おじしていなかった。
神官は身分の外にいるという扱いだが、どうしても平民出身の神官では、貴族相手に腰が引けるものだと聞いている。
(ミレア様相手に一歩も引かなかったハルツ様は、もしかして結構な高位貴族の出身だったり………?)
ハルツ司教が神官の道を選んだ以上、それ以前の身分について根掘り葉掘り尋ねるのは失礼だ。
フィオーラは疑問を残しつつも、彼と今後の行動予定について話を進めていったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その翌々日、伯爵邸の二階にて。
けたたましい音を立て、扉が勢いよく開かれた。
「お母さまっ!! 一体どういうことよっ⁉」
怒りと焦りを振りまきながら、ミレアがリムエラへと歩み寄る。
「伯爵邸を追い出されるってどういうことなんですか⁉」
「ミレア、黙りなさい」
「これも全部、フィオーラのせいな―――――」
ぱぁん、と。
頬へ加えられた平手打ちによって、ミレアの言葉は強制的に遮られた。
今まで一度たりとも手を上げられたことのなかったミレアは、呆然と母親の顔を見つめる。
「お母さま………」
「その忌々しい名前を口にしないでちょうだい」
「は、はいっ…………!!」
ミレアはこくこくと頷いた。
リムエラの朱唇は笑みを浮かべていたが、紫の瞳には間違えようのない憎悪が渦巻いていた。
「ミレアの腕を治してほしいなら、薔薇ごと伯爵邸を差し出せと、教団の生臭神官に告げられたわ」
「使用人たちの話は本当だったのね…………」
ミレアは唇を噛みしめた。
サイラスににべもなく断られた後、伯爵家の金と権力を駆使し、別の治癒師への渡りをつけていた。
そこまでは良かったのだが、痣は少しも改善することは無かったのだ。
並の治癒師では歯が立たない以上、痣を治すためには教団の要求を呑むしかなかったのだった。
たかが痣とはいえ、右腕全体を覆う程の大きなものだ。
いきなり刻まれた不吉な痣は、年頃の貴族令嬢であるミレアにとっては大きすぎる足枷だった。
「ふふっ、ふふふっ、どうせあの小娘が、神官をたぶらかし私達に嫌がらせをさせたんでしょうね」
薄汚い女。母親とそっくりで、さすがは実の娘ね、と。
リムエラが黒々とした笑みで呟いた。
「母親と同じで、また私の邪魔をするのね。どこまでいっても目障りな親子―――――――――」
「リムエラ様っ!!」
慌てた様子で、使用人が部屋へと飛び込んできた。
ノックも無しに無礼極まりない行動だが、自身の失点にも気づかないほど焦っているようだ。
「大変です!! とんでもないお方がいらっしゃいました!! なんと――――――」
使用人の告げる名に、ミレアだけでなくリムエラも動揺を露にする。
「なぜ、そのような方が突然わが家に………?」
リムエラは訪問客に失礼のないよう準備するため、慌てて立ち上がったのだった。