19話 令嬢は樹歌を知る
瞬く間に薔薇が咲き、散った花弁が黒の獣を消し去った。
フィオーラにも、自分が何をなしたかはわからなかったが、とりあえず当面の危機は去ったようだ。
「フィオーラ様、今のは………?」
周囲を見回しつつ、ハルツ司教が駆け寄ってくる。
その衣服はあちこちが汚れていたが、流血は無い様だった。
フィオーラは体に気だるさを感じつつも、ハルツ司教の無事に胸を撫でおろす。
「アルムが教えてくれたんです。ハルツ様を助けたいならと、助言をくれたんです」
「そうだったんですか………。お二人とも、ありがとうございます」
礼を言いつつ、ハルツ司教は花弁を散らした薔薇を観察している。
「この薔薇は全て、フィオーラ様が生み出したのですよね?」
「はい。伯爵邸の薔薇と同じで、呪文のようなものを唱えたら、一瞬で芽吹き咲いてくれました」
「そうだったのですか………。私はてっきり、伯爵邸の薔薇も、アルム様が生み出したものとばかり……」
「すみませんでした。私の説明が足りなかったと思います」
ハルツ司教を誤解させていたことに気づき、フィオーラは頭を下げる。
「いえ、フィオーラ様はお気になさらず。衛樹の件で出発を急かし、十分話を聞こうとしていなかったこちらの落ち度です」
それにしても、と。
ハルツ司教は薔薇の株を見てうなっていた。
「フィオーラ様、もしよければもう一度、薔薇を芽吹かせてもらえませんか?」
「わかりました。…………アルム、もう一度力を使っても、大丈夫ですか?」
「薔薇の一株くらいなら、消耗は誤差だと思うよ。実際にやって見せた方が、話も早そうだしね」
アルムの言葉に頷き、フィオーラは地面へと手をついた。
小さく息を吸い込み、アルムに教えられた不思議な旋律の言葉を、唇から外へと送り出す。
「《種よ生じ、花を咲かせよ》!」
自分の手の先から、まっすぐに薔薇が伸びあがるのを思い描く。
土を割り緑の芽が出て伸びていき、想像通りに薄紅の花弁を綻ばせた。
「…………やはり、今のは樹歌ですね。それも、とんでもなく高度で洗練されたものです」
「樹歌?」
フィオーラは首を傾げた。
聞きなれない言葉だ。
こんな時、物知らずな自分が嫌で、恥ずかしくなるのだった。
「フィオーラ様がご存じないのも当然です。樹歌に触れることは、教団の人間でもない限りほとんどないですから、説明させていただきたいと思います」
ハルツ司教はそう前置きし、フィオーラのために説明をしてくれた。
樹歌とは即ち、世界樹の謳う歌を指している。
世界樹の葉擦れは神秘を奏で、数多の奇跡を引き起こすのだ。
そして人の中には稀に、樹歌を意味ある旋律として聞き分け、再現する才を持つ者が現れた。
そういった人間は、吟樹師と呼ばれ、とても重宝されるらしい。
吟樹師は教団に代々伝わる樹歌を学び、行く行くは栄達が約束されているのだ。
「吟樹師の素質を持つ者は、100万人に1人とも、1000万人に1人とも言われる貴重な才です。幸い私には吟樹師の才能があり、おかげで司教の地位につかせていただいていました」
「ハルツ様、すごいお方だったんですね…………」
だからこそこの若さで、教団の要職についていたのだ。
フィオーラが感心していると、ハルツ司教が苦笑を浮かべた。
「いえ、そんな大層なものでもありませんよ。樹歌を扱えると言っても、それは世界樹様の謳うものより遥かに劣化した模倣でしかありません。私の場合は入念に準備を整え道具を揃え、ようやく使えるといったところですが………」
ハルツ司教は言葉を切り、棘を伸ばす薔薇を見渡した。
「フィオーラ様はこの通り何の道具も使わず、ただ一人で見事な薔薇を生み出し、黒の獣を消滅させました。一時的に退けたのではなく、消滅です。これがどれほどの偉業か…………私にも全ては理解できませんよ」




