私の盲目 4
宜しくお願いします。
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わずかな違いを大切に。
そんな小さな違いさえ見えなくなってしまったら、見ているものに何かの価値を見出せなくなっていく。彼に会うたびにその”僅かばかりの違い”が小さく薄れてしまうの。
大学の入学式が滞りなく終わり、授業も始まって最初の大型連休の事だった。あたしはいつものようにあいつの住んでいるアパートに押しかける。大学に入学してから1日も欠かす事なくあいつに会いに行っているあたしは少し心配な事がある。
その事が心配になってしまってあいつとの時間を楽しめていないというのは、言い過ぎだけど、それくらいに心配。
今日も他愛もない話をしていたんだけど、少し難しい話だったし、心配事のために生返事をしてしまった。
「人の情報ってさ、だいたい87パーセントくらいが視覚からの情報なんだって」
「へー、そうなんだ。結構視覚からの情報って多いんだね」
「そうなんだよな。だからさ、視力を失ったら、ほとんど死んでしまうんように思えちゃう。なんで、人間は、そんなに視覚情報の比重が多いんだろうな」
「じゃあ、死んじゃう前にたくさん楽しいことや、綺麗なことを見つけて行こうよ! でも、もし、死んでもまだまだたくさん見つけられるよ」
「ああ、そうだね。これからが楽しみだよ」
あいつは、少し微笑んで見えたけど、あたしはそれどころではなかった。だから、彼のそんなシグナルを蔑ろにしてついつい聞いてしまった。
「ねえ、あたしがいつも家に来るの迷惑? 最近はさ、毎日一緒にいるじゃんん……」
あたしは、あいつの家に行くと必ずコーヒーを入れる。それからほっと一息つくことが日常なんだけど、そのキッチンに立ってついに聞いてしまった。ここで迷惑なんて言われてしまったら、取り返しのつかない後悔に苛まれてしまう。
あいつは、ベッドを背もたれ代わりにして、雑誌を読みながら足を伸ばして寛いでいる。あたしの話に顔を向けることはしないけど、あたしの話は多分聞こえていると思う。
少し嫌な汗をかいていた。それでもあたしは、いつもと同じようにキッチンの上の棚から薬缶を取り出して、それに水道水を入れる。そのついでに、妙に手汗をかいてしまったので、手を洗うことにした。
手も洗いさっぱりしたことで、水の入った薬缶を熱源において、スイッチを入れた。
“ヴゥー”とIHのコロンロが独特の音と共に薬缶を温め出す。薬缶が温まるまでには時間がかかるので、私は手馴れたようにいつもの流し台にある水切りからあいつのマグカップを手に取り、そして、その横にある紙コップを一つ手に取る。
そこに市販のドリップコーヒーをセットして水がお湯になるのを待っていた。
毎日あいつのところに行っているあたしだけど、どうしてもあいつの家にマイカップを置く気にはならなかった。だって、別に付き合っているわけでもないのに、親しいだけの一人の女がそんなものを男の家に置くのはおかしいと思うあたしがいる。どうやら、あたしにもまだ純粋と言える部分が残っていたようだ。
そう、押掛け女房のようにあいつの身の回りのお世話とは言わないまでも、あいつといつも行動を共にしている。あいつにだって大学の友達はできただろうし、その人たちと遊ぶ事だってあるんじゃないかと思うとあたしのしている事は本当に迷惑な行動に他ならないことなんじゃないのかと認識している。
そのジレンマがあの言葉。できれば、あたしが望む言葉を言ってあたしは安心したいんだけど、その言葉はきっと返ってこないだろうという見当がついている。
でも、どうしても安心したいというか、このなんとも言えない気持ちの解決策はこの男しか持っていないんだと思うとついに口をついてしまったの。
あいつは、雑誌に視線を落としている。多分、あたしの声は届いているんだと思うんだけど、返事がない時間が随分と長い。え、聞こえているよね? といいたい気持ちをぐっと堪えた。だって、ごめん聞いてなかった、なんて言われたら、あたしはもう一度同じ言葉を言う勇気はない。
随分と長いなと感じつつも、これはあたしが期待しているために時間が長く感じているんだと思おうとしている。何かとこの返事が返ってこない理屈を頭の中で考え始めた。
確か、時間が長く感じてしまうのは……、時間を意識しているからと、身体の代謝あがっているのと、あとなんだっけ、そうそう、体験している出来事の数と感情の状態だ……。
ああ、これは間違いなく、緊張なんだろうな。だって、こんなにも汗をかいてしまっているんだもん。
すると、あいつはキッチン立っているあたしを一瞥して、再び雑誌に視線を落とした。
「何言ってんだよ。そんなにキッチンの使い方が上手くなってるのに、今更だな」
なんてことを言ってきたの。本当に失礼しちゃうと思う。確かにね、人の家のキッチンをこんなに使いこなすなんてあたしでもあまりいいことだとは思わない。でも、そんなにはっきり言うことなんてない。あたしだって女なんだから、気にしてしまうじゃない。
“ああ、やっぱり迷惑だったんだな”ってね。
そんな悶々とした気持ちのあたしに察したのか、そうでないのか、男はパタンと読んでいた雑誌を閉じて、目の前の机の上に乱雑に放り投げた。
立ち上がる男にあたしは“出て行け”って言われちゃうと思ったの。
「いつも考えすぎなんだ。—それに、今一人なんてきっと逆に落ち着かないかな」
後から思い出してみても、ニヤニヤしてしまう。少し照れながら言うあいつは思っていたよりも可愛かった。そして、何よりもあいつの近くにいてもいいんだと思ったし、その自信がついた。
そう言うとあいつは何かを思い出したかのように、机の上に置かれた雑誌を再び手に取っていたの。
その時ちょうどIHに置かれた薬缶の水が沸いたので、あたしはあらかじめ用意していた、ドリップにお湯を少しづつお湯を入れていたんだけど、溢れないように慎重に入れていると男は急いであたしに近づいてきたの。
「え? 何? どうかした? 出て行け?」
「いや、別にいつまでもいていいから。そうゆうことじゃなくて、これ! これ!」
あたしは、あいつの言葉尻を捉えて、いつまでもってもう本当にいつまでもいてやるんだから! なんてことを考えているとあいつは、あるページのある特集について指さしていたの。
「ん? 陶芸?」
「そう。いつも紙コップだから、そんなくだらないこと思うんだろ? 作りに行こうか!」
「…‥! 行こう! 今すぐ行こう!」
「いや、今すぐは無理だろ。予約とかもいるだろうし」
「じゃあ、今すぐ予約を取ろう。私が取るからね!」
あたしは、そう言うとルンルン気分でまたドリップのインスタントに淹れていた。
では、また次の日に!