料理教室
翌日、アリノアはセントリア学園専用の学生寮の扉の前へと訪れていた。
正直に言えば、学生寮に住んでいる友人などいないため、この場所を訪れるのは初めてだ。白い壁と沢山の窓。外からは室内が見えないが、一つ一つの部屋に学生達は住んでいるのだ。
「……」
自分では分からないが、少し緊張しているのだろうか。アリノアは扉をそっと開けてから、中を窺うように身を滑り込ませて入った。
学生寮の管理人室に管理人がいたため、セントリア学園に属している証の学生証を見せて、友人を訪ねて来たと言ったらすぐに通して貰った。
学生の住まいであるからか、警備は厳しくないようだが、それもいかがなものかと思う。ここには王族であるエリティオスも住んでいるのだから、もう少し警備の手を増やした方がいいのではないだろうか。
……エリティオスなら、余計なことはしなくて良いと言いそうね。
何よりも普通に扱われることを願っているエリティオスのことだ。恐らく、警備についてもしっかりと話を付けているに違いない。
今日は休日であるため、学生寮に住まう者は出払っているか、もしくは部屋に籠っているらしく、廊下で誰かとすれ違うことはなかった。
学生寮の中は掃除が行き届いているのか塵一つ落ちていない。壁も白く、綺麗であるため、改築したとは言え、数十年前に建てられたものとは思えないくらいだ。
アリノアは足音を立てないまま階段を上っていき、二階の廊下の突き当りにある二一〇号室の部屋を目指す。
廊下は左右両方の壁に部屋へと続く扉が並んでいる。扉には部屋番号が書かれた木製の板がそれぞれ、打ち付けられており、アリノアは番号を何となく数えながら部屋を目指して歩く。
……ここね。
二一〇号室と書かれた扉の前にアリノアは立ち止まり、一度深呼吸する。念のためにと思って影の中のノティルに声をかけていたが、完全に寝ているらしく、返事はないままだ。
……二人きりなのは気まずいけれど、別に料理を教えに来ただけだもの。
自分に言い聞かせるようにそう呟いてから、アリノアは部屋の扉を叩いた。
「……」
中からすぐに返事が返ってきて、慌ただしい足音と共に扉にかけられていた鍵が内側から開けられる。
勢いよく開かれた扉の先にいたのは笑顔のエリティオスだった。
「いらっしゃい、アリノ……」
名前を呼びそうになるエリティオスの口をアリノアは慌てて右手で塞いだ。廊下に響く声で名前を呼ばれては困るからだ。
アリノアは左手で自分の口の前に人差し指を立てて、静かにするようにと合図すると彼はアリノアの言いたい事が分かったのか、こくりと頷いた。
エリティオスが承知したのを確認してから、アリノアは彼の口からそっと手を離す。
声を出さないまま、エリティオスが視線で中に入るようにと促したため、アリノアは部屋の中へと入って、扉に鍵をかけた。
「……口を塞いで悪かったわね。あなたの部屋に入るところを他の生徒に見られたら面倒になりそうだから」
アリノアはふっと息を吐きつつ、エリティオスの後を追って、彼の部屋の廊下を歩く。
「構わないよ。まぁ、アリノアとの関係を噂されるのなら、大歓迎だけれどね」
「……」
冗談なのか本気なのかよく分からない発言にアリノアは無言で返事をする。すっかり、からかわれることに慣れているが、それでも心の奥が揺れずにはいられないものだ。
改めてエリティオスの部屋を見渡す。学生寮の部屋というので、どのようなものかと思っていたが、自分が使っている教団の部屋とそれほど広さも違いも無いように思えた。
白い壁に沿うように置かれたベッドと木製の机。木目調の棚には授業で使う教科書と経済学、社会学といった彼らしい分厚い本の隣に料理初心者の本が並べられていた。
……真面目ねぇ。
エリティオスに気付かれないようにアリノアは小さく笑う。
だが、部屋全体はそれ以上の物が置かれておらず、飾り気がないように思えた。必要な物以外は置かないようにしているのか、それともこの部屋で暮らし始めてそれほど時間が経っていないからなのか。
そんなことを考えているとエリティオスから名前を呼ばれる。
「アリノア、こっちが調理台だよ」
「え? あ、うん。行くわ」
アリノアは鞄の中から自前の赤色のエプロンを取り出して、手早く身に着ける。
エリティオスの部屋は普段を過ごす部屋の隣に、調理台が備え付けられた部屋があり、調理台の目の前には一人暮らしにしては横幅の広い木製の台が置かれていた。台には椅子が二脚、顔を見合わせるように並んでいる。
「とりあえず、材料は買っておいたんだけれど……」
調理台の上に置かれていた紙袋を木製の台の上へと置いてから、エリティオスは食材を並べていく。
「……随分と買ったのね」
一人暮らしにしては多すぎる程の野菜が紙袋から次々と出てくる。
「こんなに買う予定はなかったんだけれどね。朝市に行ったら、店主の奥様方がたくさんおまけしてくれて」
「あぁ、なるほど」
確かに王子とは知らなくても、誰に対しても優しい笑みを浮かべるエリティオスを目の前にすれば、喜ぶ顔が見たいと思ってしまうのも無理はないだろう。
しかし、そこで自分の考えていたことに対して、アリノアは心の中で思い返して、そして思いっきり顔を顰める。
「わっ、どうしたんだい、アリノア?」
「……何でもないわ」
まるで自分がエリティオスに喜んで欲しいと思っているみたいではないかと、自己嫌悪しただけだ。
アリノアは軽く頭を振って、持ってきていた髪留めを使って、金色の髪を一つにまとめて結い上げる。
「ここにある食材、何でも使って良いのかしら?」
「うん。あ、手帳を用意しないと……」
料理の仕方を書き記して残しておくためなのか、エリティオスがもう一つの部屋へと戻る。アリノアはその間に流し台で手を洗っておくことにした。
「あった、あった。これで準備は出来たよ」
エリティオスがすぐに黒い手帳を持って、調理台がある部屋へと戻って来る。
「……何か食べたい料理の希望はないの?」
「え? うーん……アリノアの手料理なら何でも嬉しいからなぁ」
「……じゃあ、トマトのスープとガーリックトーストにするわ」
エリティオスの言葉をわざと遮って、アリノアは台の上に置かれた食材を選び取り、調理台の方へと移動させる。
「それじゃあ、まずは野菜から切るわよ」
まな板と包丁は目の前に用意されていたため、水洗いが必要な野菜を洗ってから、最初は選び取った玉ねぎの皮を剥いていく。
「あぁ、皮は剥くんだね」
なるほどと言いながらエリティオスは手帳に何か書き足していた。
あっという間に玉ねぎの皮を剥き、次は人参の皮を包丁ですらすらと剥いていく。皮を剥き終わった一本の人参を見たエリティオスが小さく苦笑していた。
「……その技術は初心者には難しいね」
「そうね。んー……一度、人参を三等分くらいに切って、まな板の上に立てると良いわ。それなら、人参が安定するし、後は真っすぐと皮に線を入れるように切るだけだから」
「おぉ……」
本当に感心しているらしく、アリノアの手際の良さを眺めつつ、今の一連の流れを書き留めようと万年筆を手帳に滑らせていた。
「野菜を切る時は自分の手を切らないように注意してね。左手は指を伸ばしたままでは駄目よ。指先は丸めておくの。包丁の握り方も親指を少し内側に入れるように持って」
まるでお料理教室でもしているような気分だが、エリティオスは真面目に耳を傾けてくれている。
「それじゃあ、一つずつ切っていくから、良く見ていて」
まず、人参に線を入れるようにアリノアは包丁を動かしていく。
「これは乱切りというの。形は不規則だけれど、切り口が多い分、火が通りやすい切り方よ」
「あ、本当だ……」
切り方も学ぶ気らしく、エリティオスが万年筆を握る手が休まることはない。これ程、真面目だと教え甲斐があると感じつつも口には出さなかった。
「……次は玉ねぎを切るわよ」
視線が集中的に感じられるが、アリノアは軽く受け流して、料理を続けた。




